素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№107 阿品三丁目

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 現在の阿品三丁目は、西広島バイパス整備のため立退きを余儀なくされた家屋の移転用地、また遊園地ナタリーの用地として海面が埋立てられたものである。埋立は「ふじタウン」造成のため削られた田尻の山の土砂が利用された。

 田尻海岸は、鉄道・国道・広電線路が明治時代に整備され大きく変容していたが、それでも干潮になると広い干潟が現われ、あさりを掘るのに最適な場所であった。

 西端には半島状の小山が海岸にあり、素晴らしい風景であった。沖合には十兵衛岩と云う大きな岩があり、干潮になると現われ海岸の風景に彩りを添えていた。

 これらの美しい風景も、埋立により全て無くなってしまった。

e0125014_618526.jpg昭和41年10月1日
 田尻地先の海面、第一工区埋立造成工事が着手される。

昭和42年2月20日
 第二工区埋立造成工事が着手される。工期 昭和43年4月30日まで
請負金額 2億4850万円
請負者  東京都熊谷組

昭和44年9月9日 広島県告示
 田尻地先 80,909.88㎡ (24,426坪)

昭和44年10月1日
 10月1日~10月15日まで、田尻住宅団地(現在の鼓ケ浜)の分譲申込の受付が行われる。一区画 330~594㎡。総区画数 140区画 一般分譲のみ。3.3㎡当り 37,000円~45,000円。

昭和46年6月
 田尻住宅団地の入居が開始される。

e0125014_628676.jpg昭和49年4月23日
 第二工区に遊園地「広島ナタリー」が開園する。
by hirosan_kimura | 2009-03-31 08:24 | 三丁目 | Comments(0)

№106 選挙

e0125014_1372691.jpg 昨日は廿日市市市議会議員選挙日。午前中に投票所の阿品公民館に行く。投票事務に当る市の職員は知らない顔ばかり。投票に来た人に出会っても知らない顔ばかり。知っている人は立会人の二人の人のみで、時代の流れに驚くばかりである。

 市の職員であった時は、選挙と云えば必ずといっていいくらい投票事務、開票事務の手伝いがあった。投票事務にあたる職員といえば阿品在住の人ばかり。投票に来る人は顔なじみばかりで、名簿を見なくても顔と名前が一致する人ばかりであった。

 たまに知らない顔の人が来られると、一体あの人は誰だろうと思うくらいであった。それも当然で、選挙事務を手伝い始めた頃の昭和39年10月の阿品の有権者数はたったの381名であった。

 それが昨日の選挙での阿品の有権者数は3,947名、実に10倍以上になっているのである。阿品で生まれた人はほんの僅か、殆どが転入された人達である。

 e0125014_16322024.jpg投票は通常朝7時から始まる。投票の終了は以前は18時であったが今は20時となっている。今のように有権者が多いと途切れ無く投票者が訪れるが、昔の選挙では1時間近くも誰一人投票に訪れないことも再三であった。

 特にお昼の済んだ12時過ぎ位から2時頃までは投票に来る人も少なく、来られても忘れた頃にポツリ ポツリと来られる。投票事務に当るもの、立会人も暇を持て余し雑談をしたり週刊誌を読んだりしていた。

 今では投票に行っても、立会人に一言・二言話しかけるくらいであるが、以前は投票に来る人も顔なじみばかり、座り込んで世間話をして帰る人も有った。のんびりとした古き良き時代で有った。今では考えられないことである。

昭和31年7月8日 参議院選挙
(以下数字は阿品のみ。阿品台除く)
有権者 324名。 投票率 69.74%

昭和39年10月31日
有権者 381人。  投票者 282人。  投票率 74.02%。      当選者 豊田正夫

昭和40年3月28日 町議会選挙
有権者 394人。  投票者 330人。  投票率 85.79%。

昭和46年6月27日 参議院選挙
有権者 462人。  投票者 319人。  投票率 69.05%。 

昭和49年7月7日 参議院選挙
有権者 666人。  投票者 518人。  投票率 77.78%

昭和52年3月27日 町議会議員選挙
有権者 741人。  投票者 539人。  投票率 72.74%。

昭和56年3月29日 町議会選挙
有権者 765人。  投票者 573人。  投票率 74.90%。

昭和60年3月24日 町議会選挙
有権者 1,526人。  投票者 1,077人。  投票率 70.58%。

平成9年3月30日 市議会議員選挙
有権者 2,372人。  投票者 1,495人。  投票率 63.03%。

平成21年3月29日 市議会議員選挙
有権者 3,947人。

 昭和40年代終わりまでは、阿品の投票率は常に町全体を上回っていたが、人口が増加し昭和50年代に入ってからは、町全体の投票率より下回っている。今回の選挙の結果はどうであろうか。

