ふるさと 阿品 よもやま:水産
2014-07-08T09:58:12+09:00
hirosan_kimura
素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。
Excite Blog
№633 地御前の漁法 打瀬網
http://hirosankim.exblog.jp/21869996/
2014-04-08T11:09:03+09:00
2014-07-05T10:31:54+09:00
2014-04-08T11:08:57+09:00
hirosan_kimura
水産
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№627 地御前の漁法 鰆漁
http://hirosankim.exblog.jp/21764126/
2014-03-09T03:50:55+09:00
2014-07-05T10:34:45+09:00
2014-03-09T03:51:06+09:00
hirosan_kimura
水産
№54で紹介したが、鰆浜の語源はこの海岸で「鰆」がたくさん漁獲されたことに由来する。上図は鰆を捕獲する「さわら流し網」という漁法である。]]>
№626 地御前の漁法 鰯網
http://hirosankim.exblog.jp/21761748/
2014-03-08T11:17:47+09:00
2014-07-05T10:35:04+09:00
2014-03-08T11:18:00+09:00
hirosan_kimura
水産
地御前では昭和20年代まで鰯漁が盛んであった。№408でも紹介したがその漁法は何種類かあった。上図は、鰯巾着網といわれる漁法である。
上図は、鰯建曳網。]]>
№622 地御前の漁法 いかなご漁
http://hirosankim.exblog.jp/21740628/
2014-03-02T15:33:59+09:00
2014-06-30T15:49:22+09:00
2014-03-02T15:34:07+09:00
hirosan_kimura
水産
いかなご船曳網
漁具は大体他の地曳網と同様であるが、揚網場所が狭小な船の中であり、また機動力を要するため地曳網より規模が小さいのが普通である。
船曳網は一隻の網船で操業する。1艘船曳と2艘船曳に分類され無動力船で行なう小型のものから、動力船で行なう大型曳船や、網舟は無動力船であるがその変わりに動力付の引船を使用するもの等、種々雑多である。
一艘船曳を基本型として、その操業方法は漁具の一端に樽を付し投入すると同時に、魚群を包囲するように漁具を順次投入しながら漕ぎ進み、再び元の○の○に帰り○○○に錨を投入して船を固定した後、引網にかかり網を船中に引揚げる。(○~判読不能)
いかなご袋待網
説明なし]]>
№616 「あさり」の放流
http://hirosankim.exblog.jp/21683636/
2014-02-14T11:42:41+09:00
2014-07-05T10:39:54+09:00
2014-02-14T11:42:44+09:00
hirosan_kimura
水産
昭和59年7月30日、地御前漁業協同組合により地御前と阿品の海岸に「あさり」の稚貝約3・5㌧が放流された。
この放流は毎年行なわれているが、予想されたほど「あさり」の生息量は増えていない。「あさり」の稚貝は一年で3cm以上に育ち初めて産卵出来るようになる。
小さいうちに採ってしまうと「あさり」はいなくなるので、繁殖保護を考えて小さな「あさり」は採らないような潮干狩りを行なうようにしよう。
潮干狩り開放区域は、地御前神社前から鰆浜海岸までとなっている。]]>
№584 鰯
http://hirosankim.exblog.jp/21542339/
2014-01-07T11:23:23+09:00
2014-07-08T09:58:12+09:00
2014-01-07T11:23:16+09:00
hirosan_kimura
水産
最近、早朝に三丁目の堤防すぐ傍を行ったり来たりしている船を良く見かける。海岸沿いを群になって遊泳している鰯を収穫しているようだ。
広島湾で獲れる鰯は「かたくち鰯」であるが、成長しても10cmくらいなので単に「小鰯(こいわし)」と呼んでいる。解禁されるのは毎年6月10日から翌年2月までとなっている。食べ方は色々あるが一番美味しいのは刺身でであるが8月末頃までが一番美味しいと言われ、東京方面からの出張族にも広島名物として好評らしい。
小鰯の大半は「いりこ」に加工されるが、昭和20年代頃までは地御前では収穫した鰯を湯がき、空き地と言う空き地一面にござなどの上に広げて乾燥させていたが、今ではこのような風景も見られない。
