素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 現在、広電市内線で宇品に行くのは広島駅・的場・比治山下・皆実町を経由するのが最短である。上図の青い線である。

 しかし終戦前年の7月までは、宇品に行くには広島駅・的場・八丁堀・紙屋町・鷹の橋・御幸橋経由で宇品に行っていた。上図の赤い線である。

 当時は戦争の真最中、軍事上の問題があったのかも分からないが、広島駅から宇品港までの所要時間の短縮と効率化のため、宇品への最短距離の軌道が計画された。当時はあらゆる物が物資不足で、必要なレールは宮島線のレールを利用されることとなった。

 昭和19年の7月21日に、宮島線廿日市~宮島間の下り線レールが撤去され上り線のみの単線運行となった。このレールを利用し的場~皆実間に新しい軌道が完成したのは、その年の12月27であったが、軌道の無い所に5ヶ月と言う短期間で工事を完成させたとは、今から考えても驚くべき速さである。

 この軌道の完成により、広島駅宇品間の軌道は約2.4kmくらい短縮されている。ノロノロ運転の市内電車でみると、例え2.4kmでも大きな時間の短縮であろう。

 阿品付近で単線運行になったのは自分の生まれる少し前。複線に復帰したのが小学校にも上がっていない昭和25年7月24日である。単線であった記憶は余り無いが、複線の工事がされているのはかすかな記憶がある。

 小さな頃なのではっきりした記憶ではないが、複線工事のため線路にトロッコが置いてあった。休日のためか分からないが工事をする人が居ない時、何人かの子どもがトロッコに乗り一人か二人の子どもが長くはない距離を行ったり来たりして遊んだのである。

 人目に付くと怒られるので、民家の無い火立岩付近から沖山付近で遊ぶのである。今の子どもたちは同年代で遊ぶことが多いいが、当時は年の離れた子供同士で良く遊んでいた。それでも余り小さな子どもは邪魔になるので遊びに入れて貰えないこともあったが、邪魔にされながらも年上の子どもに付きまとって遊んだものである。

 トロッコで遊んで居る時も上り線では往復の電車が走っていた。遠くに電車が来るのが分かると走って逃げて隠れていたが、今と違って運行本数が少ないとは言えすぐ傍を電車が走る中で危険な遊びをしたものである。

 時には運行中の電車の運転手に見つかり叱られて走って逃げるが、電車が見えなくなると性懲りも無くまたトロッコのある所に戻って遊んだような記憶もかすかにある。

 それにしてものんびりした時代であったものである。今から60数年前のことである。
by hirosan_kimura | 2011-09-24 17:28 | 広電 | Comments(0)

№403 敬老会

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 敬老の日を迎え各地区で敬老会が催されている。阿品地域でも阿品地区と阿品台地区の二ヶ所で行われる。

 廿日市市では平成10年までは、11地区のコミュニティ組織に市が補助金を出す方式でそれぞれの地域で敬老会が開催されていた。

 ところが高齢者の数は年々増加し続け、各地区の公民館では会場が狭く開催が困難となる地区も大半であった。小学校の体育館で開催するにしても、高齢者が行きにくかったり、会場に机などを公民館などから運搬するのが大変であった。

 9月とは言え暑い日であれば、冷房設備の無い体育館での開催は高齢者に不評な地区も大半であった。地域のお世話をする人はたまりかねて、地区での開催は不可能なので市が責任をもって開催して欲しいとの要望が出された。

 市でも何とかしなければならないと言うことで、平成11年から市のスポーツセンター「サンチェリー」で一括開催することとなった。ステージの設置・椅子などの設備を業者に委託し、何十台のバスを借り上げ参加者を会場まで送迎するなど大掛かりなものとなったが、高齢者には不評で、ステージでの催しが後ろの方の席でははるか遠くで何をしているのか見えにくい。

 送迎のバスも何十台の中で帰る方向を間違えられ、参加者が家に帰ってこられないので大騒ぎになった例ももある。こうして一括開催は3年で止めることとなり、すったもんだの挙句現在では地域開催にもどっているが、増加し続ける参加者の対応で各地区とも苦慮しておられるようである。

 阿品地域では二地区での開催で対象者も何百人にもなっているが、昭和28年の地御前村の敬老会では、鰆浜地区が対象者が5人、阿品では14人と併せても僅か19名であった。

 この中には明治3年生まれの父の姉や、明治14年生まれの母方の祖父の名前も見える。

 この年の敬老会は、地御前小学校旧講堂及公民館となっている。11時開会 11時10分婦人会・青年連盟・保育所児童の演芸 12時食事 13時人形芝居観覧となっていた。

 敬老会の費用は、米2斗3,400円・もち米7升1,260円・あづき3升750円・かまぼこ150枚2,400円・巻昆布60枚1,500円・菓子300ヶ8,700円・その他 へぎ箱 箸 のし紙 薪5束 謝礼 その他 1,973円で村役場負担分合計19,923円となっている。

