素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:広電( 18 )

№540 貴重な警報機

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e0125014_11435388.jpg  広電阿品駅と広電宮島口駅の間に「「田尻第二踏切」がある。合併前の廿日市市と大野町境付近である。この踏み切りは、渡ったところにあるヨットハーバー専用踏切のようで一般の人が渡ることはまずない。


e0125014_11443350.jpg  この踏切の警報機は一見何の変哲もないようであるが、全国的にも珍しい警報機らしい。

  電車が近づき警報が鳴ると赤い照明が点滅するがこの警報機は電球式である。最近の警報機ではほとんどが発光ダイオード(LED)が使われているが、電球式の警報機が残っているのは広電では田尻踏切のみらしい。ただし井口のJRと共用の踏切には電球式の警報機があるらしい。

  また最近では、電車が近づいた時の警報音は、警報発生器から警報機上部に設置されたスピーカーから電子音を発生させて、列車の近づいたのを教えている。

 しかし田尻第二踏切では、警報機上部に設置されている警報音発生器から、直接機械的に音声を発生させる電鈴式で、ゴング式とも言われている。この方式は音量調整が難しいらしい。

  最近では騒音対策で電子音式に更新され、JR各線ではすべて新しい方式に更新されている。私鉄でも大都市を中心に更新され、電鈴式はほとんど見られなくなっている。

e0125014_1145289.jpg  田尻踏切の警報機支柱の頭部に黒い塊が見られるが、この中に電鈴があり電車が近づくと電鈴を打って音をだしている。

  警報機が鳴っている時、近づいて良くみると電鈴を打つ振動で支柱が震えているのが分かる。

 普段何気なく見ていた田尻第二踏切は、点滅装置も警報音も他ではほとんど見ることの出来なくなった警報装置が残されているのである。
by hirosan_kimura | 2013-04-23 12:19 | 広電 | Comments(4)
ドルトムント
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 昭和52年の運航開始65年を機に、国外の車輌を導入する話が浮上した。ドイツのドルトムント市電が地下線新設のため車輌の更新をした際、不用になった8軸連節車を昭和56年に購入した。当初宮島線直通用で使用されていたが、高速走行時に振動が発生するなどの問題が発生した。保守整備にも支障する点も多く、新型の直通電車が増えると余り使用されなくなった。

 その後平成6年に市内線の輸送強化のため、比治山線でラッシュ時に使用されていた。その後老朽化のため1編成は平成18年に解体された。もう1輌は改装されレストラン電車「ビストロ・トランヴェール」として使用されている。


グリーンムーバー
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 ドイツのシーネンス社製で、平成11年3月ロシアの大型輸送機「アントノフ」で広島空港に空輸された。超低床車輌でバリアフリーとなっており、ベビーカー・車椅子利用者・お年より等には好評である。 


グリーンムーバーMAX
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 近畿車輛・三菱重工業・東洋電機・広電の4社が協同開発した。国産初の100㌫フルフラット超低床路面電車である。平成17年3月30日から営業運転が開始された。
by hirosan_kimura | 2013-02-20 10:00 | 広電 | Comments(0)
1070形
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 昭和42年に投入された宮島線専用の電車で、床の地表からの高さが高かったため「高床車」と呼ばれた。元々は昭和13年に川崎車輌(株)で製造され、京阪神急行電鉄(株)(今の阪急電鉄(株))宝塚線で走っていた。広電に2輌編成4本がが移籍された。昭和62年から63年にかけて、老朽化と高床車輌が廃止されたため廃車され解体された。 


1080形
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 昭和52年から運行された宮島線専用の高床車車輌。元々は昭和31年にナニワ工機(株)(現在はアルナ車輌)で建造され、阪急嵐山線で使用されていた。平成元年に廃車となり解体された。 


ぐりーんらいなー
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 3100,3500,3700,3800,3900,3950形等がある。中には朝のラッシュ時のみに運行される車輌もある。
by hirosan_kimura | 2013-02-17 10:19 | 広電 | Comments(0)
850形
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昭和33年にナニワ工機(株)(現アルナ車輌)で3輌製造された。当初は貸切で宮島直通であったが、昭和37年には宮島線定期直通が始まり塗装がピンクに変更された。後に市内線標準色に戻されより、今も市内線で350形として走行している。

2000形
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 昭和35年から昭和38年までに、宮島線と市内線の直通車輌として9輌が製作された。平成21年10月17日以降は、ICカードの取り付けがされず運行を休止した。

2500形
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 全鋼製の3車体8軸の連接車で、昭和60・61年に2500形から改造された。
by hirosan_kimura | 2013-02-14 10:41 | 広電 | Comments(0)
1040形
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 昭和13年に千田車庫が火災となり1000形と1010形の各1両が被災した。その足回りを利用して1040形を製造した。

1050形
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 昭和6年の全線開通以降、宮島線の車輌の増備は無かったが、戦後の緊迫した輸送状況に対応する必要性に迫られた。昭和22年運輸省の斡旋により、京阪神急行電鉄(株)から中古4輌を購入し、1050形1051~1054号とした。全長14.6mの大正時代に生産された、木造ボギー車であった。

