素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:遺跡( 5 )

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 阿品では無いが地御前に余り知られていない遺産がある。「地御前港口防波堤」で、近代化土木遺産に指定されている。

 近代化遺産は明治時代に殖産工業を目指して一気に近代化を進めるため、先進諸国の技術を導入して学び取り作り上げたもので、現代まで残されている貴重な遺産である。

 幕末頃の地御前の漁船数は50~60艘くらいであったらしいが、当時は干潟に船を繋ぐ場所があったくらいで港とも呼べない程度であったらしい。

 明治30年に山陽鉄道の敷設に伴い簡単な波止場が新設されたが、明治44年に新しい波止場を築調して港の拡張の願いが出され、以降5工区に分け波止場・防波堤・雁木が築調された。

 現在残されている防波堤は、花崗岩を谷積みし左右に70~80m延びている物で、高さは6.5mと大規模である。
 
 現存するものでこれ程大規模なものが、完全に当時の姿を留めているのは他に例を見ないほど貴重なものと言われている。

 子どもの頃から見慣れた防波堤であるが、阿品から極近い場所にこのような貴重な遺産が残されていることに対して多くの人たちに改めて見直してもらいたいものである。
by hirosan_kimura | 2014-01-10 08:40 | 遺跡 | Comments(0)

№559 阿品の遺跡

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 遺跡には国指定の国宝級のものから、県指定・市指定の重要なものなど様々なものがあるが、残念なことに阿品にはそのような重要な遺跡は残されていない。

 しかし遺跡らしきものは幾らかはあるが、消滅したり荒れ果てて今ではその痕跡をたどることすら難しい。

①阿品山1号古墓 五輪塔

②阿品山2号古墓 五輪塔

③阿品積石塚 高さ3、5m、径10m、周囲35mと大きくはないが形の整った下方上円墳で古墳期前期の1200年前の遺跡と伝えられていたが、発掘調査の結果室町時代後半のものと判明した。発掘では土師質土器・磁器・スラグ等が出土している。この積石塚は阿品台造成のため消滅してしまった。阿品で唯一形あるものだったので惜しいことである。

④おかの奥谷古墓 五輪塔

⑤阿品団地斜面1号貝塚  貝層・土師質土器

⑥阿品団地斜面1号古墓 五輪塔

⑦本田家敷地内古墓 五輪塔

⑧阿品団地斜面2号古墓 五輪塔

⑨阿品団地斜面3号古墓 五輪塔

⑩阿品団地斜面2号貝塚 貝散布

⑪新宮島遊園地内古墓 五輪塔

 いずれも中性時代のものと推定されている。③の阿品積石塚以外は正式な調査もされていず、遺跡としての重要度はさほどでもないのであろう。

 現地を確認していないが今でも何かの痕跡が残されているのであろうか。子どもの頃に山裾に貝殻が散らばっているのを見たことがあったがこれが貝塚だったのだろうか。古い時代のものと思わないのでだれかがアサリを食べて捨てたのだろうくらいの認識しか無かった。興味のある人は遺跡の痕跡を探してみるのも面白いであろう。

 今では昔の面影が残っていないほど変わってしまった阿品であるが、これらの記録がのこされているのは古い時代より阿品に人が住んでいた証である。
by hirosan_kimura | 2013-07-17 16:10 | 遺跡 | Comments(0)

№364 阿品積石塚

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 県営住宅団地造成以前に、阿品の谷の奥に地元で「はみが頭」と呼ばれていた遺蹟があり、古くから清浄の地として畏敬されていた。

 場所は背後の山から流れ出る谷が二つあり、このうち西よりの谷川を遡って行くと、人家が切れるあたりから地形が狭まり、更に進むと大野に越す道の分かれ道あたりであった。

 団地の造成によりこの遺蹟が消滅するため、昭和49年(1974年)7月1日より発掘調査が行われた。午前10時より関係者出席のもとに慰霊祭が行われ、午後より草刈・テント設営・遠景近景の写真撮影を行い、7月13日に調査が終了している。

 調査の前には径約10㍍前後の円形の墳丘と想定されていたが、調査の結果は自然の地形に少し手を加え、少量の角礫(角ばった小石)を積んだだけの、小規模な積石塚と判明した。