 わざわざ村役場負担分となっているので、これ以外に婦人会・青年連盟・その他の負担分もあったのかも分からない。お昼の弁当は婦人会が調理したものと思われる。

 敬老会は終戦間もない頃兵庫県の片田舎の村長が、お年よりは元気な間は働き詰めで、お年寄りが自由になる小遣いも無い、お年寄りに対する福祉制度もほとんど無い、その他楽しみの少ないお年寄りに対して暑い夏が過ぎ、米の収穫などが始まる農繁期前の9月に、お年寄りをみんなで招いてせめて一日くらいは楽しんでもらい、お年寄りに感謝しようと始めたのが各地に広がったものである。

 お年寄りに対する制度がほとんど無かった当時と違い、今では年金・医療・介護等の施策も充実している。

 これに対してお年寄りは増え続け、制度を維持するために国も自治体も財源の捻出に苦労している。当然国民の負担も増え続け、若者たちは負担に耐えかねて将来に希望を不安視するものも少なくない。

 敬老会のあり方も、そろそろ見直す時期に来たのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2011-09-18 13:13 | 行事祭礼 | Comments(0)

№402 はと

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 西広島バイパスの工事で海岸が埋立てられるまで、鰆浜の火立岩のそばに「はと」と呼んでいた堤防があった。

 子どもの頃は「はと」とは意味も分からず呼んでいたが、「波止」で堤防の一種であると後に分かった。

 「はと」のすぐ北側は「火立岩」があり、砂浜が広がっていた。南側は土の黒い浜で、ここでは「おおがい」と呼んでいた貝や、「みる貝」が子どもの手でも面白いほど採れていた。

 「みる貝」は握りずしのネタになる高級な貝らしいが、たくさん掘って帰っても家では余り喜ばれなかった。阿品では貝と言えば「あさり」でそれ以外の貝は、低級な貝と思われていたような気がする。

 子どもの頃は、「はと」は子どもたちの良い遊び場で、堤防の上で遊んだり魚を釣ったり、傍の「火立岩」に登ったり日の暮れるのも忘れて遊んだ記憶がある。

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 「はと」と呼んでいた堤防は何時の頃に造られたのかは分からないが、古い資料では阿品から厳島に出航する連絡船の桟橋が見られる。

 この航路は昭和6年2月に廃止されたが、廃止前に「はと」が造られたのか廃止後に桟橋が残されている時期に造られたのか良く分からない。

 自分が子どもの頃には勿論この桟橋は残っていなかったが、沖合いに桟橋の一部と思われるコンクリート建造物の一部が海の沖合いに残っていた。

 上の写真では分かりずらいが、「はと」の先端近くの向こう側の海中に見えるのが、厳島航路の桟橋の残骸の一部である。

 「はと」の大きさは良く分からないが、石積みで長さは50m近くあり先端部は一部南側に折れ曲がっていた。堤防の上部の幅は2mくらいで、底部は広くなっており断面は台形となっていた。

 高さも良く分からないが、子どもの目でみると随分高く海に飛び込むのが恐ろしかったような記憶がある。

 いずれにしても、鰆浜の海岸の火立岩も「はと」も無くなり無粋なコンクリートの堤防になってしまっている。
by hirosan_kimura | 2011-09-13 14:19 | 鰆浜 | Comments(0)

№401 タオルの支給

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 昭和24年今から62年前、終戦間もない頃、各世帯の人数に応じて放出タオル・綿布が支給された。

 この品は戦時中の軍の隠匿物資かアメリカ軍が放出した物かは良く分からない。

 今ではタオルは粗品や景品で貰うことが多く、家にもたくさん溜まっており購入する必要が無いほどであるが、終戦間もない当時としては貴重品であったのであろう。

 支給に当たっては各部落の世話役の人が、全世帯で一軒一軒を聞き取りをしその数に応じて支給がされている。

 支給されたのは、タオル・湯上りタオル・綿布とあるが綿布は、綿布補助券・綿布予約券とある。綿布は一時に必要数が配布出来ず、不足分は予約券で後ほど支給されたのかも分からない。

 配布の状況を見ると鰆浜部落では、43世帯194名に対してタオル10枚・湯上りタオル32枚・綿布106枚・綿布予約券46枚とある。

 阿品部落は、61世帯296名に対して、タオル16枚・湯上りタオル24枚・綿布153枚・綿布予約券66枚とある。

 阿品全体では、103世帯490名に対して、タオル26枚・湯上りタオル56枚・綿布259枚・綿布予約券112枚が支給されている。

 ちなみに我家では両親と子ども4人の6人家族で、湯上りタオル2枚・綿布4枚の支給となっている。

 たった一枚のタオルの支給のため、部落の世話役の人や村役場の担当者は多くの労力を費やしたのであろう。

 支給された物がどんな品質の物であったのかは分からないが、つい数十年前にタオル一枚が貴重品であった時代もあったのである。
by hirosan_kimura | 2011-09-06 09:37 | 衣食住 | Comments(0)