素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:娯楽( 12 )

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 今はない「遊園地ナタリー」では冬場のみ屋外スケート場が営業していた。リンクは30㍍×60mで1,800㎡の規模であった。
 スケート場が開設する前に、地元町内会と会社(廿日市観光開発㈱)との間で様々なやり取りが行われている。


昭和六十一年十月三十一日
廿日市観光開発株式会社(ナタリー)より鼓ケ浜町内会長宛

屋外アイススケート開催について
 次の要領にて営業開始致したく計画実施中ですが、地元町内会のご理解とご協力をお願い致したく懇請致します。
一、営業形態
 廿日市観光開発㈱所有駐車場の一部を<大阪市藤井寺市 ㈱カヤノに毎年十月一日より翌年三月七日迄賃貸し、㈱カヤノが屋外スケート場を営業する。但し廿日市観光開発㈱は当営業の責任を回避しない。
一、営業時間(休日なし)
(イ)平  日 午前十時~午後九時迄
(ロ)土曜日 午前十時~翌午前四時迄
二、入場料
 大人 1,300円
 中高 1,000円
 小人   700円
三、場内形態
 (イ)売店(飲食)  (ロ)貸靴  (ハ)貸ロッカー  (ニ)休憩室  
(ホ)事務所(券売を兼ねる)


昭和61年11月23日 
地元町内会長よりナタリーへ
 
この度アイススケート場開催についての説明書を受取りましたので、町内会で一次的に検討しました。本町内会としては次の事項についてお願い致します。
一、深夜営業は絶対反対です。
二、特に音楽による騒音を回避すること。
三、町内の道路への不法駐車を回避すること。
四、スケート場横の道路を通行する町民と、利用者の間でトラブルが起きないようにすること。
五、その他問題が起きた場合には、速やかに誠意をもって解決に当たること。
 今回貴社の申入れが急であったため、取敢えず役員会で検討したもので、町内会総意に基づくものではありません。今後町内会内部で意見調整を行う予定であることを申し添える。


同十一月二十四日 
ナタリーより町内会長宛

 十一月二十三日付、貴町内会よりの申入れについて当社及び運営会社㈱カヤノ社長と協議の結果、当面次の通り回答する。
一、深夜営業について
(イ)オープン日である来る十一月二十九日(土)は広告宣伝等の都合もあり、午後十一時まで営業を行いたい。当日は町内各位の理解を得るため、ご来場頂きご意見を賜りたい。
(ロ)以降については、貴町内と協議しながら理解を得られる時期に午後十一時まで営業させていただきたい。
二、騒音について
(イ)平日は午後9時までであるが、この間と言えども騒音にならないよう配慮する。
(ロ)午後十一時までの営業をする場合は、午後九時以降は一切音楽等は流さない。
三、不法駐車について
 当社の駐車場の利用方法等により、貴町内に迷惑をかけないよう努力する。
四、町道とスケート場との関係
 町道との境にフェンスを設置し、トラブル防止に努める。
五、その他について
 貴町内と密接に連絡しながら,且話合いの中で問題点の解決に臨みたい。
by hirosan_kimura | 2015-06-05 12:24 | 娯楽 | Comments(0)
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by hirosan_kimura | 2014-08-16 08:39 | 娯楽 | Comments(0)
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 遊園地「広島ナタリー」は業績不振のため平成8年3月に閉鎖された。これは昭和63年1月1日の記事であるが、この頃は健全な営業が続いていたのか平成元年8月開業のJR阿品駅に大きく期待していた。

 昭和49年4月の開業以来、順調に業績を上げてきた。昨年(昭和62年)の入場者数は六十万人で、一昨年の四十三万人に対し45㌫のアップ。好評の要因は一昨年新設した「巨大迷路」と「屋外スケートリンク」。巨大迷路は広さ二千六百平方㍍、十種類のコースがあり毎週変えることが出来る。四つのチェックポイントを経てゴールするまでのタイムを競うもので、全国各地の迷路ブームを受けて入場者の45㌫がゲームに参加した。

 屋外スケートリンクは例年入場者の減る十一月から二月末のシーズンオフを補って昨シーズンは八万人、今年も出足がよくそれを上回る見込みという。また健康産業を取り入れて始めたプールやエアロビクス、ジャズダンスなども好評を博した。

 ナタリーでは今年の新企画として、メリーゴーランドを一億九千万円かけて四月から建設するのを始め、三月中旬には「春の祭事」として人気アニメ「ドラゴンボール」のイベントが始まる。キャラクター商品の発注、八十体の人形制作と早くも準備は半ばを迎えている。

