素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№187 昔の写真

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 ついにネタが切れそうです。今回は古い写真を掲載してみる。

 この写真はいつ、何の行事で写されたものか分からない。場所は災害で崩壊する前の岩鏡神社の境内だろうと言う人もある。

 阿品の長老に尋ねれば、詳細の分る人があるかも知れない。


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 この写真は昭和8年3月8日、今から約76年前のものである。

 場所は阿品の人がクラブと呼んでいた、今で言う集会所的な建物である。今から40年くらい前に解体され今は無い。

 「防空演習出場記念」とあるが、いかにも戦時中的な行事である。

 この写真に写っている人が20歳としても96歳。大半の人は亡くなっておられるのだろう。
by hirosan_kimura | 2009-07-31 06:41 | 写真 | Comments(0)
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 昭和49年4月23日に阿品三丁目に開園した、遊園地「広島ナタリー」のプールに帆船「ナタリー号」が係留してあった。

 この船はエンジン付き帆船としては世界でも稀な大きさで、527㌧・全長177フィート・全幅27フィートの大きさであった。

 帆船は,はるばる廿日市に運ばれ、遊園地のシンボルとなった。

 船の中には誰でも入ることができたが、かつて大富豪の人達が地中海で洋上社交場として利用したものであり、その豪華さに圧倒されたものである。

 平成8年3月31日に遊園地が閉園されたが、惜しいことにこの船は解体された。

 この船の部品の一部を利用したモミュメントが、マリナストリートで見ることが出来る。

e0125014_20595876.jpg 碇を利用したモミュメント。











e0125014_215232.jpg エントツ






e0125014_2164846.jpg 舵輪





e0125014_2174881.jpg ギアの一部





e0125014_2191310.jpg 丸窓を利用したモミュメント
by hirosan_kimura | 2009-07-30 04:02 | 娯楽 | Comments(4)
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 平成12年6月8日に、JR阿品駅とふじグランナタリーを結ぶ歩行者用横断陸橋が完成した。

 この陸橋はJR阿品駅から駅前広場・国道2号線・広電宮島線を横断し、ふじグランナタリーの店舗を結ぶ長い長い横断陸橋である。

 この横断陸橋が完成するまでは、JR駅からふじグランへ、またJR広電に乗り換えるためには田尻陸橋を大回りしなければならなかったが、横断陸橋の開通により飛躍的に便利が良くなった。

 JR駅も表口にはエレベーターが整備され、ふじグランにもエレベーターがあるので、体の不自由な人や高齢者には便利が良くなっている。

e0125014_16105344.jpg ところがふじグラン直前に7段の階段がある。もしこの階段がなければ車椅子の人が一人でも、阿品二丁目から三丁目まで自由に行けるが、今では介助者なしには自由に行き来できない。

 本年度中にはJR阿品駅北口にもエレベーターが設置される予定である。

 この横断陸橋は広電架線を越える必要があり、ふじグランの二階の高さに合わせるのは難しく、数段の階段は止む得ないことであるが、スロープを設ける等何とか解決方法はないものであろうか。

 この数段の階段が無くなれば、車椅子を利用する人のみでなく、ベビーカーを使用する人・高齢者等にも負担が少なくなるのに惜しいことである。
by hirosan_kimura | 2009-07-29 06:16 | 交通 | Comments(0)

№184 町内会憲章

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 鼓ケ浜町内会は昭和40年代初めに海面を埋め立て、昭和46年6月に最初の入居が開始された住宅地である。

 いまでこそ広電阿品駅・JR阿品駅が整備されているが当時は両駅もなく、国道は広電線路で分断され、陸の孤島のような住宅地であった。

 この埋立地は西広島バイパスの整備により、家屋の立退きを迫られた人の移転用地を目的として、新しく造成されたものであった。

 最初の入居から38年が経過し、170世帯くらいの世帯数である。

 町内会入口の掲示板に「町内会憲章」が掲示されている。
憲章内容は素晴らしく、この憲章は町内会役員の方々がご苦労され作られたものである。

 憲章の制定に当っては、役員の方々が原案を作られ町内会全世帯を対象に意見・アンケートをとり、最終的に纏められたものである。

 町内会憲章を作られたきっかけは良く分からないが、今でも素晴らしい町内会を更に良いものにするものか、それとも何となく沈滞した町内会を盛り上げようとするどちらであろう。

