素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:海運( 5 )

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 大正14年7月から昭和6年2月まで、鰆浜から厳島を結ぶ連絡線航路があった。

 この航路は今の広島電鉄の前身「広島瓦斯電軌㈱」が経営していた。詳しいことはこのブログ№8で紹介している。

 子どもの頃には沖合いにコンクリートの施設が一部残されていたが、今は跡形も無い。

 上の図は桟橋の施設であるが、旧国道が大きくカーブした火立岩の脇から、乗降場まで長い桟橋があった模様である。

 この桟橋は幅2間、長さ39.33間とある。幅は約3㍍60㎝。長さは約71㍍くらいであったらしい。桟橋は仮桟橋とあるので、当初よりこの航路は広電宮島線が宮島口に延長されるまでの、暫定的航路として運航されたものと思われる。

 桟橋の付け根あたりに「待合所及事務室」と記されているが、特別な建物は見あたらないので、桟橋通路の上が待合所と事務室として使用されていたのであろう。

 今では面影もないが、今から約80年前のことである。
by hirosan_kimura | 2010-03-29 10:04 | 海運 | Comments(0)

№314 厳島渡船

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 今から181年前の文政3年11月14日に、廣島城下東柳町の高屋福蔵らが、阿品沖で遭難した厳島渡海船を救助したとの記録が残っている。

 今では宮島口や広島の宇品からの定期船があるが、当時は定期船のようなものが存在したのであろうか。

 現在は阿品附近では国道が海岸沿いに走っているが、それまでは東西の交通路は宮内から奥に入り、阿品裏側の山陽自動車道が走っている谷を抜け、大野方面に行っていた。

 恐らく阿品の海岸沿いでは、人がやっと通れるような細い道が走っているに過ぎなかったであろう。

 明治13年には海岸沿いに旧国道が完成し人の流れは大きく変わることになった。地御前村内の国道は、宮内境から旧村道を利用したため、道幅わずか二間弱(約3㍍60㌢㍍)のところもあった。

 阿品附近では海岸を埋立新設した国道で、道幅は三間以上((約5㍍50㌢㍍)であった。今の国道から見ると狭いが、当時の人々にとっては広い道路が出来たと感心したと伝えられる。

 人々の流れは大きく変わり、国道の完成するに先がけ明治11年8月31日に、地御前村の阿品から厳島間の渡船業希望者へ願いを提出するよう、区長奥村甚之丞代理 高野禄一より通達が出され、運賃・規則等を定め来年9月5日までに提出することとなっていた。

 区長とは、明治5年に県内が17の大区、150の小区に編成され、地御前村は第4大区(佐伯郡),第5小区(地御前村・大野村・口谷尻村・玖波村・松ケ原村・谷和村)とされたものである。

 明治13年には阿品に厳島渡船発着場が設けられ、運航が開始されている。場所は現在のお上がり場附近であったらしい。

 明治21年3月の「厳島ト地御前之間渡航業者値規約」によると、「本村内で渡航業を営む者は必ず組合に加入すること。」「「渡船場は地御前村阿品桟橋鼻から厳島浜之町雁木とする。」

 「渡船は抽選の順番とするが、乗客五名以上は乗さないこと。」「運賃は乗客一人 5銭。 二人 8銭。 三人 9銭。 四人 10銭。 五人 15銭とする。」

 「夜中、又は至急を要し水夫を増す時は、定額の倍とする。」等とされていた。

 明治24年の記録によると、阿品~厳島間に渡海船が11隻あり、運賃は一人6銭、二人8銭、三人9銭、以下一人追加毎に1銭追加とある。

 明治30年に山陽鉄道が開通し、大野村赤碕(今の宮島口)に駅が設置され、交通の便の悪い阿品からの乗船客は少なくなり、阿品から厳島への渡船は衰退して行った。この渡船が完全に廃止となった年代は不祥である。

 なお、広電宮島線が地御前まで延長されたのに伴い、大正14年7月15日には鰆浜(今の阿品一丁目)から厳島まで、連絡船の航路が開設された。

 この航路も広電宮島線が宮島口まで延長され、昭和6年2月1日に廃止された。 

 写真は大正頃の宮島桟橋
by hirosan_kimura | 2010-02-14 06:26 | 海運 | Comments(0)
e0125014_1474582.jpg明治24年(1891年)5月23日 芸備日日新聞
運賃の制限
 県下佐伯郡厳島神社は県下の三勝とて、内外人の遊覧参拝する者多く、為に同島のなる同郡阿品にて十幾艘の渡船を備衝けて同島に渡る人に便することにて。

