素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№515 県営住宅

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 数年前より阿品台西小学校に依頼され阿品の昔の様子を子どもたちに話に行っている。今年は1月30日に3年生の総合学習で話して欲しいと依頼があった。いくら相手が3年生とは言えいい加減な話が出来ないので色々調べていたが、結構手間がかかるものである。数日前に学校より子どもたち質問事項について知らせていただいた。

その中に「阿品台の県営住宅はいつごろ建てられたのですか」との質問があった。県営住宅は40棟あり一時に整備されていず数年に渡って整備されている。ネットで調べたりしていたが分からないので、思い切って市役所の知人にお願いしたところ、忙しい中手早く調べて貰い感謝するばかりである。

 阿品台ニュータウンは広島県が造成したもので、昭和49年7月に工事を着手し、昭和59年2月に全ての工事が完了し、昭和53年8月に入居が開始されている。計画戸数3,500戸、計画人口12,600人となっている。昨年10月の統計では3,366世帯、8,419人の居住となっている。この団地も高齢化・核家族化が進み空家も増え人口も一時に比べると随分減少しているようである。

 この内、県営住宅の居住は1,137世帯・3,053人であるが阿品台西地区に県警官舎分が含まれており正確ではないがその数は僅かである。阿品台全体に占める割合は世帯数で33㌫、居住者では36㌫となっている。一世帯あたり家族数は全体で2.5人。県営住宅で2.6人と殆ど変わらないが若い人や子どもは県営住宅の方が断然多い。

 県営住宅は東地区に16棟390世帯、西地区は24棟700戸である。最初に建てられたのは東地区で昭和52年度6棟160戸、昭和53年度8棟180戸、昭和54年度10棟270戸、昭和55年度5棟150戸、昭和56年度2棟80戸、昭和57年度4棟110戸、昭和58年度3棟戸、昭和59年度1棟30戸、昭和61年度1棟20戸で9年に分けて建てられている。西地区では昭和54年度に最初の棟が完成している。

 建物は大半が5階建てであるが、西地区の39・40号棟の2棟のみは何故か4階建てとなっている。一階に6世帯あるのが大半であるが、中には8世帯あるものが2棟、4世帯しかないものが1棟ある。

 以前、西地区で民生委員を担当した際、この地区は2名中1名が欠員で市役所より全700世帯を担当してもらえないかと依頼があったが、3自治会の内2自治会分の460世帯を担当した。しばらくして欠員分が補充され半数の350世帯づつとなり随分楽になったのも束の間、9ケ月後に新任の民生委員が倒れられて退任されてしまった。

 このような場合は地区会長が調整して、欠員地区周辺の民生委員が少しずつ世帯を分担し合うのが通常であるがそのような措置も無かった。市役所よりは次の民生委員を早急に手配するので、700世帯担当して欲しいとの依頼があり余程断ろうかと思ったが、迷惑が掛かるのは居住者であるので700世帯を担当することとした。

 県営住宅は階段を挟んで2世帯づつの玄関となっている。5階まで上がって隣の隣を訪問するには1階まで降りて再び5階まで上らなければならない構造となっている。10世帯訪問するのに5階上がらなければならない。単純計算では700世帯あれば積み重ねれば350階上ることになる。

全世帯を訪問しなければならないことは滅多にあることではないが気が遠くなるようである。1階に集合ポストは設けられているが、いたずらがあるので配布物は必ず玄関ポストに入れていた。

 しばらくして後任の人が決まり350世帯づつの担当となった時は肩の荷が降りほっとし、地区内居住者より民生委員の候補者があり委員を降任したが、折に付けご苦労しておられる様子が耳に入るが頭の下がる思いで一杯である。
by hirosan_kimura | 2013-01-28 12:53 | 阿品台 | Comments(0)
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 これは地御前小学校の同級生A・Hさんの作文である。今から60年近く前の子どもたちの様子が良く分かるので載せてみた。

 近所のガキ大将が仲間にいれてくれて良く遊んだ。竹で造ったソリで、誰が一番長く滑るか枯葉の斜面を滑って遊んだこと。蝉取りに夢中で蜂の巣を叩き、段々畑を夢中で飛びながら帰った。さんざん刺されてしまい小便を友達同士で付け合ったこと。山の中で猪とばっちり目があって溝を飛び越えて畑に逃げたら、追いかけてきてギャーッと思ったらサツマイモの堀り残しをあさりだして、夢中で逃げ出したこと。雷の火柱が前の山道にあがって死んだと思ったこと。焼け残った大木の思い出が今もある。頂上の砲台跡で鉄砲の玉と水晶探し。マツタケもよく取りにいったが小物ばかりで大物の記憶はない。

