素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

<   2012年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

№471 ある宿題

e0125014_1527094.jpg
 昭和31年7月21日の夕刻7時より、鰆浜部落東の丘にある瀬川さんの家で鰆浜部落の子ども会が行われていた。鰆浜子ども会の会員は皆で24名であったが、当日の参加者は22名。小学校からは菱田先生・その他何人かの保護者も出席しておられた。

 当日はラジオ体操のこと・泳ぐ時の注意・その他夏休みの決まりごとなど、夏休みの生活など話し合ってそろそろ会が終了する頃、突然沖野のおじさんが立ち上がって、「それではおしまいにおじさんが宿題を一つ出します。一個20円で買えるキャラメルの空箱を二つ持って来た人には、その人にキャラメルを一個あげます。40円あればキャラメルは全部で幾つになるでしょう。」

 子どもたちは勢い良く手を挙げて、「二つだ」「いや三つだ」と口々に答えるとおじさんは「全部で三つになります。それでは100円あれば幾つもらえるかが宿題です。 分かった人はおじさんの家に一週間以内にこっそり言って来てください。当たった人には何か景品を出すかも分かりません。」と言われてその日の子ども会は終了した。

 暗い夜道を帰る時も、家に帰ってからも、子どもたちはその話に夢中になり、「五つだ」「七つだ」などと一生懸命考えることに夢中になった。

 子ども会では土曜日に駅の下の浜、日曜日はお上がり場の海岸を皆で清掃することに決めていた。翌日は三時から皆が集まって駅の下の浜辺を掃除した。その時も宿題を出されたおじさんも参加され、皆と一緒にカキの殻や、ビンのかけらなどを皆と一緒に拾い集められた。

 その日の夕方、おじさんは家に帰られて気分が悪いと言われ近くの病院に行かれたが、病状が急変されそのまま亡くなられてしまった。

 狭い部落なのでおじさんの亡くなられたことは子どもたちににもすぐ知れ渡ったが、前日には子ども会で宿題を出され、数時間前には一緒に海岸清掃をされたおじさんが突然亡くなられたことは、子どもたちには大きな衝撃であった。

 そのおじさんには小学校低学年の女の子と、小さな男の子がおられた。その男の子には父親が亡くなられたという意味が理解できず、葬式の際には家にたくさんの人が参列されたのが不思議だったのか、はしゃぎ廻っているのを見て参列者はもらい泣きするばかりであった。

 このおじさんこそ、№470で紹介した毎日仕事前に山羊を野原に連れて行き、夕方家に連れて帰っておられたやさしいおじさんである。

 この出来事は鰆浜の子どもたちにとって忘れることが出来ないのか、小学校の文集に何人かの作品が残されている。
by hirosan_kimura | 2012-06-27 08:00 | 子どもの生活 | Comments(0)

№470 山羊の解体

e0125014_9293545.jpg
 昭和30年頃のことである。近所のある家に山羊を飼っておられた。当時は農家でなくても山羊やウサギや鶏などを飼うのは珍しいことではなかった。

 我家でも綿羊を一頭飼っていたが、年に一回くらい綿羊の毛を刈り取り仲買人のような人に毛糸と交換して貰っていた。当時は子どもだったので、仲買人の人が何処から来られるのか、その場で刈った毛を毛糸と交換して貰っていたのか、我家の羊の毛を一旦持ち帰り毛糸の加工して持って着ておられたのかは良く分からない。

 近所で飼っておられた山羊は乳を採るのが目的であったのだろう。その山羊は、その家のおじさんの出勤前に近くの原っぱに連れて行ってもらい杭に繋がれ、一日中自由に草を食べさせてもらい仕事が終わった夕方に迎えに行き家に連れて帰ってもらっていた。朝夕、山羊を引いたおじさんが我家の前を通られるのが日課であった。

 いつも山羊を繋がれるすぐ傍には、排水を国道の下を通し海に流すための排水溝があった。ある日の夕方おじさんが山羊を迎えに行くと、その段差の下に山羊が誤って落ち繋がれた縄で首を吊り山羊が死んでいた。おじさんもビックリされたし山羊も随分苦しんだだろう。

 翌日近くの山の麓で、今は亡き吉田先生が山羊を解剖して子どもたちに見せる言うので集まって遠巻きに見学をした。先生は山羊の腹を切り、これが心臓・これが肺などと説明して下さったがとても気持ちが悪かった。

 解剖した内臓などは傍に埋められたが、きれいな肉を切り分けて皆に配分してもらった。今の時代のようにいつでも肉を買って食べると言うような時代でなかったので、みんな喜んでその肉を貰って家に持ち帰った。

