素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 上図は明治27年発行阿品付近の地図に着色したものである。今から118年前のものである。

 緑色が山。茶色が平地。青は海面の埋立地。平地は中央が阿品(阿品二丁目)、右側が鰆浜(阿品一丁目)、左の大野境付近が田尻(阿品四丁目)である。

 中央の埋立地は今から200年前くらいの干拓地と、130年前くらいに前に旧国道新設の際、開拓された阿品新開である。200年前に開拓された部分は予測で、境界の正確な部分は不明である。
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 この図は現在の状況であるが、一番大きく変わったのは山が削られ団地が造成されたことであろう。

 黄色い部分が山を削り住宅地が造成された部分であるが、右側の広い部分が「県営阿品台ニュータウン」。左の大野境が「ふじタウン」である。

 この大型団地以外に鰆浜の奥と阿品境に「阿品団地」が今から50年近く前に造成された。元は阿品地区ではなかったが今は阿品一丁目に編入されている「光が丘」と言う小型団地も山を削って造成されている。

 海岸の埋立では今から90年近く前、新国道・と広電宮島線の延長に伴い海岸沿いが帯状に3,200坪程度の埋立が行われた。

 今から43年前くらいには、田尻住宅団地・遊園地ナタリー(阿品三丁目)の敷地として約165,000㎡の海岸が埋立てられた。

 また、今から39年前には「西広島バイパス」の出口として広電の沖合い移設、道路の拡張用地として,鰆浜の海岸が帯状に7,268㎡埋立てられた。

 自然に恵まれ緑豊かであった阿品は、山が削られ海は埋立てられて原型を留めないほど大きく変わってしまった。

 現在、元の自然が見受けられるのは阿品台の裏山と、団地の乗り面に僅かに残された部分と、鰆浜を取り巻くように残された山のみである。

 鰆浜と阿品の間の僅かな山も、一時は開発の計画もあったが今は中断しているようである。これらの山が何時までも残ってほしいものである。
by hirosan_kimura | 2012-01-29 11:43 | 地形 | Comments(2)

№422 国道の舗装

e0125014_9422431.jpg 新しい国道が阿品付近に完成したのは昭和7年3月、今から80年前である。

 国道が舗装されたのは昭和11年で、道路が完成して約4年間は砂利道のままであった。今ではアスファルト舗装であるが当初はコンクリートの舗装であった。

 舗装がコンクリートからアスファルトに換わったのは、昭和30年代の初めごろであったように思う。

 請願年月日・請願者は不明であるが、国道舗装に関する請願書がある。請願して直ちに舗装されたとは考えられないので、請願年月日は昭和8・9年頃、請願者は地御前村長、相手方は県知事か国に対してではなかろうか。


請願書
 国道二号線佐伯郡五日市町以西本村字鰆浜間に於ける改修工事は、今や竣工を告げたる如くにして、既に県の支配に移管せられたる趣なるも、五日市町より宮内村字串戸港の区間はアスファル舗装工事を此時に施され車馬の行通上遺憾なきに到れるも、此処以西に至りは撒布せられたる栗石路面に露出したるまゝ放任しあるを以て、車馬の行通上甚だ困難を感せり。

 特に本村字田屋沖島橋前後に到りては、国道として著しき急勾配にして栗石路面に散乱し在るか為、交通の車馬等は之か為、特に支障を帰せり。

 又、近時は荷物の運搬は大半陸路に拠るを便をするを以って、本県と山口県との交渉は倍々頻度の度を増すの際の方り。

 斯の荒栗石の為、車体破損し操縦者の負傷したる例ありて、通行者間に怨嗟の声あるは甚だ遺憾とする処なり。

 斯々の如きは産業を専念するの秋に方りては、一日も早く適当なる舗装工事を実施せられし事を暁望して止まさる次第に付、何分の御詮議を以て御実行の儀及請願御願候也。
by hirosan_kimura | 2012-01-16 11:05 | 道路 | Comments(0)

№421 先生の激怒

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 小学校の5年生くらいのことである。

 現在阿品台一丁目にある「光の園」が広島市より移転してくることとなり、山を削って敷地を造成するため岩国基地の兵士がたくさん来ていた。

 昼休みになるとこの兵士たちが、小学校の近くにある地御前神社付近によくやって来た。学校が昼休み時間になると、子どもたちは兵士が珍しいので学校を抜け出して遠巻きに見に行っていた。

 最初のうちは恐ろしさもあり近づくこともなかったが、その内兵士の方から子どもたちに笑いかけたり、手招きしたりする内にだんだん慣れてくると、言葉は通じないながらも兵士と子どもたちの間で交流とまでも行かないまでも打ち解けるようになった。

