素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№536 三丁目の変遷

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昭和22年9月撮影
 広電宮島線沖側は海面である。今のJR駅前は田んぼや畑ばかりである。JR奥側も大半が田んぼで民家はわずかしか無い。

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昭和45年5月撮影
 三丁目の埋立が完成している。JR駅前も埋立てられ田畑が無くなっている。

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昭和50年3月撮影
 遊園地ナタリーはまだ工事中である。反対側ではかなりの民家が建てられている。今のJR駅前に見える青い屋根の建物は樋口鉄工の工場である。ふじタウンはまだ造成中である。

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昭和56年9月撮影
 遊園地ナタリーは営業中である。ふじタウンにもかなりの家が建てられている。

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昭和63年10月撮影
 駅前の樋口鉄工の建物は撤去されている。国道沿いにドライブインやテニスコートが見える。JR阿品駅はまだ無い。

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平成20年6月撮影
 JR阿品駅が開業し駅前が整備され、道路が新設されパチンコ店の建物がある。遊園地ナタリーは閉鎖され、跡地にはたくさんのマンションが建てられている。
by hirosan_kimura | 2013-03-31 12:51 | 三丁目 | Comments(0)

№535 百花繚乱

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 吉和に行った帰り道「阿品公園」に寄り道してみた。天候も良く桜も満開で、たくさんの人たちが桜を楽しんでいた。
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 グランドでは子どもたちが野球に熱中している。
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 やまつつじも咲き誇っている。
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 あしびも満開。
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 桜越しに見る阿品台・阿品の家並み。
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 宮島の遠望。遠くて分からないが、宮島も桜が見ごろでたくさんの観光客が訪れているだろう。
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 遊歩道沿いにも、様々な花が咲き誇っている。
by hirosan_kimura | 2013-03-30 15:34 | 植物 | Comments(0)
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 犬の散歩で歩いていると様々な注意書きの看板が見受けられる。「危険なところに入らないようにしましょう」「釣りをする人はマナーを守りましょう」などが見受けられるが、中でも犬の飼い主に対するものがたくさんある。

e0125014_10363599.jpg 市や公衆衛生協議会が掲げたもの。













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 マンションの管理組合が設置したもの。



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 これは個人が作って居られる花壇の傍にあるが、町なかの塀に立小便をするのを防ぐおまじないのような鳥居を描いたもので「うんこもしっこもダメ」と犬の飼い主に対するもので、宮島の鳥居であるが神様のばちが当たりますよと言うことであろう。







e0125014_10393367.jpg「お犬さま」と書いてあるが飼い主に対するものであるが、この看板を見て糞を持ち帰るような常識ある人ならば最初から糞を放置するようなことはないであろう。

 
 


  このように随所に犬の糞に対する注意書きがあるのはマナーを守らない人がたくさんあるからで、看板を掲げた人の怒りが目に見えるようである。

  この付近を散歩する犬は血統書つきのような立派な犬ばかりである。これに対して散歩している人の中にはマナーを守らない人が一部見受けられるが情けないことである。

 この人たちは人目に付けば糞の放置はしないが、誰も見ていなければ平気でマナーを守らないが、犬が口をきけば何と言うのであろうか。

 猫に対する注意書きもあるが、猫を見掛けることは殆どない。


e0125014_1039556.jpg 「阿品桜」は今が満開で見ごろである。
by hirosan_kimura | 2013-03-25 11:35 | その他 | Comments(0)
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 大正9年の電灯数を調た様子である。地御前村全体の戸数は549戸とある。この中で内灯1,092個、外灯73個とある。外灯とは街路灯のことかと思ったがこの時代に街路灯は整備されていず、住居外の納屋や作業などする場所に設けられた電灯のことでは無かろうか。

 この調査でも阿品地域の鰆浜部落は田屋部落と併せて一つの調査区域となっており、阿品地域全体の状況は分からないが、阿品部落58戸に対して内灯107個、外灯5個となっている。

 内灯のみでは一戸当り1.8灯、外灯を合わせても一戸当り1.9灯のみであった。当時の農家の部屋は田の字型に配置されている場合が多く、最低でも四部屋はあったが全ての部屋に照明が無かったこととなる。

 今では電気代の計算は、各家にメーターが取り付けられ使った電力量に応じて支払っているが、当時は電気のメーターなど無く電灯一個に付き幾らと定額制であった。このため電気代節約のため取り付ける電灯の数を少なくしていたが、その代わり幾ら長時間点灯していても電気代は増えることはなかったらしい。

