素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№238 公衆電話

e0125014_10153067.jpg 阿品三丁目の陸橋の下に公衆電話BOXがある。

 平成12年まではこの公衆電話BOXの側が、広電宮島線「田尻駅」であったが、8月1日に駅が移設されたため旧ホームの一部が残されているのみである。

 それまでは電車を利用する人達がこの電話BOXを利用していたが、駅が移設され携帯電話も普及し、この電話を利用する人は殆ど無い。

 携帯電話の普及により公衆電話がどんどん撤去されている。市民が利用する公民館の電話も撤去されてしまった。

 以前には公衆電話は店先や、道路脇の電話BOX等到る所で見かけることが出来た。今では町中でも公衆電話を探すのは容易ではない。

 携帯電話を持っている人には不便ではなかろうが、お年寄り達には不便になってしまった。

 利用する人の殆どいない三丁目の電話が撤去されないのは不思議である。撤去費用より維持費の方が安くつくのであろうか。

 阿品で電話が開通したのはいつのことか不明であるが、明治44年9月に廿日市~大野間に開通しているのでこの頃ではないかと思われる。今から約98年前のことである。

 この当時に電話を引いた家は極僅かで、役所関係か特別の家のみで限られた所のみであったろう。

 子どもの頃の昭和20年代30年代になっても一般家庭には電話は無く、鰆浜でも吉田病院・藤川商店など極限られた家にしか電話は見られなかった。

 当時兄は名古屋に住んでいたが、子どもが生まれたときにはすぐ隣の吉田病院へ電話が掛かっていた。看護婦さんたちが電話が掛かるとわざわざ我家まで呼び出しに来ていた。

 父が病院に駆けつけ「男の子が産まれた」と聞いてきた。しばらくすると又呼び出しがあり「男の子でなく女の子であった」と聞いてくる。しばらくすると又呼び出しがあり「やっぱり男の子が正解であった」と電話がはいったこともあった。

 なぜこのようなことになったのか分からないが、名古屋では会社から病院とのやりとりで混乱があったのかも分からない。

 我家に電話が入ったのは随分後であったが、自宅で電話を受けたり掛けたりするのがこんなに便利なものかと思ったものである。

 今では一家に一台どころか一人一台の時代となった。一昔前のことを思うと自宅のすぐ近くの人にさえ、電話でやりとりするのを見かけると、勿体ないことだと思う方が間違いであろうか。(№86電話参照)
by hirosan_kimura | 2009-10-29 11:04 | 通信 | Comments(0)

№237 地御前神社 

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 このブログは阿品限定のため、内容も限られるため話題が少なくなるばかりである。今回は阿品を外れて地御前神社を記事にしてみた。

 地御前神社は厳島神社の外宮であるが、仁安三年(1168年)今から約840年前に建物が建てられた。現在の建物は宝暦十年(1760年)今から約250年前に再建されたものである。

 厳島は神の島と言われ、神職と言えども宮島に人の住むことが許されなかった。厳島へは毎日神官が舟で渡り神事を行っていた。

 このため嵐等で厳島へ渡れない時は、地御前神社で神事を行っていた。今では地御前神社は寂れてお参りする人も僅かであるが、当時は神社の敷地も広く、たくさんの建物があったと伝えられている。

 その後、厳島に神官の人が住むことが許され、地御前神社は寂れていった。

 上の図は古い時代の地御前神社周辺の絵図であるが、今では大きく変容している。神社は浜辺に建てられ、満潮時には神社のすぐ側まで波が寄せていた。

 今でも見ることが出来るが、神社右側の柱が中ほどで切断され上部が無いのは、神社側まで舟が着くことが出来、その舟を繋ぐために柱が中ほどで切断されているのだそうである。

神社の裏側は敷地が削られ、国鉄の線路が敷設された。前側には広電宮島線と国道が開通し、風景は一変している。

 神社前の海の中に鳥居が建てられているが、今では国道となっている。神社の右側に大きな松があったが、この辺りは小学校の通学路でもあった。学校の帰り道にこの松に登って遊んだ記憶がある。

 神社左側の川の側にも大きな松が見える。田屋の住川さんの家の側にあったのを記憶しているが、今では二本とも見ることは出来ない。

 神社裏側の山は桃山と言われ、たくさん桃の木が植えてあったが、今ではこの山も削られ住宅団地となってしまった。

 川の左奥の谷が田屋の水田であるが、国鉄が通り、西広島バイパスが開通し、住宅が建てられ昔の面影は全く無くなってしまった。

 阿品は左側山の裏側辺りでこの図では隠れているが、左端海の中に一本の松が描かれた小島が「火立岩」である。

 その右の帆掛け舟が二艘見える上側が「沖山」である。学校の帰りに道草で良く遊んでいた「沖山」も削られてしまい、昔の面影は全く残っていない。

 神社周辺の風景は大きく変わったが、変わっていないのは絵図の上部に描かれている、遠くに見える山々のみとなってしまった。
by hirosan_kimura | 2009-10-28 09:51 | 神社 | Comments(0)

