素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№396 海岸線の痕跡

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 阿品は山陽鉄道・国道・広電・団地の造成・西広島バイパス工事等により、海岸が埋立てられ古い海岸線はすべて消滅している。

 それでも良く観察してみると、昔の海岸線らしき場所を僅かに窺うことができる。
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 ①の場所は古い時代から砂浜があったが、国道・広電の新設により埋立てられた。鼓ケ浜の住宅地が埋立てられるまでは、山が海まで突き出しその西裾に砂浜が残っていた。今から40年少し前のことである。
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 その砂浜も僅かではあるが面影がのこっている。廿日市高校の艇庫がある前あたりである。

 潮が満ちると艇庫のすぐ前まで海水が来る。それにしてもこの土地は登記簿ではどこまでが海で、どこから陸になるのか境界がどうなっているのであろうか。
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 この絵図は②の場所で、かつては田尻山の一つの峰が海までのびていた。峰の途中が削られ鉄道・国道・広電の新設により分断されていた。

 ほんの40年前までは、先端に残された山が岬のように残され周囲の風景に風情を残していた。この岬も団地造成のため削り取られ跡形も無くなってしまった。
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 この写真を見ただけでは何か分からないであろうが、堤防と民家の間の溝の下に岬の先端の下部部分の痕跡が僅かに残されている。

 事実かどうか分からないが阿品の言い伝えでは、厳島合戦の際、この岬から厳島まで縄を渡し、その縄を手繰って毛利軍が軍船を厳島まで行ったと言うことである。

 岬の先端には縄を結びつけたと伝えられる「鼻繰り岩」も残っていた。この合戦で勝利したので「運勝の鼻」などとも呼ばれていた。
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 現在「お上がり場」のある場所は、阿品の峰の先端の一つ「監視山」が海に突き出していた。③の部分である。

 その突端に「亀岩」と言われる小岩が海に浮かんでいたが、国道・広電の新設により山の先端部が削られ、「お上がり場」が造成されかつての名残も無い。
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 お上がり場の岸壁の下に、小岩の痕跡の一部らしきものを見ることが出来る。
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 正確に言うと阿品ではないが、かつて広電宮島線の終点で、宮島に渡る連絡船桟橋ががあつた地御前寄りに「沖島」と言われる島があった。④の場所。

 いつの時代か分からないが埋立てられ陸続きになっていたが、国道や広電新設のため陸地側が削られ島の形は大きく変わってしまった。

 それでも島の大半が残され、青々とした木々が茂っていた。子どもの頃は学校の帰りなどにこの島の山に登り「山ぶどう」「あけび」などを採って食べた記憶も残っている。

 昭和38年にこの山も削られてしまい、銀行の保養所・ドライブインなどに変わり、地御前川の海は牡蠣の作業所を新設するため埋立てられた。
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 堤防の下にかつての山の先端下部であった岩の痕跡が僅かに残されているのみである。
by hirosan_kimura | 2011-07-13 09:32 | 地形 | Comments(0)

№395 修学旅行

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 今回は直接「阿品」とは関係ないが、小学校の修学旅行のことを載せてみた。今から55年前の昭和31年のことである。

 当時は敗戦から10年経過したばかり、今と違って家族で泊りがけで旅行に行くことなどまず考えられず、隣部落の母の実家に泊まった記憶があるくらいである。

 今の子ども達も修学旅行を楽しみにしているが、当事は今の子が楽しみにしているのと違った意味での大イベントであった。

 二泊三日の別府・阿蘇・熊本巡りといっても、旅館に泊まったのは一泊のみ。帰りは夜行の車中泊。椅子も背中を直立にして座り通しであった。

 5月8日 7時30分に小学校に集合し、地御前駅から電車で宮島口駅に行き9時4分発。7時間36分汽車に乗り、4時40分に別府駅に到着し地獄巡り後、旅館に行き宿泊。

 翌日は別府を6時40分発車の汽車に乗り、4時間かかって阿蘇坊中駅着。阿蘇山登山後1時46分発車し、一時間半乗車し3時14分熊本着。

 熊本では熊本城・水前寺公園を見学し、夕方5時20分熊本駅発、11時間21分乗車し5月10日早朝4時41分に宮島口駅到着。

 締めて22時間25分汽車に乗ったことになるが、見学できた時間は僅かな時間であった。

 修学旅行のしおりを見ると今と随分異なっているように思う。

 修学旅行の目的は、「自然美に優れた自国に対する国民的誇りを高め、祖国愛・郷土愛の精神をたかめる」とある。

 行きの車内の弁当は、おむすびの主食と、いたみにくい副食とある。

 間食は、学校で配布するので家から持って行かない。

 米四回分6合持って行く。今時、旅行するとき米持参でないと食事が出来ないとは理解できないであろうが、当時はこれが普通であった。それにしても子どもが四回の食事で米6合必要とは多いような気もする。

 小遣いは300円まで。

 服装は、よく洗濯したほころびのないもの。特に下着は清潔なもの。

 ねま着・下着の着がえは不用。

 入浴の時、ぬいだものは風呂敷に包む。

 汽車の中で寝なさいと言われたら、目をつむりましょう。

 なにもかも恵まれた子ども達が当事の修学旅行の様子をしると、どんな思いがするのであろうか。

 修学旅行にいって半世紀以上経過したが、何もかも珍しく坊主地獄や血の池地獄にびっくりし、阿蘇の雄大さ、熊本城・水前寺公園の美しさ、夜旅館でさわいで先生に大目玉をもらったことなど、懐かしく思い出す今日この頃である。

 参加した児童は、男子44名 女子14名 計58名であった。

 引率は、阿部校長先生、阿品の開業医で校医の吉田繁満先生、担任の菱田・山崎先生、中・低学年で担当であった高橋・池田・津島先生の7名であった。

 泊まった旅館は別府市の「海楽荘」、木造二階建てであまり大きな旅館でなかったような記憶がある。今でも営業されているのであろうか。もし存続しているのなら、機会があれば一度泊まりに行ってみたいものである。 
by hirosan_kimura | 2011-07-07 12:08 | 幼小中 | Comments(0)

№394 不思議な記号

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 以前から気になっていたが、堤防の海側に不思議な記号が描かれている。

 三丁目の堤防の西側、競艇場がある方側である。

 何か意味があるのか、単なるいたずらか分からない。楔型を組み合わせたようなものが五つ描かれている。

 一つの記号はかなり大きなもので、潮の引いたときに梯子でも掛けないと書くことは出来ない。

 それとも潮のある時に船から描いたのかも分からない。何か意味があるのか、単なる落書きなのであろうか。

 子ども達の話によると、誰も気づかない時にUFOが飛んできて宇宙人が書いたメッセージだそうである。

 いずれにしてもこれだけのものを書くのは大変なことである。誰が描いたのかは分からないがご苦労なことである。
by hirosan_kimura | 2011-07-01 07:09 | その他 | Comments(0)