素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№410 村の漁業

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 昭和9年地御前村の漁業の状況を調査した資料より。

水産業
○漁業盛 理由 海岸線曲屈している
          砂泥岩 鰮(いわし)の好漁場
○漁業の方法  舟曳網 建網 手釣 かきの養殖

主要水産業
 せくろいわし 12,000〆 25,200円
 たい         120〆    660円
 ちぬ         400〆    880円
 かれい       200〆    300円
 ぼら         300〆    360円
 其他       7,500〆  8,250円
 とりがい     2,500〆    500円
 あさり     10,000〆  1,500円
 いか         800〆    360円
 たこ         300〆    240円
 えび         600〆    480円
 なまこ      1,300〆    360円
 いりこ              25,200円

水産物総数  42,554円
戸数           66戸
一戸平均    644.75円

 単位の〆は貫目であろう。現在地御前の水産物の大半は牡蠣養殖によるものであるが、この資料では牡蠣の漁獲高が示されていないので其の他に含まれ、わずかな漁獲量だったのかもしれない。

 漁獲高と総計が一致しないが、「せくろいわし」と「いりこ」は重複し、その他どこかに誤りがあるのかも知れない。

 漁業者一戸当の平均が、年間644円とあるが、今の物価に当てはめるとどの程度の収入となるのであろう。

 それにしても、現在の地御前の海岸と比較すると、遠浅が広がり海草が繁茂し、水はきれいでゴミも少ない当事の海の豊かさが偲ばれる資料である。
by hirosan_kimura | 2011-10-25 10:55 | 水産 | Comments(0)

№409 村の気風

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 昭和9年に村の状況を調査した資料がある。その中に村民の気風(地域の人々に共通にみられる気質)の項目がある。同じ村内の一地域の阿品の気風も、同じようなものであったのだろうか。

宗教と気風
 真宗信者 保守的 貯蓄心 吝嗇(りんしょく ひどく物惜しみすること けち)の幣に陥りやすし。

地形と気風
 おち肌(意味不明) 冒険の心 活動的。

農業と気風
 保守的 識見回想 愛郷の精神に富む 従順謹約。

商業と気風
 思想~進歩的 常識発達している。

工業と気風
 固陋(古いものに執着し新しいものを受け入れようとしない。かたくなになり機械的に流れ易い。

漁業と気風
 現在主義。冒険的の気性。

 意味のよく分からないものもあるが、「地形と気風」の冒険心の心は、村民の多くがハワイ・アメリカ・ペルーなどに移民として海外に渡ったことを示すのであろうか。
by hirosan_kimura | 2011-10-19 10:34 | その他 | Comments(0)

№408 鰯網

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 毎年、この季節になると宮島の沖から大漁旗を掲げて帰ってくる鰯漁の船の風景を思い出す。色とりどりの大きな大漁旗をたくさん船に掲げている様子は、華やかで勇ましい風景であった。

 広島湾でいつの時代から鰯漁が始まったのかわ分からないが、大正14年の地御前村の資料では「由来本村はは煮干鰮(いわし)の名産地にして年々四張乃五張ノ鰮地引網出漁シテ、産額の多キ年ハ漁期半ケ年に約六万円ノ煮干鰮ヲ製造致シ候。之に従事スル人員ハ男子百四十人乃百七十五人、女子百人乃至二百人アリテ」とあるように村の経済を大きく支えていたようである。

 この鰯漁は広島湾に回遊する鰯の漁が減ったり、質が落ちたため昭和30年代の初めにはほとんど行われなくなった。

 鰯漁は二艘の引き舟、網を引くろくろのある二艘の網船、網の具合を網船に旗で合図を送る見図船(ミトブネ)と採れた鰯を湯がく炒屋船(イリヤブネ)の計六艘で一船団であったそうである。
湯がいた鰯は陸に持ち帰り、空き地という空き地に広げて乾燥されていた。

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 古い阿品の地図にも、田尻と鰆浜の海辺に「鰯干場」と記録されている。

 記録によれば、大漁の時は一船団で莚(ムシロ)千数百枚を敷き並べて乾燥するほど広い敷地を要したらし。

 自分が子どもの頃には鰯漁も規模が小さくなったとは言え、地御前の港周辺の空き地や道路わきに鰯を広げて乾燥していた情景がかすかに記憶にある。

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 上の写真は場所は不明であるが、田尻か鰆浜で鰯を乾燥させている様子である。女・子ども総動員で鰯を広げて乾燥させている。

 昔ほど鰯が採れなくなったとは言え、時期が来ると海岸のすぐ傍で鰯が素人でもたくさん採ることが出来る。「7回洗えば鯛の味」と言われるほど鰯の刺身は美味しいが、今の若い人は包丁やスプーンで鰯を捌いているが、母親たちは道具を使わず指先だけで器用に捌いていたのを思い出す。
by hirosan_kimura | 2011-10-13 09:48 | 水産 | Comments(0)
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 昨日は阿品の氏神様「岩鏡神社」の秋の例祭。朝から子どもたちが東・西に分かれて、かわいい神輿を担いで町内を練り歩いた。今では神輿は子どもたちが担ぎ、その神輿も可愛い物となっている。

 昭和30年代頃までは神輿は青年が担ぐもので「俵揉(たわらもみ)」と言っていた。その名の通り俵を三段重ねその上に飾りつけをしたものを、二本の太い丸太に乗せて阿品の青年が町内を練り廻っていた。

