素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 各地の神社を参拝すると、大概の神社には神社の由来などを記した説明板があるが、阿品の岩鏡神社には由来などの説明板などは無い。

 以前、神社を管理している人に神社の由来などを尋ねたことがあるが、何時の時代どのような由来でこの神社が開かれたかなどの文書は一切無いとのことであった。阿品の遠い祖先が出雲から神様を分詞したのではないかとのことであった。

 現在、岩鏡神社は阿品の部落の丘にあるが、元々はふじタウン麓の川の傍に鎮座していたが、昭和25年のキジヤ台風(昭和26年のルース台風が正しいと言う人もある。)により神社裏の崖が崩れ、前の川が氾濫し、神社の建物は跡形も無く壊され流失した。

 流失前の神社の写真でも無いかと思うが中々見つからない。誰かに尋ねれば神社の配置でも分からないかと思うが良く分からない。上の図は想像で書いてみたものである。

 正殿と拝殿は別棟でそれぞれ広さは5坪5分3厘8毛との記録がある。神社裏は岩のある崖山で前は川が流れていた。神社境内は819坪くらいあった。大半は山林であったのだろうが現在の神社と比較すると相当広かったのだろう。

 詳しい配置図か当時の様子を記憶している人はないものであろうか。

e0125014_14565748.jpg ある人の話によると、当時の神社は建物も小さく廻りに巨木こそなかったが、巨岩がありこれこそ本当の神社と言う雰囲気であったそうである。

 お祭りには浪花節や明石の「かんま」が来ることもあった。

 岩鏡神社はたくさんの田畑を持っており、その年貢が入るので「金持ち神社」と言われていたそうである。このため神社に要する経費も困ることはなかった。

 明治政府が神社の統廃合命令を出した時も、岩鏡神社は金持ちであったため統廃合を免れることが出来た。たくさんあった神社の田畑も、戦後の農地改革により大半を失うこととなった。

 この写真は何かの行事の際、阿品の女の人が踊っているところであるが、場所は旧神社の境内とのことであるが、確かなものかどうかは分からない。
by hirosan_kimura | 2012-05-30 15:46 | 神社 | Comments(0)
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 今は亡き昭和天皇に子どもが生まれた際、女の子であれば「ドン」と一つ、男の子であれば「ドン ドン」と二つ合図がされることになっていた。

 男の子であれば皇孫の誕生と言うことで国中「ドン」が二つ鳴らされることを待ち望んでいた。阿品の子どもたちも皇孫の誕生と言う深い意味も分からなかったが、「ドン」が二つ鳴ると学校が休みになるということで、生まれる日が近づくと「ドン」が二つ鳴るのを楽しみにして待っていた。

e0125014_10232132.jpg しかし生まれる都度「ドン」は一つしか鳴らずがっかりしたそうである。 しかし昭和8年12月23日に「ドン」が二つ鳴り、子どもたちは勿論大人たちも歓喜に溢れ返ったそうである。実に五人目にしてやっと男の子がうまれたのである。

 「ドン」の合図は神社の太鼓が叩かれたのか、その他の方法であったのかは分からないが、広島市では大砲の空砲が撃たれ風向きによっては阿品の方まで音が聞こえたそうである。

 学校が休みになるだけでなく、地域を挙げて奉祝の行事が行われたようである。阿品では「祝 皇太子殿下御降誕」の記念碑が国道と阿品部落に入る道路の分岐点に建てられた。

 その記念碑も国道の拡張により移設され、今ではふじタウンから阿品部落に降りる道路わきにニュータウンの造成により移転された、「教え地蔵」とともに並んで残されている。
by hirosan_kimura | 2012-05-29 10:50 | その他 | Comments(1)

№461 うなぎ

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 阿品には奥の谷から海に向かって二本の川が流れている。いずれも小さな川で地図では東側の川が「中田川」、西側の川は「阿品川」と記されている。東側の川は人が跨げる程度の巾しかなかったが、西側の川は巾が4~5mくらいで「大川」と呼んでいた。