 我家でも夕食に山羊の肉を煮て食べたが、大人たちは美味しいと言って食べたものの、毎朝毎晩おじさんに連れられて我家の前を通っていたのを見ているので、山羊が可哀想でとても食べる気にはならなかった。

 今から60年近く前の、鰆浜部落の出来事である。
by hirosan_kimura | 2012-06-26 10:10 | 出来事事件 | Comments(0)

№469 敵機墜落?

e0125014_13515721.jpg

 アメリカとの戦いで日本の戦局が厳しくなった頃のある時、阿品の上空でアメリカと日本の戦闘機が空中戦を行った。その内一機に弾が当たり、その戦闘機は南の方に墜落して行った。

 これを見ていた阿品の子どもたちは、日本軍が敵機をやっつけたと歓声をあげた。

 子どもたちは敵機が海に墜落するのを見ようと、大急ぎで海岸沿いまで走って行った。その戦闘機は宮島沖の海中に墜落したが、墜落した戦闘機は日本軍のものであったそうである。

 阿品の人に子どもの頃の思い出として聞いた話である。この頃には敵機も日本本土に自由に飛んで来ていたらしい。

 アメリカ軍による直接の被害は阿品では無かったが、地御前では小学校の近くの民家に弾薬が落とされた。これにより、民家が三棟全壊・二棟が半壊・その他10棟が被害を受けた。

 また、死者5名・重傷者1名・軽傷者2名の被害があったそうである。 
by hirosan_kimura | 2012-06-11 14:21 | 軍事 | Comments(2)

№468 藁屋根

e0125014_14523730.jpg

 藁屋根の家は、今では余程田舎にでも行かないと見られないが、昭和30年代か40年代の初め頃までは、阿品でも藁屋根の家が1・2軒残っていたような記憶がある。

 古い時代の阿品では全部の家が藁屋根であったが、他より阿品に移り住んで瓦葺きの家を新築されたり、藁屋根の家が古くなって瓦葺きにし、段々と藁屋根の家は少なくなって行った。

 昭和の初めごろ、阿品には30軒余りの民家があったが、その内10数軒が藁屋根の家であったらしい。

 藁屋根は何年かすると藁が朽ちて葺き替えが必要である。飛騨の白川郷の合掌葺屋根の葺き替えは、大勢の人が総出で屋根の葺き替えを行う映像を見たことがある。

 阿品の家は規模が小さく比較出来ないにしても、屋根葺きの際は大勢が取り掛かって行っていただろうと想像していたが、ある人から聞いた話しでは少人数で行っていたらしい。

 屋根の葺き替えを行う時は、地御前から屋根葺き職人に来てもらいその人の指示を受けながら、家族のみか親戚の人に手伝ってもらうくらいで少人数で行っていた。地御前の職人さんの都合がつかない時は、大野から職人さんに来てもらうこともあったそうである。

 屋根葺きにはたくさんの藁を必要とするので、平素から納屋の屋根裏に藁を貯めておき屋根の葺き替えに備えていたそうである。

 屋根の葺き替えは一度に全部行うことは大変なので、一年目には四方ある屋根の一面のみ行い次の年は別の面を行うと言うように、四年かかって全面の葺き替えを行ったそうである。

 藁は麦わらを使うのが通常であるが、稲の藁を使用すると長く持たなかったそうである。阿品の農家では牛を飼っており田畑を耕したり、牛小屋の敷き藁を肥料にしていたが、刈り草のみでは餌が足らないため藁を刻んで飼料にしていた。

 刈り取った藁は屋ね葺きにも必要、牛の飼料にもしなければならないので、余り規模の大きくない阿品では藁を貯めるのが大変だったらしい。藁屋根を葺き替えるのに一度に全部葺き直さず、四面の屋根を一面ずつ年を変えて行っていたのは、藁の確保が難しかったのかもしれない。

 それにしても屋根の葺き替えは大仕事で、葺き替えの日の前から準備が大変だったらしい。特に炊事場の上の屋根を葺き替える時は大変だったそうである。

 炊事場は火を炊くため天井が無く、葺き替えのため藁を取り除くと青空が見えたそうである。葺き替えの時、藁屑やほこりが直接落ちてくるので、葺き替えまでに炊事道具を片つけたり覆いをかぶせたりしていた。葺き替えが済んだ後の掃除や後片付けも大変だったらしい。

 それでも藁屋根の家は、冬は暖かく夏は涼しかったそうである。しかし藁屋根の葺き替えや手入れが大変で、藁屋根の家も阿品からすっかり無くなってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-06-10 15:47 | 衣食住 | Comments(0)