 「人に夢を売る」ことをモットーとするナタリーでは、入場者に別世界に足を踏み入れるような感覚を味わってもらおうと、園内の美化にもいっそう力を入れている。

 しかしナタリーが発展するにはいくつかの問題もある。一つは敷地が狭いこと、海と道路に挟まれて拡大する余地がほとんどない点である。同社では立体構成による敷地の有効利用でそれを乗り切ろうとしている。

 あと一つは道路の渋滞。二号線は広電田尻駅あたりから宮島口を過ぎるまで慢性的渋滞が続いている。山陽道が岩国まで開通すればいくらかは好転するかもしれない。また「JR新阿品駅」が実現すれば、足の確保にいくらか役立つかもしれない。

 順風満帆と思えたナタリーも、他の大型レジャー施設の開園等による入園者の激減や、老朽化した大型プールの改修などに耐え切れず平成8年3月31日に閉園してしまった。
by hirosan_kimura | 2014-02-02 07:13 | 娯楽 | Comments(0)

№604 テレビ

e0125014_12574114.jpg 今ではテレビの無い家庭はないほどで一部屋に一台、一人に一台のテレビのある家庭も珍しく無い。

 広島でテレビ放送が開始されたのは58年前の、昭和31年3月であった。当時のテレビの価格は1インチ6万円と言われ、所得も少なく今で言う自家用車を買う以上の価格であったらしい。

 このような状態であるので阿品にテレビのある家は無かった。小学校の裏門近くにテレビを購入した家があったが、放課後に子ども達はその家のテレビを見せてもらっていたが一人10円くらいのお金を徴収していた。地御前の子ども達は学校でテレビの話をよくしていたが、貰う小遣いも僅かで学校から家に帰りまた地御前に行くのは遠いので、お金を払ってテレビを見た記憶は無い。

 そのうちテレビの普及とともに価格は下がったらしいが、それでも一般家庭ではテレビに手が届かなかった。昭和34年に皇太子殿下のご成婚を期にテレビが普及したらしいが、それでも阿品にはテレビのある家は数えるほどしかなかった。この日は部落中の女性が集まったのでは無いかと思われるほど、テレビのある家に集まりパレードを見ていた。

 当時のテレビはNHK1チャンネルのみで、放映時間は昼間1時間、夜4時間程度のみであったがその内、放映時間も長くなり中国放送やNHK教育テレビなどチャンネルも増えていった。

 夜の夕食が済んだ頃毎晩のようにテレビのある家に見せてもらいに行っていた。遅くまで見ていたが夜の放映が終わると日の丸のたなびく画像と、君が代の演奏が流されていたのが印象に残っている。

 当時の番組では「ジェスチャー」「連想ゲーム」などの記憶がある。

 我家にテレビが入ったのは遅いほうで昭和36~7年ではなかったかと思うが、それでもテレビの無い家の人が毎晩見に来ておられた。

 カラー放送は昭和39年頃開始されたが、カラーテレビは高価でとても買えるものでなかった。ある時セールスマンが廻って来て、簡単な装置で白黒テレビがカラー放送が見られると勧められ母が購入したことがある。それはテレビ画面と同じ大きさのプラスチックの板のようなもので板全面に細い筋状の線が横に刻んであった。

 テレビ画面にそれを当てて見たが、光の屈折の関係なのか見る方向によっては薄い虹のように見えるだけで、とてもカラー画像と言えるものではなかった。近所でも何軒かは購入した家もあったが騙されたと騒いでいたのが記憶に残っている。

 当時のテレビは価格も高価でブラウン管方式のため奥行きも長く重いものであったが、今では壁に架けられるほど薄く軽くなっている。価格も驚くほど安価になり隔世の思いがある。
by hirosan_kimura | 2014-01-27 13:52 | 娯楽 | Comments(0)

№477 宮島水中花火

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 明日は宮島水中花火が行われる。例年、阿品三丁目の海岸は花火の見物客で大混乱する。宮島を前面に望み遮蔽する物も無いので花火見物にもってこいの場所である。

  少し距離はあるので宮島に渡り現地で見物する程の迫力は無いが、宮島側は人で大混雑し終了後に連絡船に乗船するのも一苦労なため、最初から対岸での見物と決めている人が多い。

