ふるさと 阿品 よもやま:道路
2015-03-13T10:47:05+09:00
hirosan_kimura
素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。
Excite Blog
№686 山の中の注意書き
http://hirosankim.exblog.jp/22785575/
2015-02-06T12:19:16+09:00
2015-03-13T10:47:05+09:00
2015-02-06T12:20:12+09:00
hirosan_kimura
道路
阿品二丁目のとある山中の小道に小さな注意書きが建てられている。
この注意書きがあるのは下の図の○印のある辺りである。
この山道は今では滅多に人の通ることもないが、かつては広電を利用して広島方面に通勤・通学などをする、阿品団地の人たちの近道として利用されていた。
今では阿品一丁目から奥に入り団地内を抜ける道路が整備されている。また途中から別れて注意書きのある少し下辺りを二丁目に抜ける道路も整備されている。
しかし阿品団地に入居が始まった昭和38年頃(今から52年前)位はこれらの道路は整備されていず、この団地の人たちが阿品駅(今の広電阿品東駅)を利用するには、一旦阿品二丁目に降り中央を通る道に出て、国道まで行き電車に乗っていた。
この道を利用するには遠回りなので、阿品団地の人たちで団地の奥側の人たちな道とも言えない急な山道を下り鰆浜側(今の阿品一丁目)に出て、あぜ道に毛の生えたような細い道を通り電車駅まで行っていた。
(図の右側の青い線)
団地の沖側の人たちも細い山道を降りて(注意書きのある道)途中で合流して、鰆浜の谷を通り電車駅までいっていた。
これらの道は今でこそ車道が整備され街灯などもあるが、当時は一輪車がやっと通れる程度の小道で民家も街灯もなく、夜になると通るのが恐ろしいようなばしょであった。
おまけに途中には火葬場もあり、幼いころ母の里に行き夜鰆浜の自宅にこの付近を通って帰ることもたまにあったが、恐ろしかった記憶が残っている。
いくら近道とは言え昼間なら兎も角、一人の時でも暗い懐中電灯を頼りに寂しい道を阿品団地の人たちが利用されていたと驚くばかりである。
今では道路や街灯も整備され、自家用車も普及しているので恐ろしい夜道を歩く人も少ない。]]>
№623 山道の通学路
http://hirosankim.exblog.jp/21747977/
2014-03-04T11:22:58+09:00
2014-07-05T10:38:06+09:00
2014-03-04T11:22:51+09:00
hirosan_kimura
道路
阿品一丁目の東端に「光が丘」という小さな住宅団地がある。この地はかつて地御前の田屋部落に所属していたが、昭和57年2月の町名設定により阿品一丁目となっている。しかし一丁目の鰆浜部落とは山や道路で隔絶されており阿品一丁目に編入されたのが不思議なくらいである。
この団地は阿品台東小学校区であるが、正規の通学路は団地から国道沿いに鰆浜に到達し、奥に入り阿品台団地に登り東小学校に行くルートとなっていた。(上図の青い線)
しかしこの団地のすぐ傍を通るJRの線路の向かい側が阿品台団地となっているが、間にJRトンネルの上に木の生い茂った山がある。
光が丘の子供たちは正規の通学路を行けば遠いので、この山を越えて小学校に通学する者が大半である。(上図の赤い線)
山道は僅かの距離があるが、人の滅多に通らない険しい細い山道と水道の管理道があるのみで(上図の緑の線)通学路としては危険で望ましくなくこの道を通って通学するのは禁止されていたが、正規の通学路と比較すると遥かに近いので子供たちは山越えをして通学していた。
余りにも危険な通学路であるため、地元より光が丘と阿品台団地の間に新しい道路を造るよう陳情書が出されたこともあるが、トンネルの上部はJRの用地でもあり道を作るのは困難との結論になったらしい。
小学校も危険な山道を通学路と認定するわけにも行かず、今では黙認と言う形で相変わらず山道を越えて通学しているようである。
この写真は団地を登りきって山道に入るあたりであるが、フェンスがあるのは水道の管理道。手前の道を進むと木の繁った細い山道を越えて、阿品台団地に至る。]]>
№606 往古の道跡?