 今では三面がコンクリートで覆われ僅かな水量しか流れていない。ニュータウンの団地が整備されるまでは、谷の奥から清らかな水がたくさん流れていた。

 川の両岸も自然の土や岩であり、川底は綺麗な砂利であった。小さな川であったが様々な生き物が住みつきハヤなどが泳いでいるのを見掛けることも出来た。小さな川なので泳いだりは出来なかったが、子どもたちはこの川を遊び場としていた。

e0125014_10513469.jpg この清らかな水が流れ自然豊かな川も、ニュータウンの整備により山は削られ谷は埋められ調整池も作られ、清らかな水も見ることは出来ず流れる水量も僅かである。川も三面がコンクリート化されへどろやコケも生え、かつての面影は見ることも出来ない。まして子どもが川に入って遊んでいる姿など見ることも出来ない。

 自分たちが子どもの頃でも、阿品の川ではメダカやハヤが泳いだり夏には蛍が飛び交っていたが、その昔にはこの小さな川で鰻が獲れていた。

 両岸が自然であったので、土の中に横穴があったり岩の隙間がありその穴に鰻が住み着いていたいたそうである。

 子どもたちは短い竹の先に糸と針を付けミミズなどを餌にして、鰻の居そうな穴に差し込んでまさぐっていると鰻が食いつき捕獲していた。時には思いがけない大きな鰻が獲れることもあり、そんな時は有頂天になり他の子どもたちに自慢しまくったそうである。

 家に鰻を持って帰ると親にも誉められ美味しい鰻が食べられるため、子どもたちは夢中になって鰻を獲っていた。

 今では阿品では鰻どころか、たくさんいたメダカの姿を見ることも出来なくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-05-28 11:33 | 動物 | Comments(0)

№460 ぼらの養殖

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 ぼらは阿品でも良く見掛ける魚であるが、家に持って帰っても余り喜ばれず釣れても捨てるような魚である。近年は海の汚染が進み臭い魚と嫌われるが、昔は沿岸部でもまとまって捕獲される味の良い食用として親しまれ、高級魚として扱う地域も少なくなかった。またメスの卵巣を塩漬けして「カラスミ」と言われる貴重なつまみにもなる。

 ぼらは出世魚と言われ、地域によって異なるが、3cm程度のものをスシバリ、20cm程度はイナ、30~40cm程度はボラ、50cm以上はトドと言うそうであるが、イナとボラ以外の呼び方は聞いたことことがない。

 以前紹介したがJR阿品駅前の国道に調整池があった。昔は巾も相当広かったが新国道が整備される際埋立てられ随分巾が狭くなったが、昭和40年代頃までは国道沿いに細長い調整値池が残されていた。

 この調整池(阿品では池洲と呼んでいた)で魚の養殖が行われていtことも紹介したが、養殖をしていたのは在郷軍人会が行っていたそうである。

 毎年春頃、地御前の漁師さんからぼらの幼魚を買い付けていたそうである。どの程度の数量を買い付けていたのか分からないが一匹辺りいくらかで購入していた。小さな魚なので数を数えるのが大変なので、小さな杓で魚をすくい10匹数えてはごうな(螺貝の一種)を1ケ並べて計算したそうである。ごうなが100個になれば1,000匹のぼらの幼魚数となる。

 特別餌を与えたりの世話をしなくても大きく育ち、毎年正月が開けた頃在郷軍人会の人たちが池洲に網を入れて魚を捕獲していた。1年子・2年子はそのまま池洲に返し大きなぼらのみを出荷していた。

 どのくらいの売上額になったのかは分からないが結構なお金となり、在郷軍人会の運営費になったり時には酒盛りをする際のお酒代や料理代にしたと言うことである。

 戦後は池洲に生息している魚を青年団が網を入れて捕獲し、残った雑魚を子どもたちが争って取り合いをした記憶があるが、このような風習も何時の時か分からないが行われることもなくなった。
by hirosan_kimura | 2012-05-27 10:28 | 地形 | Comments(0)