 蚕を飼っている家が沢山あって桑畑の桑の実取り。やまの上から全て見られているとも知らないで服は泥だらけ、ポケットを真っ赤にしていちご歩伏前進取り、家に帰って説明が省けたこと。栗の実ゆすり落としこれはひどい目にあった。登った木に取り残されたのは私だったから。カッポン取りでおやつを調達。うなぎ釣りの仕掛けで雨蛙を餌にしてたんぼの畔に居る蛇を釣り、へびの卵がいつのまにか学校の机の上に。池で鯉やフナを釣り、ついでに泳いでいて水温が違う所でおぼれそうになったこと。

 近くの山で近所中が集まっての花見は毎年楽しみだった。家の周りでは、釘刺しやコッケン、パッチン、石蹴り、マーブロ。自分で造った竹とんぼで怪我をし、鉛筆の蓋にマッチの火薬をつめてロケット遊び。紙飛行機を崖から飛ばしてあそび、屋根の上に着陸した飛行機を、家主立会いで取らされたこと。

 夏は、地御前海水浴場の涼み台で、たしかH君が溺れそうになったこと。飛び込み台で宙返り飛び込み・水平飛込みでは腹に傷が絶えなかった。モグリでは馬の背岩に張り付いて、手製水中銃でチヌを取ったり、板火薬拾い、貝堀、干潮の時藻に浮かんだ蛸やカニを追いかけて取り・夜泳いで夜光虫を見るのが好きで、夏休みは結局朝、昼、夜泳いで昼寝の記憶しかない。

 ラジオ体操は皆勤賞だったと思う。隣のシマと縄張りを巡ってチャンバラごっこ。強い奴から並んで行軍して川を挟んで宮内のガキ連と石投げ合戦。祭りで50円のこずかいを分からんうちに吸い上げられ、騒いでおっさんを悪い奴にしてしまったこと。西部劇遊びの最中に祭りで連発銃火薬をしこたま買って夢中でパンパンやっていたらポケットが爆発炎上してパンパン破裂しだして大慌て、股の付け根を大火傷したこと。馬飛ばしで人が跳ねられそうになったこと。

 下駄で学校に通って、運動靴をよく洗濯したこと。体操着や靴を中々買ってもらえなかった。教科書は大抵お隣のお姉ちゃんのお下がりだった。ドッジボールではO君が横投げ技で女の子を泣かせていたこと。運動会の徒競走では後ろばかり走って家族の落胆がはっきり分かったこと。IやOがかっこよく長鉢巻をたなびかせて走るのがうらやましいこと。でも、ゴザを敷いて家族で食べた昼飯は美味かった。

 カキ打場で殻付カキを貰って浜辺で焼いて食べたこと。ゴザに干したイリコの中のタコの子供を探して食べたこと。総代で卒業証書を受取りに行ったのを出席順と知らず一番出来ると喜んだ母親。先生が近くに住んでおられてよく遊びにいったが、なぜか勉強の記憶が無い。

 目一杯書いてみました。〇〇〇〇 〇〇〇の思い出です。

註 ゴザに干したイリコ 
 当時の地御前では小鰯をイリコ(煮干)に加工するのが盛んに行なわれており、湯がいた小鰯を乾燥さすため国道の脇や空き地など、いたるところにゴザが敷き詰められ天日干ししていた。 
by hirosan_kimura | 2013-01-27 11:35 | 子どもの生活 | Comments(0)

№513 小鳥

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 朝、犬の散歩をする時マンション付近で雀と目白の群れを良く見掛ける。

 マンション前の海岸沿い遊歩道の中央辺りまで行くと、雀の群れが低い植木廻りで騒いでいるが近づくと一斉に飛び立つ。雀は以前には何処ででも見掛けていたが、最近では少なくなったような気がする。

 遊歩道を更に東に進むと、植木の茂みにいた目白が飛び逃げる。驚くほどの数ではないが何故この付近にたくさんの目白がいるのか不思議である。見回しても小鳥たちが特別喜びそうな木の実が有りそうにもないが、この付近に小鳥の喜ぶ食べ物が有るのだろう。雀と目白のたくさん居る場所が少し異なっており、それぞれ勢力範囲があるのだろう。近くに山があるので棲家はその中で、日中はマンション付近に集団で餌を求めに来るのであろう。

