素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 地御前村広報紙による部落紹介

 郷土史によると、当部落は承安四年三月十九日、後白河法皇が宮島に参詣された時、ここから西方の風景をご鑑賞になったので「ショウランバ」と称されたのが「鰆浜」となったということです。

 今から二十年も前は、数得るほどしか家並みの無かったこの部落も総戸数 二十三、世帯数三十八、人口 三○二と相当の発展を遂げています。

 また、東側山の手は別荘地として適し、今でも盛んに埋立てられスマートな家が次第に多くなっています。

 さて最近部落内では、お互いに明るい生活を送りましょうというので、いわゆる生活改善の第一歩を踏み出しております。以下参考までにその申し合わせや取り決めたことをお伝えして、皆様のご支援を仰ぐわけです。

 まず環境衛生面では、一, 便所掃除 毎月二回。 一, 薬品噴霧 輪番制。 一, 下水掃除 毎月一回。 一, 井戸さらえ 年一回。 一, 野壷の蓋 来春までに。

 次に社会面では、一, 葬儀 1 講中葬家の飲食取り止め。 2 酒三升以内とする。 3 お布施 本坊五百円以内 役僧二百円以内。

 一, 見舞(病気)・出産 50円。返礼は一切しない。 一, 旅行のみやげ物禁止。   一, 訳の分からない寄附や募金は部落として拒否。 一 ,年一回の親しみを増す部落のレクレーション。

 以上大まかではありますが、このようなことが各部落に次々と作られ、範囲の広い運動になるよう鰆浜から希望します。

 「野壷の蓋」「井戸さらい」など今の人はなんのことか分からないであろう。
by hirosan_kimura | 2008-12-31 05:37 | 鰆浜 | Comments(0)
e0125014_5482542.jpg 一口に「阿品」と言うが「阿品」には二つの意味がある。。広義の「阿品」と狭義の「阿品」である。広義の「阿品」は地御前村の飛郷としての「阿品」。狭義では「字」としての「阿品」の二つである。

 文政2年(1819年)の地御前村下調帳では「当村には49の字があり、この内 阿品・鰆浜・上田尻・下田尻の肩には「飛郷」と記されている。」 この4つの「字」が広義の「阿品」である。4つの「字」の中の「阿品」が狭義の「阿品」を指す。

 現在、広義の「阿品」は住居表示により、阿品と阿品台に町名設定されているが、阿品台は山地を開発した団地である。

 「鰆浜」は新住居表示で「阿品一丁目」となっている。この中の「阿品一丁目1番~5番」は本来の阿品でなく地御前に所属していた。1番から3番は新しく出来た小規模団地「光が丘」であるが、4番・5番は古くから家屋があり鰆浜部落と一体となって生活していた。

 狭義の「阿品」は、ほぼ現在の「阿品二丁目」である。「上田尻・下田尻」は狭義の「阿品」と一体となり長年生活を送ってきたが、現在では「阿品四丁目」となっている。四丁目はふじタウウンが大半を占めている。

 「阿品三丁目」は昔は当然海の中である。

 「阿品台一丁目・東・北」の大部分は本来の「阿品」で無く地御前であった。「光の園」は現在でも地番は「地御前」となっている。当然「阿品台東」の日赤看護大学も本来の「阿品」ではない。

 阿品地域以外の人が言う「阿品」は「阿品・鰆浜・上田尻・下田尻」を指し、この中の「鰆浜」の人が言う「阿品」は狭義の「阿品」、現在の「阿品二丁目」のみを指す。

 ややこしい話であるが、阿品に生まれ育った人でないと、何が何だか分からないのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2008-12-30 06:38 | その他 | Comments(3)
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  鰆浜の地名は文政2年(1819年)の「国郡志御用下調書出帳」に「此浜、鰆を引き上げたる事あるにより以来、鰆浜と言うとの説あり」とあり「阿品」の地名の由来が不祥なのに対して、極めてはっきりしている。