№236 阿品公園

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 阿品台ニュータウンのほぼ中央に「阿品公園」がある。この公園は団地の入居が始まった二年後の、昭和55年8月1日に完成した。面積は75,166㎡でかなり大きな公園である。
e0125014_10251845.jpg公園の入口正面にはかなり大きな記念樹が植栽され、公園のシンボルとなっている。











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 公園には約30台くらいの駐車場が整備されている。休日等で野球の試合等が行われる際には、駐車場は狭すぎるが平日であれば自由に駐車できる。

 この公園には幼児が遊べる遊具・芝生広場もあり、小さな子どもを連れた人が良く遊びに来ている。

 この他に野球場・テニスコートも整備されている。野球場は左翼90㍍、中堅89㍍、右翼84㍍だそうであるが、野球に詳しくないので十分な広さなのか良く分からない。

 昭和57年9月16日に、この野球場にナイター設備が整備去れた。この設備は3時間使用で硬式7,000円、ソフト3,000円とあったが今はどうなっているのだろう。

 この公園の一角に、山を整備せず昔の阿品の山がそのまま残されている場所がある。当時は狸の巣穴もあり、自然がそのまま残されていたが、この狸たちは今でも住んでいるのであろうか。
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 この公園の前面側には遊歩道・東屋なども整備されている。前面を見下ろせば、住宅街や宮島・広島方面まで臨むことが出来、素晴らしい風景が広がっている。

 結構遠方からでも訪れる人があり、子どもを遊ばしたり、景色を見ながら弁当を広げる人も有るようである。
by hirosan_kimura | 2009-10-27 10:53 | 阿品台 | Comments(0)
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まじ
南西から吹く風  風の方向が、まじにかわったでー
本当         今言うたなー まじじゃろーのー

まんま  
変わらない      この辺の風景は、昔のまんまじゃのー
ご飯(幼児言葉)  早よー まんまが食いたいよー

めぐ
壊す  小屋が古うなったけー めぐよ
両替  一万円を千円にめぐ

めっそー
とんでも   めっそーもないことを せんのよー
目分量   秤がないけー めっそーにしといたよ

めめくそ
目やに  めめくそが出とるけー 顔を洗いんさい
ほんの少し  今日は、貝がめめくそしか採れんかった

めんたー
雌    このめだかは、めんたーかの おんつーかの
目玉  めんたーが飛び出るほど びっくりした 

めんつー
雌    このめだかは、めんつーかの おんつーかの
面子  わしのめんつーは、まるつぶれじゃー 

めんめ
自分  なして怒られたか めんめで考えて見ー
それぞれ  めんめが嘗て勝手を言うけー まとまりゃーへんよー

もーた
廻った  目がもーた
踊った  踊りを もーた

もちゃーげる
持ち上げる  重たいのに、よーもちゃーげるのー
おだてる    あんまりもちゃーげるけー その気になってしもーた

もてた
持つことが出来た  重いのに よーもてたのー
保たれた       このご飯は腐らずに よーもてたのー

もてん
持てない  この荷物は、重とーて一人じゃーもてん
たまらな  やねこーて 体がとてももてん
続かない  なにゅーさせても 三日ももてんのー
嫌われる  女の子にもてんのは なしてかのー

もとーらん
くだらない  もとーらんことを しんさんなやー
駄目になる  年ゅー取って 足がもとーらんよーになってしもーた

もやい
共同   田植をもやいでしたけー 早よー済んだ
もやい  舟のもやい綱
by hirosan_kimura | 2009-10-26 05:01 | 方言 | Comments(0)

№234 高畑山

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 阿品で一番高い山は宮内との境、高畑山である。

 標高は僅か197.5㍍であるが眺望は誠に素晴らしい。正面には宮島と広島湾の島々を望むことが出来る。

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 左側には五日市・広島方面を臨むことが出来る。

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 右を見れば遠く岩国方面まで見える。

 この山は標高こそ余り高くないが、前面は広島から廿日市や遠く岩国方面まで見渡せるので、通信手段の発達していない頃、狼煙(のろし)の中継地となって居たそうである。

 遠くから中継された狼煙が、広島の己斐附近の山で受け継がれ、この狼煙が見えたら高畑山で狼煙をあげ、この狼煙を見た岩国方面の山で狼煙があげられ、次々西方面へ中継されたそうである。

 今では雑木が生い茂り全方向が見渡せる訳ではないが、禿山に近い状態であればこの山が狼煙の中継点であったことは納得できる。

 阿品台から整備された山道を30分も歩けば頂上に到着できる。この山に登り遠い昔に思いを馳せるのも面白かろう。
by hirosan_kimura | 2009-10-25 12:38 | 地形 | Comments(0)

№233 ここが阿品?