 乗客一人にて運賃六銭、同二人にて八銭、同三人にて九銭、以下乗客一人毎に一銭づつ増し、水夫一人増す毎に五銭を増加する割合ひに制限を立て、不案内人に対して、不当の賃金を貪るが如きことは之を為さしめざる筈なるも、往々不当の賃銭を貪り、又は水夫一人に足るときも強ゐて二人を用ゐて、他郷の人を困らしむる由なり。

 此程の事とか、或る人が厳島に行かんとて、同処より渡船を命じたるに、乗客三人にて往返四十銭を請求し、其人は請求を納れて乗船し厳島に着したる上、此の事を同処の巡査駐在所に申出で、実際より斬く多くの賃銭を払ふべき訳なるやと尋ねたるに。

 此に初めて不当の賃銭なることを知り、彼の水夫は巡査の拙論にて不当の請求を廃めたりと云う

 此く不当の請求に、諸人を苦しむは悪むべきことなれば、運賃の定限を見易き所に表示して、旅人等不案内の者に便ぜられたしと云う者あり。
by hirosan_kimura | 2009-02-10 04:07 | 海運 | Comments(0)
 大正14年に広電宮島線が地御前まで開通と同時に、新宮島・厳島間の連絡船航路が運航されたが、これより前に阿品に厳島までの渡船があった。

e0125014_13555576.jpgこの渡船は、明治13年に中国往還道が海岸沿いに整備されたのに伴い運行が開始されたもので、場所はお上がり場から発着していた。

明治21年(1888年)3月
厳島・地御前村間渡航業者申値規約(抜粋)
第四条 乗客渡船場は、地御前村・阿品桟橋山鼻より、厳島浜之字雁木とする。
第五条 渡船は抽選を以って順番とする。但し乗客五名以上乗載するべからず。

賃銭定額 乗客一人 五銭。 二人 八銭。 三人 九銭。 四人 拾銭。 五人 拾弐銭。

 風雨の節、及び夜中又は乗客の至急を要し水夫を増す時は、定額の一倍(一倍とは、水夫一人にて渡海すべきを、風雨或いは急行等にて水夫を増すに付き、定額五銭のものは拾銭、八銭のものは拾六銭を申受ける
の割合なり、余之に準す)を申受けるものと巣。

明治24年(1891年)
 阿品より宮島への渡海船が11隻ある。運賃 一人 六銭、二人 八銭、三人 九銭、以下一人増毎に一銭追加。

明治30年(1897年)9月25日
 山陽鉄道が開通し、大野村赤碕に駅が設置されたため、従来の地御前港及び阿品(お上がり場山鼻)より厳島への渡船が衰退していく。
 
by hirosan_kimura | 2009-02-09 05:24 | 海運 | Comments(0)

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 現在、宮島へ渡るのは宮島口から連絡船が出ているが、かつて広電宮島線が地御前までしか開通していない時代、鰆浜から宮島への連絡船があった。

 当時、宮島線は地御前小学校の体育館附近に停留所があったが、宮島への乗船客はそこから約800㍍離れた連絡船乗り場まで歩いて行くか、厳島「岩惣旅館」の自動車で行っていた。

 しかし電車で宮島へ参拝する人にとっては余りにも不便なので、地御前より連絡船乗り場附近まで線路が複線で延長され、大正15年7月16日に「新宮島」駅が開業した。

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 連絡船は三菱造船所で建造され、「第一宮島丸」46.53㌧、「第二宮島丸」46.53㌧、「第三宮島丸」71.92㌧の三隻があった。

 船は40分間隔で発着し船賃は15銭であった。この航路は大野町赤碕まで電車が延長し、宮島口に連絡船航路が新設されたため、昭和6年2月1日に廃止された。

 下の写真は、西広島バイパスが整備される前の渡航乗船場のあった附近の写真である。
by hirosan_kimura | 2008-12-20 07:12 | 海運 | Comments(0)