  毎年良い場所を確保するため、堤防の上には早くからブルーシートなどを敷いてあるが、驚いたことに花火開催日の四日前に敷いてあるものがあった。

  シートは風に飛ばされないよう粘着テープで貼り付けたり、ペットボトルに水を入れて重石にしたものもある。ご丁寧にもテープで確保者の名前入りの物もある。

  三丁目の堤防は川を挟んで構造が異なり、鼓ケ浜側は堤防敷の海側に上に高さ1m20cmくらいの堤防があるので、立って見たり小さな子どもには見づらい。マンション側はそれが無いので堤防敷に座ったり寝転んで花火を見ることが出来る。そのためマンション側には早くから場所取りがされている。

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 鼓ケ浜側の堤防には今のところ場所取りのシートが敷いてないが、今晩から明日の朝にかけては長い堤防敷に隙間が無いくらいシートが敷かれるであろう。

  明日はこの堤防の上は見物客で埋まり、道路には屋台もたくさん出店し、見物客のの車が列をなして駐車し大混雑となるのであろう。そしてあさっての早朝には散乱したゴミを片付けるため町内の人たちが清掃に汗を流すのである。

  我家でもこの堤防で花火見物をしたこともあるが、愛犬が雷と花火の音が大嫌いで明日からは吉和の山小屋に避難することにしている。

e0125014_1005042.jpg 場所取りの様子を見に行って下を見下ろすと大きなバッグが漂流していた。

中に札束でも入っていないかと海岸に降りて空けて見ようかと思ったが、気持ちが悪いので空けて見るのを止めた。
by hirosan_kimura | 2012-08-10 10:53 | 娯楽 | Comments(0)

№430 昔の旅

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 現在国内であれば自由に行き来できるが、江戸時代には一般庶民の旅行は厳しく制限され、物見遊山の旅などは禁止されていたらしい。

 しかし、近世中期以降になると、伊勢参拝・四国遍路・京参りなどが出来るようになった。それでも要所には関所が設けられ、「往来手形」の携行が義務付けられていた。

 庶民が旅をする時は,庄屋か旦那寺を通して「通行手形」が発行されるが、本人の名前・居住村・行き先・目的・宗派などが記載されていた。

 寛政十一年、今から213年前 地御前の若衆が金比羅宮を参拝した際の「通行手形」である。

往来手形之事
   一 芸州佐伯郡地御前浦  久兵衛
 右之者宗旨者代々浄土宗当寺檀那ニ無紛
 御座候此度四国中為巡拝罷出申候問国々
 所々御関所無相違御通可被下候尤此者自
 然致病死等候節者御国法遣以宜御取計被
 仰付可被下候尤国元御付届不及申候為後
 日一札仍如件
     寛政十一年未七月 日
             芸州廿日市  潮音寺

 久兵衛の通行に当たってはよろしく便宜を図って下さい。途中で病死などした場合は、そちらの風習に従って始末して頂きたいとでも書いてあるのだろうか。

 廿日市の潮音寺は現在でも在るが、地御前の久兵衛は同寺の門徒であったのであろう。今では地御前の人が潮音寺の門徒であることは余り耳にしない。

 なお当時の旅支度に必要な物は、衣類・脇差・三尺手拭い・頭巾・ももひき・脚絆・旅・こうかけ(手足の甲に掛ける)・下帯・扇・やたて・湯手拭い・鼻紙・道中記・心覚手帳・銀袋・大財布・巾着・刺刀・耳かき・きり・小硯箱・小算盤・秤・大小風呂敷・くすり・薬袋・針糸・髪結い道具・煙草道具・提灯・ろうそく・つけ木・合羽・すげ笠・手ごり・弁当・網三すじ、などとなっている。

 現在でも泊りがけの旅行となると準備が大変であるが、当時の旅支度はさぞ大変だったであろう。
by hirosan_kimura | 2012-03-17 11:39 | 娯楽 | Comments(2)
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 「キャンディーズ」と言っても今の若い人には分からない者も多かろうが、昭和40年代に圧倒的人気のあったグループである。

 「年下の男の子」「春一番」「ハートのエースが出て来ない」等は爆発的に売れ、紅白歌合戦にも三回出場している。デビューした頃、番組のプロデューサーが食べてしまいたいと言うほど可愛かったので、「キャンディーズ」というグループ名にしたそうである。

 昭和49年には遊園地「広島ナタリー」のイメージガールとして初CMをしている。このグループは人気が高く引っ張りだこでその後、旭化成・ハウスククレカレー・森永チョコフレークなどのCMを行っている。