 現在の阿品公民館が整備されるまでは、旧公民館が投票所であった。
 
by hirosan_kimura | 2009-03-30 06:02 | 行政 | Comments(0)
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大正14年(1926年)9月21日
煮干鰮(いわし)製造場設置のため鉄道用地払下を求める地御前村の願書

鉄道用地払下願
広島県佐伯郡地御前村字田尻巳二千四百四十七番地ノ三
一 鉄道用地用地 二段六畝拾五歩

 隣地の本村有地、広島県佐伯郡地御前村字田尻二千四百四十七番地ノ一、新開地反別二段壱畝九歩は、明治三十一年三月十八日 官有地を本村に譲与されたものですが

 前記鉄道用地と同様、地面が低く満潮時は海水が氾濫して、作物を栽植することが出来ません。そのため譲り受けた後も、収入になることは少しもありません。

又この鉄道用地を借り受け、海水の氾濫を防ぐため、堤防らしき物を作り作物を栽培する者が数人ありますが、収穫を得る者は一人も有りません。

 そのため埋立後はいずれも荒廃しています。このようなことは国家経済上、不利益なことなので、この鉄道用地を本村に払下ていただき、隣接地の村有地とともに盛土をして、本村漁民の煮干鰮製造場に使用することにする次第です。

 由来本村は煮干の名産地で、年々四張ないしは五張の鰮地曳網が出漁して、産額の多い年は漁期半年で、約六万円の煮干鰮を製造しています。

 これに従事する人員は、男子百四十人ないしは百七十五人、女子百人ないしは二百人あり、この盛衰は本村の経済上、大いに関係します。

 この漁業大漁の時は、網一張りでも莚(むしろ)を千数百枚を敷き並べ、漁獲物を乾燥するので相当の面積を要するものです。

 広島瓦斯電軌株式会社が敷設する宮島線の開通に伴い、沿岸煮干鰮製造用地を地主に返却する必要に至り、漁民は困却に堪えられないため、この鉄道用地を払下げていただき、漁業保護の道を講じたく、特別の計らいをいただき払下いただけるよう、この度願い出るものです。

 広島県佐伯郡地御前村長 渡辺笹一   鉄道大臣 仙石貢殿

 
by hirosan_kimura | 2009-03-29 05:34 | JR | Comments(0)
 今の子どもはゲーム機やその他、高価なおもちゃをたくさん買ってもらえるが、昔はおもちゃを買ってもらえることもも少なく、自然のもを工夫して自分達で作ったり、道具を使わず体のみの遊びを飽きもせずしていた。

 中には危険なものも有り、今の親たちが見たら禁止させるようなものもあった。その中でも「落とし穴遊び」は結構危ない遊びだったであろう。

e0125014_794249.jpgこの遊びは、人の通りそうな場所に径50~60cm、深さもその程度の穴を掘り、上に土をかぶせて穴があるとは知らずに通った人を落として驚かす遊びである。

 この遊びも単純なようで、知恵と工夫が必要な遊びである。まず穴を掘る場所を選ぶのも大事なことである。落とし穴を作っている所を見られては意味が無い。作っている所が見つかると、「悪ガキが落とし穴を作っている」と知れ渡り誰も通らなくなる。

 作っているところを見つからないため、人が余り通らない場所で選ぶ。それも待っても待っても人が通らない場所でも駄目である。

 次にそこに落とし穴があるのが、見ただけで分かるようでは誰も落ちない。穴を掘った上に細い木の枝を渡し、新聞紙で覆いその上に土をばら撒く。厚く土を乗せると小枝が折れてしまうので、うっすらと土を乗せる。

 一番大事なのは、穴のある部分と周囲が見分けが付かないようにすることである。周りと同じ土をばら撒き枯れ葉などをさりげなく散らしたりするのが、腕の見せ所である。

 このように「落とし穴」が出来ると、もの陰に隠れて誰かが落ちるのを息を凝らして待つのである。たまに人が通っても穴のある場所を外れて通ることも有る。

 待っても待っても誰も来ないこともある。そんな時は落とし穴のあることを知らない子どもがカモとなり、呼び出されて穴の上を通るように、言葉巧に仕向けるのである。騙されて落ちるのを見て歓声を上げるのである。