http://hirosankim.exblog.jp/21624945/
2014-01-29T12:23:26+09:00
2014-07-05T10:44:38+09:00
2014-01-29T12:23:35+09:00
hirosan_kimura
道路
阿品台の光の園より少し上の民家の間より地御前に降りる山道がある。平地に降りて海側に向かうとバイパスを横切って地御前神社附近に出ることが出来る。下図の赤線部分が残された山道である。この坂道の上側はニュータウウンの開発で山は削られ昔の面影は残っていない。下った場所も大きな開発こそされていないが、民家も立並び大きく変わっている。
この山道は犬の散歩をする人がたまに通るくらいであるが歩きやすい山道である。今では殆ど人の通ら無い道であるが、その昔広島方面から西に向かう人達がたくさん行きかっていた道ではないかと推測される。
遠い昔阿品附近の海岸は山裾が海まで迫り、海岸沿いの道路は無かったが広島方面から九州方面に向かうのは、串戸附近から宮内を奥の谷に向かい槍出峠を越えて大野に抜けるのが通常であった。この道は余りにも遠回りなので地御前を抜け神社附近より奥の谷に入り、そこから山越えをして鰆浜の谷を抜け阿品に入り、阿品の谷の奥から再び山を越え、大野の中山や更地に抜ける人々も多くあった。
現在阿品公民館裏に安置されている「教え地蔵」は阿品の谷の奥で、大野の中山と更地との分岐点に旅人が迷わないよう道標として安置されていたものを、ニュータウンの開発により谷が埋立てられるため現位置に移設されたものである。
以前にも紹介したが今から640年くらい昔九州探題に赴任する今川貞世が、応安4年9月の紀行文に「廿一(21日)は此佐西(廿日市の旧称)から出て、地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに」との一節を残している。
確たる証拠はないものの、様々な文献で推察するとこの山道を越えたことは間違いないのではなかろうか。]]>
№599 対厳山線開通
http://hirosankim.exblog.jp/21599166/
2014-01-22T10:59:04+09:00
2014-07-05T10:46:12+09:00
2014-01-22T10:59:02+09:00
hirosan_kimura
道路
西広島バイパスを地御前の鹿の子分岐し阿品台の中央を通り大野方面に抜ける道路がある。この道路は「対厳山線」と言われるが厳島の対岸の高いところを通っているのでこの名称になったのであろう。
結構通行量の多い道路であるが、阿品台が出来た頃は西の県営住宅辺りで山に阻まれて道路は途切れていた。この山は高畑山より海岸線近くまで峰が続き、その昔は地御前村と大野村の村境であった。
大野側の山は削られ住宅団地となり、廿日市側も開発され阿品台山の手の住宅開発により、行止りの道路は昭和57年4月に大野側と結ばれた。
この道路は海岸沿線を走る国道二号線のバイパス的役割を果たしている。大野方面から広島方面に向かうのに国道二号線を行くより近いので、今では国道に劣らないくらいの交通量がある。]]>
№590 阿品陸橋開通式
http://hirosankim.exblog.jp/21564388/
2014-01-13T10:20:50+09:00
2014-07-08T09:56:03+09:00
2014-01-13T10:20:43+09:00
hirosan_kimura
道路
昭和46年3月6日竣工式を挙行した阿品陸橋は、国道二号線からカーブを曲がっての取付道路85米・橋梁部巾員12米、長さ92米で左右に国道・電鉄側巾員8米、長さ133米。国鉄側巾員10米、長さ34米に達する、形状はT字型である。
総工費3億4千万円余を要し、国道二号線を跨いだ陸橋としては広島以西最初のものである。
当日竣工式の次第は、修祓・祝詞・玉串奉献・町長式辞・工事経過報告のあと、渡初の儀がとり行なわれた。]]>
№582 大昔の国道?
