素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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文政2年(1819年)
 「国郡志御用下調書出帳」に、本郷(地御前)は5個の字からなり、高付面積が48町で氏神が大歳神社。飛郷(阿品)は4個の小字(阿品・鰆浜・上田尻・下田尻)からなり、高付面積が12町で氏神が岩神と有る。

文政3年(1820年)11月14日
 広島城下東柳町の高屋福蔵らが、阿品沖で遭難した厳島渡海船を救助する。

文政12年(1829年)9月吉日
 岩神神社の石碑に表示あり。「表側 岩神大権現」 「左側 文政十二年」 「右側 九月吉日」

嘉永2年(1849年)7月
 7月10日から12日まで阿品地域で大雨が続く。暴風雨・洪水・高潮で被害が出る。

嘉永3年(1850年)
 海岸より沖の方へ浅瀬を測量。「沖山の西の鼻 長さ十五間」 「阿品の久保 長さ一二三間」 「あみだ坊の鼻 長さ七六間」 「田尻の大野境 三七間」

文久元年(1861年)
 この頃、地御前で牡蠣の養殖が始まったと言われている。

文久元年(1861年)8月4日
 台風・高潮のため、阿品新開が決壊する。

慶応2年(1866年)8月9日
 長州軍に破れた大野村の征長軍が広島に撤退することとなり、徒歩で撤退する者は本道を恐れ阿品附近の間道を通り、その列は地御前まで続くほどの多人数であった。

慶応3年(1867年)9月2日
 暴風雨・高潮で阿品新開土手、長さ163間決壊破損する。

明治4年(1868年)4月
 農務方より村の庄屋・組頭に、阿品の氏神岩木(岩神)社は地御前の氏神「大歳社」に併合せよとの指示が出される。住民の粘り強い存続運動ににより、一時併合の危機にあった「岩神社」の存続が認められる。

明治5年(1872年)
 明治新政府は諸施策の財源とするため、不用官有地を売却する。
沖山 御建山 六反歩三円 松310本20円
岩神社山 境内他 一反二畝三歩四円 松林樫等215本

明治5年(1872年)4月
 県内が、17の大区 150の小区に編成され、地御前村は第4大区(佐伯郡)、第5小区(地御前・大野・口谷尻・玖波・松ケ原・谷和)とされる。
by hirosan_kimura | 2009-11-30 05:13 | 歴史 | Comments(0)
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承安4年(1174年)3月19日
 後白河法皇が伊都岐島(厳島)に参詣された際、鰆浜附近より四方の風景をご観賞された。この場所を「聖覧場(ショウランバ)」と称したのが、鰆浜の旧称相覧場(ソウランバ)」の語源となった。

文治元年(1185年)
 この頃、阿品・鰆浜の開発が行われたらしい。

応安4年(1371年)9月
 今川貞世(号 了俊)が九州探題として着任する途次、地御前神社西干潟より山路に入り、阿品を経て大野中山峠を越える。

天文24年(1555年)8月23日
 陶晴賢が8月21日に厳島に進駐後、毛利元就が火立岩附近を巡視する。

天文24年(1555年)8月28日
 毛利軍が火立岩附近に集結し、各隊は凹地に隠れ灰床山(鵯山)を指揮所とする。

天文24年(1555年)9月30日
 毛利元就が火立岩に陣し酉の刻、兵三千を率いて厳島に渡海する。


天正8年(1580年)7月吉日
 厳島野坂文書の「木村重信譲状」に「あしなに四百五段新給候、永荒候をひらかせ候、元就様隆元様てうたい申候」とあり、女子「おかう」へ譲られている。

元和5年(1619年)7月13日
 「厳島社社家供僧内侍三方給地等仕立」文書に「地御前村45石余、阿字名村9石1斗」とあり、阿品は当時独立した村であった。ただし今で言う村の形態とは異なったものであったらしい。

寛永15年(1638年)
 阿品で地詰の丈量が行われる。鰆浜 田379畝 畑1畝  阿品 田697畝 畑68畝  阿品汐入新開 田80畝 畑0畝  田尻 田23畝 畑0畝とある。