№459 うさぎ

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 年代ははっきりしないが昭和の初めごろ、阿品の国道をたくさんの海軍兵学校の人たちが列をなして行進して来たそうである。何の為阿品にたくさんの兵学校生が来たのか見物していると、田尻の山の山頂付近の峰に長い網を張ったそうである。

 網を張り終わると兵学校生は麓に隙間無く横一列に並んだそうである。枝木を地面に叩きつけ大きな声を上げながら峰に向かって登って行ったそうである。

 何をしているのかと思ったら、藪に隠れている「うさぎ」を捕獲するためであった。藪に隠れていた「うさぎ」は驚いて山頂に逃げていったそうである。「うさぎ」は追われると高い方に逃げる習性があるそうである。

 山頂に向かって逃げた「うさぎ」は峰に張ってある網にからみつき一網打尽となったそうである。捕獲された「うさぎ」を木の棒に数頭づつ結びぶらさげて意気揚々と、阿品の国道を行進して帰ったそうである。

 地御前小学校に到着した一隊は、「うさぎ」を調理して食事にして食べたそうである。その「うさぎ」の数は少々のものでは無かったと言うことである。

 田尻の山は現在は団地として開発され往時の面影も残っていないが、当時は木々が生い茂り「うさぎ」を初め様々な動物の住む自然豊かなやまであった。

 阿品のある人から、子どもの時の思い出として聞かせてもらった話である。
by hirosan_kimura | 2012-05-26 11:39 | 軍事 | Comments(2)
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 鰆浜部落と地御前の境の山を鵯山(ひよどりやま)と言う。地元では単に鳥山(とりやま)とも呼んでいた。別名拝床山とも言われていた。

 この山はうっそうとと樹木におわれ海に面していた。高さは約80m前後で海側は急傾斜となっていた。鵯山と呼ばれたのはかつてこの山に鵯(ひよどり)が群生していたものによる。この数は半端なものでなく数えきれないほどだったそうである。

 春になるとこの鵯を鷹が追い付けまわすと鵯が森の中に隠れ込んだり、時には一斉に飛び立つと空が暗くなるほどで不気味な感じがするほどであったそうである。

e0125014_10103689.jpg 背後は急角度の瘤山が連なり、山裾には暗礁が多く要害の地であった。

 弘治元年(今から457年前)の8月21日に陶晴賢が厳島に進駐後、23日には毛利元就がこの付近を巡視し、28日にはこの山に陣地をはり厳島に攻め入る為の軍の方略を協議したと伝えられている。

 この山裾の海辺は道も無く干潮時に磯伝いに往来するしか無かったが、古い時代に人がやっと通れる程度の道が整備され、明治12年(今から133年前)に巾の狭い旧国道が完成している。

 その後、広電宮島線軌道のため海が埋立てられ、昭和7年(今から80年前)に完成した新国道のため山肌は削り取られ、鵯山周辺は大きく変わってしまった。

 かつては木々で鬱蒼と繁って山も、宅地の造成等で切り払われ山頂にはマンションなども建てられ鵯が群生していた頃の面影を覗うことも出来ない。
by hirosan_kimura | 2012-05-25 11:05 | 地形 | Comments(0)

№457 弾丸列車

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 昭和7年の満州国成立後、日本から朝鮮半島を初め中国大陸へ送る物資の輸送は急増していたが、昭和12年の日中戦争の勃発により、従来の東海道・山陽本線経由の物資輸送では対応仕切れなくなった。

 そこで昭和13年から幹線輸送強化の調査研究が開始され具体的に検討された結果、東京から下関まで別線の高規格鉄道を早期に新設することとなった。

 昭和15年9月には帝国議会で広軌幹線鉄道計画が承認され、昭和29年までに開通させることを目標に、総予算5億5千万円で建設されることとなった。

 これに基づき用地測量・用地買収・工事が開始された。完成後は最高速度時速200kmで東京~下関間984.4kmを9時間で結ぶものであった。当時は同区間を18時間半要していた。

e0125014_1641073.jpg 構想として将来は対馬海峡に海底トンネルを通し、満州国の首都「新京」・中華民国の「北京」まで東京から直通列車を走らせるとう言う、とてつもない構想であった。




