素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 県の造成した廿日市ニュータウン「阿品台」は、昭和49年7月より造成が始まった計画戸数3,500戸・計画人口12,600人の大型団地である。

 昭和53年8月より入居が開始されたが、山地を造成されたため平地より低い所で20数㍍の標高がありなだらかな傾斜となっている。

 更に「阿品台北」は一段と高くなっており、標高60数㍍以上あると思われる。この地に行くためには急勾配の車道を行く必要がある。

 息子が小学生の頃「阿品台北」の友達の家に遊びに行く際、「行くのが遠く大変だろう」と言うと「Z坂(ゼットザカ)を行けば近い」と言っていたが「Z坂」の意味が良く分からなかった。

 良く聞いてみると大人はあまり通らなかったが、急勾配の法面に幅の狭い歩行道があり勾配がきついため直線の道が付けられず、途中で二回の折り返しがありその形が上からみると「Z」の字に見える所から、子ども達が「Z坂」と呼んでいたが、いつの間にかこの呼称が地域では正式名称ののようになっている。

 「阿品台北」は二期に渡って家屋が建てられたが、子ども達は最初に家が建てられた地域を「古北(ふるきた)」、後に建てられた地域を「新北(しんきた)」と呼んでいた。これもいつの間にか大人たちのあいだでもごく通常の地名のように呼ばれている。

 この地名も最近では差別のようであるので、余り使わないようにしようと言うことらしい。「古北」は聞きようによっては「古狸(ふるだぬき)」のようで、「新北」は新参者のように受け止められるとのことらしい。子ども達が何気なく使い出し、地域にも根付いた地名も様々な見方・考え方がされるものである。

 「阿品台北」の街区番号は1~50番まであり大半が高台にあるが、この内1番のみは坂の下にある。この街区は「北一(きたいち)」と呼称している。同じ「阿品台北」の中でも色々な呼称があるものである。
by hirosan_kimura | 2011-03-16 10:41 | 地形 | Comments(0)

№382 阿品の家

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 昔の阿品の農家は藁屋根に土の壁作りがほとんどであった。今では建替えられ昔の農家は阿品で見ることは出来ないが、昭和40年代の初めごろには最後の藁屋根の農家が残っていたような記憶がある。

 阿品の農家と言っても特別なものでなく、近隣の農家の建物はほとんど同じような造りであった。屋根は藁葺・壁は土で出来ており、間取りの似たようなもので「田」の字の形に部屋が配置され、玄関・炊事場は土間で通利抜け出来るようになっていた。

 昔の農家では農作業を行うのに今のように耕運機などはないので、農家は牛を飼い田んぼを耕していた。上図の配置は少し異なっているが、母屋が左側に牛小屋や納屋は右側に配置されていた。

 母屋と牛小屋は続いて建てられている場合もあり、離れていてもすぐ隣接して建てられていた。近隣の地域を見ても、決まったように正面から見て母屋が左側・牛小屋等は右側に建てられているが、何か理由があるのであろうか。

 母屋の前には大抵の家に広い庭があったが、そこは収穫物を脱穀したり筵の上に広げて乾燥したりする場所となっていた。

 「田」の字の形に配置された家は障子や襖で仕切られており、暑い夏になればそれらを外せば涼しい風が家中を吹き抜けるが、昔の家はプライバシーもないような有様であった。

 便所と風呂は母屋と離れており、寒い冬でも一旦外に出て行く必要があったが、夜に便所に行く時は子供心に恐ろしかった記憶がある。

 風呂の水は井戸から汲み上げ運び薪でたいたり、炊事も薪で煮炊きする必要があり、洗濯機や電気釜などの文明の利器もなく、昔の主婦はさぞ大変だったろう。
by hirosan_kimura | 2011-03-07 13:16 | 衣食住 | Comments(0)
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青線~近世西国街道 緑線~過渡的国道 下黒線~現在の国道二号線

 廣島県下宮島沿線井口・宮島間の観光道路中、新宮島・五日市間延長三千三百メートルは工費四十万円を以て昭和六年度内務省直営にて完成し、五日市・井口延長一千二百メートルは工費二十万円を以て完成したのであるが、同道路工事は井口にて中止されているため廣島市への交通が遮断され、非常な不便を感ぜしめていたところ、今回九年度事業として縣が工費十万円余を支出して、残りの最難工事箇所とされていた、井口・草津間約一千メートルの護岸工事によってこの観光道路の完成を遂げることゝなった。

