素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№136 貴重な屎尿

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 屎尿処理は公共下水道・浄化槽・汲み取り等で処理するが、いずれもお金が掛かることである。

 ところが一昔前は、汲み取らせてもらう家に米や野菜でお礼をしていた。

 今では肥料は科学肥料等を使うが、昭和30年代頃までの阿品での肥料は、人糞や牛小屋などの堆肥が主な肥料であった。

 今と違い住んでいる人も少なく、田畑のたくさんあった阿品では、地区の中のみでは必要量が賄えず、対岸の宮島で排泄されるものを船で阿品まで運んでいた。

 宮島は神のであり、島内での農業が禁じられていたため屎尿の処理に困り、阿品では屎尿が不足していたという、両者の利害が一致したことから始まったのかも知れない。

 余り大きな船ではないが、底の平らな船を阿品の農家共同で所有していた。その船で農家数世帯づつで宮島まで艪を漕いで、各家庭の屎尿を貰いに行っていた。

 宮島では夫々の農家でお得意さんが決まっており、宮島の各家庭を廻って汲み取り肥桶を担いで海岸の船まで運んでいた。

 汲み取らせてもらった家庭にはお礼として、阿品の田圃で作られたお米や野菜を上げていたそうである。

 同じ屎尿でも旅館に泊まるような人は、いつも上等のご馳走を食べているので良く効く肥料となり、旅館をお得意さんに持つ農家は羨ましがられたそうである。

 それにしても肥桶を担いだ農家の人が、宮島の観光客の中を行きかっていたとは、のどかな時代であった。

 屎尿を肥料に使うのは不衛生であり、公共下水道も整備され汲み取り便所が無くなった今では、屎尿を肥料に使う農家も無くなった。

 阿品の屎尿運搬船も、いつの間にか見られなくなった。
by hirosan_kimura | 2009-04-30 05:59 | 農業 | Comments(1)

№135 旧公民館

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 今から約50年位前の昭和35年4月、阿品地区に公民館が建てられた。

 場所は阿品部落の国道を少し奥に入った所であった。今では民家が建てられている。

 公民館と言っても集会所を広くした程度の木造平屋の建物であった。勿論常駐の職員などいず、管理は地元で行っていた。

 それでも狭くて古い、地元でクラブと呼んでいた施設を長年使用して来た地域にとっては、待ち望んだ施設であった。〔№120参照)

 小さな舞台のついた板敷きの広い部屋、畳6畳くらいの和室、トイレと物入れがあるだけの施設であったが、地域の集会や選挙の投票所(№106)、その他会合等が行われ、阿品地域で唯一の文化施設であった。

 5月22日には完成祝賀会が行われた。地域住民挙げての参列の元、来賓多数が招かれ祝典・地元民による演芸・祝宴等が盛大に挙行され、当日はお祝い気分で盛り上がった。

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 昭和58年4月1日に、今のJR阿品駅裏に鉄筋コンクリート3階建の公民館が落成した。旧公民館用地は借地であったことにもよるが、長年阿品地区住民に親しまれてきた旧公民館は、新公民館開館後間もなく、その役割を終え解体された。

 ネタが切れそうなので今後は、土・日曜・祝祭日は休稿とする。次回投稿30日。
by hirosan_kimura | 2009-04-28 05:29 | 社会 | Comments(0)

№134 阿品団地

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 阿品団地は100世帯くらいの小さな団地である。ふじタウンや廿日市ニュータウウンとは比較にならない規模であるが、阿品地区で最初に山を削って造成された団地である。

 団地の名称は「阿品団地」が正しいらしいが、地元では宅地造成した会社から「武田団地」とも呼んでいる。

 昭和36・7年頃から山を削って造成されたが、37年終わり頃に完成し昭和38年2月28日に第一号の入居者があったと記録されている。

 水源は団地の裏の谷にあったが、世帯数の少ない頃は問題無かったが、世帯の増加に伴い水不足が生じ、団地住民は随分苦労されたと聞いたことがある。今では上水道が敷設され水の苦労は無いらしい。