 この付近では雀と目白以外に、多くは無いがハクセキレイ・野鳩・ゴイサギなどを良く見掛ける。

 今では余り見掛けないが昔の子どもたちは(ここで言う昔は昭和30年前後60年近く前のこと)小鳥を捕獲して良く飼っていた。たけやぶなどに霞網を張り引っ掛かった小鳥を捕らえていた。

 また、県病院の屋根に登り瓦の下にある雀の巣から雛を捕らえたこともあった。県病院は平屋の建物なので屋根に登るのは難しくは無かったが、登って居るのを看護婦さんや職員に見つかると怒られていた。県病院には児童病棟が有ったが、遊び盛りの入院児童は安静しなければならないのに、地元の子どもたちが屋根に登って自由に遊ぶ姿は羨ましかっただろう。

 捕らえた小鳥は鳥かごに入れ、米や青菜と水を擂鉢でドロドロにした物などを与えていたが、所詮子どもの智恵で飼育するので長生きをしないのが普通であった。

 捕らえた小鳥を入れた鳥かごを軒先などに吊るして置くと、親鳥が見つけて網越しに雛に餌を与えに来ることもあったが、今考えてみると残酷なことをしていたものである。

 鳥かごは市販のものもあったが、器用な上級生は竹を削って茸ひごにし鳥籠を作る者もいたが感心したものである。

 今では小鳥を許可無く捕獲したり霞網も禁止されており、野鳥を捕獲して飼育する子ども達はいないが、昔の子ども達は身近な物で様々な遊びをしていた。
by hirosan_kimura | 2013-01-26 10:38 | 遊び | Comments(0)

№512 プリン山

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 №506「朝の日課」で監視山を見た人から、子どもの頃この山を「プリン山」と呼んでいたとのコメントをいただいた。写真は山の頂上で岩のように見えるが、周囲は削り取られて何故かこの部分のみ土砂が残され岩ではない。この形がプリンのようなので「プリン山」と呼んだのだろうが、いかにも子どもの発想らしい。子どもたちが「プリン山」と呼んでいたことを始めて知った。この山を削り取った残りの部分を「プリン山」と推測したが、子どもたちの「プリン山」はこの部分では無いかも知れない。

 監視山は古い地図では「勘七山」とも記されており、鰆浜と阿品の境に海に面した山である。この山は標高も余り高くなく国道に接しているので、一時は山を削って宅地開発をする計画が浮上したが、頂上を境に民有地と市有地に分断され手続き上困難な点もあり中断している。阿品に残された僅かな自然の一部なのでいつまでも現状のままであればと願うばかりである。

e0125014_5162854.jpg  山の名称であるが「監視山」「勘七山」いずれも地域では聞きなれない地名である。気になるのは「監視山(かんしやま)」「勘七山(かんしちやま)」と発音が良く似ていることである。明治時代の地図には「勘七山」と記してあるが地図に間違った地名を記載することは先ずないので、「かんしちやま」を「かんしやま」と聞き違えた人が見通しの良い山なので勝手に「監視」の字を当てはめたのか分からない。「監視」の字を当てはめたので空想して昔はこの山で敵の襲来を見張ったなどとこじつけたのかも分からない。記録の無い昔のことは途中で誰かの作り話が事実のように語り継がれるのは珍しく無いらしい。

 それとも「監視山」が正解で、地図を作った人が地元で聞き取りをし「かんしやま」を「かんしちやま」と聞き違い勝手に「勘七」の字を当てはめたのかも分からない。片方の地名が誤りなのか、それとも両方とも正しいのか面白い論争である。

 今では荒れ果てて訪れる人も無い山であるが、昭和30年代頃までは松が生い茂り「まつたけ」が採れていたが、今ではこんな話をしても信じる人は少ない。

 また国道側の急斜面には綺麗な清水が途切れなく流れ落ちていた。お上がり場が海水浴で賑わっていた頃には、国道沿いに流れ落ちる清水で泳いだ後に体を洗い流してもいた。夏の暑いときにこの付近を通る際、この清水で喉を潤すこともあった。今の様子からは想像も出来ないが、40数年前の自然溢れる阿品の様子である。

 なおこの山については№11「監視山」、№122「新宮島遊園」でも紹介している。

 コメントを頂いたMyaさん有難うございました。
by hirosan_kimura | 2013-01-25 05:43 | 地名 | Comments(2)