№467 鰆浜の子ども

e0125014_16030100.jpg

 先日鰆浜の人と話していたら、子どもが少なすぎて子ども会も結成出来ない。幼稚園に行っている子どもを入れてもまだ足らないと言う話が出た。

鰆浜町内会のみの人口等は分からないが、阿品一丁目では世帯数300弱、人口は700人強くらいあるのではなかろうか。これだけの人口でありながら、子ども会の結成も困難なくらい子どもの数が少ないとは驚きである。

 昭和27年4月当時の鰆浜は世帯数39、人口は190名であった。これでも子どもの数は結構あり小規模ながら子供会もあった。当時の部落のみの小学生は24名いた。今と比較して3分の1以下の人口であったがこれだけの子どもがいた。

 現在部落では軒並み高齢者の家庭ばかりになったと言うことであるが、当時は65歳以上の高齢者は8人で高齢化率は4・2㌫であった。現在ではどのくらいの高齢化率になっているのであろう。

 小さかった頃には右を向いてもお年寄り、左を向いてもお年寄りがたくさんおられると思っていたが、子どもから見て40代・50代の人たちでもお年寄りに見えていたのであろう。

 当時は40代の人が19名、50代が17名、60代は11名、70歳以上は5名のみで最高齢者は76歳であった。今では70代・80代の人もたくさんおられる。

 上の写真は昭和31年8月1日に今は亡き吉田繁満先生が撮影されたものである。国道脇の空き地で行っていた、ラジオ体操の際に写して貰ったものである。

 一人一人の顔を見て懐かしく思い出すが、小さな子どもも高齢者の仲間入りする者ばかりである。
by hirosan_kimura | 2012-06-08 16:46 | 鰆浜 | Comments(0)

№466 阿品の養蚕


 以前は各地で行われていた養蚕も今では随分少なくなったらしい。

 地御前村でも戦前までは養蚕が行われていたが今では姿を消している。明治34年の記録によると、飼養戸数20戸、意味は分からないが掃立枚数41枚、生産額は繭・20石91升、玉繭・2石29升、出殻繭・9升、屑繭・3石37升、計26石67升とある。

 昭和9年には春蚕 96戸 207枚、62,810円、秋蚕 104戸 238枚 22,618円と記録されている。

 小学校の同窓会などでは、懐かしい昔の話が良く出る。戦後の貧しい時代が育ち盛りであったが、おやつはさつま芋を蒸かしたもの、大豆を炒ったものなど粗末なものばかりであった。

 当時の子どもたちは、庭や畑や野山に成るものを探して良く食べていたが、その中で地御前の子どもたちは桑の実を食べた話をしていたが、いくら思い出しても桑の実を食べた記憶が残っていない。

 地御前では養蚕のための桑畑が残っていたが、桑畑を見たことがないので阿品では養蚕が行われなかったのだろうと思っていたが、昭和10年代頃までは何軒かの農家で養蚕が行われていたそうである。

 養蚕は納屋の二階などを利用して行われていたが、繭を作る前の桑の葉をたくさん食べる時期には、住居の畳を上げた部屋も使っていたそうである。

 寝ている隣の部屋で養蚕を行うので、たくさんの繭が桑の葉を食べ続け、ザワザワ・クシャクシャする音が絶え間なく続き、その音が耳に付き熟睡出来なかったそうである。

 桑の実が熟れる頃になると、阿品の子どもたちは桑畑に行き夢中になって食べたそうである。たくさん桑を食べた後にはポケットが膨れるくらい桑の実を詰め込んで帰っていたが、桑の実がつぶれてその汁の色が洗っても良く落ちないので、母親に良く怒られていたそうである。

 阿品で行われていた養蚕もいつの間にか行われなくなり、桑畑の桑の木も切りはらわれて見ることも出来なくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-06-07 10:39 | 農業 | Comments(0)

№465 遠足の弁当

e0125014_9125369.jpg
 
 今の小学生も遠足は学校の年中行事のひとつとして楽しみにしているが、戦時中も遠足は行われており今の子どもたち以上に楽しみにしていた。

 遠足といっても徒歩で行ける場所で、速谷神社・海老山・大野の滝などで自分たちが小学校時代に行っていた所と余り変わっていなかった。

 遠足の楽しみといえば弁当を食べることであるが、食料の乏しい時代であったので「おにぎり」に「梅干」か「たくあん」くらいしか持って行ってはいけなかったそうである。それでも麦ご飯や代用食などの貧しい食事ばかり食べていたので、白いお米のむすびと梅干のみの弁当でも嬉しかったそうである。

 遠足の前にたまたま玖波の人が、阿品に小エビを売りにこられたそうである。阿品の人たちは買った小エビを味付けして煮たものを弁当のむすびの中に入れたそうである。むすびに包んであるので中に小エビの煮付けが入っているのが分からないだろうと思ったのかもしれない。