http://hirosankim.exblog.jp/21534530/
2014-01-05T14:08:44+09:00
2014-07-08T09:59:16+09:00
2014-01-05T14:08:52+09:00
hirosan_kimura
道路
阿品の東側山沿いに幅の狭い道路がある。この道は鰆浜の谷から峠を越えて阿品に入り谷の奥で西側に横断し、山越えをして大野に抜けていた。今では拡幅されたり位置が一部移動、阿品台の造成により谷が埋められ道が消滅したりして、昔の面影が残っている部分はほんの僅かである。
幅の狭い道路ではあるが阿品の古老によると、この道は昔は国道であったと言う話をする人がある。国道であったとの話はともかくとして、遠い昔に阿品の海岸沿いに道路がない時代、広島方面から大野方面に向かう道路の脇道として多くの旅人が行き来した時代もあったらしい。
今から1300年前くらいに当時の都(明日香や奈良地方)と地方を結ぶため七つの官道が造られその内の一つ古代山陽道は西条から瀬野を通り海田付近から奥に入り、緑井・沼田・石内・倉重・上平良から宮内の奥に抜け、阿品の裏側の槍出の谷を通り大野に抜けていた。
現在の広島市の平野部分は湾が奥まで広がり通行出来ないので、安芸区付近から北上し山沿いの道路となっていた。
赤~古代山陽道 青~西国街道 緑~西国街道間道
その後、上流からの土砂により海岸線はかなり前進し天正19年(1591年)には毛利元就が広島城に入城したが、この頃の海岸線は現在の100メートル道路付近であったらしい。
嘉永10年(1633年)には広島のデルタを通過する西国街道が整備され、海田市・広島中心部・斐・五日市・廿日市・宮内の槍出を抜ける道となった。
これを遡ること260年昔の建徳2年・応安4年(1371年)に「九州探題」として九州に着任する際、古代山陽道で無く海田付近より海沿いに進み地御前神社付近より山に入り、鰆浜の谷を通り峠を越え阿品の谷に入り、現在調整ダムのある付近から山道を越え大野に至った記録が残されている。
広島付近では湾が奥まで入っているためかなり深く北寄りを通り、己斐より地御前神社付近までは時には干潮時の浜辺を磯伝いに進まなければならない地点もあったようである。
串戸付近より宮内の谷の奥に進み槍出峠を越えて大野方面に進むのが通常であったが、地御前を通り山越えをし鰆浜の谷・阿品の谷を越えるのが近道であったためであろう。
その後、いつの時代か分からないが地御前から海岸沿いに阿品の浜辺を通り赤崎付近まで人がやっと通れる道が出来るまで、阿品の谷の道路は広島方面から九州方面に向かう人達が間道として多くの旅人で賑わったらしい。今では「ふじタウン」から下る公民館裏に移設されている「教え地蔵」も、阿品の谷を行き交う人々が道を迷わないよう分かれ道に目印として建立されていた。
鰆浜と阿品の谷を抜ける幅の狭い道路を、昔は国道であったと言う言い伝えはともかくとして多くの旅人が行きかっていた時代があったことは間違いないのではなかろうか。
備考 №6 №7 №39]]>
№565 道路の補修
http://hirosankim.exblog.jp/20978155/
2013-08-25T16:28:11+09:00
2013-08-30T09:07:02+09:00
2013-08-25T16:27:30+09:00
hirosan_kimura
道路
現在の道路では余程の路地裏か田舎などに行かないと舗装してない道路は見当たらない。しかし昭和20~30年代頃までは舗装してない道路が殆どで、阿品でも舗装してあったのは国道のみであった。新国道が完成したのは昭和7年3月であったが、当初は砂利道で舗装されたのは完成して4年後の昭和11年であった。舗装は車の通る中央部分のみで両端は砂利道のままであった。
国道以外の道路は全て砂利道のままで、車が通ると道路が削られそこらじゅうの道は凸凹だらけで雨が降ると水溜りがたくさん出来ていた。現在では道路に破損箇所などがあれば市役所に連絡すればすぐ補修してもらえるが、当時は道自体が崩れて通行不能にでもならない限り行政が対応することも無かった。水溜りなどが出来ると近所の人が土を入れて埋めるぐらいであったが、あさりを食べた貝殻などを道路の穴に蒔いてあるのが良く見かけられた。
昭和20年代の終わり頃までは年に二回くらい部落民総出で道路の補修が行なわれていた。この作業は「道つくり」と呼んでいたが、地域の住民が自発的に申し合わせて道路の補修に当っていたのだろうと思っていたが、大正の終わりごろ「地御前村村道修繕規則」が制定され、村内を8箇所に分割して村を挙げて行なわれていたものである。