万治元年(1658年)
 沖山(竪一町横三十間)が御建山(保安林)に指定される。

元禄4年(1691年)
地御前浦並より
 戸口は本百姓八三軒、うち阿品に三軒とある。

文化2年(1805年)3月28日
 伊能忠敬測量隊が阿品を測量。この日は大野丸石峠から、地御前神社までの測量を行う。

文化4年(1807年)
 頼山陽が鰆浜の灰床山、別名鵯山から宮島方面を遠望し作詞する。
 閉門修史出門遊 逐次吟朗上画接 落日蒼茫千古事 
毛陶戦處来是前洲

文化4年(1807年)1月
 阿品古地囲堤、東は松ケ久保より西は阿品川迄、長一六三間、植置六間、高一間半、馬踏一間半を取繕ひ普請す。

文化12年(1815年)7月
 暴風雨にて、阿品新開土手決壊。潮入りとなる。

文化13年(1916年)
 夏に阿品新開囲い土手、大損す。
by hirosan_kimura | 2009-11-29 04:53 | 歴史 | Comments(0)

№251 火立岩 4

e0125014_16132828.jpg昭和30年代
火立岩の海側
 
海側は火立岩の岩盤が海底まで残っていた。

 鰆浜の子ども達は、夏になるとこのあたりで良く水遊びをしていた。海側から岩の上によじ登れると得意になっていた。

 干潮になると、狭くはあったが岩の周辺に白い砂浜が出現していた。




e0125014_16135667.jpg昭和30年代
海側の堤防より

 火立岩の側に海に突き出た堤防があった。

 子ども達は、この堤防の上から海に飛び込んだり、魚釣りをして遊んだ。



e0125014_16141811.jpg昭和40年代
米田の山より遠望

 国道は、道路の中央のみアスファルトで舗装されている。

 両側は砂利のままで歩道となって居た。

e0125014_16145055.jpg昭和40年代
広電電車線路側

 電車の架線に接触するのではないかと思われるほど、松の枝が繁っていた。





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昭和40年代後半
火立岩消滅

 西広島バイパス用地確保のため、鰆浜の海岸が埋立てられた。

 その際、支障のあった火立岩は撤去された。

 この写真ではまだ電車線路は沖側に移設されず、旧道路のすぐ側を走っている。

 海岸沿いに電車架線の電柱のみが立てられている。

 この後、電車線路を沖側に新設し、電車開通後に道路工事に着手した。


e0125014_1634286.jpg現在
火立岩の標柱

 今では無粋な標柱のみが、かつての火立岩のあった場所を示しているのみである。

 正確には火立岩のあったのは、この標柱よりもう少し陸に寄った場所である。
by hirosan_kimura | 2009-11-28 07:10 | 名勝・旧跡 | Comments(0)

№250 火立岩 3

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 火立岩はかつて阿品の海岸にあった小さな小島である。小さな島とは言え、阿品のシンボル的存在であった。

 このため阿品の海岸の図絵等にも必ず描かれていた。

 この図絵は何時の時代の物かは分からないが、文政7年(1824年) 今から185年くらい前の物ではないかと推定される。

e0125014_15144484.jpg これは地御前村図絵の一部で、文政10年(1827年)以降に描かれたものらしい。













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 今から180年くらい前の図絵の一部。


e0125014_15515224.jpg この図絵も何時の時代の物かは分からないが、火立岩の側に海岸沿いの道らしきものが描かれている。













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 阿品に旧国道が整備されたのが明治12年である。

 海岸沿いに道路があるので、今から約130年くらい前の鰆浜海岸である。
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 鰆浜から厳島に航路が開設されたのが大正14年。今から約84年くらい前である。

 小さな写真の一部を拡大したので鮮明でない。

 右側が宮島航路の連絡船。左端が火立岩である。

 火立岩の向こう側には、広電宮島線の終点「新宮島駅」があった。昭和40年代頃までは、桟橋の一部と思われる、コンクリートの構造物の一部が海中に残されていたが、今では見ることは出来ない。
by hirosan_kimura | 2009-11-27 06:01 | 名勝・旧跡 | Comments(0)
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性格2