 「鰆浜」以外にも様々な古い呼称がある。

「聖覧場 しょうらんば」
 承安4年(1174年)3月19日に、後白河法皇が伊都岐島(厳島)に参詣された際、この地より四方の風景をご鑑賞になられたことに由来する。

「上覧場 じょうらんば」
 聖覧場の別標記。

「上覧浜 じょうらんはま」 
 上覧場の別標記。

「勝覧場 しょうらんば」
 天文24年(1555年)9月30日、毛利元就がこの地より出陣した「厳島の合戦」で勝利したので、「聖」を「勝」と当てはめた。

「相覧場 そうらんば」
 聖覧場の「聖」が「相」に変わったもの。この呼称が一番近年まで使われている。自分達が子どもの頃 極普通に使っていたが、同一場所に「鰆浜」と「相覧場」の二つの名称があるのを不思議にも思わなかった。今でもたまにお年寄りの中には極稀に使う人もある。
by hirosan_kimura | 2008-12-29 08:04 | 地名 | Comments(0)

№16 地名「阿品」

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 「阿品」の地名の由来は諸説あるが、残された文書も少なく確定できる証拠はない。天正8年(1580年)の文書には「アシナ」、元和5年(1619年)の文書には「阿字名村」と記されている。

 阿品の標記には「あしな」「アシナ」「アジナ」「阿字名」「阿品」等が古文書に残されている。

 地元では、神武天皇由来説、阿品の神社の氏神の一つ「足摩乳命(アシナツチノミコト)」に由来説が言い伝えられているが、神武天皇由来説は信憑性が薄く、足摩乳命由来説は学者によると祭神を地名とするのは極めて例が少ないと言われている。

 現在の標記「阿品」は「阿」にも「品」にも意味は無く、「あじな」の発音に漢字を充てたに過ぎないらしいが、「あじな・あしな」も「あ」と「じな・しな」でなく、「あじ・あし」と「な」と解釈するほうが、地名の解明に繋がると言われる。

 「あし」「あじ」は低湿地・崖地・端・谷の奥・葦の生えた所・網等を意味し、「な」は魚・波・鳴るの古語・場所・野・沼地・浦等の意味がある。

 以上推測すると、「漁業関係由来説」と、自然・地形に由来し「低湿地の土地」「崖のある土地」「谷の奥の土地」等から来た地名との考えもあるが、何れも推測の域を出ない。

 近辺に宇品(うじな)・丹那(たんな)・日宇那(ひうな)・温品(ぬくしな)と語尾に「な」の付く地名がたくさんあるが、「あじな」の「な」と関係あるのではなかろうか

 別の説では、昔阿品の海岸沿いは海水と淡水が入り混じり、アシ(芦)やハマツナ等の植物が沢山生えていた。アシの沢山あったところから「アシナ」の地名が生まれた説もある。

 岩国市の山間部にも「阿品」という地名がある。この地名の由来は行基菩薩がこの地を訪れた際、山の峯に「阿」の字を見たと言われるもので、「阿」は密教では特別の意味があるらしい。
 この地の「阿品」は「阿志南」「阿字名」とも標記された。

 岩国の「阿品」は、我々の住む「阿品」とは何の関係も無いらしい。
by hirosan_kimura | 2008-12-28 06:16 | 地名 | Comments(0)

№15 「カルバルト」

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 鉄道の下を潜り阿品の奥に入るガード下を、地元では「カルバルト」と呼んでいる。外国語の引用であろうが語源は分からない。

 今では阿品の奥に入る道は鰆浜側・阿品台から武田団地経由・ふじタウンからと整備されているが、かつては自動車の通れる唯一の道路であった。

 壁部分の沖側半分は石組み、奥側はコンクリート造りと中央から丁度半分部分で構造が異なっている。

 石組み部分は明治30年(1897年)9月25日に、山陽鉄道の広島~徳山間が単線で開通したものである。コンクリート部分は昭和3年(1928年)6月27日に廿日市~宮島(宮島口)が複線化されたものである。