 すべての部屋に照明が無いので、家族が集まる主な部屋のみに照明が取り付けてあったのだろう。その代わり電灯には長いコードが付いており他の部屋に照明が必要な場合は長いコードを利用して電灯を他の部屋まで引っ張って利用することもあった。

 現在では全ての部屋はおろか、廊下・階段・便所まで照明の無い場所も無くコンセントも至る所に取り付けられている。

e0125014_14124551.jpg 昭和20~30年代でもコンセントが無いのが当たり前で、電灯以外のアイロンなどの電化製品を使用する場合は、電灯に二又ソケットを取り付けて一本の電気コードで一つは照明、一つはアイロンなどを使うのが当たり前であった。
by hirosan_kimura | 2013-03-21 06:53 | 衣食住 | Comments(0)
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 阿品三丁目の中央から大野寄りの団地は、昭和44年9月に埋立が完成した団地で約24,500坪の面積がある。昭和46年の6月頃より入居が開始され、町内会の名称は「鼓ケ浜町内会」である。

 しかし「鼓ケ浜」と言う地名は阿品の古い書類を調べても出てこない。隣接の大野村では阿品寄りの海岸を「鼓ケ浜」と呼称していたので、新しく団地が開発され町内会が作られた際、詳しいことが分からないままに隣村の地名を名付けたのではないだろうか。

 慶長六年の大野村検地帳に「つつみ」「しもつつみ」の名称が記録されている。しかしここに記されている「つつみ」「しもつつみ」は宮島口一帯の「鼓ケ浜」を指しているのかは不明である。

 大野村では慶長の検地帳は、余りにも区域が小さく小切られており煩雑なので明治20年に70余りの小字に整理されたとの記録があるが、この中で宮島口一帯に「柿の浦」「赤碕」などとともに「鼓ケ浜」の地名が見られる。

 しかしこの辺りが「宮島口〇〇丁目」に設定される前の字名には「柿の浦」「赤碕」の字名はあったが、「鼓ケ浜」の字名は無かったそうである。「鼓ケ浜」は正式な地名でなく、この付近の人たちが呼称していたのみの地名かも分からない。

 地名に詳しい人の話では、柿の浦・赤碕沖の競艇場付近から宮島口桟橋一帯の海岸で、海の砂が波で寄せられ山から土が流れ出て出来た浜を「鼓ケ浜」と呼んでいたとのことである。

 廿日市の歴史の記録では、阿品の下田尻に飛行場があり「鼓ケ浜航空学校」「宮島航空研修所」の二つの施設があったと記されており、このブログ№12で紹介したことがある。

 しかし飛行場があったのは阿品の下田尻では無く、大野地域にあったのが正しいのではなかろうか。

 上の写真の中央やや左下斜めの堤防が付近が、旧地御前村・旧大野村の村境である。 堤防左が「宮島競艇場」、右は廿日市高校などのヨットの艇庫がある。右上の四角い所が「鼓ケ浜」町内会。
by hirosan_kimura | 2013-03-20 05:29 | 三丁目 | Comments(0)

№531 春、間近か

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 少し前までは朝晩、寒い寒いと言っていたが今では嘘のように暖かい日が続き、すっかり春らしくなってきた。

 満開になると沢山の人が見物に来られる「阿品桜」も蕾が膨らんでいる。上の写真で見るとかなり咲いているように見えるが四分咲きくらいではなかろうか。この日曜日くらいには見頃となるだろう。

e0125014_16174550.jpg 「阿品桜」はまだ蕾が大半であるが、隣に植えられている桜の枝の中には開ききった花びらもたくさん咲いている。





e0125014_16183764.jpg 近くの川の土手では土筆が生長している。





e0125014_16185427.jpg 付近の「タラ」の芽も膨らんでいる。





e0125014_16191419.jpg 移転前の崖下の「旧岩鏡神社」跡の椿も満開となっている。






e0125014_16193436.jpg 名前は分からない樹木であるが、近づいてみると綺麗な小さな花が咲いている。




e0125014_16244239.jpg この木も名前がわからないが、趣のある小さな花を咲かせている。




e0125014_16231995.jpg 梅は満開で見頃を過ぎている。





e0125014_16233811.jpg 付近に沢山見られる「山つつじ」の花芽はまだ堅い。
by hirosan_kimura | 2013-03-19 10:15 | 植物 | Comments(0)
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  大正9年に地御前村の新聞購読世帯の記録によると、村全体の戸数は549世帯、この内新聞購読世帯は117戸となっている。4.6戸に1戸が新聞を購読している。