 この道路は幅員十六メートル、舗装六メートルであるが、かゝる幅員を現在の宮島電車に沿って工作するか、地元組合の諒解を得て同海岸に埋立地を作り沖合を一直線に貫通するか未定であるが、近く決定の上、四月早々廿日市土木出張所で着工の予定である。
by hirosan_kimura | 2011-03-06 10:12 | 国道 | Comments(0)
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宮島対岸観光道路の第二期延長工事とも称すべき、井口ー五日市間二千二百米宊の国道改築工事が、二十三万六千円で内務省が直営施工することゝなった。

 同工事は昭和七年度新規事業として行われることになって居るも、実は前年改築した観光道路の継続事業と見て差支なかるべく、幅員も同様十一米宊で、今回の工事区間には八幡川の橋梁架設の外に軌道との交差箇所は全く除かれるので工事は頗る容易であるから、前年度中に僅かに取残されて居る、宮内阿品間のビチュマルス舗装も併せ完成せしむるとの事である。
by hirosan_kimura | 2011-03-04 10:36 | 国道 | Comments(0)
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内務省直営で五日市新宮島間に築設の観光道路開通式は、沿道関係八ケ町村聯合の開通祝賀協賛会主催のもとに(昭和七年)四月九日午前十一時から廿日市町旧校地広場で盛大に挙行。

 この日絶好の花日和に恵まれ、地元廿日市全町では朝来天空高く炸裂する祝賀ビラや軒提灯、花のシャンデリヤを街上高く吊るすなど、賑々しく非常な盛況振りであった。

 来賓知事代理児玉内務部長、板本工学博士其他三百名、定刻厳島神社の菊池宮司、速谷神社の山田宮司、闇係各町村の社掌総動員で型の如く式は終始し、近藤主任技師の工事報告に次で祝辞、祝電披露等ありて高橋掛長の采配により愈々通り初めに移る頃、群集数万を算して雑踏甚しき中を二十余輌の自動車は列を連ねて進む。

 沿道到る所万歳聲裡に華やかなる通利初め式も終り、次で宮島終点に於て大祝宴は開かれ舞踏場では廿日市券番芸妓総出演の舞踊ダンス手踊り等数十番あり。

 赤字に白く「祝開通」と染め抜いた小旗十万本は行き交う人々の手に手に翻り、各所の演芸場付近は身動きもならぬ盛況であった。
by hirosan_kimura | 2011-03-03 10:03 | 国道 | Comments(0)
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 内務省の失業救済事業の目的に副ふべく廣島県が、明六年度に於て四十万円の工費着手する廣島宮島間の観光道路は、愈々来る四月一日(昭和六年)から取掛ることとなり、上野土木課長は縣市各職業紹介所と打合せて既に具体的の計画成り、縣下の失業者・若し不足する時は阪神両市の職業紹介所からも雇入るゝ予定の由で、延人員十三万人に達する見込であるといふ。


厳島観光道路愈着手
 廣島県佐伯郡五日市町地御前間の、宮島観光道路改修工事に伴ふ失業者救済打合せの為め、沿道七箇町村長及び縣市両社会課長、大阪地方職業紹介所長等協議中なりしが、同工事に供給する人夫は沿道六箇町村、及び右工事に通勤し得る範囲の市町村内の失業者を採用するに決し、五月十五日を以て各地共失業者登録を開始し、五月二十五日愈工事着手の予定。


宮島観光道路竣工
 内務省が失業救済の目的で四十万円を投じ昨年五月着手した、宮島沿線観光道路五日市新宮島間の第一期工事は愈々竣工した。

 それで沿道関係九ケ町村長は廿日市町役場に集合打合せの結果、祝賀式費を分担支出することに決議し本月上旬の吉辰を卜し(註昭和7年4月)、廿日市海岸埋立地で盛大に開通祝賀式を行ふことになった。


改良箇所 自佐伯郡五日市町 至同郡地御前村
幅員   10.0m(他の資料では11㍍とある)
延長   6,577m
面積   65,610㎡


総工事費 421,140円
 内 工 費 220,729円(52.4%)
   用地費 114,359円(27.2%)
   補償費  32,098円( 7.6%)
   機械費  18,477円( 4.4%)
   雑 費   35,477円( 8.4%)


労働者使用人員(昭和6年度)
 紹介所等によるもの  90,535人
 そ   の   他    40,463人
     計        130,998人

 労   力   費   155,671円
by hirosan_kimura | 2011-03-01 16:17 | 国道 | Comments(0)