 普段何気なく通っているが、鉄道の歴史が直接目で覗える面白い場所である。

 この道は天井高が低く荷物を高く積んだ車は通れない。昔、他の地域から阿品に嫁入りする場合、少しでも高く嫁入り道具を積み、わざわざ入口前で荷物を降ろし車だけを通し、奥側でまた荷物を積み直して通ったそうである。

 これで、この嫁入り道具は豪華で沢山あるということを自慢したのだそうである。子どもの頃、年寄りから聞いた話である。今はこんな馬鹿なことをする人は居ない。

 それにしても「カルバルト」とは不思議な名称である。どなたか語源の分かる方はないであろうか。

12月29日 追記
 コメント頂いた方により、「カルバルト」は「カルバート」と判明する。
「カルバート 暗渠(あんきょ)」 用水や排水のための水路が、道路・鉄道・堤防などの下に埋設されたもの。
by hirosan_kimura | 2008-12-27 03:22 | その他 | Comments(4)

№14 宮島競艇

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 宮島競艇場は阿品に隣接した宮島口にある施設であるが、開催日には阿品にもボートのエンジンの騒音がなり響く。

 この施設は昭和29年11月1日に初開催が行われている。入場者の多い時代は、広電・国鉄とも大混雑する時もあった。

 中にはお金を使い果たし、帰りの運賃も無く広島方面まで歩いて帰る人もあり、阿品の国道をトボトボと歩く姿も見受けられた。

 当初、地御前村・宮島町・大野町で共同開催する計画もあったが、地御前村は賭博のお金で村の財政が潤っても、青少年に悪影響を与えると脱退し大竹市が参加した。

昭和29年6月25日 競艇場設置に反対する、地御前村教育委員会の意見書。
 教育全般に渡って思わしくない影響を及ぼすものと憂慮する。
1 村民の浮薄的気分を醸成し、家庭の生活に円満を欠く恐れがある。
2 特に青少年不良化の誘因である。
3 児童・生徒の教育的見地から、思わしくない環境をつくることとなる。
4 一旦設置すれば永久に賭博的施設として、村内の風紀を甚だしく乱す恐れがある。
5 その他教育行政上、種々の弊害を有する。

 この競艇場は宮島町の主体といいながら、事実上本村内に設置するも同様であって、これに反対することは村民全体の与論である。

 今は入場者も激減しているらしいが、競艇のお陰で宮島町・大野町・大竹市は財政が潤ったものである。
by hirosan_kimura | 2008-12-26 03:54 | 娯楽 | Comments(0)
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  昔、神武天皇が阿品に来られ水を飲まれて「此処の水は味が無い(あじがない)」と言われた。これが阿品の地名の由来である。子どもの頃、お年寄りから良く聞いた話であるが本当のことだろうと思っていた。

 しかし神武天皇は神話の中の人で、歴史学者の中には神武天皇の存在そのものを否定する説もある。

 神武天皇は前667年10月5日に日向の国を出発され、大和国を目指し東征され、その途中で宮島に寄られた後、船で地御前の「有府の水門」に着岸された。有府の水門は地御前神社南の入江で、現在でも僅かに面影が残されている。

 地御前で休憩された後、海岸沿いに船を進め串戸に入られしばらく宮内に滞在され、12月27日に府中埃宮を訪問された。 「宮内」「串戸」等の地名は神武天皇に由来すると伝えられている。