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 この写真のみ見ると、どこかの街の一角か外国の夜景のようである。

 ここは阿品三丁目のフジグランナタリーの一角、ナタリーマリナストリートである。

 写真で見ると広そうに見えるが、大した広さでは無い。

 この広場はサンタフェ風であるらしい。開店当時は若者で賑わっていたが、今では昼間でも閑散としている。

 店も何軒かあるが、商売が成り立たないのか良く入れ替わっている。

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 フジグランナタリーは、遊園地ナタリーの跡地に、平成11年7月10日に開店した。早いもので開店して10年経過した。

 敷地面積は21,048㎡。店舗面積は23,680㎡であるが、このうちフジの部分は17、480㎡で、他の部分は専門店・駐車場等である。

 当初計画では鉄骨4階建て延床面積51,260㎡、駐車場1,037台分と今の倍以上の施設規模であった。 
 
 しかし、大きな店舗が新しく出来ると、既存の店舗の経営を圧迫するとの理由で、当初計画の半分以下の中途半端な規模となってしまった。

 開店当初は珍しさもあり賑わっていたが、近郊に他の店舗が出来たりして、最近ではめっきり来店者が少なくなったようである。
by hirosan_kimura | 2009-10-24 05:20 | 三丁目 | Comments(0)

№232 西幸記念碑

e0125014_10211722.jpg お上がり場公園の中央に、阿品では一番大きな記念碑がある。廿日市が他の町村と合併する前の旧市では、市内最高の記念碑であったそうである。

 碑高は358㎝、幅は下部で90cm角、上部は80㎝角、台石の高さは132㎝である。更にこの碑は盛土の上に建てられているので、地面から見上げると一層高く見える。

 子どもの頃には良くここで遊んでいたが、巨大な建造物に見えていた。

 この碑は明治18年(1885年)8月1日に、明治天皇が西国巡礼の際、宮島から広島に向かわれる途中、この地に上陸されたのを記念して建てられたものである。

 この石碑が建てられたのは昭和6年4月であった。今から78年前のことである。

石碑の銘文

前面 西幸記念碑

左側 従一位勲一等公爵 淺野長勲閣下題字

後側 明治十八年乙酉八月一日龍舸厳島を経て地御前村阿品湾に舟光す
    同村有志胥謀り新に桟橋を架し奉迎す今爰に記念碑を其遺城趾に建
    立し以て後昆に傅ふ
      昭和六年四月穀旦
                             正八位勲八等石田久雄識

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 今では石碑を覆いつくしていた松も枯れはて、この石碑も青天に晒されている。昭和40年代の始め頃までは鬱蒼と松が繁り、離れた所からは記念碑が見えないくらいであった。

 子どもの頃には、お上がり場は阿品の子ども達の遊び場のひとつであった。記念碑の正面は文字が大きく、字の彫られた所に手や足を掛けることが出来たので、記念碑のどこまで高くよじ登れるか競ったものである。

 小さな子ども達は、大きな子が高い所までよじ登るので、羨ましかった思いでもある。
by hirosan_kimura | 2009-10-22 03:40 | 名勝・旧跡 | Comments(0)
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様子  ひまな
否定  行くな

なったん
実る  柿がいっぱい なったんでー
なる  頼んだことは どーなったんねー

なんかー
なのですか  これは 本物なんかー
などは     あんたなんかー 相手にせんよー

なんぼー
ねだん  こりゃー なんぼーするんねー
いくら   なんぼー 言い訳しても駄目よー

ぬかす
言う     えらそーなことを ぬかすなやー
追い越す  二番目が一番を ぬかすかのー

のー 
失う     お金が のーなった
ですから  ほーじゃけーのー

のる
あおむけ  鼻血が出たら のるんよー
入る     人の傘に のるよー

はしゅー
橋  はしゅー渡って 川の向こうに行った
箸  ご飯を食べるけー はしゅー出してやー
端  橋ゅー 渡る時は はしゅー渡らずに 真中を渡るんよー

はせる
はさめる 新聞紙に 押し花をはせる
架ける  稲をはせる

はた
周り  はたの人に 迷惑をかけんのよー
端   崖のはた行くと 危ないよ

はな
端     危ないけー 崖のはなへ行かんのよー
祭の鬼  はなに 追いかけまわされた
祝儀   神輿が廻ってきて はなを出した

ばらす
壊す   小屋が古ーなったけー ばらすんよ
あばく  お前の秘密を ばらすぞー

ひっつきもっつき
一緒      仲のえー あんたらー いついき ひっつきもっつきじゃねー
植物の一種  くさむらへ入ったら 服にひっつきもっつきが付いた

ひょーける
ふらつく  足がもとーらんで いついきひょーけるんよー
おどける  あの人は いついきひょーけるけー 面白いねー

びり
最後    あんたー いついきどべじゃねー
よく泣く  うちの びりにも 困ったもんじゃー
by hirosan_kimura | 2009-10-21 07:09 | 方言 | Comments(0)
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 阿品にも実りの秋が来た。大半の田圃の稲刈りは済んでいるが、所々で稲穂が垂れた田圃を見ることが出来る。