 積石のすぐ下は花崗岩の地盤で、何らかの遺構は発見されず、積石の中に後世に混入したと思われる若干の土器・磁器・スラグ(金属を精錬する際、浮かび上がる滓)のみで、墳墓として断定できる決定的なものは検出できなかった。

 従って何時、何の目的で造られたものかは分からないが、形態的に明らかに積石塚であり、中世における厳島との関係、中世末期の厳島合戦の古戦場にも近く、中世を中心とした時期の墳墓であろうと想定される。

 発掘調査が行われるまでは、この塚は1200年前の遺蹟と言い伝えられてきたが、発掘調査の結果4百数十年前から、古くても6百数十年前に造られものと推測された。

 この積石塚のあった場所は団地造成のため谷が埋められ、今では面影も残っていない。
by hirosan_kimura | 2010-06-06 12:26 | 遺跡 | Comments(2)

№57 阿品積石古墳

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 昔阿品の谷の奥に、形の整った古墳があった。高さ3.5㍍、径10㍍、周囲35㍍と大きくはないが原型が保たれていた。

 上円部は形崩れを防ぐため径6~10cm程度の葺石で覆われ、古墳期前半の形式を示していた。発掘前には1200年前の遺跡と伝えられていた。

e0125014_12472094.jpg 阿品台団地造成に先駆け調査した結果、標高は29㍍、水田からの高さ約5㍍であった。積石塚は丘陵の先端部を削平して、径約8m、高さ1㍍程の平坦部を造り、その上に2段の石積みが施されていた。

 下段の石積みは南北7.5m、東西6.5㍍の範囲に渡っており、この下段石積みの中央部に一辺5㍍の上段に石積みが施されていた。

 積石には径約5cm前後の花崗岩角礫が使われて居り、円礫は見あたらなかった。

 石積み内部や石積みの下の地盤からは、内部施設にあたる遺構は発見されなかったが、石積みの中から土師質土器・磁器・鉄滓などが出土した。

 当初は1200年前の遺跡と伝えられていたが、発掘調査の遺物や積石の状況から、室町時代(1336~1573年)の後半の墳墓と推定された。

 この古墳は団地造成により跡形も無くなった。もう少し鮮明な写真は何処かにないであろうか。
by hirosan_kimura | 2009-02-07 06:04 | 遺跡 | Comments(0)

№29 気味の悪い遺物

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 今は無いが鰆浜に火葬場があった。この火葬場は明治17年(1884年)に「じんねい鼻」より移設されたもので、昭和43年(1968年)に町営火葬場「霊峯苑」が新設されるまで、長い間阿品の人の火葬が行われてきた。

 「霊峯苑」が出来てからも何人かの火葬が行われたと聞いたが、そのうち全く使用されなくなり、いつの間にか廃止された。

 火葬場の施設は、下の道より一段高い所にに100坪位の平地があり、吹きさらしの小屋とレンガ造りの火葬炉があったのみである。

 今でもその平地は残されているが、樹木や雑草が生い茂り中に入れる状態ではない。小屋と火葬炉も撤去され当時の面影はないが、石かコンクリートで出来た台座のような物が残されている。多分、棺おけを安置した台であろうが、暗い藪の中に残されているのを見ると、誠に気味の悪いものである。

 火葬は薪で近所の人が交代で行ったと云うことである。火葬後はそのままにしておき、翌日に遺族が収骨にいったそうである。

 子どもの頃、お年寄りに良く聞かされた話である。「ある人の火葬があり、翌日骨を拾いに行ったところ火葬炉の中に骨が残って居なかった。薪の量が多すぎて骨まで全部燃えたのかと思いながらも隅々まで探した。ふとエントツを下から上に覗いてみると、骨がエントツの上の方にあったそうである。

 完全に息を引取っていないのに火葬され、熱さのあまり炉の中を這いずり廻り、大声を出したが皆帰って誰も居ない。入口は閉まっており逃げ口が無いため、エントツから出ようとしたが、途中で力果てエントツの途中で引っ掛かったまま、火葬されたそうである」

 本当の話か、大人が子どもを怖がらすための作り話か知らないが、聞かされる度に恐ろしく、暗くなって火葬場附近を通るのが怖くて堪らなかったことを思い出す。
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 火葬場のあった直下に、昭和50年4月1日に地元の人々により供養塔が建立されている。
by hirosan_kimura | 2009-01-10 11:10 | 遺跡 | Comments(0)