素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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№50 阿品の人口

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 阿品に何時の時代から人が住み始めたかは定かでない。かつて阿品台団地が造成される以前に、阿品の谷の奥に「阿品積石古墳」があった。当時は1200年前に造られた物と推測されていたが、団地造成の際発掘調査の結果では500年程度前に造られた物と判明した。

 阿品には古い時代の創建と言われる「岩鏡神社」があるが、記録も残っていず何時の時代の物か分かっていない。

 元禄4年(1691年 今から318年前)の文書に、阿品には「阿品屋」「岡本屋」「小田屋」の三軒の農家が有ったとの記録がある。当時はいくら大家族といえ、三世帯では多くても十数人の人口ではなかったであろうか。

 文政10年(1827年 今から182年前)の地御前村図絵では、阿品に7軒・下田尻に1軒の家が描かれている。この絵図が家屋数を正確に現しているかは定かでないが、総世帯数は8世帯で総人口はせいぜい50人程度ではないかと推定される。

 その後の世帯・人口の推移は分からないが、昭和28年9月 阿品の人口298人・世帯数65世帯とある。昭和29年1月 鰆浜の人口302人・世帯数38世帯とある。鰆浜が世帯数に対して人口が異常に多いが病院があったことによるかも知れない。

 いずれにしても今から50数年前までは、阿品全体で人口600人・世帯数100世帯余りであった。

 その後、徐々に人口・世帯数も増えて行ったが大きな変動は無かった。しかし、昭和52年 ふじタウン 570区画、廿日市ニュータウウン 3,500戸の団地が造成され、マンションの建設が続いた。

 一昔前には僅かな人口・世帯であった阿品も、世帯は5,000戸以上・人口15,000人を越え大きく変貌したのである。 
by hirosan_kimura | 2009-01-31 04:38 | 人口 | Comments(0)
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昭和53年8月1日 田尻駅(現広電阿品駅)が開業する。
 駅のある阿品三丁目の鼓ケ浜団地は昭和46年6月に入居が始まったが、目の前の国道は広電の線路と分断されていた。

 広電を利用するためには遠く離れた阿品駅(現阿品東駅)まで歩いて行く必要があった。勿論JR阿品駅も無く長年不自由な生活が続いた。

 昭和49年4月23日に開業した「広島ナタリー」に来場する広電利用者も阿品駅を利用し、駅から遊園地まで歩いて行っていた。

 田尻駅の開業により、鼓ケ浜団地居住者・ナタリー来園者の利便性は飛躍的に増した。

 平成元年には近くにJR阿品駅が開業する。平成11年7月10日 ふじグランナターリーが営業開始した。

 「JR阿品駅」から「田尻駅」に行くには、大回りをして阿品陸橋を利用しなければならなかった。また、「JR阿品駅」利用者が「ふじグラン」に行くのも不自由であった。

 このためJR駅から直接、国道2号線・広電宮島線を越える横断陸橋が平成12年6月8日に完成し、大幅に利便性を増すこととなった。

 平成12年8月1日には広電田尻駅が東に約70㍍移設された。これにより「JR阿品駅」「ふじグランナタリー」「広電田尻駅」相互の利便性が一層増すこととなった。

 平成13年11月1日には「JR阿品駅」との名称を統一するため、「広電田尻駅」は「広電阿品駅」に駅名が変更された。これと同時に従来の「広電阿品駅」は「広電阿品東駅」と改称された。

  広電阿品駅から阿品台方面に行くバス停留所は、道路と停留所との間の狭いスペースで、不便でもあり危険でもあった。

 これを解消するため、停留所と道路の間の壁を撤去し道路もかさ上げされ、電車とバスの停留所とを共用することとなった。これにより、バスを待つ間の危険も無くなった。バスへの乗車も停留所とバス乗車口との段差が無くなり、高齢者等の利便性は一層増した。

 広電の停留所で、電車とバスを共有しているのは「阿品駅」のみではなかろうか。
 
 旧田尻駅は陸橋の真下に、当時の面影を偲ぶことが出来る。
by hirosan_kimura | 2009-01-30 06:23 | 広電 | Comments(2)

№48 広電 宮島線

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昭和17年4月 
 広島瓦斯電軌㈱は、交通部門を分離し広島電鉄㈱となる。

昭和19年7月21日 撤去軌条(レール)を市内皆実線に転用するため、廿日市~宮島口間の下り線レールが撤去され単線運転となる。市内皆実線は7月27日に開通し、広島駅~宇品港間の運航距離が大幅に短縮された。

昭和25年7月24日
 廿日市~宮島口間が複線運行に復帰する。複線復帰工事中、作業をする人達が居ない時間帯を狙って、子ども達は工事用のトロッコに何人かが乗り、別の子どもに押して貰いレールの上を行ったり来たりして遊んだ思い出が微かに残っている。