1060形
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 昭和32年にナニワ工機(株)で造られた。1輌しか造られず広電最後の高床車の新車であった。昭和55年頃には宮島線の他の車輌が連結車になっても、1輌しかないので最後まで単行のまま運転された。平成元年に廃車となり保存の計画もあったが解体された。
by hirosan_kimura | 2013-02-11 13:37 | 広電 | Comments(0)
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 広電(当時は広島瓦斯電軌道(株))が己斐~草津間で営業開始して91年、阿品の新宮島まで延長されて87年経過するが、この間様々な形式の電車が走っていた。

1000C形 木製ボギー車
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 己斐から草津までの開業に備えて、大正11年6月に2台購入された。昭和13年の千田車庫の火災によりこの内の1台が被災したが、後に足回りを利用し1040形として改装された。

1010D形 木製ボギー車
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 廿日市までの開業に備えて、大正12年12月に8台購入された。この車両の1台も千田車庫の火災により被災し、1040形として改装された。

1020F形 木製ボギー車
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 地御前までの開業に備えて、大正14年7月に5輌購入された。

1030H形 半鋼製ボギー車
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 宮島口までの全線開通に合わせて、昭和5年12月に5輌購入された。

 宮島線は市内線と比べて急激な利用者の増加が無かったので、昭和22年に京阪神急行電鉄(株)より中古車輌を購入するまで、新規の車輌購入は無かった。

 戦前から在籍していたこれらの車輌は何時の頃まで走行していたかは分からないが、昭和52年頃に全廃されている。
by hirosan_kimura | 2013-02-06 13:59 | 広電 | Comments(0)
e0125014_13574942.jpg  大正15年に【広電沿線案内」が発行されている。はしがきとして、「廣島瓦斯電軌株式会社経営の電鉄は一は軌道として中国の大都市廣島市内を運輸交通に当り、一は市の西端己斐町より西南に延びて風光明美なる瀬戸内海沿岸の地を走り、山紫水明天下に絶景を知られる厳島に風雅行策の客を送る画して、車輪の印する所随所名所史跡に富み曳杖の地すくなからず。今序を写真と共に各所の駅域を紹介せんとす。」

 鰆浜(現在の阿品一丁目)にあった終点駅の説明は
 
新宮島駅 己斐町より卅一分
 現在宮島線終点にして厳島行連絡機船の乗換駅なり。前は漂渺(ひょうびょう 果てしなく広い)たる内海の風光を望み、厳島の秀峰眼前に浮かんで、呼べば答へん計りなり。眺望頗る佳。

火立岩
 駅の西方にあり。弘治元年厳島合戦の時、毛利水軍発船の地として名高く、又厳島神社管絃船此處にて燈を張り火を点ずるを古例とす。
 連絡船宮島丸に乗りうつれば、海上辷るが如く僅か廿分にして日本三景の一なる神仙境厳島に至る。其間の風光の妙なる筆紙のよく書す所にあらず。
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 路線案内の末尾に広告が掲載されている。大半が広島市内のものであるが、旧廿日市町内のものも若干ある。地御前関係のものは4業者がある。
e0125014_13594265.jpg 地宮館は地御前神社前の浜辺にあった。海水浴シーズンは随分賑わったらしいがいつの間にか閉鎖されたらしい。
e0125014_1401534.jpg 中井の石風呂は地御前の後山にあったが、昭和30年代くらいに閉鎖されている。
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カネサ醤油も清酒「活力」も今は無い。
by hirosan_kimura | 2012-11-13 15:02 | 広電 | Comments(0)
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 大正15年7月に広電宮島線が鰆浜まで延長され、「新宮島駅」が火立岩付近に開業した。①の位置である。

 その後広電宮島線は昭和6年2月に宮島口まで延長された。宮島口までの延長に伴い「新宮島駅」は廃止され、新しく阿品に駅が新設されることとなったが、新駅は「お上がり場」の宮島口寄り阿品部落の入口付近に決定された。

 当時は阿品地域全体でも世帯数は少なかったが、鰆浜部落の世帯は僅かで圧倒的に阿品部落の方が多かったので、新駅が阿品部落の入口に新駅が計画されたのは当然であろう。新駅設置は②の場所であった。

 しかし線路延長の工事が始まった後に、鰆浜部落に「吉田病院」が新設されることが決定し、阿品部落入口付近に新設予定の駅が鰆浜部落へ新設されることとなった。③の場所で現在の「阿品東駅」である。

 一旦新駅の設置が決定し設計図まで出来ていたものが変更となると、今の時代であれば阿品部落から反対運動が起きそうなものであるが、当時の人たちは今のJR宮島口駅・廿日市駅を初め少々の場所には歩いて行くのは当たり前で、新駅が200m足らずの位置に変更になったくらいは気にも留めなかったようである。