 住みよい町内会のために憲章を作るのは良いことであるが、出来たらお終いで絵に描いた餅にならなければ良いのだがと思うばかりである。

 それにしても、「平成二十一年4月1日制定」の表記はいかがなものであろうか。
by hirosan_kimura | 2009-07-28 05:10 | 三丁目 | Comments(0)

№183 阿品の屋台

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 今は記憶に残る人も少ないであろうが、昭和40年代頃に阿品で屋台を営業する人があった。

 場所は阿品公民館西踏み切り手前の、川と道路に挟まれた狭い場所であった。当時はJR阿品駅は勿論、公民館も無く殆ど人通りも無く寂しい場所であった。

 選りによってこんな寂しい場所で、何故屋台を始められたのか不思議に思うほどの場所であった。

 営業として成り立っていたのか分からないが、たまに行っても他のお客さんを見ることも余り無かった。

 家から遠いのでわざわざその屋台に行くことも無かったが、たまに廿日市の方で飲み会があった時、誘われて広電阿品(今の阿品東駅)で降りて、何回かその屋台まで歩いて行った事がある。

 電車駅から歩いて行くと結構遠かったが、ほろ酔い気分で話しながら行けば、苦になる距離ではなかった。

 当時の阿品では一杯のむ場所もなく、屋台で会う人は顔なじみばかり、色んな話がはずみ気兼ねのない場所であった。

 酒のつまみもたいしたものは無かったが、コップ酒をチビリチビリ飲みながら時間を掛けて話しに花が咲いたものである。

 その場所は鉄道のすぐ傍なので、列車が通るとすざましい轟音がし話が中断したが、今のように列車の本数も多くなく、夜遅くなるとたまに貨物列車が通るくらいであった。

 その屋台も余りにもお客さんが少なく、いつの間にか無くなってしまった。

 今から40年くらい昔の話である。
by hirosan_kimura | 2009-07-27 06:02 | 商業 | Comments(0)

№182 海のおやつ

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 今の子ども達のおやつは、たくさんある市販のお菓子の中から、好きなものを買ってもらい食べている。一昔前はお菓子の種類も限られており、菓子を買ってもらうことも余り無かった。

 当時の子ども達は庭にある果物や、自然の植物の中で食べられるものを探しておやつにしていた。自然にあるものは甘みは少なく、中には苦味のあるものも多かったが、それでも季節になると野山を探し回って、おやつとして食べていた。

 中でも季節を問わず採ることが出来た、海の「つぶ」はいくら食べても飽きないほど美味しかったものである。


e0125014_10215392.jpg 昔の阿品の海岸には、色んな種類の「つぶ」がたくさんいた。

 中でも蓋の厚いつぶが一番美味しく、他のつぶは余り食べることも無かった。このつぶの正式名称は「スガイ」というそうであるが、阿品ではそんな名称で呼ぶ者はなく単に「つぶ」と言っていた。

 このつぶは大きさは1センチか1センチ半くらいの小さなものであるが、アサリを掘っていると土の中からでることもあった。一番たくさん見つかるのは、浜辺に転がっている石や堤防のしたなどにたくさん付着していた。

 本気になって採れば、子どもでもザルに一杯くらい採ることが出来た。

 採れたつぶは鍋などで水気を入れずに湯がいていた。湯がき揚るとひとつずつ縫い針などで丁寧に身を出して食べていた。

 身の出し方にはコツがあり、蓋と殻の間に針を差し込み、殻の方をらせん状に回すと身の先の方まで綺麗に取れていた。

 下手な者が取り出すと身が途中で切れてしまうが、先の方が少し苦くて美味しいものである。このツブは食べても食べても飽きないほど美味しかった。美味しい筈である。このツブは小さいが、サザエの仲間である。