しわい・せこい
けち・しみったれ  あんなー なかなか しわいやつでー

しゃきしゃき
しっかりしている  隣の おごーさんは しゃきしゃきもんじゃ

しょーね
こんじょう  あいつあー なんぼー言うても しょーねが いらんのー

すどい
きつい性格  隣の 嫁さんは すどい人じゃのー

ずいたれ
口がいやしい  この ずいたれもんが つまみ食い しゃーがって

ずるける
怠ける  学校を ずるけるんじゃー ないで

そとすぼり
内気  家ん中じゃー 大将じゃが そとすぼりじゃのー

ちゃりー
ずる賢い  あんなー ちゃりーけー 気つけるんよー

てにあわん
箸にも棒にもかからん  隣の悪がきゃー てにあわん やつじゃー

ないとー
なまけ者  ないとーすると 後で 苦労するんでー

のふーどー
厚かましい  あんなー のふーどーな 奴じゃのー

はしかいー
こすい  あんなー はしかいー 奴じゃのー

ばばしー
こすい  あんとうな ばばしー 奴は 見たこともない

ほいとんぼー
食べ物に意地汚い  よそで ほいとんばーを せんのでー

ぼっこ
気が短い  なにゅー 言われても ぼっこを おこさんのでー
by hirosan_kimura | 2009-11-26 05:00 | 方言 | Comments(0)

№248 白砂青松

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 何時の時代に描かれたものか分からないが、鼓ケ浜の海岸の絵図がある。

 着色すれば趣も変わると思い色々工夫してみたが、絵を描くのは苦手な素人のため上手く行かない。

 そこで近所に住んでおられる絵の先生にお願いしてみた。専門家だけあって素晴らしいものに出来上がった。

 かつては美しい白砂青松の海岸であったが、地形は大きく変わり今では面影も無い。

 右側の小屋のある辺りは国道や、JRの線路になっている。舟のある辺りは海が埋め立てられ住宅地となってしまった。

 中央の海岸に突き出た小山も削られ、広電宮島線の線路や住宅地となっている。

 変わっていないのは、遠くに見える山並のみである。
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 上の絵図と同じ角度から撮影したものではないが、この写真はかつて白砂青松の美しかった海岸の変貌した今の風景である。
by hirosan_kimura | 2009-11-25 08:26 | 三丁目 | Comments(0)

№247 陸橋の鎖

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 阿品陸橋は、JR・国道・広電宮島線を跨ぐ、長さ167㍍の大きな陸橋である。

 この陸橋の数箇所に、地震がきても橋脚と橋げたがずれないよう、大きな鎖で結んである。

 平成13年3月24日、午後3時28分に安芸灘を震源とした芸予地震が発生したが、今後いつ発生するかも分からない地震の対策の一つである。

 芸予地震はマグネチュード6.4で,阪神大震災とほぼ同じ規模と言われている。

 廿日市では5強の震度があったが、その後も余震が続き、翌25日までの有感地震16回、無感地震は316回にも及んだそうである。

 この地震により阿品地域でも、屋根瓦のずれや家屋の壁の亀裂等の被害があった。

 特に埋立地である阿品三丁目での被害が多く、到るところで液化現象が起き道路等に亀裂が生じたりした。

 家屋の倒壊こそなかったが、大きな被害により修理不可能で、何軒かは古くもない家屋が取り壊された。

 幸い我家では大きな被害がなく、駐車場のコンクリートに小さな亀裂が入ったくらいで済んだ。

 阿品の氏神様「岩鏡神社」でも大きな被害はなかったが、小規模ではあるが本殿横の崖・石垣の崩れ、建物下地面の亀裂、石灯籠がずれた程度ですんでいる。

 この近辺では長さ5.5㎞の五日市活断層があると言われていた。しかし平成16年の調査では、実際には広島市の安佐北区区久地から、廿日市の阿品附近までの長さ20㎞に変更されている。

 五日市断層で地震が発生すると、死者は3,400人。経済的被害は5兆2,000億円に及ぶと推測されている。
by hirosan_kimura | 2009-11-24 07:34 | 道路 | Comments(0)
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性格