小鰯が獲れる時期には海岸傍まで群で寄ってくるので、子どもでも簡単に面白いほど釣ることが出来る。また網に長い竿を付けてすくえばいくらでも獲る事が出来て、大量に獲れて処分に困るくらいである。
小鰯は七回洗えば鯛の味がするなど言われているが、旬の時食べれば本当に美味しく幾らでもたべられる。しょうが醤油で食べるのが一般的であるが、わさび醤油に付けて食べるのが好きである。
小鰯の刺身を食べる方は良いが、小さな魚なので頭と内臓を取り骨を除く必要があり調理する方は大変である。調理するのに包丁を使用する人。細く切った竹を薄く削って丸くした物。中にはスプーンで調理する人もある。小鰯の刺身が好きなので母に良く作って貰っていたが、調理器具は使わず指先のみで調理していたが不思議あった。たまにスーパーで売っていることもあるが、調理して時間がたっているせいか余り美味しく無い。
小鰯は刺身以外に天ぷら・南蛮漬などで食べるが、頭と内臓を取り除き醤油で煮付けた物も好きである。今では見かけることも無いが小鰯を入れた炊き込みご飯も美味しい物であった。
阿品近辺で獲れる漁獲物で小鰯の刺身とあさりは食べ飽きることは無い。季節以外の小鰯は脂が乗り切って美味しくないようであるが、小鰯の刺身が食べられる季節が待ち遠しいものである。]]>
№550 潮干狩りの禁止
http://hirosankim.exblog.jp/20626743/
2013-06-09T07:03:52+09:00
2013-08-30T09:16:37+09:00
2013-06-09T07:03:55+09:00
hirosan_kimura
水産
5月3日の中国新聞に「禁止区域で潮干狩後絶たず」の記事が掲載された。
「地御前と阿品の干潟のアサリを採取を禁止する区域で潮干狩りをする人が目立ち、地元漁協が啓発看板を取り付けて注意を促している。」と言う内容である。
小さい頃から家の目の前の海岸でアサリを掘ることは極当たり前と思っていたし、潮の良いときには沢山の人が貝を掘っており、この海岸がアサリの採取禁止区域と言う認識は全く無かった。
以前はたくさんのアサリが掘れていたので良くアサリを掘りに行っていたが、最近ではめっきり少なくなり大潮の干潮の時でもアサリ堀に行く気にもならなかった。
こんなにアサリの少ない干潟なので、アサリを生業とする漁業者は皆無と思っていたが、漁協では春と秋に2漁業者がアサリの稚貝を干潟に蒔いているらしい。またチヌなどによる食害を防ぐ網を敷いているらし。
新しく取り付けられた看板の横に、昭和50年前後に取り付けられほとんど判読不能な看板が残っている。読めない部分が多いが、この付近でアサリを掘る人は監視人の指示に従ってください。アサリ採取が出来る場所は地御前神社前と阿品海岸。アサリ採取区域は地御前の旭沖と宮内の嘉永新開沖と記してある。
以前は干潟の降り口に監視人が居り、アサリを採取する人からお金を徴収していた時期もあった。監視人は漁協から地元の老人クラブに委託されていた。母が元気な頃この仕事を引き受けると良い小遣い稼ぎになると喜んでいた。
はっきり記憶している訳では無いが、一人200円くらい徴収しその半分くらいが監視人に入っていたらしい。お金の徴収もいつの間にか行なわれなくなり、誰でも自由にアサリを掘ることが出来るようになった。
潮の良いときには沢山の人がアサリを堀に来て、海岸沿いの狭い道路にたくさんの自動車が違法駐車し、誰が通報するのか分からないが、警察署に通報しパトカーが取り締まりに来ることもあった。
少ないアサリを沢山の人が掘り、小さなアサリまで持ち帰るので鰆浜沖の干潟では益々アサリは居なくなってしまった。
今では少なくなってしまったが、バイパス工事で干潟が埋立てられる前は子どもでもバケツ一杯くらいは掘ることが出来た。その時代が懐かしく思い出される。]]>
№526 底引き網船
http://hirosankim.exblog.jp/19880326/
2013-03-02T14:15:04+09:00
2013-03-02T14:16:17+09:00
2013-03-02T14:14:44+09:00
hirosan_kimura
水産
毎朝犬の散歩をする時、二・三隻の船が底引き網を曳きながらマンション前海岸のすぐ傍を行ったり来たりしている。一体何を獲っているのだろう。
人に聞くと「多分海鼠(なまこ)でも獲っているのでしょう。」と言う人もある。別の人は「メバルなど小魚を獲っているのだろう。」と言う人もある。
時には鰆浜沖の方まで行く船もあるが、毎朝狭い区域を行ったり来たりして獲物が居なくならないのか不思議である。
毎朝、この光景を見ながら何が獲れているのか不思議に思う。]]>
№504 伯父がマニラで漁業操業?