その内容は
本村道路維持保存し交通の便を図るため、本村住民は規則事項を守る義務がある。毎年、春と秋の彼岸中日の前日に各部落に配分された区域により道路の修繕を行なうものとする。ただし必要ある時はこれ以外に臨時に行なうこともある。
作業を監督励行するため各部落に世話係五名を置く。世話係は村長が嘱託し任期は五ケ年とする。特別な事情が無い限り世話係を辞することは出来ない。
修繕当日は各戸で元気な男子大人が従事することが原則であるが、男大人が居ない家庭は婦女。男女大人が居ない家庭は子どもが代わることも出来る。当日事故などで出動出来ない場合はその代償として、一戸につき一円を当日支払わなければならない。補償金は進んで自発的に拠出する気持ちを醸成すること。特別な事情がある場合は世話係が協議して減額することが出来る。
村事業重要期間である小学校教員・神官・僧侶・駐在巡査・役場職員は道路補修作業出動は任意であるが、可能な限り出動することとし出動しない場合の補償金も随意とする。役場員はなるべく出動して各区作業の連絡等に従事すること。
世話係は毎作業実施前に予定計画書を作り、決定次第予め村役場に提出しなければならない。村予算の物質援助の要否、地主との関係等の協議を行なって当日の作業進行に期すること。
道路補修作業のみでなく、学校・役場・隔離病舎その他の公共の物件の補修作業には各区より出動して共同作業にあたること。
このような規則がいつまで適用されていたのかは分からないが、村の予算や人でも足らず現在では役所が行なう事業にも村人挙げてなかば強制的に協力していたことが分かる。
それにしても男子大人のいない家では女性、女性もいない家には子どもにまで出動させていたのは驚きである。これに対して教員・神官・僧侶等は出動も補償金も任意とは当時の世相が伺える。
昭和12年3月19日に「鰆浜」「阿品」「田尻」を一区域として委嘱された方は「堀本繁太郎さん」「原田信太郎さん」「谷野秀雄さん」「中山岩一さん」「中田丈一さん」「山崎勇一さん」となっているがいずれも亡くなっておられる。規則では世話係一区域五名となっていたが、規則の改正でもあったのだろうか。]]>
№433 ガード
http://hirosankim.exblog.jp/17632993/
2012-03-29T13:16:11+09:00
2012-04-14T11:52:08+09:00
2012-03-29T13:16:11+09:00
hirosan_kimura
道路
鰆浜部落・阿品部落にも平地に土盛された線路が、部落を寸断するように横切っている。この線路敷の下には部落の手前から奥に行くための道路がある。このトンネルのような道路は鰆浜ではガード、阿品ではカルバルトと呼んでいた。同じような道路を、隣り合った部落で呼び方が違うのは不思議である。
鰆浜と阿品では隣り合った部落であるが、鰆浜では線路の沖側に建物の大半があり、奥側の民家は一軒のみで残りは田んぼや畑のみであった。
反対に阿品は線路の奥側に大半の民家があり、沖側は数えるほどの民家のみで大半は田んぼや畑のみであった。
鰆浜の通路は奥には民家が一軒のみで、農作業に行く人が通る程度であったので巾が狭く、おまけに小川まで流れていたのでリヤカーがやっと通れる程度の道幅であった。
この通路は余りにも狭いのでニュータウンが造成された際、下り側に新しい通路が新設されトラックでも通り抜け出来る道路に改良された。
一方、阿品側は狭いながらも自動車の通り抜けが出来るためか改良されず元のまま残されている。
この通路は自動車が通り抜け出来るといっても巾が狭いので、自動車の離合は出来ない。
しかし、かつては阿品部落に車で入るにはこの通路しか無かったが、ふじタウンから降りる道路・ニュータウンから武田団地を経由して降りる道路・鰆浜の奥から阿品に入れる道路が整備されている。
鰆浜の古い通路は上の写真の左側部分にあった。今では排水路として残されているが、巾も高さも縮小されている。
この通路はめったに人が通ることもなく、風が吹き抜けそばにせせらぎが流れているのでとても涼しかった。
夏の暑い日に子どもたちは狭い通路にござを引き、寝転んだり女の子はままごとをしたりしていた。たまに農作業をする押車が通る時などは、一旦ござを片付け人が通り過ぎてまた涼しい場所で遊んだりしていた。
今から四十数年前ののんびりした時代のことである。
先日ある人と話していたら、線路の奥側に家を新築する際、古い通路を通り建築資材を自動車で運んだことがあるとのことであった。