 山を削って造られる団地造成はかなり厳しい規制があるが、阿品団地が造成された当時は規制条件も緩やかであった。

 そのため、道路巾も狭く急斜面を玉石でついた擁壁もあり、今ではこのような工事は許可されないということである。

 団地の入口は阿品側であるが、広島方面に勤める人は大廻りになるので、鰆浜側の電灯もない山道を歩いて、広電地御前県病院前駅(今の阿品東駅)を利用していた。

 今では鰆浜側に降りれる自動車道も整備されている。

 静かな田舎であった阿品地域は、この団地の造成を契機として少しづつ変わって行った。。

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by hirosan_kimura | 2009-04-27 05:18 | 阿品 | Comments(0)
 阿品の言葉と言っても、阿品以外では全く使われなかった阿品のみの独特の方言はまず無いであろう。阿品で使われていた言葉は、近隣の地御前や大野でも使われていた言葉である。

 しかし、合併以前の狭い廿日市でも、平良や原等とでは阿品で使われた言葉と微妙に違う部分もあった。

 阿品で使っていた言葉で方言かと思っていたものが、辞書を引いてみるとちゃんと載っている場合もある。それらの言葉は昔は使っていたが、今は殆ど使われていない言葉が多い。

e0125014_1144264.jpgおじいさん
じー・ じーやん・ じじ・ じっちゃん


e0125014_11444039.jpgおばあさん
ばー・ ばーやん・ ばば


e0125014_11452865.jpgおとうさん
おっとん・ おとー・ おとっつあん・ おとん・ とー 
とーやん・ とっつあん・ とと・ ととー


e0125014_1146128.jpgおかあさん
おかー・ おっかー・ おっかん・ おかん・ かー 
かーやん・ かか・ かかー・ かかん・ かっかん 
かっつあん


e0125014_11463783.jpgおにいさん
あにー・ あんやん・ にー・ にーやん


e0125014_1146593.jpgおねえさん
あねー・ ねー・ ねーやん


じぶん
めんに・ めんにー・ わし・ うち

兄弟
おとどい

末っ子
おとんぼ

あなた あの人
われ・ おどれ・ おまえ・ てめー・ わりゃー・ あいつ・ あいつー
あんた・ あんたー・ あんな・ あんなー・ あんないつ

おんなの人
おなご・ おなごし・ おなごだー

 「われ」は広島以外では「我」と自分のことを指すが、「われ」を「あなた」の意味で使うのは、他の地域の人は不思議に思うらしい。

 中にかこんな言葉を本当に使っていたのか疑問に思うものもあるが、その個人のみ又はその家族のみが使っていた言葉もあるかも知れない。

 ここに掲載したもの以外の言葉が使われたものもあろう。誰かこれ以外の言葉を知っている人はないだろうか。 
by hirosan_kimura | 2009-04-26 05:17 | 方言 | Comments(0)
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 この写真は今から40年くらいに写された、阿品部落の風景である。JRガードをくぐった辺りからの写真であるが、阿品の一番奥の家も見ることが出来る。

 当時の民家は殆どが山裾に建てられていた。左側中央あたりに写っている二階建民家は、当時としてはまだ新しい建物である。

 この家が建てられるまでは、阿品の家屋はすべて山裾沿いに建てられ、田畑の真中に建てられた家は、1,2軒のみであった。

 右端中央あたりに藁屋根の民家が一軒残っている。右側上方の山肌の土が見える場所は、造成中の武田団地であろう。

 今は山肌がむき出しになっているニュータウウンは、緑に覆われた山ばかりである。

 このように阿品部落は、中央に広い田畑が広がっていた。その真中を国道から部落の奥に通じる一本の道路が付いていた。
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 この写真は上の写真とほぼ同一場所より撮影したものである。

 この写真からは窺えないが、中央山の上には人口一万人規模の大型団地があるのである。(№76参照)