№511 かまぼこ兵舎

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 昭和20年代の終わり頃か30年代の初め頃、沖山の西側海辺に当時としては変わった建物が建てられた。現在の住居表示では地御前五丁目であるが、当時は田屋部落である。

 田屋部落と言っても鰆浜の隣接で、この建物の前辺りで魚を釣ったり貝を掘って良く遊んだりしていたので、鰆浜部落延長の一部くらいに思っていた。

 この建物は屋根がドーム型で平屋の建物であったが、その形から子ども達は「かまぼこ兵舎」と呼んでいた。兵舎と呼んでいたが米軍岩国基地の幹部が住むための住居であった。この建物の写真でも残っていないかと思うが手に入らない。

 遠い昔の記憶なので細部まで覚えている訳ではないが、屋根は緑色をした鋼板で外壁は煉瓦が積上げられており、赤い煉瓦と白いメチの色がとても綺麗であった。外壁には煉瓦造りの四角い煙突があった。建物前面にはベランダが有り白いバーゴラにはバラの花が絡まっていた。

 前の広い庭には全面に芝生が繁り緑の絨毯のようで、絵本に出てくるような美しさであった。休日には家族の人がベランダでお茶を飲んだりされるのを遠巻きに眺めることもあった。

 何かの機会のの時に家の中に入れてもらったことがあるが、広い部屋が5・6室あったようである。勿論室内は土足であるが、床には一面リノリュウムのようなものが張り詰めてあるのも珍しかった。当時の暖房は火鉢かコタツくらいであったが、この家はボイラーで沸かした温水で室内を暖めているのも不思議であった。蛇口をひねれば湯が出るのも魔法のようであった。その頃は湯を沸かすと言えば炭を熾したり薪でやかんか鍋で沸かすのが当たり前、風呂の湯を沸かすのも一仕事であった。

 当時の貧しい生活から見ると、夢のような住居と生活振りでであったが、羨ましいと思うより自分たちには無縁のものと感じていた。

 今、この住居や生活を見てもビックリすることも無かろうが、当時の貧しい日本の生活ぶりからは想像も出来ないアメリカ人の豊かさを感じたものである。

 この建物もしばらくは残されていたが、いつの間にか解体され、今では別の家が建てられている。
by hirosan_kimura | 2013-01-24 11:01 | 衣食住 | Comments(2)

№510 乱暴な治療

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 昭和36年に国民皆保険が実施され国民健康保険が適用されるまでは、医療を受けるのに自営業や農業の人たちは掛かった費用を全額負担する必要があった。医療費の負担が重かったり医院数も限られており、昔の人たちは重い病気や大怪我などを除いてめったに病院に行くこともなかった。

 そのため民間療法で病気や怪我を治さなければならなかった。自分たちが子どもの頃でも腹痛になれば薬草を煎じて飲まされたり、少々の怪我では「ドクダミ」を揉んで怪我の部位に張ったりしたこともあった。

 その中で、出来物などが出来て膿が溜まった時「蛭(ひる)」に膿を吸い出させると聞いていた。蛭は田んぼ・湿地・山の湿った所に良くいる「なめくじ」に似た気持ちの悪い生物である。「蛭」は小さな隙間からでも入り込んで肌に張り付き血を吸うので、農作業をする人や山仕事をする人に嫌われていた。

 幼い頃、母の足に腫物が出来て膿で足が浮腫んだ際、「蛭」の居る田んぼに行き数匹小瓶に詰めて帰り、腫れた部分に二・三匹の「蛭」を載せると見る見る間に膿や血を吸って、信じられないくらい蛭が膨れあがるのを見たことがある。見ていても気持ち悪かったことを思い出す。作業などの最中に蛭に咬まれると痛いが膿を吸わせた時は痛くなかったのだろうか。蛭の吸った所からばい菌が入り傷口が悪化することは無かったのだろうか不思議に思ったものである。

 腫れ物の治療だけでなく蝮(まむし)に咬まれた時も毒を吸い出すこともあったそうである。今ではこんな馬鹿げた治療をする人も無かろうが、此れも昔の人の智恵だったのだろう。

 この治療方法はこの地方だけかと思ったが、蛭は悪い血を吸いだすので出来物にたからせて血を吸わせる治療はインドなどで昔から行なわれていたらしい。

 気持ちの悪い蛭であるが血の凝固を防ぐ力があることから、古来より瀉血などの医療用として用いられてもいたらしい。

 昔の人たちは滅多に病院に掛かることも無かったが、今ではどこの病院も高齢者達で溢れかえり、国も自治体も医療費の負担増で財政が破綻しそうになってしまっている。
by hirosan_kimura | 2013-01-23 10:29 | 医療 | Comments(0)
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おもしろかったこと
 