 時には長時間待っても誰も通りかからず、腹を立てて折角作った落とし穴を自分で壊したり、そのままにして帰り、後で誰かが落ちたりしていた。

 今ごろのひ弱な子どもであれば、穴に突然落ちると足をくじいたり、下手をすると骨折したり大変なことになる。ひとつ間違えれば訴えられるかも知れない。しかし不思議と怪我をしたと云うことは余り聞いたことが無い。

 昔の子どもは野山を駆け巡り、体も丈夫で咄嗟の時も危険から素早く身を交わす技が身に付いていたのかも知れない。

 穴に落ちた子は家に帰って親に訴える。するとその子の親が血相を変えて落とした子の家に怒鳴り込み、「親の躾が悪いから、危ないことを平気でする子どもになったのだ」と親が責められる。 あとから親にこっぴどっく怒られる。

 そんなことが再三あっても、誰か落とし穴に落ちないかと待つ間のスリル、落ちた時の感激で同じことを何回も繰り返していた。
by hirosan_kimura | 2009-03-28 09:42 | 遊び | Comments(0)

№103 阿品の墓地

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 阿品四丁目の一角に市営阿品墓地がある。235区画。一区画は1.5m×2㍍の3㎡。永代使用料は23万5千円、永代管理料は2万円で昭和53年に分譲されている。

 この墓地の大半は一般に分譲されているが、その一画は「阿品台ニュータウウン」造成の際、移転を余儀なくされた阿品地区の墓地として造成されたものである。

 阿品台が造成されるまでは阿品の墓地は阿品の谷の一番奥、今では団地の外周道路や法面となっている場所にあった。

 その場所は母の実家に近い場所であった。お盆前の夕方近く涼しくなった頃、灯籠を手にした沢山の人々が家の横の道を通って墓参りに行かれていたのを思い出す。

 夜になるとローソクの火が灯籠に移り、ボーッと燃えているのを遠目に見て、火の玉が燃えているのではないかと恐ろしかった。

 以前の墓は一軒の家でも小さなお墓がたくさんあったが、新しい墓地は区画も狭く沢山の墓が建てられないので、古い墓石は一箇所に集められ供養されている。

 また気軽にお参り出来たお墓も山の上に移転し、お年寄りにとってはいつでも気軽に、お参りすることが出来なくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2009-03-27 05:34 | 宗教 | Comments(0)

№102 地御前小学校

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 阿品地域の学校区は阿品台東小学校・西小学校であるが、かつては地御前小学校に通学して居た。30歳台後半以降の者にとっては母校と言えば地御前小学校である。

 両親・祖父母・曽祖父母の時代から通学した学校区が変わっているのは、誠に寂しいことである。

明治6年(1873年)4月5日
 地御前小学校の前身である「必隣舎」が創設される。校舎は釈迦堂を正行寺に移し、修理を加え当分の間 代用することとされた。授業料は子ども一人につき10銭、二人で15銭、三人以上は30銭であった。

明治9年(1876年)11月1日
 「必隣舎」が「地御前小学校」と改称された。

明治19年(1886年)4月1日
 「地御前小学校」が、「地御前簡易小学校」と改称される。

明治24年(1891年)4月1日
 「地御前簡易小学校」が、「地御前村立地御前尋常小学校」と改称される。

明治38年(1905年)4月1日
 「地御前尋常小学校」が「地御前尋常高等小学校」と改称される。

昭和16年(1941年)4月1日
 「地御前尋常高等小学校」が「地御前国民学校」と改称される。尋常科が初等科と改称され、高等科が接される。

昭和22年(1947年)4月1日
 「地御前国民学校」が「地御前小学校」と改称される。初等科に当る六年課程のみとなる。

 小学校に寄せる村民の思いは強く、狭小な学校地を拡張する度に無償で用地の寄附があった。また地御前からは多くのハワイ移民があったが、故郷への思いも強く多額の寄附がされた。学校地を整地する際は無償での奉仕作業の提供もされた。