 阿品の田圃も年々埋め立てられ住宅化されている。田圃の中に家があるのでなく、住宅に囲まれた中に田圃がある。周囲を家に囲まれて窮屈そうである。

 数十年前は、阿品の家屋の大半が、山裾に建てられ田圃の中の家は二・三軒のみであった。部落の一番奥から国鉄の線路が見えていたが、今では住宅が立ち並び海沿いのマンションの高層部分が見えるのみである。

 阿品から田圃が無くなるのも、遠い将来のことでは無いかも知れない。
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 かつての稲刈りのシーズンは、農家では家族総出で収穫に当り、猫の手も借りたいくらいであった。今では田圃も少なくなり、それも稲刈機で刈り取るので、狭い田圃ではアット言う間に作業が済んでしまう。

 珍しいことに「はぜ」のある風景を見ることが出来た。極当たり前の風景であるが、手間の掛かる天日干しをされることは殆ど無くなった。
 
 稲藁は縄や莚を編んだり、屋根の材料に使われていたが、今では機械で稲刈りと同時に裁断され、肥料として田圃に撒かれるのが大半らしい。

 昔の農家は手作業で稲を刈り、脱穀・乾燥・籾摺りと収穫して食べられるようになるには一定の期間を要していた。

 今では、稲刈りと同時に機械で脱穀し、乾燥も水分を自動的に調整できる乾燥機で行い、収穫した日にご飯にして食べることも可能だそうである。昔の農家の人が見ればビックリするくらい便利になったものである。
by hirosan_kimura | 2009-10-20 06:47 | 農業 | Comments(0)

№229 阿品公民館

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 土曜日と日曜日に阿品公民館の公民館祭があった。
 
廿日市市内の公民館は「市民センター」となっており、市民センター祭が正しいのであろうが、長年、公民館と呼んでいたので、今でも公民館と言った方が馴染みがある。

 10時半頃覗いてみたが、早かったせいか来場者も溢れるばかりとまでは言えないまでも、かなりのの人が来ておられた。

 駐車場にはバザーやうどんなどの出店、館内では公民館で活動しておられるサークル等の展示物や、催しものが行われていた。

 これだけの行事を行うには、職員を始め実行委員の人達が企画・準備・当日の運営と大変であっただろう。

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 廿日市では小学校区に一箇所公民館が整備されている。

 阿品公民館は昭和56年3月に完成している。敷地面積は872.95㎡。RC三階建てで延床面積872㎡。工費は1億3,400万円であった。

 開館間もなく落成式が行われ地域を挙げてお祝いをしたが、その中で祝いの餅つきが行われ。餅つきに合わせて「餅つき唄」を歌ったのも懐かしい思い出である。

 開館準備等もあり、事業開始は5月23日からであるが、初代館長は高橋先生であった。

 あえて先生と呼ぶのは小学校時代の恩師だからである。小学校の3・4年生で二年間の担当であった。

 高橋先生は、普段は優しい先生であったが、怒られると震えあがるほど恐ろしい先生であった。この先生の特技はチョーク投げであった。

 授業中、席で無駄話などしているといきなりチョークを額目がけて投げられるのである。命中率が抜群で、後方の席であっても教壇から投げられたチョークが、見事に目掛けた児童の額に命中していた。

 先生にチョークを投げられた児童はたくさんいたが、それを恨みになど思う者はなく、卒業後の同窓会などではいつもその話題がでていたものである。

 当時の先生は今と違い、児童・保護者・地域の人にも慕わられ、高橋先生が阿品公民館の館長になられた時は、地域では喜び歓迎したものであった。

 その先生は惜しいことには早くに亡くなられた。

 阿品に公民館整備の話が出た時、建設場所について随分議論があったようである。

 阿品と言えば、鰆浜部落(今阿品一丁目)と阿品部落(今の阿品二丁目)が主であったが、どちらも自分に有利な意見を譲らず、鰆浜と阿品の中間の山を造成して建てたらとの案も出たが、さすがにその案は認められず、結局今の場所に整備されたらしい。

 当時はJR駅も無かったが、その後公民館の目の前にJR駅が整備され、広電阿品駅とも横断歩道で結ばれ交通の便は抜群の公民館となった。

 このため、JRや広電を利用し阿品地域以外の利用者もたくさんおられるのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2009-10-19 17:19 | 社会 | Comments(0)