 購読新聞は「大阪朝日 20戸」「大阪毎日 21戸」「中国 76戸」となっている。

 この調査は村を1~8区に統計が取ってある。阿品地域には鰆浜部落と阿品部落があるが阿品部落は8区となっているが、鰆浜部落は田屋部落と併せて7区にされており阿品地域全体の詳細は分からない。

 8区の阿品部落は58戸となっている。世帯数と戸数では数が異なるのか分からないが、前後の国勢調査による世帯数と比較すると若干異なるが理由は良く分からない。

 阿品部落58戸の新聞購読数は「大阪朝日 4戸」「大阪毎日 1戸」「中国 6戸」、合計11戸が新聞を購読している。

 1戸で2紙購読している例もあるかも分からないが、4.6戸に1戸が新聞を購読していたこととなる。

 今では新聞を購読していない世帯はまず無いであろうが、当時としてはかなりの購読率ではないであろうか。

 今から93年昔のことである。 
by hirosan_kimura | 2013-03-18 08:58 | その他 | Comments(0)
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 毎年暖かくなった頃、地御前の子どもたちは「貝殻通し」の小遣い稼ぎをよくしていた。「貝殻通し」と言っても牡蠣を養殖する地域以外の人には何のことかも分からないだろうが、牡蠣の種付用に針金に帆立貝の殻と竹の管を交互に通す作業である。

 鰆浜にも牡蠣を養殖する家が一軒あり、阿品の子どもたちはこの家の作業を手伝って小遣い稼ぎを行なっていた。

e0125014_949030.jpg この家の空き地に片方に小さな曲がりを付けた長さ2m位の針金、長さ1.5cmくらいの細い竹の管、真ん中に小さな穴が開けられた帆立貝の空殻が沢山用意されていた。

 最初は針金の先が丸められた方を下にして、貝殻・竹の管・貝殻・竹の管を交互に針金に通して行く。針金の真ん中近くまで貝殻と管を通すと、30cmくらい余裕を残して今度は貝殻の向きを反対にして貝殻・竹の管・貝殻・竹の管と通して行く。

 貝殻の枚数ははっきり記憶に無いが、片方で40枚前後ではなかっただろうか。

e0125014_9513839.jpg 最後は針金の先を5cmくらい残して一本の作業は終わるが、針金の先をペンチで挟んで一・二回廻して小さな輪を作る。これは貝殻を通した物を持ち上げても貝殻が抜け落ちないようにするものである。

 貝殻と竹の管を通す作業は低学年の子どもでも出来るが、針金の先にペンチで小さな輪を作るのは難しいので、この作業のみは高学年の子どもたちに頼んでしてもらっていた。

 高学年の子どもたちは自分の作業が忙しいのに、小さな子が頼みに来る都度自分の作業を一時中断しなければならないので、面倒くさいと思いながら手伝っていた。

e0125014_950225.jpg こうして一本の作業が終わるが、手間賃は遠い昔なのではっりは覚えていないが、最初頃は二本完成させて一円、後に一本で一円になったような記憶がある。

 この作業は単純であるが高学年の子どもたちは根気よく行なっても、小さな子どもたちは二・三本完成させて止めてしまうことも多かった。その日に完成させた本数は記録してもらっておき、ある程度まとめてお金を貰っていた。小さな子どもたちは十円・二十円しか無いこともあったが、お金稼ぎ半分、遊びがてら半分の状況なので僅かなお金でも結構喜んでいた。
 
 高学年の子どもでも100円単位でお金が貰えば、大金を稼いだような気持ちになったものであった。

 今考えれば子どもの手では一本完成さすにも結構時間が掛かり、随分安い手間賃のように考えられるが、当時としてはお祭りや特別な時以外に小遣いを貰うことも少なく、自分で稼いだお金で自由に駄菓子などを買うことが出来、貝殻通しの季節が来るのが楽しみであった。

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 こうして子どもたちが一生懸命作業したものは、浅瀬で潮の干満のある干潟に吊り下げられ、貝殻に稚牡蠣を付着させ更に長い針金に長い管を挟んだものに通し変えられ、沖の筏に吊り下げて牡蠣を生育させている。