 田畑が埋立てられ宅地に造成され、今では鉄道線路脇近くまで新しい家が建てられている。

 阿品は海岸線も大きく変わったが、古い部落の中も大きく変わっているのである。
by hirosan_kimura | 2009-04-25 04:35 | 阿品 | Comments(2)
e0125014_2035181.jpg 鰆浜のある家の庭にお地蔵さんが安置されている。

 国道すぐそばの騒音の中で、今では静かに鎮座しておられるが、一昔前まではこのお地蔵さんは事あるごとにあちこちの家に連れて行かれていた。

 かつて阿品では結婚式の際に、ひそかにお地蔵さんを結婚式のある家に運び込むと言う風習があった。

 いつごろこの風習が無くなったかは分からないが、今ではそのようなことをする人はいない。

 結婚式の当日、近所の親しい若者達が近くのお地蔵さんを、婚家の人に見つからないように運び込んでいた。鰆浜のお地蔵さんや、今はふじタウンの坂を下りた所に安置されている「教え地蔵さん」が運び込まれていた。

 「教え地蔵さん」は今でこそ民家の近くにあるが、昔は大野に山越えをする、阿品の谷の奥に居られた。(№7参照)

 運び込まれるお地蔵さんは、多い時には7~8体になることもあり、地御前や大野のお地蔵さんも運び込まれることもあったと言うことである。

 運び込まれた家では後日、お地蔵さんの赤い前垂れを新調して、元あった場所に返さなければならなかった。

 重いお地蔵さんを元にあった所に返すだけでも大変であったが、見慣れないお地蔵さんを返すには、どこに居られたお地蔵さんかも分からず、運び込まれた家では元の場所を探すのが大変だったらしい。

 何故このような風習があったのかは分からないが、「お地蔵さん」は座りが良い。嫁いできた花嫁さんにその家に居座ってもらいたいと言う願いと、楽しみの少なかった田舎での、運び込む若者達がいたずらをして喜ぶと言う面白さが半分あったのではなかろうか。

 この他に式が済んで宴会中に、羽織・袴の花婿を数人の若者が無理やり連れ出し、泥田に投げ込んで面白がる風習もあったと言うことである。

 花嫁を先に迎えられた若者のやっかみから始まったものかも知れない。一張羅の晴着を泥だらけにされるのもいい迷惑であっただろうが、昔から伝わる風習でもあったし、お祝いの気持ちも込められていたので、怒るに怒られなかったそうである。

 今ではこんな風習は残っていないが、阿品以外でもこのようなことがあったのであろうか。
 
by hirosan_kimura | 2009-04-24 04:50 | 冠婚葬祭 | Comments(0)
e0125014_1043761.jpg 昔、阿品の子ども達は「釘たて」と言う遊びをよくしていた。

 五寸釘を力強く地面に立て線を引いていき、相手が釘を打つ場所が無くなれば勝ちというような単純そうな遊びであった。

 五寸釘を使うので危険なため、今の子どもが遊ぼうとすると家庭か学校で禁止になるかも知れない。

 不思議と釘が足に刺さり怪我をしたと言う話を聞いた事は無かった。

 この遊びは二人でするのが普通であるが、三人で遊ぶことも出来る。三人で遊ぶ場合はより複雑になり面白かった。
e0125014_10453262.gif 遊び方はまず地面に短い線を引く。一人が力強く地面に釘を立て、線の片方の端から釘の立った所に線を引く。次の人が釘を立て線の反対の端と釘の立った所に線を引く。

 交互に釘を立てては線を引いて行くが、相手の線を横切ることは出来ない。

 三人の場合は、最初に一本の線でなく「Y」の字を引きスタートするが、この場合はゲームがより複雑になり難しくなる。

 釘が立たない場合は立つまで同じ人が続ける場合もあるし、立たないと相手と交替したりルールを勝手に変えたりしていた。この場合は釘立ての下手な子どもは、相手に囲まれて出られなくなりすぐ負けてしまう。