昭和43年3月17日
 西広島バイパス工事のため、鰆浜の線路約920㍍が最大35㍍海側に移設する工事が行われた。これによりこの区間の線路の延長は930㍍となり10㍍長くなった。

 この工事のため「火立岩」が消失してしまった。

昭和53年8月1日 「田尻駅」が開業する。

平成11年6月9日
 超低床電車「グリーンムーバー」の運行が開始される。この電車はドイツで製造され、3月13日にロシアの大型輸送機「アントノフ」で空路広島空港に輸送された。

「開業85周年は宮島線開業でなく、市内線開業である」

 
by hirosan_kimura | 2009-01-29 06:03 | 広電 | Comments(2)
e0125014_13444366.jpg 広島電気軌道㈱は明治43年(1910年)に設立され、大正元年11月23日、市内線の営業を開始している。

大正8年9月30日
 同社と広島瓦斯㈱とが合併して設立された広島瓦斯電軌㈱より、宮島線鉄道敷設免許申請書が出される。この内容は、広島軽便鉄道㈱が所有する、己斐~草津間の軽便鉄道敷設権を譲り受け、改めて草津より大野村に至る地方鉄道敷設を計画したものである。
 
 申請を受けた県知事は、この件について関係町村に対して支障の有無を諮問したが、各町村の回答は「支障なし」とするものであった。

大正8年12月6日 宮島線草津~大野村間の鉄道敷設が免許された。 

大正9年11月6日 宮島線の大野村までの工事施工が認可された。

大正12年12月27日 鉄道敷設地御前村公有水面埋立申請
出願人 広島瓦斯電軌道㈱
場所及面積 地御前村字鰆浜及字阿品地先
埋立総面積  三千弐百五拾六坪七合八勺
内民有地となる鉄道敷地 三千弐百拾五坪四勺
官有となる溝居敷    三十四坪五合五勺
官有となる雁木敷    七坪弐合
工期         免許日より起算して六月以内に着手。
           着手の日より起算して壱ケ年以内に竣工。

己斐~草津間   大正11年8月22日 営業開始
草津~廿日市間  大正13年4月 6日 営業開始
廿日市~地御前間 大正14年7月15日 営業開始
地御前~新宮島間 大正15年7月16日 営業開始
新宮島~宮島間  昭和 6年2月 1日 営業開始 

 昭和6年の宮島(現広電宮島駅)までの開通と同時に、新宮島駅と新宮島駅~厳島間の航路が廃止され,阿品駅(現阿品東駅)が設置された。

 この区間は着工から5年以上の工期を要したが、この区間約2.5㎞のほゞ全区間が海岸の埋立を要し、漁業組合との協定・官庁との認可などに期間を要したこと、また工事は干潮時に限られる等により、大幅に工期が遅れたものである。
by hirosan_kimura | 2009-01-28 04:06 | 広電 | Comments(0)
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 現在宮島線を経営する「広島電鉄㈱」の前身は「広島瓦斯電軌㈱」であるが、それ以前に宮島線を敷設申請をした別会社があった。何れも実現性が乏しかったり、会社の事情により実現に至らなかった。

厳島鉄道㈱出願、広島~阿品間の鉄道敷設願書が、明治28年(1895年)9月17日に却下される。
明治28年9月18日 芸備日日新聞
 予て出願中なりし中西米介外八名より出願に係る、厳島鉄道株式会社(広島及阿品間)の願書は、昨日却下せられたりしが、右は客月廿八日以来の鉄道会議にて否決せられしを以って、斯くは却下せられたるものなれども、此鉄道最早時勢後れの厄介物にて、実は発起人にありても持て余したるものな利子ならん。

明治45年1月31日。広島電気軌道株式会社より、己斐・大野村間の軽便鉄道敷設願いがだされる。

明治45年3月13日 軽便鉄道敷設願い却下。
 この願いは国有鉄道と並行するもので、敷設の必要が無いと内閣総理大臣より、「聞届ケ難シ」と却下されている。

大正5年12月8日、再度広島電気軌道株式会社より鉄道敷設の申請が出される。
宮島線軌道敷設特許申請書
 私共は今般、広島県佐伯郡己斐町字才崎己斐駅前より、同県同郡草津町・五海市町・廿日市町・地御前村を経て、同郡大野村赤碕宮島停留所前に至る間に電気鉄道を敷設し、一般運輸の業を営みたいので御許可願います。軌条条例取扱第一条により、別紙図面・関係書類を添えて申請します。