 地御前は平地が少なく家屋も密集している。プールを新設する際、学校敷地の中に整備出来ず数百㍍離れた場所に造られた。

 体育館も道路を挟んだ反対側に整備されている。こうした中、児童数の増加に対応出来ないため教育委員会は新たな学校用地を求めることとした。

 バイパスを挟んだ丘の上の、民間会社が造成した住宅用地の一角を、学校用地に計画変更して求めた。

 愛着のある学校の移転には大反対運動が起き、現学校用地周辺の土地を買収して用地を拡張する案などが出されたが、既に移転用地を確保済みのため強硬に進めざるを得なかった。

 住民の説得がやっと済んだ頃からは、児童数の増加も見込まれなくなり、用地を無償提供した人からは返還の要望も出て、結局 学校の移転は白紙となった。

 その後、現学校隣接の用地を買収し整備されることとなった。

 宅地造成地を求めた新学校用地は、公園用地に変更して整備されることにはなったが、何百億円も借金のある市財政の中で、教育委員会はもう少し民意を十分把握した上での計画は立てられなかったのであろうか。
by hirosan_kimura | 2009-03-26 05:23 | 幼小中 | Comments(0)

№101 阿品の枝垂桜

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 阿品部落の奥に「枝垂桜」が満開である。

 これはダムが完成して間もない頃、阿品の老人クラブの人たちが植えられたものと言われている。「○○ざくら」と名も付いたような有名な桜ではないが、近辺では余り見られないくらいに大きく育ち、見事な花を咲かせている。

 今から何十年もすれば「阿品の枝垂桜」と有名になり、花の咲くころになるとたくさんの見物客が来るようになるかも知れない。

 場所は、JR阿品裏口の川沿いに沿って行けば、突き当たりなので分かりやすい。余り人に知られていないので多くの人が見に来ることもないが、昨日も現場に行って見ると何組かの人が見に来ておられた。

 今が盛りなので見ごろもあと数日間だけであろうが、一見の価値はある。

 かつて田圃や畑に囲まれていた阿品であるが、奥のほうまで足を延ばせば、昔の阿品の雰囲気が僅かではあるが味わえる。途中の山側には、山桜・馬酔木・藪椿も咲き誇っている。
by hirosan_kimura | 2009-03-25 03:57 | 植物 | Comments(0)
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 昨年12月13日に開始した「ふるさと 阿品 よもやま」も100回目を迎えた。在宅の日は欠かさず投稿してきたが、阿品限定のため回を重ねる内にネタ探しも段々と困難と成ってくる。

 以前「ひろさんのひとり言」で投稿していたが、文字ばかり・内容が面白くない・文章が固いということで、極めて評判が悪かった。開いて見る人も殆どいなかった。

 ブログを止めようかと思ったが、折角開いたものを止めるのも惜しく、中味を替えて出しているものである。

 退職間もない頃、公民館の歴史講座を受講した。この時は廿日市の歴史がテーマであった。受講後ある人が「身近な阿品の歴史を知りたいと」質問された。講師は「阿品には語るべき歴史はありません」との回答であった。

 このとき何百年も人が住み続けた阿品に、語るべき歴史がないとは失礼な話だと感じた。

 そこで少し阿品の歴史を調べて見ようと思った。まず廿日市町史の中で阿品に関連した部分を抜粋。家にある本の中でも抜粋。市立図書館・公民館の図書を調べる。

 県立図書館・県立文書館(もんじょかん)に行き調べる。色々調べた結果、ひとつの自治体に関する文書は多数見つかるが、阿品に限定する資料は極めて少ない。統計も地御前村単位ではあるが、一部落単位での統計は極めて限られたものである。

 文書館では明治時代からの新聞を閲覧できる。この中で阿品とある部分を抜粋しようと見掛けたが、昔の新聞をコピーしているので不鮮明な部分も多く、昔の文書体なので難しく途中で諦めてしまった。全部目を通せば面白い記事もあるであろう。

 その他、阿品生まれのお年寄りの話しを聞き取ったり、少しずつ資料を集めた。残念なのは昔の写真が中々手に入らないことである。多くは家を建て替えたり、写真を撮影した人が亡くなった際処分されている。

 一枚の不鮮明な写真の一部を拡大し、何通りにも使用しているがこれも限界がある。インターネットで検索し画像やイラストを使っているが、著作権違反かも分からない。

 色々集めた資料も段々少なくなりネタも無くなりそうである。

 このようにして作っているが見る人も限られている。①余り宣伝しないのでブログの存在が知られていない。②阿品限定なので阿品にゆかりの無い人は興味ない。③阿品に縁のある人でも歴史に興味の無い人が多い。④内容が固くて面白く無い等の理由らしい。