 きのうは、ゆうがた、月がでたので、明るいから、〇〇ちゃんと、ぼくが、かげふみをしました。じゃんけんで、ぼくがまけたので、おにに なりました。ぼくが 〇〇ちゃんのかげを ふみました。 そして、〇〇ちゃんがおにになりました。〇〇ちゃんが もうかえるといいました ぼくもかえりました。おわり
{先生の注釈は赤字で(おもしろいですね)のみである}

 これは小学二年生の時の作文である。短い文で作文とも言えないが〇〇ちゃんの〇〇以外は原文の通りであるが、句点や一字開ける空白もでたらめである。

 今では、ほとんどの子どもたちがゲーム機など高価なおもちゃで遊んでいるが、昔はおもちゃなど買ってもらうことなどなく、自然の物を使って工夫したり、道具も使わず体のみを動かして単調ではあるが飽きもせず遊んだものである。 
by hirosan_kimura | 2013-01-22 11:29 | 遊び | Comments(0)
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 阿品二丁目のJR軌道沖側の地名は「阿品新開」であった。現在では駅前広場当りは盛土もされ、ポンプ場も整備され少々の大雨でも浸水することはない。

 しかし昭和50年代頃までこの一帯はJR軌道と国道の間は一段と低地となり、大雨や台風の際には度々浸水していた。

 かっては国道沿いに調整池があったが、干潮時には排水の扉が自然に開き、満潮時には水圧で扉が閉まる仕組みになっていた。干潮時には川からの流水や降雨は自然に海に放流し、満潮時には調整池に貯留していた。

 しかし海への放流が間に合わず調整池の貯留能力を上回った時は、調整池から水が溢れ出し周辺の田畑や宅地にまで浸水することは珍しいことではなかった。

 現在では調整池は埋立てられているが、阿品二丁目の公園地下に貯留槽が設けられ、お上がり場近くに排水ポンプが設置されている。又、JR駅前付近も盛土をされているので豪雨や台風でも浸水することはまず無くなった。ポンプ場設置後も豪雨の際、排水ポンプが故障していて極僅かの区域であったが浸水したことがあった。

 上の写真は鮮明ではないが、昭和40年6月に今のJR駅前広場が浸水した様子である。
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 この写真は上の写真より東寄り国道から駅前に侵入する道路付近である。
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 この写真は国道より阿品部落へ侵入する主要道路を少し入った地点で、旧公民館があった辺りである。右前面の建物は小さな川を挟んで有った美容院である。

 このあたりの風景もすっかり変わってしまった。
by hirosan_kimura | 2013-01-21 11:17 | 災害 | Comments(0)
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 「№12 阿品にあった飛行場」「№386 阿品の飛行場」でも紹介したが詳細はほとんど分からない。その中では水上飛行のため滑走路もなく、海岸に簡単な建物があるのみであると紹介した。

 その後、飛行場らしき写真を入手したが極めて不鮮明で、建物を表示してある文字が判読出来なかった。写真で見ると簡単な建物どころか立派な建物に見える。本当に飛行場の建物であろうか疑問に思っていた。

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 その後、不鮮明ではあるが建物をアップした写真を偶然見つけた。建物には「宮島航空研究所 格納庫」と示されている。その上部にも何やら書いてあるが判読出来ない。

 もう少し鮮明な写真があれば良い。この建物は何時頃取り壊されたのであろうか。
by hirosan_kimura | 2013-01-20 15:59 | 交通 | Comments(2)

№506 朝の日課

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 毎朝、朝食が終わった頃犬の散歩をするのが朝の日課である。豪雨でもない限り少々の雨でも犬のため中止する訳にはいかない。少し前までは6時に家を出発するのが定例であったが、まだ暗く寒いし最近は横着をしている。コースはほぼ決まっており三丁目の東半分を一周するが、ゆっくり廻っても小一時間掛からない。