 当時は貝殻の間の管は細い竹を切ったものであったが、今ではプラスチックのような物に変わり、浜辺に散乱し海を汚染している。

 かつて子どもたちが楽しみでしていた作業は、今ではどこで誰が行なっているのであろう。
by hirosan_kimura | 2013-03-17 11:02 | 子どもの生活 | Comments(2)
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 昨日は友人と定例の登山にいった。台風で全壊した宮島の仁王門が再建されたので、これを見るため弥山に登ることとした。天気は良かったが黄砂が飛来し視界は良くない。

 すっかり春の陽気で宮島の植物も新芽が芽吹き始めている。馬酔木の花がそこらじゅうに咲き誇っている。宮島では鹿が食べるため様々な植物をフェンスで囲ったり、幹に網が巻きつけてあったりするが、馬酔木は鹿が食べないので至る所に繁茂し美しい花を咲かせている。

 この木や花には毒があるので、昔は害虫予防の農薬として使われていた。昔の記録を見ると冷害や害虫の大発生により凶作となり飢饉に見舞われることが珍しくなかった。

e0125014_1055529.jpg 今のように農薬が無かった時代、馬酔木が貴重な害虫予防に使用されていた。寛政五年(1793年)今から220年前、佐伯郡御役所から郡内の割庄屋宛に馬酔木を使った害虫予防の文書が出されている。


 
 「馬酔木の葉を、稲に虫が発生した時に刻んで稲田に入れたならば、直ちに虫は死失する。畠作物に虫が発生した時には、水に漬けておいた馬酔木の葉の汁をかければ虫は死ぬ。広島藩以外の海辺の村の百姓は、馬酔木の葉を蓄えておいて、虫が歩いて上がって田の中に入って稲虫になった時に、専ら使用しているので心得させるために申し聞かせる。組合や村々へ洩れのないようにこのことを触れておけ」と言うものであった。

 文書に書いてある虫とは二化螟(にかめいちゅう)のことである。二化螟虫は、幼虫が茎の中に食入って稲を枯死させる害虫である。

 今では農薬で駆除出来るが、昔は蛾を捕殺するか、蛾の卵を獲る、被害を受けた茎を切り取るなどしか駆除の方法は無かったらしい。

 昭和初期には、田植え時期になると子ども達が午前中で授業を終えて、長さ三尺くらいの竹笹で稲をなで、飛び立つ蛾を捕らえ、葉に生みつけている卵を採り持参したビンなどに集める奉仕作業が行なわれていた。

 馬酔木を農薬代わりに使用してどのくらい効果があったのかわ分からないが、昔の阿品の農家でも害虫には苦労していたのであろう。
by hirosan_kimura | 2013-03-09 11:48 | 農業 | Comments(0)

№527 阿品の海抜

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 一昨年3月に発生した三陸沖地震以来、海に近く海抜の低い阿品では津波に対する関心が深まっている。近くのスーパーに「ここは海抜2m」の表示がされている。

 この海抜について何処を基点として2mなのか議論されたことがある。満潮時だ、いや干潮時だ、満潮と干潮との中間点だ。満潮時にしても大潮と小潮では高さが異なる。基準値は広島湾だ。いや東京湾だなどと素人同士で議論して結局分からずじまいに終わった。

 市役所の担当者に尋ねたところ、東京湾の中等潮位と言うことであった。東京湾の平均海面とは、全国の標高の基準となる海水面の高さで、1873年から1879年までの当時の隅田川河口で測定された記録を元に決定されたものである。

 海抜2mとは低すぎるが、阿品三丁目では大潮の際は道路から手を伸ばせば海水面に届きそうな場合が再三あるので、小さな津波が来ても住宅地は浸水してしまうだろう。海抜はインターネットで調べれば日本全国どこでも検索できるが、我家もスーパーと同じ平面なので海抜2mと言うことであろう。

 阿品では太平洋で津波が起きても、四国があり、瀬戸内海の島々があり、さらに広島湾の奥なので大きな津波に襲われることはないであろうなど素人判断をしている。津波が来たらスーパー屋上の駐車場に避難すれば良い。すぐ近くのふじタウンや阿品台の高台に避難すれば良いなどと噂をしている。

 しかし皮肉なことにこれらの高台に住んでいる人たちは高齢化が進み、買い物やJR・広電・病院が近くにある平地が便利と、海沿いの平地にあるマンションなどに移り住む人もある。
by hirosan_kimura | 2013-03-07 10:35 | 地形 | Comments(3)