  しかし戦争の悪化により昭和18年度を持って工事は中断したが、工事途中であった「日本坂トンネル」はその後、東海道新幹線のトンネルに転用されている。

  用地買収は、地主の所に鉄道関係者が突然やって来て話し合いなど一切無く土地の境界に杭を打って帰り、買収価格の交渉も無く地主は相当安い価格で買い叩かれ、応じなければ非国民扱いされる始末であった。

 戦時体制による半ば半強制的に用地買収された土地も、戦後元の所有者から訴訟などがあり多くの土地が返還されたらしいが、東海道新幹線では「弾丸列車」のために買収された土地も利用されている。
 
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 阿品地域でも弾丸列車用地の測量が行われ敷地境界の杭が打たれていた。用地買収まで行ったのかは不明である。

 詳しい位置は不明であるが、現在の鉄道線路と阿品台の下辺りの中間付近を横切っていたらしい。上図の赤線は推定で正確なものでは無い。詳しく位置の分かる資料は無いものであろうか。

 もし弾丸列車が実現していたら、阿品の風景も随分変わっていたことだろう。
by hirosan_kimura | 2012-05-24 17:42 | JR | Comments(2)
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 大正15年7月に広電宮島線が鰆浜まで延長され、「新宮島駅」が火立岩付近に開業した。①の位置である。

 その後広電宮島線は昭和6年2月に宮島口まで延長された。宮島口までの延長に伴い「新宮島駅」は廃止され、新しく阿品に駅が新設されることとなったが、新駅は「お上がり場」の宮島口寄り阿品部落の入口付近に決定された。

 当時は阿品地域全体でも世帯数は少なかったが、鰆浜部落の世帯は僅かで圧倒的に阿品部落の方が多かったので、新駅が阿品部落の入口に新駅が計画されたのは当然であろう。新駅設置は②の場所であった。

 しかし線路延長の工事が始まった後に、鰆浜部落に「吉田病院」が新設されることが決定し、阿品部落入口付近に新設予定の駅が鰆浜部落へ新設されることとなった。③の場所で現在の「阿品東駅」である。

 一旦新駅の設置が決定し設計図まで出来ていたものが変更となると、今の時代であれば阿品部落から反対運動が起きそうなものであるが、当時の人たちは今のJR宮島口駅・廿日市駅を初め少々の場所には歩いて行くのは当たり前で、新駅が200m足らずの位置に変更になったくらいは気にも留めなかったようである。

 昭和53年8月には広電「田尻駅(現在の広電阿品)」が新設された。④の場所。仮に当初の計画通り阿品の入口に新駅が開業していれば、田尻駅までの距離は僅かであり田尻駅の新設は無かったであろう。また、JR阿品駅付近の様子も現在と全く違った方向で整備されていたかも分からない。

 昭和49年4月に遊園地「広島ナタリー」が開園したが、当時は「田尻」駅は無くナタリーに行く人たちは「広電阿品(現在の阿品駅)」を利用し、歩いて列をなして遊園地に向かっていた。当初計画の阿品駅は、ナタリーの東端のまん前に当たりナタリーに行く人たちは随分と楽であっただろう。
by hirosan_kimura | 2012-05-23 16:34 | 広電 | Comments(0)
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 鰆浜の国道沿いには民家が立並んでいるが、昔は道路と宅地が同じ高さだったような記憶がある。現在では見た目には高さが変わらないようであるが、良く見ると随分と道路面が高くなっている。