 学校に集合した際、子どもの誰かが喋ったのかも分からないが、阿品の子どもたちの弁当のむすびの中に小エビの煮付けを入れているのが先生に知れてしまった。

 先生は弁当の中におむすびと梅干以外の物を入れているので、阿品の子どもたちにすぐに家に帰って弁当を作り直してもらって来るように言われたそうである。

 阿品の子どもたちは家に帰ったが、弁当を作り直してもらって再び学校に行かなかったそうである。その日は遠足の行き先が大野の妹背の滝であったのかも知れないが、阿品の子どもたちは国道を見下ろす山の上に登り、山の上から遠足に歩いて行く行列を見下ろしたそうである。

 これは阿品のある人から、子どもの時代の思い出のひとつとして聞いたことであるが、遠足をずる休みして後から先生にひどく叱られた記憶もないそうである。

 小エビの煮付けをくるんだむすびは、皆で楽しく山の上で食べたのであろう。今の子どもたちが、遠足の弁当はおむすびと梅干しか入れてはならない話を聞くとどんな思いをするのであろうか。
by hirosan_kimura | 2012-06-02 09:57 | 子どもの生活 | Comments(0)
e0125014_9161094.jpg

 行楽シーズンになると宮島口周辺の国道は慢性的に車の渋滞が続く。行政も色々工夫しているようであるが、焼石に水程度で根本的な解決策には至っていない。

 渋滞の原因は様々あるが、鰆浜で旧国道と西広島バイパスが合流し上下二車線の道路が、宮島口手前で各一車線となっていることが主な要因であろう。

 岩国方面に通過する車両と、宮島に観光に来る車両が一車線しかない道路を通るので、素人が考えても渋滞が起こるのは当然である。

 また宮島口の主要駐車場に進入するには、広電宮島線の軌道を横断しなければならないが、宮島口駅直前で頻繁に出入りする電車が通る都度遮断機が降り、一車線しかない国道を塞ぐことになる。左折車線もあるが短すぎる。

 又、宮島口周辺には駐車場もあるが、一、二ケ所を除き小規模駐車場が多く、観光客にはその場所も分かりにくい。大型バスの駐車スペースも少なくはるか離れた場所に駐車せざるを得ない状態である。

e0125014_9115183.jpg

 道路が二車線から一車線に減少する場所は、国道の左側は広電宮島線軌道、右側はJR軌道に挟まれ道路を拡幅するのは難しい。しかし、上下線とも二車線に拡幅するのは困難であろうが、渋滞する下り線のみでも工夫すれば拡幅出来そうである。

 広電と住宅地との間には今では不用の堤防が残っている。この堤防を取り壊して住宅地の道路ギリギリまで広電の軌道を左に寄せる。

 広電と国道の境界のスペースと、国道中央の分離帯の巾を狭くして利用する。以上3ケ所それぞれの巾は僅かではあるが活用すれば、下り一車線分くらい確保出来ないかと思うのは素人考えであろうか。

e0125014_9121711.jpg

 次に宮島口周辺の整備である。宮島口周辺は競艇場が大きな敷地を占めている。競艇は第二次世界大戦後の復興支援として開設されたものであるが、一時は売り上げも多く関係自治体へは巨額の配分金があったが、宮島競艇は売り上げも低迷し近年配分金は殆ど無いような状態が長く続いている。

 日本各地に競艇場は24ケ所あるが、経営状況が安泰なのは7ケ所、普通が5ケ所、やばいが5ケ所、危篤状態が7ケ所で、この危篤状態の中に宮島競艇が入っている。売上金は24ケ所中23位で将来に渡って回復の見込みはないそうである。

 赤字の競艇を抱える自治体は廃止に持って行きたいが、関係者への補償・清算費用、施設の現状回復等で巨額を要し廃止に踏み切れないようである。

 このような宮島競艇を廃止し跡地を活用すれば様々な問題が解決するであろう。先ず宮島口手前で広電軌道を海側に移設する。

 広電宮島口駅を移設し、宮島航路発着場と一体化されたターミナルを整備する。国道の拡幅用地を確保する。残った競艇場跡地は大駐車場とし、自家用車や大型バスがいつでも安心して駐車出来るようにし観光客の利便を図る。

 将来的にはJR宮島口駅を橋上化し、連絡船乗場まで歩道橋で直結し観光客の利便を図る。

 こうして慢性的な渋滞も防げ、宮島への観光客も飛躍的に増大するのであった。
by hirosan_kimura | 2012-06-01 10:20 | 交通 | Comments(0)