 余りにも美味しいので食べ過ぎて腹をこわすことが良くあった。たくさん食べていると母親に良く注意されていたものである。

 たまにアサリを掘りに入った時、このツブがいないかと探して見るが、見つかっても数個、とても湯がいて食べるほどは見つからない。

 阿品の海岸では、アサリを始めたくさんいた生物が消滅したり、数が少なくなってしまった。いつの間にこのようなことになったのであろう。

 この「つぶ」を買うことが出来るが、1kg2,850円。約150粒あり一粒にすれば19円になる。いくら美味しくても買って食べる気にはならない。
by hirosan_kimura | 2009-07-24 05:16 | 子どもの生活 | Comments(0)
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 今は地形が大きく変わり昔の面影は全くないが、阿品のある場所が「赤子谷」中には「地獄谷」とも呼ぶ人もあった、恐ろしい地名があった。

 この場所は遠い昔から、行き倒れ等の身元不明者が亡くなると埋葬される場所であった。

 今は亡き古老達からも聞いていたが、いつの時代か分からないほど昔からの埋葬場所であったらしい。

 通信手段の発達した現在では、身元の分からない人が亡くなっても警察署や市町村に問い合わせば、ある程度身元が判明するが、遠い昔には異郷の地で亡くなると身元を突き止める手段もなく、その多くの人は無縁墓地に葬られるのが当たり前で有ったらしい。

 広島に原子爆弾が投下された際、阿品の海岸にも多くの犠牲者が流れ着き、その多くは火葬されたが何体かはこの地に埋葬されたそうである。

 町営の「霊峯苑火葬場」が整備されるまでは、旧廿日市町内で無くなられた身元不明者もこの地に埋葬していた。

 今では少なくなったが、人知れず山中で首吊自殺をする人。汽車や海に飛び込み自殺をする人。その他事故により亡くなられた人の遺体を何体もこの地に埋葬したのは、昭和40年代の初め頃までであった。

 お盆には町職員で町内数箇所の無縁墓地にお参りに行っていたが、今も続いているのであろうか。

 お盆のお参りには一人の職員で行っていたが、阿品のこの地は遺体を埋葬した部分が無数に土が陥没しており、真に気味の悪かったことが思い出される。

 ある時この地を含めて造成されることとなった。工事を請負った業者は、「遺骨一つ残らず丁寧に集骨しねんごろに供養します」と言っていたが、驚いたことにブルトーザーを入れ地表に現れた骨のみを集め、その量は僅かなものであった。

 近くに立派な供養塔を建てるということであったが、完成したものはそこらに転がっている自然石を利用したのではないかと思われるような粗末なものであった。

 今ではその供養塔も見ることが出来ないが、埋葬してあった遺骨は火葬場にある無縁墓地にでも葬られているのであろうか。

 かって身元不明者が埋葬された地も、知っている人は阿品でも僅かな人達となっている。
by hirosan_kimura | 2009-07-23 05:45 | その他 | Comments(0)

№180 泳ぐ時の注意

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 №179は「鰆浜部落こども会」の夏休み中の注意である。今回は同じ頃の地御前小学校よりの注意である。当時は阿品の子ども達は地御前小学校に通学していた。

 その頃は学校にプールなどなく、小さな子ども達も上級生と一緒になって海で泳いでいた。水泳は手取り足取り教えて貰うこともなかったが、上級生の泳ぐのをみて自然と泳ぎ方を覚えた。


すいえいをするときのちゅうい(小学校より)

一 およいでよいところ ちきゅうかんのおき [地御前神社前の海岸]
               おあがりばのおき [阿品の海岸] 
               みやうちがわのおき(中学生より上の人といく) 
                           [地御前村と宮内村の境界]

二 およいでよい日 てんきのよい日
             なみのすくない日
             からだのぐわいのよいとき

三 およいでいけない日 雨の日
                かぜのつよい日
                なみのたかい日
                ねつのあるとき げりをするとき かぜをひいたと
                き                                     

四 およぎにいくとき
  1 お母さんか、お父さんの、おゆるしをうけて、家を出る
  2 四・五人が、いっしょにいきましょう
  3 かるい体そうをして、あたまをぬらしてゆっくり水のなかにはいります
  4 口びるが、むらさきになるまでおよがない
  5 体がたいぎくなったら、じきにおかにあがります
  6 おぼれるまねはしないこと
  7 人の足をひっぱったりして、おぼらさないこと
  8 かえるときは、きた人がみんないるかよくみること
  9 おかにあがったら、体をよくふくこと
 10 きかえたら、さっさと家にかえること
 11 家にかえったら、おうちの人に「かえりました」とはっきりいいます