 これは舗装面が傷んだ際、新しく舗装し直すのに元の舗装を剥ぎ取らないでその上に新しく舗装を重ねるので、道路面は舗装をし直す都度高くなるばかりである。

 写真は道路面から平行に宅地面に線を入れてみたが、道路が宅地より随分高くなっているのが分かる。その分、歩道が傾斜し斜面となっている。

 左側の宅地は、以前道路より低く昭和30年代頃だったような記憶があるが、家屋を道路と同じ高さにかさ上げをされ土砂を入れ道路と同じ高さにされたが、今では再び道路より随分低くなっている。

e0125014_13292057.jpg この写真は国道からの分岐している道路面から国道を写したものであるが、国道が高いのが良く覗える。国道面と分軌道面の間は歩道であるが、この高低差分だけ歩道が傾斜していることとなる。

e0125014_1333164.jpg 国道の断面が見られる機会は少ないが、左の写真は「鰆浜川」に掛かる国道の橋を耐震補強工事をする際、元の地面まで掘り下げた道路の断面である。

 正確かどうかは分からないが、一番下の①の部分は昭和7年に新国道が整備された当時の部分で、舗装はされていず砂利のままでである。

 下から二層目の②は昭和11年にコンクリート舗装されたものと思われる。

 下から三層目の③は、年代は分からないがコンクリート舗装の上にアスファルト舗装がされている。

 一番上は昭和49年4月に「西広島バイパス」が鰆浜まで整備された際の舗装と思われる。

 この写真を見るだけで、当初より国道が随分かさ上げされたのが良く分かる。正確な数字は分からないが、当初と比べると1メートル近く高くなっているのではなかろうか。

 道路を新しく舗装する際、元の舗装を剥ぎ取るのは経費も手間も掛かるであろうが、道路が傷む度に舗装を重ねて行くと、道路はどこまで高くなるのであろうか。
by hirosan_kimura | 2012-05-21 05:16 | 国道 | Comments(0)
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 平成22年12月13日に初投稿した「ふるさと 阿品 よもやま」の訪問者が5月18日で30,334人となった。訪問者より他にPCアクセスがあるが意味は良く分からない。PCアクセスの数は訪問者の約2倍となっている。

 訪問者は開設以来1,254日なので訪問者数で割ると一日約24人となる。人気ブログは一日1万件以上の訪問者があると聞いたことがあるので、一日当たり20数人の訪問者では人気の無い最低ランクのブログといつも思っていた。

 訪問者が3万人を越えたのを機に、ブログの統計などを調べてみた。

 全国でのブログ総数は1,690万件あるそうである。すべてが個人での開設でなく営業関係者もあるのであろうが、それにしても驚くほどの数である。

 しかしその内容をみると一日当たりのアクセス数は、4分の1以上の26.1㌫がほぼ0に近いらしい。一日当たり1~5人が24.2㌫、5~10人が11.2㌫、10~50人19.0㌫、、50~100人9.0㌫、100~200人5.8㌫となっている。一日1,000人以上の訪問者があるのは僅か0.7㌫に過ぎない。

 この数字を見る限り我がブログの一日24人は、とんでもない不人気ブログでも無いような気もする。ブログ開設数の約62㌫は一日平均10人以下の訪問者である。

ブログの更新はほぼ毎日が14.1㌫、週2~4回20.8㌫、週一回16.7㌫、月2~3回18.3㌫、月一回7.2㌫、2~3ケ月に一回9.1㌫、四ヶ月に一回以上の更新が無い者13.8㌫となっている。

 全体の8割以上が一ケ月に一回以上の更新が無いらしい。ちなみに「ふるさと 阿品よもやま」は平均すると2.7日に一回の更新となっている。

 この数字から見ると訪問者数もとんでも無く少ないほうでも無く、更新回数もまずまずの数らしい。

 今までは地域限定のため見る人も限られ訪問者も僅か、人に見てもらうのは気にせず阿品の記録を記録を残すのが目的と割り切っていた。とわ言うもののアクセス数は気になるものであった。

 これを機に益々充実したものにしたいが、それにしてもネタの無いのに困ったものである。 
by hirosan_kimura | 2012-05-20 07:47 | その他 | Comments(0)