 自分が釘を立てる場合は、出来るだけ間隔を狭くして線が結べるように釘を命中して打ち、相手が逃げられないように線を結び、次の釘を打てないようにするのがコツである。

 釘立ての下手同士がすると、間隔が広くなり際限なく渦巻きが大きくなることもある。

 相手の線を横切るように釘を打ったり、自分の線の真上に釘を打ち、相手が出られなくなったら勝負は終わりである。

 この遊びは単純なようで、先を見ながら頭と技術を使う遊びであった。
by hirosan_kimura | 2009-04-23 05:19 | 遊び | Comments(2)

№129 れんげ

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 「れんげ「は「蓮華」とも書き、「紫雲英」と書いて「げんげ」とも言う。もともとは日本の植物でなく中国が原産らしい。肥料として種が輸入され、日本全国に広がっている。

 一昔前までは阿品の田圃一面に植えられていたが、今では田圃の片隅にやっと見つけられるくらいである。

 「れんげ」の咲く春先には、ピンクと緑の絨毯をあたり一面に敷き詰めたようで、美しい光景で有った。

e0125014_10161360.jpg「れんげ」は取り入れる作物でないので、子ども達が「れんげ畑」で遊びまわっても、怒られることは余り無かった。

 男の子は畑の中で相撲を取ったり、走り回って遊んでいた。

 女の子は花を摘んで、髪飾りや花輪を作って遊んだりしていた。

 今は「れんげ」を肥料にすることも無く、家が建て込んで田畑も少なくなり、阿品で広い「れんげ畑」を見ることも出来ない。

 今の小さな子どもを、広い「れんげ畑」で遊ばすと走り廻って喜ぶであろう。
by hirosan_kimura | 2009-04-22 05:26 | 植物 | Comments(0)
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 珍しい写真が手に入った。阿品以外の人にとっては何の感慨も無いであろうが、この家を見たことのある人にとっては懐かしいかも知れない。

 この家屋は鰆浜にあったが、数年前に取り壊されて跡形も無い。何時ごろ建てられたのかは分からないが、昭和の初めではなかろうか。

 ハワイから帰られた人が建てられたそうであるが、左側に写っている人がこの家を建てられたらしい。下の写真はその人の葬儀の写真である。上の写真と同一家屋である。

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 この葬儀は昭和16年8月26日であったが、右側の倉庫も二階建てに建て替えられている。家の前の石垣も変わっている。

 特に周辺の山の樹木も大きく成長しており、周辺の様子もかなり変わっている。上と下の写真とではかなり年代が経過しているのではなかろうか。

 一枚の写真でも、古い時代のことが、色々と偲ばれるものである。阿品の家々にも貴重な写真がたくさん眠っているのであろう。
by hirosan_kimura | 2009-04-21 04:07 | 衣食住 | Comments(0)

№127 のどかな国道

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 この写真は昭和30年代と思われる、JR阿品駅前附近の国道を写したものである。

 国道は右側斜面部分が拡幅され少し広くなっている。学生が自転車でたくさん写っているが、なにか行事でもあってその帰りでもあろうか。

 当時の国道は中央部分がコンクリート舗装され、両側端部分は砂利のママであった。

 この写真には自動車が一台も写っていず、自転車も人も国道の中央部分を走っても何ら危険は無い。今の交通量からは想像も出来ないがのんびりしたものである。

 道路の右側は一段と低くなっており、調整池や田畑ばかりで建造物は一切無かった。今ではパチンコ店やガソリンスタンド・陸橋・駅前への侵入路となっている。

 右側上部の田尻の浜に突き出た山も削られて今は無い。

 左側の海面は埋立てられた当時は遊園地「広島ナタリー(№2参照)」があったが今は無い。大型店舗・マンション・住宅地となっている。

 広電宮島線の位置は変わっていないが、木製の電柱は無くなっており、「広電阿品駅(№49参照)」が新設されている。

 当時と変わっていないのは、遠くに見える宮島の山の姿のみである。
by hirosan_kimura | 2009-04-20 04:36 | 国道 | Comments(0)