素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:商業( 3 )

 明治16年3月に地御前村のある人が売薬行商の鑑札願いを申請している。申請先は佐伯郡長宛となっている。

e0125014_9404575.jpg 薬名は「清明膏」「枇杷葉茶」「薬王丸」「寄功丸」とある。何に効く薬であろう。売り子4名の名前も記載してある。







e0125014_10255441.jpg願いには、願人・願人の親族代表・役職は良く分からないが取締役・戸長代理人が記名押印している。戸長とは今の村長でその代理人が署名している。宛先は佐伯郡長である。










e0125014_9414068.jpg この願いは同年3月に認められている。




 



 

 直接、阿品には関係ないが面白い内容なので載せてみた。
by hirosan_kimura | 2013-07-27 05:23 | 商業 | Comments(0)

№415 藤川商店

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 阿品地区は、現在の団地が開発されるまでの昭和40年代頃までは、世帯数は100余り、人口も500人少しの地区であった。

 それでも個人経営の商店が僅かにあった。鰆浜では、藤川商店・浜田商店・沖野商店。阿品では瀬土商店・阿品屋などの記憶がある。いずれも駄菓子・食料品・日用品などを売る家族経営の小さな店であった。

 浜田商店は駄菓子やお好み焼きなどを売っていたが、経営者が変わり後に今崎商店となっていた。

 沖野商店は駄菓子・文具・僅かの化粧品や履物などがあった。

 瀬土商店は食料品などを売っていたが、阿品で最後まで残っていた商店の記憶がある。阿品屋は昭和38年に阿品で始めて出来た小さな団地が完成した頃開店したが、いつの間にか閉店されている。

 いずれにしても、今ではこれらの商店はひとつも残されていない。

 子どもの頃の印象として残っているのは何と言っても藤川商店で、阿品で一番早く出来た店で長い間阿品で唯一の商店であった。

 売っていたのは食料品が中心で、簡単な日用雑貨や薪炭などが売られていた。場所は現在の「阿品東駅」のまん前で国道沿いにあった。

 現在ではなにもかも袋詰めやパックで販売されているが、当事はこのようなものは殆どなかった。味噌や醤油なども量り売りで、これらの物を買う時は容器や壜を持って行きこの中に入れてもらっていた。豆腐は水を入れた一斗缶に入れてあり、持参した皿やボールに入れてもらい持ち帰っていた。

 経営者の人はとても優しい人で、子どもたちは「藤川のおじさん」と呼んで親しんでいたが、部落内のお世話を何かとされ、子どもの頃には認識していなかったが民生委員もしておられた。

 この家の息子さんは岩国基地に勤めておられたが。めったに無いことであるがおじさんに代わり、休暇の日に店番をされることがたまにあった。

 とてもひょうきんな人で、この人が店番をするときは子どもたちが良く駄菓子などを買いに行っていた。商品に値段が書いてあるものは別として、値段が分からない時は反対に「これは幾らか」と子どもたちに値段を聞くのである。子どもたちはふざけて20円の物でも10円ですと言って売って貰っていた。

 ほかの子どもたちもこれを聞きつけて、「今日は息子さんが店番しておられる」と、わざわざ駄菓子を買いに行くことも良くあった。

 今思い出すと、本当の値段を知っておられたのに、子どもを喜ばそうとわざっと売っておられたのかも分からない。あとでこのことがおじさんに分かり、怒られたことがあったかも知れない。

 この店もおじさんが亡くなられて、しばらくは親戚の人が店を開いておられたがいつの間にか閉店され、子どもさんはハワイに住んで居られるらしい。

 閉店後しばらくして跡地に鶏肉を加工する工場が出来たが、それも無くなり今では建売住宅地となってしまった。

 余談であるがこの家に「タビ」と言う名の犬がいた。名前の由来は分からないが足に履く「足袋」だろうと勝手に解釈していた。

 ある時我家で子犬を飼うことになり、藤川の犬が足袋(タビ)ならうちは下駄(げた)にしょうとすると、母親が「どんな名前でも良いが、(げた)だけは頼むから止めて欲しい」と言うので別の名前にしたことを思い出す。

 上の写真は藤川商店であるが、真正面から撮った写真でないので店の様子は良く分からない。
by hirosan_kimura | 2011-12-13 13:26 | 商業 | Comments(2)

№183 阿品の屋台

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 今は記憶に残る人も少ないであろうが、昭和40年代頃に阿品で屋台を営業する人があった。

 場所は阿品公民館西踏み切り手前の、川と道路に挟まれた狭い場所であった。当時はJR阿品駅は勿論、公民館も無く殆ど人通りも無く寂しい場所であった。

 選りによってこんな寂しい場所で、何故屋台を始められたのか不思議に思うほどの場所であった。

 営業として成り立っていたのか分からないが、たまに行っても他のお客さんを見ることも余り無かった。

 家から遠いのでわざわざその屋台に行くことも無かったが、たまに廿日市の方で飲み会があった時、誘われて広電阿品(今の阿品東駅)で降りて、何回かその屋台まで歩いて行った事がある。

 電車駅から歩いて行くと結構遠かったが、ほろ酔い気分で話しながら行けば、苦になる距離ではなかった。

 当時の阿品では一杯のむ場所もなく、屋台で会う人は顔なじみばかり、色んな話がはずみ気兼ねのない場所であった。

 酒のつまみもたいしたものは無かったが、コップ酒をチビリチビリ飲みながら時間を掛けて話しに花が咲いたものである。

 その場所は鉄道のすぐ傍なので、列車が通るとすざましい轟音がし話が中断したが、今のように列車の本数も多くなく、夜遅くなるとたまに貨物列車が通るくらいであった。

 その屋台も余りにもお客さんが少なく、いつの間にか無くなってしまった。

 今から40年くらい昔の話である。
by hirosan_kimura | 2009-07-27 06:02 | 商業 | Comments(0)