 伝説によると神武天皇が阿品に寄られた形跡は無く、神武天皇が阿品で水を飲まれ「味無い」と言われたのが、阿品の地名の由来と伝えられているのは疑わしい。

 この言い伝えは後世の人の作り話で、いつの時代か分からないが阿品の人々に語り継がれてきたものであろう。

1月9日追記
 阿品の水を飲んで「味無い」と言われたのは、神武天皇でなく弘法大師との説もある。弘法大師伝説は全国至る所にあり、その大半は後世の人の作り話が後に、あたかも真実の如く伝わっているものと云われている。果たして弘法大師が阿品に来られて水を飲まれたかは、永遠の謎であろう。
by hirosan_kimura | 2008-12-25 04:32 | 伝説民話 | Comments(0)
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 昭和8年10月に下田尻の海岸に「田尻飛行場」が開設された。場所は現在廿日市高校の艇庫があるあたりである。

 飛行場と言っても水上飛行機が使用され、滑走路は無く簡単な設備が設けられていたのみらしい。

 この飛行場は「鼓ケ浜航空学校」と「宮島航空研究所」として開設されたものであるが、事実上は二枚看板の一施設で、航空士の養成をするかたわら、遊覧飛行も行っていた。

 遊覧飛行は水上飛行機による宮島一周で、料金は一人五円・飛行時間は約15分・飛行距離は約30㎞であった。

 遊覧希望者は多かったが安全性に欠けていたため、開始されて間もなく遊覧飛行は中止となった。

 養成所は昭和16年頃廃止された。
by hirosan_kimura | 2008-12-24 05:38 | 交通 | Comments(0)

№11 監視山

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 鰆浜と阿品を分断し海岸まで伸びた丘を「監視山」と言う。また「神馬山」「勘七山」との呼称もある。

 先端部は「神馬鼻(じんねいばな)」「神めいの鼻」「神馬山鼻」「神馬ガハナ」等の地名が伝えられている。

 高さは約40㍍で、拝床山と田尻山の中間にあり、前面に海を控え似の島や厳島が眼下に見える。

 阿品谷の奥から更地峠を越えれば、大野村海岸方面の情報が入手でき、中山峠を通れば旧山陽道の情報が入手できる。

 又、尾根伝いに神能山に登れば遠方まで見渡せるため、敵軍の行動を見守るという軍事上の情報蒐集の拠点と言われた古地名である。

 国道の新設のため先端部は大きく削られているが、かつては松の木も生茂り昭和30年代頃までは「まつたけ」も沢山採れていた。

 今では信じられないが、国道側の丘からから清い水が流れ落ちていたが、いつの間にか涸れてしまった。

 阿品側は一時「新宮島遊園地」として整備され、皐月や桜の鑑賞に人々が訪れていた時代もあったが、次第に廃れて行き今は荒れ放題となっている。
by hirosan_kimura | 2008-12-23 04:00 | 地名 | Comments(0)
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現在の広電宮島線に今は無い駅があった。それは「新宮島駅」である。西広島バイパス出口が国道2号線を跨いだ橋脚の下の海岸添い附近である。

 広島電鉄宮島線は、己斐~草津間が大正11年8月22日、草津~廿日市間が大正13年4月6日に営業開始された。

 廿日市~宮島口間は地御前以西が海岸の埋立を要し、完成までに日数を要するため開業はとりあえず地御前までとされ、大正14年7月15日に営業が開始された。

 宮島に渡航するには地御前駅から連絡船乗り場まで離れているため、そこまで歩いて行くか自動車を利用するため、人々は不便を強いられていた。

 大正15年7月15日には線路が延長され「新宮島駅」の開業により、宮島へ渡航する人々の利便性が一層増すこととなった。

 新駅は仮停車場であったがその設備は、乗降場・側線・本屋・便所・電話機とあり、列車保安法は閉塞信号機とある。

 昭和6年2月1日に宮島線が宮島口まで延長され、同時に新宮島~厳島間の航路が廃止されたため、同日に「新宮島駅」は廃止された。
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 上の写真は小さな物を拡大したので鮮明でないが当時の駅舎で、左上は今は無い「火立岩」である。

 下の写真は反対方向から見た、駅のあった附近の現在の様子である。
by hirosan_kimura | 2008-12-22 05:25 | 広電 | Comments(0)