 音頭を執る人の合間に、担ぎ手も大きな声で合いの手を入れそれは勇ましく勇壮なものであった。家々を廻る中には、担ぎ手に冷酒を差し入れ時には酒が廻って、ろれつが廻らなくなったりふざけて無茶苦茶になったりすることも当たり前であった。

 子どもたちはそんな様子が面白かったり時には恐ろしかったりしたが、「俵揉」について廻るのが楽しみであった。

 楽しみの少ない当時としては、大人も子どもも秋祭りは一年の中でも待ち遠しい行事のひとつであった。各家ではご馳走を作り、親戚や知人を招いて大人はお酒を飲んだり終日賑やかであった。

 母の実家が「岩鏡神社」のすぐ傍で、秋祭りには必ずといっていいぐらい行っていた。神社では朝から人の訪問が絶えず、太鼓の音が鳴り響いいていた。

 そのうち阿品では「はな」と呼んでいたが顔に恐ろしい面を被りはでな衣装を着、手には竹の棒を持ち家々を廻って来た。

 今では「はな」は子どもが衣装を着て、おとなしく神輿について廻る程度であるが、当時は若い青年が「はな」になり、若い女性を威嚇して追いつけ回していた。

 特に新婚の花嫁はターゲットにされ、はなに見つからないよう家中を隠れ廻っていた。時には「はな」が家々で酒をふるまってもらい、酔ってへべれけになり無茶苦茶にふざけまわることもあった。

 子どもたちもふざけて追い回されることもあったが、恐ろしさ半分・興味半分で「はな」の廻る後を追いつけまわしていた。あれほど大騒ぎしていた「はな」がどこに行ったか分からなくなり、みんなで探し回ると田んぼの隅で泥酔して寝込んでいたこともあった。

e0125014_934334.jpg 今では秋祭りに家々でご馳走を作りたくさんの人が集まることも、勇壮な「俵揉」も恐ろしい「はな」も、それを追い回す子どもたちの歓声も聞こえなくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2011-10-10 09:48 | 行事祭礼 | Comments(0)

№406 廃れる風習

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 明日9日は阿品の氏神様「岩鏡神社」の秋の例祭である。祭りに先立ち町内全戸に藁縄と紙垂の切り方が配布される。祭りの数日前までには各家では玄関周りに注連縄(しめなわ)を張りめぐらす。

 以前には極当たり前のように各家庭で注連縄を張っていた。しかし祭り前日と言うのに注連縄を張ってある家は三分の一もない。我が町内会は海を埋立てて作られた住宅地。大半は他地区から移り住んだ家庭ばかりとはいえ寂しい限りである。

 古来しめなわは、清浄・神聖な場所を区画するものであるが、各家庭で注連縄を張り巡らすのは、家の中に悪霊を入れず、けがれを去り無病息災・家内安全を願ってのことと言われている。

 なにもかも合理的な考えの現在、単なる迷信・根拠の無いことと注連縄を張る家も年々少なくなっている。注連縄の深い意味もわからず、単なる飾り物としか思われていないのであろう。

e0125014_1041369.jpg 毎年、秋祭りの前日には地御前の氏神様「大歳神社」より神主さんと獅子がやってくる。太鼓を叩きながらやって来るので、遠くから太鼓の音が聞こえてくると、間もなく我家に来るのが分かるので慌てて家の中を片付けて待っている。

 獅子が家に上がり座敷などで口を二三度パクパクとし、玄関先で頭をたれて神主さんより御祓いを受ける。あっという間に済んで仕舞うことだが、大半の家では獅子が来るのを迷惑がり、廻って行く家は数分の一しか無いとのことである。
 
 e0125014_11313277.jpg昔から阿品に伝わる風習もどんどん失われて行く。このようなことで、阿品に住んでいる子どもたちが自分の住んでいる地域に愛着を持ち続けて行く事が出来るであろうか、疑問に思う今日この頃である。
by hirosan_kimura | 2011-10-08 11:39 | 行事祭礼 | Comments(0)

№405 聖火阿品通過

e0125014_11265151.jpg  昭和39年(1964年)10月10日、今から47年前アジアで最初の東京オリンピックが開催された。これに先立ち各国を廻って来た聖火が、9月20日に阿品を通過した。

  この写真は聖火通過当日の鰆浜の国道の写真である。聖火が今から通過する前の写真で、交通規制され車道に車は走行していないが、国道下り車線の左端には自動車が通行止めとなり停車されている。

  道の両側には少ない阿品の人口の中、どこから現れたのかと思われるほど人々が聖火が通るのを待っている。
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 パトカーの先導する中、煙を上げて聖火が通過している。

 遠く左側には「お上がり場」の松が繁っているのが見られる。右上は山が削られ造成された山肌が見受けられる。
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 聖火が走り去っているところであるが、右側には広電の軌道と、今は見られない「火立岩」が残っている懐かしい風景である。この付近はバイパス工事のため今では風景が一変している。

 家が途切れているためか、規制がされていたのか分からないが道の両側には聖火の見物客がほとんど見られない。今では国道の両端まで舗装されているが、この頃は自動車の通る部分のみ舗装され、それ以外は砂利のままであった。
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 聖火が通過した後で交通止めされていた自動車が一斉に走り始め、人々が帰り始めている。偶然見つけた写真であるが、聖火の通過する風景も珍しいが、周囲の風景も懐かしいものがたくさん写っている。
by hirosan_kimura | 2011-10-06 12:56 | 体育 | Comments(0)