 この申請は関係町村の意見が整わず、またその路線が国有鉄道と並行するもので、その必要は認められないと却下された。

 現在の宮島線が開通する以前に、別会社で三回の申請が出され認められなかったのである。
by hirosan_kimura | 2009-01-27 04:38 | 広電 | Comments(0)
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 山陽自動車道は阿品地域を通過していず、阿品とは全く関係ないようであるが、大いに関係しているのである。

 この道路は昭和62年12月18日には廿日市JCT~大野IC間が供用開始された。大竹IC~岩国ICは昭和63年3月29日に開通している。

 その間の大野IC~大竹IC間が開通したのは平成2年11月27日と,前後のICまでの完成より3年近く遅いのである。この遅れが阿品と大いに関係しているのである。

 高速道を廿日市方面から大竹市に入ると間もなく、山でも無いのにトンエルのような中に入る。これは高速道路の脇に大きな病院があるため、騒音や排気ガスなどの影響を受けないようにするためである。

 当初の計画ではこの病院を移転し高速道路を整備する予定であった。この移転先が鰆浜の県病院跡地であった。

 この計画が発表されるやいなや、阿品地域では大反対運動が展開された。高速道路の整備は着々進んでおり、病院が移転しないと道路計画も見直さなければならないので両者必死の説得が行われた。結局、地元の強力な反対運動で阿品への病院受け入れは断念された。

 新たな移転用地を見つけるのは困難で、この間に道路整備の工事は遅れトンネルのような高速道路が完成した。

 ちなみに廿日市~岩国間は山陽自動車道でなく「広島岩国道路」が正式名称である。広島岩国道路は国道2号線の交通混雑を図るため、昭和48年に「一般有料道路」として認可がおりた事業であり、山陽自動車道は昭和53年施行命令が出された「高速道路」である。

 広島岩国道路は先行して事業着手したが、山陽自動車道を整備するにあたって並行して道路を整備するのは無駄が多いので、この間は「広島岩国道路」に「山陽道」を取り付けたものである。
by hirosan_kimura | 2009-01-26 04:08 | 道路 | Comments(0)
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 開通当時に道路の広さに阿品の人々が驚天した国道2号線も、車社会の到来により狭隘となり、朝夕の通勤時には交通渋滞が起きたり、盆や正月の帰省時には車が数珠繋ぎとなり、バイパスの整備が必要となった。

 昭和40年に西広島バイパスの整備が事業化され、昭和42年に工事着手、昭和46年8月11日に広島市観音から五日市までは暫定2車線で供用開始された。なお、同線が4車線化されたのは、昭和49年4月2日である。

 昭和43年には五日市~阿品までの用地測量が開始された。当初の計画では地御前のJR線路を越えた附近から山を削り、鰆浜は国道2号線沿いの家屋を立ち退かせ、お上がり場向かいの山を削り2号線を拡張するものであった。

 計画が発表されると鰆浜地区住民は、長年住みなれた家を立退かなければ為らず大きな衝撃を受けた。家屋移転の代替地を考えたり、金融機関は立退き補償料を当てに各家庭を預金獲得に廻ったりもした。

 阿品三丁目の鼓ケ浜は、バイパス立退者の代替用地として造成されたもので平良・宮内・地御前の立退者が数多く移転されているが、当時は広電の駅もなく陸の孤島のような場所であったので、鰆浜の人々は鼓ケ浜への移転に難色を示していた。

 鰆浜は小さな部落で2号線沿いを帯状に立退家屋があると、残された家屋も少なくなり部落としての機能が成立たなくなる。それと長年住みなれた地域を離れたくない思いもあり、部落を挙げて立退き反対運動を起こすこととなった。

 一旦発表された国の計画を覆すのは無謀とも思われたが、粘り強い反対運動の結果、計画が見直され海を埋立て電車線路を沖側に移動し、道路用地を確保することとなった。

 国が発表した計画を小さな部落の力で動かしたのは、全国でも余り例が無いと言うことである。結局バイパスの整備により家屋の移転を余儀なくされたのは、阿品部落の2世帯のみである。

 昭和49年4月3日、西広島バイパス五日市~阿品間が完成し、正午より供用開始された。
 
by hirosan_kimura | 2009-01-25 05:58 | 国道 | Comments(0)

№43 新国道 その2

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昭和7年(1932年)4月10日 芸備日日新聞
宮島観光道路竣工報告式
 きのふ廿日市小学校で挙行。余興あり非常に賑ふ。総工費四十二万一千五百円。使用延人員十二万九千二百一名で、内務省が失業救済事業として昨年から着工した。

 広島市外から宮島に至る六キロ半の宮島観光道路は、癀報(こうほう)の如く竣工され、八日午前十一時から廿日市小学校校庭で厳島神社宮司菊池武文斎主となり、荘厳な道路竣工を挙げ、千葉知事(内務部代理)その他来賓数氏の祝賀があった後、斎主以下神職を乗せた自動車を先頭に、参列員の分乗した数台の自動車が之につゞいて晴の通り初めを行ふ。