あっからかん あっぱーぱー
開けっぴろげ  あの人は あっからかんな せいかくじゃのー

あまんじゃく(辞書 あまのじゃく)
何にでも逆らう  うちの子の あまんじゃくにも 困ったもんじゃー

あらましい あらめっそう
雑 粗野  あんなー 何ゅうやらしても あらましいのー

あんぽんたん
頭が抜けている  人のことを あんぽんたんじゃに 言わんのでー

いちがい
頑固  うちの爺さんの いちがいにも 困ったもんじゃー

いもをひく
逃げ腰 弱気  なにゅーさしても いついき いもをひくやつじゃのー

いやたれ
横着  えーかげん いやたれをせんで コタツから 出えーやー

いら いらっぱち
落ち着きがない  ありゃー いらじゃけー じっと よーしとらん

いんごーな
欲が深い  いんごーせずに ちーたー おごれやー

うてー
疎い(うとい)  わしゃー 世間にうてーけー 何も分りまへん

おーどー
おうへい 生意気  おまやー 若いのに おーどーな 奴じゃのー

おそれ
怖がり  おそれが 夜道を よーまー 歩いて来たことよー

おーばけんたい
遠慮がない  あんなー おーばけんたいで 横着もんじゃのー

おちゃっぴー
お転婆な女の子  おちゃっぴーせんと おとなしゅー しんさいやー
by hirosan_kimura | 2009-11-23 07:23 | 方言 | Comments(0)
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 今日も朝から国道2号線の阿品附近は大渋滞である。写真は今朝の9時30分頃写したものである。

 以前から五月の連休や、宮島の花火大会、秋の紅葉のシーズン等は渋滞していたが、宮島が世界遺産に登録されてからは、土日等は恒常的に渋滞が続いている。

 特に今の紅葉シーズンで土日が重なると、朝から夕方まで車の列が続いている。

 近辺の行楽客で渋滞を承知で観光に来た人ならいざしらず、遠方より来た観光客はこの渋滞にうんざりして、二度と宮島に来たく無くなるのではなかろうか。

e0125014_784182.jpg この渋滞が起こるのは当然で、阿品一丁目辺りで国道2号線と、西広島バイパスが交流し、片側3車線が2車線となる。

 2車線から1㎞くらいで、2車線が1車線となるので渋滞が起こるのは当然であろう。

 
 
 
 このため渋滞対策として、遅まきながら昨日より社会実験が行われた。

 昨日は、桟橋近くの駐車場に集中する車が渋滞の一因のため、誘導員を配置して周辺の駐車場に案内するものであった。

 誘導員24名が国道の交差点など18ケ所で、運転者に一帯の駐車場の地図を配布したらしい。

 市によるとこの方策により、下り線の渋滞が7.2㎞から4㎞に減少したので、誘導の効果はあったとの事である。

 しかし阿品附近では朝から晩まで渋滞が続き、国道の渋滞を避けて団地内道路まで車が入り込み、一日中混雑が続いていた。

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 数字上はともかく、遠来よりの観光客にとっては、この渋滞により宮島観光の印象が悪いのは間違いないであろう。

今日の日曜日は、近隣の学校の校庭5ケ所を臨時の駐車場とし、観光客の車をこの臨時駐車場に誘導し、そこから臨時のバスを運行し宮島口まで運ぶとのことである。
 






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 これにより、2号線の渋滞は目に見えて少なくなるのかと思ったら、相変わらず家の前の国道は車の渋滞が続いている。

 この渋滞は雨の降ったせいもあるのであろうが、夕方6時頃になってやっとスムースに車が流れるようになった。

 広電阿品駅から宮島口までは一駅である。近隣の人は車の渋滞を知っているので、駅のそばにあるスーパーの駐車場に車を止め、そこから電車に乗って宮島に行く人がたくさんある。

 夕方には阿品駅でどっと人が降り、スーパーに止めた車に乗って帰っている。

 この人達が帰りにスーパーで買物でもして帰られれば良いが、大半の人はスーパーの無料駐車場に直行しそのまま帰られる。

 スーパーにとってはいい迷惑であろうが、客商売ともなればきびしく取り締まることも出来ないらしい。

 それにしても、宮島への観光客の誘致にやっきになる前に、根本的対策が必要ではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2009-11-22 11:27 | 国道 | Comments(0)
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数量等

少し 
ちょんびっと ちーと めくそ めめくそ ちょっくり ちょこっと ちょっぴり ちょびっと たった ちょっくし

少しは
ちーたー

もう少し
もちーたー もちーと

たくさん
うんとこ えっと おいー ぎょーさん よーけー よけー よけえ

ちょうど
ちょっきし ちょっきり

大きい
おおけえ おおけな ごっつい でっかち

小さい
こまい

片方
かたっぽー かたひら

揃っていない
かたちん かたちんば

ひとつ
いっこん

四人
よったり

おおよそ
おーね えーかげん たいがい えーこら あらかた あらまし だいしょー


そけ かさ ふーたい

幾ら
なんぼー どんだけ

これだけ
こんだけ こいだけ

あれだけ
あんだけ

それだけ
そんだけ


こん

せまい
せばい
by hirosan_kimura | 2009-11-21 05:45 | 方言 | Comments(0)