 昭和53年8月には広電「田尻駅(現在の広電阿品)」が新設された。④の場所。仮に当初の計画通り阿品の入口に新駅が開業していれば、田尻駅までの距離は僅かであり田尻駅の新設は無かったであろう。また、JR阿品駅付近の様子も現在と全く違った方向で整備されていたかも分からない。

 昭和49年4月に遊園地「広島ナタリー」が開園したが、当時は「田尻」駅は無くナタリーに行く人たちは「広電阿品(現在の阿品駅)」を利用し、歩いて列をなして遊園地に向かっていた。当初計画の阿品駅は、ナタリーの東端のまん前に当たりナタリーに行く人たちは随分と楽であっただろう。
by hirosan_kimura | 2012-05-23 16:34 | 広電 | Comments(0)

№426 新宮島駅

  鰆浜(現在の阿品一丁目)のバイパス出口付近に、広電宮島線の駅と厳島行路の発着場があった。

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  厳島航路が設けられたのは大正14年7月、今から87年前である。連絡線のみが写ったものはこれまでもあったが、発着場が分かるものはなかなか見つからなかった。

  このたび偶然、発着場の様子が分かる写真を手に入れることが出来た。古い写真を拡大したもので鮮明ではないが、何とか当事の様子をかろうじて伺うことが出来る。

 岸辺より長い桟橋が突き出て、2隻の船が停泊している。もう少し鮮明であればと思うが仕方ない。
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  連絡線の行路が開設されて一年遅れで、発着場のすぐ傍に宮島線「新宮島駅」が開業した。この駅が出来るまでは連絡線に乗船する人々は、宮島線終点の「地御前駅」から船の発着場まで歩いて行くか、宮島「岩惣旅館」の自動車を利用していたが、新宮島駅の開業により随分と利便が計られることとなった。
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 この駅は宮島線が「宮島口」まで延長されるまでの「仮駅」であったらしいが、写真でみると随分施設の整った駅にみえる。
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 この写真も余り鮮明ではないが、駅舎の施設は何とか判明出来、後の山も樹木が生い茂っているのが分かる。

  後の山は新国道が整備される際、山肌は大きく削られ今では当事の様子と大きく変容している。

  両駅とも電車が宮島口まで延長され、昭和6年2月1日に廃止された。同時に「阿品駅 (現在の阿品東駅)」が開業された。 
by hirosan_kimura | 2012-02-27 11:32 | 広電 | Comments(0)
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 現在、広電市内線で宇品に行くのは広島駅・的場・比治山下・皆実町を経由するのが最短である。上図の青い線である。

 しかし終戦前年の7月までは、宇品に行くには広島駅・的場・八丁堀・紙屋町・鷹の橋・御幸橋経由で宇品に行っていた。上図の赤い線である。

 当時は戦争の真最中、軍事上の問題があったのかも分からないが、広島駅から宇品港までの所要時間の短縮と効率化のため、宇品への最短距離の軌道が計画された。当時はあらゆる物が物資不足で、必要なレールは宮島線のレールを利用されることとなった。

 昭和19年の7月21日に、宮島線廿日市~宮島間の下り線レールが撤去され上り線のみの単線運行となった。このレールを利用し的場~皆実間に新しい軌道が完成したのは、その年の12月27であったが、軌道の無い所に5ヶ月と言う短期間で工事を完成させたとは、今から考えても驚くべき速さである。

 この軌道の完成により、広島駅宇品間の軌道は約2.4kmくらい短縮されている。ノロノロ運転の市内電車でみると、例え2.4kmでも大きな時間の短縮であろう。

 阿品付近で単線運行になったのは自分の生まれる少し前。複線に復帰したのが小学校にも上がっていない昭和25年7月24日である。単線であった記憶は余り無いが、複線の工事がされているのはかすかな記憶がある。

 小さな頃なのではっきりした記憶ではないが、複線工事のため線路にトロッコが置いてあった。休日のためか分からないが工事をする人が居ない時、何人かの子どもがトロッコに乗り一人か二人の子どもが長くはない距離を行ったり来たりして遊んだのである。

 人目に付くと怒られるので、民家の無い火立岩付近から沖山付近で遊ぶのである。今の子どもたちは同年代で遊ぶことが多いいが、当時は年の離れた子供同士で良く遊んでいた。それでも余り小さな子どもは邪魔になるので遊びに入れて貰えないこともあったが、邪魔にされながらも年上の子どもに付きまとって遊んだものである。

 トロッコで遊んで居る時も上り線では往復の電車が走っていた。遠くに電車が来るのが分かると走って逃げて隠れていたが、今と違って運行本数が少ないとは言えすぐ傍を電車が走る中で危険な遊びをしたものである。

 時には運行中の電車の運転手に見つかり叱られて走って逃げるが、電車が見えなくなると性懲りも無くまたトロッコのある所に戻って遊んだような記憶もかすかにある。

 それにしてものんびりした時代であったものである。今から60数年前のことである。
by hirosan_kimura | 2011-09-24 17:28 | 広電 | Comments(0)