 式典を終って盛大な祝賀会を催し、午後二時万歳盛裡に散会したが、引きつゞき同二時から余興の花角力を始め青年団の駅伝競走、廿日市券芸妓の手踊り等が催されて、式場廿日市を中心に観光道路沿線は、終日お祭り気分が漂ひ、見物人で雑踏を極めてゐた。

 昔お年寄りから聞いた話であるが、道路が出来た時その広さにビックリ仰天し、何でこんな無駄な物を作ったのか不思議に思ったそうである。何かの時には飛行機が離発着するのではないかとも噂したそうである。

 どこまで本当の話か分からないが、通る車は朝チゝヤスの牛乳を広島まで運ぶ車が通り、夕方また帰って来るくらいで後はたまに馬車が通った程度だそうである。

 当初砂利道であったが、昭和11年に道路の中央部分のみコンクリート舗装された。私が子どもの頃もそのままで、道路の両脇は2㍍くらい砂利のままであった。

 今の交通量からみると信じられないが、夏休みには道路の端でラジオ体操をしていたこともあった。

 台風が来ると国道の真中で大きな風呂敷の端を二人で縦に持って、大風を風呂敷に受けその勢いで国道の真中を走り廻って遊んだこともある。

 昭和27年12月4日には一級国道2号(大阪市~門司市),昭和40年4月1日には一級・二級の区別が無くなり、一般国道2号となった。
by hirosan_kimura | 2009-01-24 05:57 | 国道 | Comments(0)

№42 新国道

 明治時代に完成した海岸沿いの道路は、地御前では旧村道を利用したため道幅の狭いところがあったり、その他の場所でも海岸に沿って道路を造ったため曲がりくねっている場所もあり、新たに近代的な道路を整備することが計画された。

 阿品附近では大正15年月頃より国道の拡幅と、広電宮島線を宮島口まで延長するため、海岸の埋立が行われた。沖山橋から火立岩まで約250坪、火立岩からお上がり場まで約3,700坪、お上がり場から田尻まで約4,800坪の海岸が埋立られた。

 埋立に必要な土砂は、沖山・鵯山・お上がり場山鼻・田尻山を削って使用した。このため入り組んでいた阿品の海岸線の景観は比較的単調なものとなってしまった。

 昭和6年4月には内務省直轄の元に新国道整備の起工があった。五日市~宮島口で延長6,557㍍、有功幅員11㍍の道路であった。総工費44万円余を費やし、延人夫129,211人と記録されている。ちなみに人夫賃は男1円・女45銭とある。
e0125014_16483640.jpg この工事は海を埋立てる難工事であったが、中でも鵯山の掘削・沖山橋による広電との立体交差工事が最も難航したと言われる。土木技術や重機等の発達していない当時としては難工事であったのであろう。

 新国道は昭和7年3月に完成した。当時は舗装も無く砂利道であった。
by hirosan_kimura | 2009-01-23 06:00 | 国道 | Comments(2)
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明治26年(1893年)10月20日 芸備日日新聞
廿日市の国道
 佐伯郡にては廿日市以西の国道は非常に破損し、車馬の通行も出来ざる程に至りたれば、近日九州より帰営する小機動演習隊の通行にも差閊(さしつか)ふればとて、同郡長より其修繕方を昨日本県知事へ上申したりと。

大正9年
 旧国道法により国道2号は延長され、東京市より鹿児島まで路線認定される。

昭和5年(1930年)1月7日 芸備日日新聞
己斐・宮島間乗合自動車開通
 広島バスが七日から宮島線運転す。初発午前七時 終発は午後六時 一時間半毎に発車。
 
 広島バスでは、先年姉妹会社である広島ガス電軌が獲得した、己斐・宮島(省線)間乗合自動車営業権を譲り受けて、いよいよ七日から同区間の一般乗客輸送することに決し、五六の両日これが試運転を行うふたが頗る良成績であった。

 なほ同線使用の自動車は十四人乗りの新型で、当分毎日午前七時初発午後六時終発とし、一時間半毎に発車することになってゐるが、同線の開通によって沿線町村民の蒙る利便は至大とされてゐる。

 なほ己斐間の各停留所は、己斐ー高須ー古江ー草津ー梅林入口ー井ノ口ー八幡橋ー五日市ー廿日市ー平良ー宮内ー地御前ーさば浜(鰆浜の誤字?)-宮島の十二区にわかち、賃銀は一区間五銭、全区六十銭であること。
 
by hirosan_kimura | 2009-01-22 06:00 | 交通 | Comments(0)