その人の思い違いか、よほど運転後術に長けた人であったのだろうか不思議に思う。]]>
№427 里道の交換
http://hirosankim.exblog.jp/17442217/
2012-02-29T11:12:54+09:00
2012-02-29T11:15:55+09:00
2012-02-29T11:12:51+09:00
hirosan_kimura
道路
鰆浜(阿品一丁目)のマンション(藤和ハイタウン)の建っている場所は、明治28年5月に煉瓦工場があった。この工場は大正14年頃閉鎖されたらしい。
この跡地は農地として利用されていたらしいが、昭和7年頃病院建設の計画があがった。当時この周辺の道路は旧国道と新国道が分岐する辺りから奥に延び、現在マンション左手から奥に入る道路は無かった。
病院の建設に当たり周辺道路を整備するため、里道の一部を廃止し新たに付け返る願いが出されている。図右側の赤い道路部分を廃止し、中央の黄色い部分を新設するものである。
里道構成物件交換願
一 種目 里道三等里道線
一 場所 佐伯郡地御前村字鰆浜
一 交換坪数 廃止 三拾坪四合二拾五尺
新設 二拾九坪弐尺
一 新設道路 設計願書の通り
図面明示の通り、在来里道は曲折カーブ甚だしく通行上支障があるのみならず、此の箇所に広壮な病院が建設され、建築物の都合上周囲の状態により里道の交換願いを提出するものである。
昭和7年6月5日 佐伯郡地御前村 願人 〇野 〇一
地御前村長 瀬良武一郎殿
設計方法
一 交換新設里道は、両側に側溝を設け路面は平坦に地ならしをする。
一 交換新設里道に対する経費は、願人に於いて一切を負担する。
一 交換坪数に依る差額は、金銭により之を代償する。 以上
右 〇野〇一
(願書原文は文語体カタカナ交じりの文書である)
新設道路は現在もそのまま残っているが、車一台すれ違うのも困難な状態であるが80年前はこれでも十分な広さであったのであろう。
]]>
№422 国道の舗装
http://hirosankim.exblog.jp/17225634/
2012-01-16T11:05:44+09:00
2012-01-16T11:08:48+09:00
2012-01-16T11:05:44+09:00
hirosan_kimura
道路
新しい国道が阿品付近に完成したのは昭和7年3月、今から80年前である。
国道が舗装されたのは昭和11年で、道路が完成して約4年間は砂利道のままであった。今ではアスファルト舗装であるが当初はコンクリートの舗装であった。
舗装がコンクリートからアスファルトに換わったのは、昭和30年代の初めごろであったように思う。
請願年月日・請願者は不明であるが、国道舗装に関する請願書がある。請願して直ちに舗装されたとは考えられないので、請願年月日は昭和8・9年頃、請願者は地御前村長、相手方は県知事か国に対してではなかろうか。
請願書
国道二号線佐伯郡五日市町以西本村字鰆浜間に於ける改修工事は、今や竣工を告げたる如くにして、既に県の支配に移管せられたる趣なるも、五日市町より宮内村字串戸港の区間はアスファル舗装工事を此時に施され車馬の行通上遺憾なきに到れるも、此処以西に至りは撒布せられたる栗石路面に露出したるまゝ放任しあるを以て、車馬の行通上甚だ困難を感せり。
特に本村字田屋沖島橋前後に到りては、国道として著しき急勾配にして栗石路面に散乱し在るか為、交通の車馬等は之か為、特に支障を帰せり。
又、近時は荷物の運搬は大半陸路に拠るを便をするを以って、本県と山口県との交渉は倍々頻度の度を増すの際の方り。
斯の荒栗石の為、車体破損し操縦者の負傷したる例ありて、通行者間に怨嗟の声あるは甚だ遺憾とする処なり。
斯々の如きは産業を専念するの秋に方りては、一日も早く適当なる舗装工事を実施せられし事を暁望して止まさる次第に付、何分の御詮議を以て御実行の儀及請願御願候也。]]>
№400 海岸沿いの道路
http://hirosankim.exblog.jp/15346570/
2011-08-29T11:24:00+09:00
2011-10-14T14:12:45+09:00
2011-08-29T11:24:54+09:00
hirosan_kimura
道路
古い時代の阿品では海岸沿いの道は無く、地御前神社西側より「光の園」奥付近の山を越え、鰆浜(阿品一丁目)の谷を下り現在の阿品台下水処理場付近を通り、みの越を越え阿品(阿品二丁目)の谷に入っていた。
阿品の谷を奥に入り、現在阿品台の調整池のある下の谷を遡り山を越え大野方面に抜けていた。谷の分かれ道には旅人に道を教える「教え地蔵」が安置されていた。