 まず家を出てすぐ前の電車沿いの道に出て右に廻る。正面の高台は「ふじタウン」で昭和57年4月に664区画が完成した住宅団地である。

 明日は全国都道府県対抗男子駅伝。普段静かな町内も午前中はすぐ傍の道路で選手が練習で走り回り、午後からは国道にたくさんの観衆が集まりにぎやかなことであろう。

e0125014_10502280.jpg 広電線路沿いの道を東に向かう。左斜めの堤防は海側が埋立てられて上部のみしか見えない。堤防の奥側は昭和6年2月に開通した広電宮島線軌道、明治12年1月に開通した旧国道と昭和7年3月に改修新設された新国道、明治30年9月に開通したJR軌道が平行して走っている。なおJR阿品駅は平成元年8月に開業した。

e0125014_10504611.jpg 川の手前で右折する。朝日で逆光となり鮮明ではないが、左上から中央下の坂は「阿品陸橋」で海岸を埋立てる際、国道・国鉄・広電を横断するために昭和46年3月に完成している。橋梁部分の総延長は259mで、3億4千万円の工事費であった。

e0125014_1051489.jpg 川を越えてマンション側を海側に向かっている。右側が川で干潮時のため側面下方に帯状に緑の海草が付着している。

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 マンション前海岸に沿って進むが、右側が堤防・左側にマンションが連なっている。この地は昭和49年4月に開園した「遊園地なたりー」があったが、平成8年3月に閉園している。この間910万人の入園者があった。跡地にはマンションと大型店舗が開業している。マンションは平成11年から平成21年に架けて整備され総戸数802戸ある。
 海岸沿いは遊歩道が整備され、散策・犬の散歩・ジョギングなどを楽しむ人が見受けられる。

e0125014_10514443.jpg 平成13年に建てられた一角で外壁改修のための足場が組まれている。

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 海岸沿いを突き当たり右折する。右側は堤防。左側は写っていないがマンションがある。中央前方の山は「監視山」である。あまり高い山ではないが、遠い昔この周辺の海が埋立てられていなかった頃、海岸に突き出し周囲を見渡すことが出来るため、敵の襲来を見張るため監視に適していたらしい。
 堤防の柵でよく見えないが右手に「お上がり場公園」がある。この地は明治天皇が西国巡礼された際、明治18年7月31日に厳島の大聖院に宿泊され翌8月1日に海路この地に上陸されいる。天皇が阿品に来られるということで昼夜兼行で桟橋を築造している。これを記念して昭和6年には記念碑が建立されている。昭和40年代までは松が生い茂り海水浴場もあり多くの人が訪れていたが、西広島バイパスの工事で敷地も狭くなり松枯れで松も無くなり今では見る影もなくなっている。
 またこの場所付近より、宮島航路が開通するまで厳島渡船の発着場もあった。遊園地があった頃はジェットコースターのコースが海に突き出していた場所でもある。

e0125014_10522558.jpg 突き当たって西側に向かう。右側に堤防が見えるが、広電軌道造成のため鰆浜・阿品の海岸を3,256坪埋立てた際の護岸である。堤防の完成年月は不明であるが大正12年12月に埋立申請が提出されている。昭和40年代までは鰆浜・阿品の海岸沿いは堤防が連続していたが、海岸の多くが埋立てられ堤防の上部から下部まで見ることが出来るのはこの場所のみである。海水交じり狭い用水路には不思議と大きな鯉が以前より生息している。
 写真でははっきり見えないが、前方には「ふじグランナタリー」」広電阿品駅」「横断陸橋」がある。ふじグランナタリーは平成11年7月に開業している。敷地面積21,048㎡、建築面積23,680㎡である。申請は鉄骨四階建て51,260㎡であったが、大型店舗が新設されると周辺店舗を圧迫するということで大幅に圧縮されている。申請通りに認められていれば今と違った賑わいとなったのではなかろうか。広電阿品駅は平成12年8月に移設開業している。JR阿品駅~駅前広場~国道~広電を横断する長い歩道橋は平成12年6月8日に完成している。

e0125014_10531014.jpg 更に進み「阿品陸橋」まで帰ると、真下に広電旧駅のホームが残されている。広電「田尻駅」は昭和53年8月1日に新設された。平成12年8月1日に東70mに移設され旧駅が廃止された。平成13年11月1日に「田尻駅」は「広電阿品駅」に改称されている。旧駅はホームのみ残されているが軌道側に柵が設けられ真上には阿品陸橋があるので、犬の散歩で雨が降った際格好の一休み場である。

 三丁目の東半分を回り延長2km有るか無いかの短い距離であるが、阿品の過去を辿るのに興味深い場所である。我家はもうすぐである。
 
by hirosan_kimura | 2013-01-19 14:20 | その他 | Comments(2)