 キャンペーンのためナタリーに何回も来場したが、その度にあふれるばかりの若者達が押寄せ熱狂的な声援を送った。

 人気絶頂の昭和52年に突然解散したが、その時の「普通の女の子に戻りたい」は当時の流行語にもなった。

 かつて全国の若者達に熱狂的人気のあったアイドルが、阿品の地に何回も訪れたことがあったと言うことを、知る人も少なくなってしまった。

 今では阿品のシンボルであった「広島ナタリー」も無くなり、「キャンディーズ」も解散して無くなってしまった。


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by hirosan_kimura | 2009-08-13 04:01 | 娯楽 | Comments(0)
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 昭和49年4月23日に阿品三丁目に開園した、遊園地「広島ナタリー」のプールに帆船「ナタリー号」が係留してあった。

 この船はエンジン付き帆船としては世界でも稀な大きさで、527㌧・全長177フィート・全幅27フィートの大きさであった。

 帆船は,はるばる廿日市に運ばれ、遊園地のシンボルとなった。

 船の中には誰でも入ることができたが、かつて大富豪の人達が地中海で洋上社交場として利用したものであり、その豪華さに圧倒されたものである。

 平成8年3月31日に遊園地が閉園されたが、惜しいことにこの船は解体された。

 この船の部品の一部を利用したモミュメントが、マリナストリートで見ることが出来る。

e0125014_20595876.jpg 碇を利用したモミュメント。











e0125014_215232.jpg エントツ






e0125014_2164846.jpg 舵輪





e0125014_2174881.jpg ギアの一部





e0125014_2191310.jpg 丸窓を利用したモミュメント
by hirosan_kimura | 2009-07-30 04:02 | 娯楽 | Comments(4)
e0125014_15303365.jpg  №2で紹介した「遊園地広島ナタリー」が閉鎖されて十数年過ぎた。

 右の写真は極めて不鮮明であるが、今から36年位前の工事中の写真である。観覧車・ジェットコースターの姿はまだ見えない。









e0125014_15311526.jpg 右の写真は陸橋を下り駐車場に進入する道路である。

 正面あたりに遊園地の入場口があった。

 この道路と、左側駐車場は現在では、「スーパー ふじグラン」になっている。

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 この写真には「広電阿品駅(当時は田尻駅)」が写っているので、遊園地開園5年以上経過した時期と思われる。

 国道に横断歩道があるが、今は廃止されている。

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 ループザループが写っていないので、上二枚の写真より古いものであろう。

 国道上側附近には工場やサウナの建物が見える。JR阿品駅はまだない。

国道と工場・広場の間には調整池も残っている。

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 夏にはプール目当てにたくさんの人が押しかけてきた。

 プールのあった場所には、今ではたくさんのマンションが建てられている。

 このあたりは昔は海面であったものが埋め立てられ、大型遊園地が開園し今ではマンションと、短い期間に目まぐるしく、風景を変えた。

 一昔前の阿品の人が見たら、びっくり仰天するのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2009-05-25 05:19 | 娯楽 | Comments(0)

№122 新宮島遊園

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 はっきりした年代は分からないが、今から40年くらい前に「新宮島遊園」が開園した。場所は鰆浜と阿品の間の鉄道沖の山の一帯である。今は荒れ果てている。

 この山は「監視山」と言われたように、周囲を見回すのに絶好の場所である。遠い昔には敵軍の行動を見守るという、軍事上の情報蒐集の拠点場所であった。(№11参照)

 今では信じられないが、かつては松が生い茂り「まつたけ」も良く採れていた。また、国道側斜面には絶えず清らかな水が流れ落ちていた。喉が渇いた時ここを通りかかったら、この水で喉を潤していた。

 夏になると前面の「お上がり場」にたくさんの海水浴客が訪れていたが、泳いだ後この水で体を洗ったりもしていた。

 串戸在住であったこの山の持ち主の人が、この山に遊歩道を整備され、周辺に桜・つつじ・椿などをたくさん植え、食堂や休憩所などの施設や、簡易な遊具等も設置され遊園地を開園された。。

 広島湾を見下ろす景色の良い場所なので、子どもづれの人が親子で遊びに来ていた。また、桜やつつじの季節には花を見物しに訪れる人もあった。

e0125014_1137652.jpg 最初は物珍しさもあり入園する人もあったが、施設も簡易で訪れる人もだんだん少なくなり、いつの間にか訪れる人も無くなった。

 その内、台風により建物も壊れてしまい、いつの間にか閉園してしまった。

 この山は展望も良く、JRや広電の駅にも近く交通の便が良いので、一時は住宅地に開発される話もあった。

 その後、この計画はどうなったのかは分からないが、阿品に残された数少ない緑地帯である。かなわぬことではあろうが、いつまでも今のまま残って欲しいと願うばかりである。
by hirosan_kimura | 2009-04-15 04:33 | 娯楽 | Comments(0)