この「教え地蔵」は阿品台住宅団地造成の際、地元の人の手により阿品公民館の裏手に移転安置されている。
当時は阿品付近の海岸を通行するためには道がないため、潮の引いた時に海岸を岩沿いに通行していたと伝えられている。
この図は文政7年、今から180年くらい前に描かれたものであるが、地御前神社西側海岸沿いの道路が、中央やや右側の沖山裏側を通り抜けた道路が、海に出た所で途切れている。
右端の小島は「火立岩」であるが、道が途切れた地点から「火立岩」の間は山が海に落ち込み崖のようになっている。今のバイパス出口陸橋の橋脚がある付近である。
この図はいつのものか分からないが、地御前神社西側海辺に石積みの道が描かれている。
途中で道が途切れているように見えるが、沖山の裏側を抜け右端の「火立岩」付近も小さな道が通り、鰆浜(阿品一丁目)方面に通行出来るようになっている。
明治12年に旧国道が整備されるまで、阿品付近海岸沿いはこのような小道を人々が行き来していたのであろう。
地御前神社西側の海沿いに大きな松の木が描かれているが、この松は民家の傍に大きくそびえていた記憶がかすかに残っている。いつ枯れてしまったのかは分からないが、何百年も生きながらえた巨木がほんの数十年前に枯れてしまったのである。]]>
№385 舗装前の国道
http://hirosankim.exblog.jp/14649378/
2011-04-22T10:16:35+09:00
2011-09-27T09:42:11+09:00
2011-04-22T10:16:42+09:00
hirosan_kimura
道路
この写真は昭和7年に撮影された鰆浜の新国道である。
この国道の完成は昭和7年3月とあるから、完成間もない時期の写真である。この当時は道路の舗装がされていない。道路が舗装されたのは昭和11年である。
阿品の海岸沿いには人がやっと通れるような道があったらしいが、この頃の主要道路は宮内から置くに入り阿品の山の裏側を通り、遠く九州方面に向かっていた。
明治12年に海岸沿いの旧国道が開通したが、道幅は三間(約5.4m)・海沿いの高さは海岸から一尺五寸余りとあるが、この高さでは波の荒い日には道路に海水が揚がっていたかも知れない。
明治26年の新聞では「廿日市以西の国道は非常に破損し車馬の通行も出来ざる程に至れり」とあるように国道とは名ばかりのようであったらしい。
旧国道は写真左側山沿いにまっすぐの位置である。
新国道が完成した時、阿品の人々はその広さにびっくり仰天し、戦争になればこの道路に飛行機が離着陸するのではないかと噂しあったそうである。
また「雨の日でも、わらじで歩くことができる」と関心したそうである。
新国道が完成した時、飛行機が離着陸出来る広さに当事の人がびっくりした道路も、車社会の到来により狭隘となり、西広島バイパスが完成し鰆浜はその西端出口となった。
道路拡張のため海岸が埋立てられ、広電の軌道は海側に移設され道幅も広くなり、この付近は大きく変容している。
国道を自由に往来していたが車の増加により危険となり、高くて長い陸橋が架設された。
沿道にはマンションも建てられ風景も随分と変わった。
上の写真の右側にあった「火立岩」も電車軌道移設のため無くなってしまった。]]>
№247 陸橋の鎖
http://hirosankim.exblog.jp/11643234/
2009-11-24T07:34:40+09:00
2011-10-24T12:59:58+09:00
2009-11-24T07:34:41+09:00
hirosan_kimura
道路
阿品陸橋は、JR・国道・広電宮島線を跨ぐ、長さ167㍍の大きな陸橋である。
この陸橋の数箇所に、地震がきても橋脚と橋げたがずれないよう、大きな鎖で結んである。
平成13年3月24日、午後3時28分に安芸灘を震源とした芸予地震が発生したが、今後いつ発生するかも分からない地震の対策の一つである。
芸予地震はマグネチュード6.4で,阪神大震災とほぼ同じ規模と言われている。
廿日市では5強の震度があったが、その後も余震が続き、翌25日までの有感地震16回、無感地震は316回にも及んだそうである。
この地震により阿品地域でも、屋根瓦のずれや家屋の壁の亀裂等の被害があった。
特に埋立地である阿品三丁目での被害が多く、到るところで液化現象が起き道路等に亀裂が生じたりした。
家屋の倒壊こそなかったが、大きな被害により修理不可能で、何軒かは古くもない家屋が取り壊された。
幸い我家では大きな被害がなく、駐車場のコンクリートに小さな亀裂が入ったくらいで済んだ。