 ネタも少なくなり内容も益々面白くなくなるため、これからは見る人も限られて行くだろう。しかし、阿品の記録を残すことを目的に出来るだけ長く続けて行きたい。 
by hirosan_kimura | 2009-03-24 04:22 | その他 | Comments(3)

№99 阿品のダム

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 阿品部落(阿品二丁目)の最深部に灌漑用のダムがある。このダムはニュータウンが造成される際、阿品の田畑に水を供給する目的で造られた。

 このダムは昭和50年11月に完成しているが、当時は今と違い田畑が沢山あった。これらの田畑は住宅化により今では随分少なくなっている。

 ダムが出来るまではこの奥には深い谷があり、谷の奥まで田畑があった。又、この谷には今から500年以上前に造られたと推測される、「「阿品積石古墳」と名付けられた古墳も残っていた。

 遠い昔、海岸沿いの道路が無い頃、地御前から山越えをし鰆浜に抜け、阿品の谷を通り大野に抜ける道もあった。

 大型団地の造成により、山は削られ谷は埋められこれらのものは全て無くなってしまった。
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 ダムが完成後誰かが放流したのか、鯉やその他の魚がいつの間にか住み付いていた。子ども達はこの魚を釣ったり、水辺で遊んだりしていた。20年くらい前、水辺で遊んでいた子どもが足を滑らせ水死したことがある。

 それ以来池の周りにはフェンスが張られ、進入禁止となっている。
by hirosan_kimura | 2009-03-23 20:11 | その他 | Comments(15)

№98 阿品台西小学校

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 昨日は阿品台西小学校の卒業式に招待され参列した。男子42名 女子32名 合計74名のの子ども達が巣立っていった。このうち地域の中学校に入学するのは59名だそうである。

 50数年前に地御前小学校を卒業した日のことが、懐かしく思い出された。

 昭和54年4月に177名の児童で開校した阿品台東小学校が、開校後4年間で1,150名までに児童数が増加し、第二の小学校の新設が急務となり、昭和58年4月1日に阿品台西小学校が開校した。

 校区は阿品台西と阿品一丁目から四丁目であった。開校時は12クラス373名の児童数であった。一時小子化の影響で毎年20~30人の児童数が減少していたこともあったが、マリナタウウンのマンションの建設により、今では児童数も安定している。

 現在の在児校数は480人であるが、かつてはマンモス校であった阿品台東小学校の児童数を上回っている。

 阿品の子ども達は西小学校の開校により転校を余儀なくされた。入学時は地御前小学校。阿品台東小学校の開校により転校。更に西小学校の開校で再度また転校と、住所が移転した訳でもないのに二度も転校を強いられたのである。

  このため高学年だけでも、卒業まで東小学校に在学出来るよう要望したがそれも叶わなかった。阿品一丁目の子ども達は東小学校の方が近く、西小学校は登下校に時間を要するので、阿品一丁目だけでも東小学校に残れるよう要望したが、それも叶わなかった。

 結局、阿品一丁目の子ども達は校区外通学の申請を教育委員会に提出し、阿品台東小学校に通学した。今では阿品一丁目の校区は阿品台東小学校となっている。

 他では児童数の減少により、学校の統廃合が進められているが、阿品の子ども達は小学校の開校により、住んでいる家は変わらないのに、小学校は二度も転校しなければならなかったのである。

 廿日市市に金剛寺小学校がある。この小学校は宮内小学校・地御前小学校の児童数が増加したため、宮内の串戸地区、地御前の一丁目・二丁目を校区として新設されたものである。

 しかし、学校は開校したのに地御前一丁目・二丁目は金剛寺小学校への転校を拒否し、未だに地御前小学校のままである。

 このため金剛寺小学校の児童数は僅かで、一時は校庭にぺんぺん草が生えていると揶揄されたこともあった。教育委員会は学校の新設や校区の変更の際、事前に地元との事前協議を行わなかったのか不思議で堪らない。



本日より三泊四日で、金沢の息子の所に行くので、21・22日は休稿。
by hirosan_kimura | 2009-03-20 04:23 | 幼小中 | Comments(0)