五 ちゅういすること
  1 一日に一時間よりおおくおよいではいけない
  2 人のおぼれるのをみたら、じきにちかくにいる人に「おぼれている」とし
    らせること

 一日に一時間以上泳がないとあるが、一回に一時間以上泳がないの間違いかも知れない。一時間泳いだら水から出て、ひと休みしたり冷えた体を温めてまた泳ぎましょうということだったかも知れない。

 一度泳ぎに行くと夢中で遊び、ご飯の時間になるまで泳いでいた。時には朝泳ぎに行き、昼ごはんを食べてもう一度泳ぎに行くこともあった。

 時には、午前中も泳ぎに行き午後にまた泳ぎに行くこともあった。
by hirosan_kimura | 2009-07-22 05:14 | 遊び | Comments(2)

№179 夏休みの約束

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 学校の夏休みが始まった。ひと昔前の阿品では夏休みになると、海に野山に子ども達の歓声が聞こえていたが、今では外で遊ぶ子どもの声を聞くことも無い。

 今から54年くらい前の「鰆浜部落子ども会」で取り決めた「夏休み中の注意書き」である。今の時代とはどのようなことが違っているのだろう。


「皆で守りましょう。部落のこども会で決めたこと。」

一 ラジオたいそうのこと
   きめたことはみんなおぼえているとおもいますから、ここには書きませ
   ん。

二 おそうじは、いえのまわりをする。
  人のきずかかないみずたまりなど。

三 およぐことについて
 1 およぐ時間は10じから4じまで。
 2 とくべつなばあいは、2どおよいでもよい。
 3 いくらおよいでもよいが、ときどきりくにあがってやすむ。
 4 ともだちのないときは、およがない。

四 べんきょうについて 
 1 べんきょうちゅうというふだをつくる。
 2 10じまではあそびにさそわない。

五 あそびについて
 1 ひなたでながくあそばない。
 2 たや、はたけをあらさない。
 3 かけごとあそびをしない。
 4 よる8じをすぎたらあそばない。

六 いえのてつだいは、さっさとする。

七 ちょきん
  やすみちゅう、むだづかいせず、2がっきになったら、ちょきんする。

八 うみそうじについて
  まいしゅう、1かい月ようびにする。

 子ども会の約束では、夜八時過ぎたら外で遊ばないこととあるが、今のように危険なことも少ないので、夕ご飯が済んで家の周りで遅くまで遊ぶことはしょっちゅうであった。
by hirosan_kimura | 2009-07-21 05:25 | 子どもの生活 | Comments(0)
e0125014_1139188.jpg №142「地図・図絵4」で明治23年頃測量された地図を紹介した。

 左の地図は明治27年に測量された阿品附近の地図である。発行は「大日本帝国陸地測量部」となっている。

 海岸線の中央当りが「お上がり場」その上部が「鰆浜」、下部の谷が「阿品」部落である。同じく海岸線の上部の山が「沖山」である。

 海岸線下部の出っ張りが「田尻」の山で、№167で紹介した附近である。その下が競艇場・宮島口に続く海岸である。

 海岸殿の道路は旧国道であるが、現在の国道と比較するとかなり曲がりくねっている。

 当然JRの線路も広電宮島線も無い。一番変わったのは阿品の山で自然の山のままである。今と違って自然溢れる風景であっただろう。

 測量技術の発達していない今から約120年前、明治23年に測量し僅か4年後にまた新しい地図が作製されたことに疑問を持っていた。

 明治23年の地図は軍用のため第五師団が、広島周辺の二万分の一の地形図を発行したものである。測量は明治23年頃であるが、明治26年3月に印刷・出版された。

 第五師団では、他に同縮尺で四日市(現在の東広島市)・上瀬野・狩留家及志波・廿日市村及玖波村の各近傍図を作成しているが、詳細は不明とされている。

 いずれの地図も縮尺は二万分の一である。正式測図の縮尺が明治43年に二万五千分の一に変更され、今では二万分の一の地図は発行されていない。
by hirosan_kimura | 2009-07-17 02:16 | 地図 | Comments(0)