阿品の氏神様「岩鏡神社」でも大きな被害はなかったが、小規模ではあるが本殿横の崖・石垣の崩れ、建物下地面の亀裂、石灯籠がずれた程度ですんでいる。
この近辺では長さ5.5㎞の五日市活断層があると言われていた。しかし平成16年の調査では、実際には広島市の安佐北区区久地から、廿日市の阿品附近までの長さ20㎞に変更されている。
五日市断層で地震が発生すると、死者は3,400人。経済的被害は5兆2,000億円に及ぶと推測されている。]]>
№212 狭い歩道改良
http://hirosankim.exblog.jp/11265622/
2009-10-02T05:41:00+09:00
2011-10-24T15:04:02+09:00
2009-10-02T05:41:47+09:00
hirosan_kimura
道路
№165で「危険な歩道」を掲載した。最近そこを通りかかってみると、いつの間にか改良されていた。
一旦車道に降りないと通行出来なかった歩道が、狭いながら通行出来るようになっていた。
極端に狭かった歩道部分に、コンクリートの板が掛けられ、ガードレールが一部取り替えられ、金網の柵も取り付けてあった。
下から見てみると、狭かった部分にコンクリートの板が渡してあるのが良く分かる。
この危険な歩道が設置されたのは、昭和49年4月の27年前である。「危険な歩道」をブログに掲載したのは今年の6月26日である。
コンクリートの板を良くみると、平成21年8月24日製造とあるので、この改良工事がされたのはつい最近のことであろう。
27年間狭い歩道であったものが、ブログに掲載して数ヶ月で改良されたのは偶然であろうか。]]>
№192 子ども達の夢が叶った陸橋
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2009-08-07T05:38:45+09:00
2011-10-25T09:09:47+09:00
2009-08-07T05:38:36+09:00
hirosan_kimura
道路
昭和63年4月4日、廿日市町から廿日市市へと市制を記念して「こども議会」が開催された。
市の本会議場を使用し、各小学校代表の質問に市長が答弁するものである。
阿品台西小学校代表、諏訪貴則君の質問。
「僕は今阿品台西小学校でやっているサッカークラブに入っています。それで毎週阿品の陸橋を通ります。
そのときに、その陸橋は階段ばかりで、自転車の通れるような坂がありません。それで、陸橋の下に置いておくと、いたずらされたり盗られたりしてしまいます。
僕ももう2回も盗られたことがあります。1回目は運よくハローふじおかの前で見つかりましたが、2回目のときの自転車はまだなくなったままです。
今はまた自転車を買ってもらいましたが、それからというもの陸橋の下に自転車を置いたことがありません。
だから、学校にいくときはわざわざ遠回りをしなくてはなりません。
廿日市ニュータウンのメイン道路の一番車のたくさん通るところをよこぎらなくてはならないのです。僕だけでなく、阿品サッカークラブに入っている人で、鼓ケ浜やふじタウンの人たちは、ここを通って行っています。
でも、困っているのは何も僕だけではないと思います。乳母車を押すお母さんたち、それから足の悪いお年寄り、自転車を毎日利用する高校生のお兄さんやお姉さんたちも、もし坂があれば、僕たちもこういう人たちもとても便利になり、助かると思います。
そこでお聞きします。市ではこのような坂をつけてもらうことは出来るのでしょうか。ぜひ付けてください。」
半明市長
「それでは、ただいまのご質問にお答えを致します。
緩やかな坂をつけてほしいということですよね。今ね、廿日市市内では自転車の専用の道路はないんですよね。車の通る道と、それから歩道になっておりますよね。
でも、皆さんの今のご意見を聞きましてね、まこと自転車の専用の道路、そして緩やかな坂にして自転車を乗れるようにしたいものですが、今のところ市ではそういう計画は立てて降りません。しかし、せっかくのご意見でございますので、よくみんなで検討をして、できるだけご期待に沿うようなことを考えてみたいと思いますので、ご理解願います。」
それから数年して長いスロープの付いた横断陸橋が完成した。阿品台には良く行くことがあるので、自分もこの陸橋を利用している。
この陸橋の完成により、自転車通学の高校生も一段と便利になり、西小学校の児童も安全に通学できるようになった。 ]]>
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