 大人からは、兵士は恐ろしいので近づいてはならないと言われていたが、みんなやさしい人ばかりと思えるようになった。

 しばらくすると兵士がチューイングガムやチョコレートなどを呉れたりするようになると、子どもたちはそれを目当てに兵士に付きまとうようになった。

 そのうち子どもの方から催促するようになり、兵士は面白がって走るジープの上からガムや10円玉を投げるのを、子どもが追いかけまわすようになった。

 これを知った先生が「日本は戦争に負けたが、乞食のようにお菓子やお金をねだったりするようなことをしてはならない。涙が出るほど情けないことだ」と、男の先生であったが本当に涙を出しながら、子どもたちに諭された。

 時には怒られることもあったが、この時ほど先生が嘆かれ涙を流されるようなことは初めてであったので、子どもたちも先生の心情を肝に銘じたものである。

 これ以降、子どもたちが菓子やお金をねだって兵士たちを追い回すこともなくなった。

 きびしい先生であったが、子どもたちに慕われたこの先生も亡くなられて十数年が過ぎた。
by hirosan_kimura | 2012-01-13 15:08 | 子どもの生活 | Comments(2)

№420 冬の楽しみ

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 現在、阿品一丁目の子どもたちは阿品台東小学校、二丁目から四丁目の子どもたちは阿品台西小学校へ通学しているが、阿品台に小学校が開校するまでは阿品の子どもたちは地御前小学校に通学していた。

 家から沖島手前付近まで国道沿いに行き、沖島橋手前から左側の坂を下り旧国道に進み地御前神社前を通り学校に行っていた。

 その途中に「井上日本瓦製作所」という瓦工場があった。従業員は数名くらいの工場であったが、毎日登下校時にその前を通るので従業員と子どもたちも親しくなっていた。

 当事の冬は今より寒かったように思うが、着る物も今のように防寒も効いていず手にはしもやけやあかぎれは当たり前であったが、震えながらも元気に通学していた。

 それでも工場の前に行くと瓦を焼く窯が暖かいので、冷え切った手を暖めたりするが通学途中で時間も無いのでゆっくりすることも出来なかった。

 時には家からさつま芋を2・3個持って行き従業員の人に預けて置くと、帰りには美味しい焼芋にしてもらうことが良くあった。

 さつま芋を瓦を焼く窯に入れると高温のため炭になり跡形も無くなるであろうが、窯の入り口付近で適温な場所にさつま芋を置き、子どもたちが学校の帰りの時間ごろに美味しい焼き芋が出来上がるよう工夫してくださるのである。

 朝、さつま芋を預けた日は授業が終わると同時に急いで瓦工場まで行き、美味しい焼き芋が出来上がっているのが楽しみであった。

 焼き芋は食べながら帰ることも家に帰ってゆっくり食べることもあったが、時にはその場で焼き芋を食べながら職人さんが竹のへらのような物で鬼瓦に彫刻されるのを、飽きもせず見入っていることも良くあった。

 今では焼き芋など見向きもしないが、おやつなど殆ど無かった60年近く前の懐かしい思い出である。
by hirosan_kimura | 2012-01-12 11:18 | 子どもの生活 | Comments(2)
e0125014_12533537.jpg 阿品二丁目の世帯・人口は約410世帯・約1,100人である。

 現在、住居表示等が実施され区域は若干異なるが大正14年の国勢調査によると34世帯194人とある。この数字の中には鰆浜は入っていないが、田尻の2世帯は入っている。

 昭和10年の調査では40世帯185人となっている。昭和23年の人口調査では62世帯268人となっている。

 大正14年当時は、阿品地域には鰆浜・阿品・田尻の三地区があったが、調査は田尻が阿品と併せて行われているが、鰆浜は田屋地区と同一の調査区とされている。

 鰆浜地区の調査状況が分かれば、阿品地域全体を把握することが出来るが資料が無いのは残念である。


世帯  男 女  計     世帯  男  女  計
 1   2  3  5      18   3  5  8
 2   4  4  8      19   4  2  6
 3   1  5  6      20   0  2  2
 4   3  4  7      21   0  1  1
 5   2  5  7      22   1  1  2
 6   4  2  6      23   6  2  8
 7   4  2  6      24   3  0  3
 8   2  3  5      25   4  3  7
 9   3  2  5      26   5  4  9
10   1  3  4      27   2  3  5
11   3  4  7      28   3  3  6   
12   2  3  5      29   5  5 10
13   6  1  7      30   4  2  6
14   1  0  1      31   0  1  1
15   1  4  5      32   1  2  3
16   3  4  7      33   5  5 10
17   5  3  8      34   2  6  8

 世帯は番号としている。我家は鰆浜地区であるが当時は阿品に住んでいた。№32である。母の里は№11であるがどのような家族構成であったのだろうか。

 №33・34が田尻地区であるが、当時は2世帯のみであったらしい。

 現在では単身世帯が増加しているが、当時は3世帯となっている。

 一世帯当たり5.7人であるが、今の二丁目では2.6人と半数以下となっている。
by hirosan_kimura | 2012-01-07 14:27 | 人口 | Comments(0)