http://hirosankim.exblog.jp/19567733/
2013-01-17T15:34:25+09:00
2013-01-17T15:36:05+09:00
2013-01-17T15:33:37+09:00
hirosan_kimura
水産
又聞きの又聞きで確かなことは分からないが、明治の時代に父の兄が親の反対を押し切って漁業を行なうためフィリッピンのマニラまで何人かと連れ立って行ったらしい。
行く途中なのか、操業中かは分からないが海賊に襲撃されて叔父は命を落とした。襲撃された同僚はジャングルに逃げ込み命拾いをした。後に命拾いをした人は帰国して祖父にこの事実を連絡したそうである。
これを聞いた祖父は「三郎(マニラに行った伯父)は、海外に行かなくても広島で漁業をやっていける腕を持っていたのに」と残念がったそうである。伯父三郎は明治3年6月24日生まれであるが、海賊に襲われて亡くなったのは30歳を過ぎた頃ではなかろうか。伯父は長男で、父は末っ子のため驚くほど年が離れている。
遠い昔のことで真相は分からないが、地御前の漁師が明治の時代にフィリッピンまで操業に行ったのも事実無根では無いようである。
ある人の著書によると
明治32年に豊田郡忠海の豪農「山根与三郎」が県庁でマニラ鉄道の日本人技師に偶然出会って、マニラ湾での漁業操業が有望との情報を得た。
これを聞いた与三郎は漁業視察の申請を県に提出し、明治33年11月5日に旅券の交付を受けている。同年12月16日に雇い入れた漁業者2名を同行し神戸港より出帆し、12月31日にマニラに到着している。
翌34年から同地で打瀬網漁を半年間試み大成功を収めている。6~9月は台風の季節で漁業に適さないため、6月1日に操業を一旦打切り日本に帰国した。同年9月23日に操業続行の再申請を行い、故里で出漁希望者15名を募り集団で再渡航した。
翌35年は操業が終わった時期に帰国し、漁業の専門知識が必要なため県水産試験場を退職した技手を同行のうえ渡航し操業を行なっている。
翌36年には漁船・漁具の購入と漁業者を雇い入れるため与三郎と技手は帰国している。与三郎と技手は新に漁業者を募るため、江波村(現在広島市)と地御前村を訪れて、マニラ湾が漁業操業に有望と宣伝した。
この年は渡航する漁業者約80名、出漁する船は27艘であった。地域別の漁業者数は分からないが、地御前村・江波村の人が多かったようである。
伯父が明治の時代にフィリッピンまで漁を行なうために行った話しは、半信半疑で聞いていたがまんざら根拠の無いことでは無いようである。]]>
№472 地引網
http://hirosankim.exblog.jp/18290885/
2012-07-01T15:17:55+09:00
2012-07-01T15:22:58+09:00
2012-07-01T15:17:53+09:00
hirosan_kimura
水産
昭和30年代頃までは鰆浜の海岸で地引網が良く行われていた。場所は広電停留所前の砂浜である。この浜辺は干潮になると沖まできれいな砂浜が広がっていたが、今では阿品台下水処理場の汚水が放流されたり、牡蠣の養殖によるゴミが散乱しかつての面影は無い。
今では余り見ることも出来ないが砂浜の沖側には「あまも」がたくさん繁り、そこには小魚や蟹・海老などがたくさん繁殖していた。 夏の夜になるとカーバイトの明かりを頼りに、これらの獲物を収穫するのを楽しみにしている人もあった。
地引網は漁師の人が魚を収穫するために行うと言うよりも、今で言う「観光地引網」のようなものであった。海の傍で育った我々には珍しくも無いが、山奥で生活している人には何年に一回か毎年来られていたのかは分からないが、地引網に来るのを楽しみにしておられたようである。地引網には子ども会や町内会の人たちが団体で来ておられた。
地引網を行うのは鰆浜で漁業をしておられ方が網を沖の方まで張り、田舎から来られた方が二手に分かれて、浜辺まで網を引き寄せておられた。網は随分沖まで長い網を張るので、大人数が引っ張っても重く浜に引き寄せるまでは随分時間が掛かっていた。苦労して浜まで網を引き寄せるとその中には大小の魚・蟹・海老・たこなどがたくさん入っていた。引き寄せられた収穫物は歓声をあげながら選り分けられていた。
獲れた収穫物は、地引網を頼んだ人たちが全部持ち帰られるが、小さな魚まで珍しいのか根こそぎ持ち帰っておられた。鰆浜の子どもたちはその様子を遠巻きに見るだけであった。
地引網が終了し田舎の人たちが引き揚げた後、残された藻屑の中を選り分けると、僅かに魚などの取りこぼしがあるのでそれを探し出すのがとても楽しかった思い出が残っている。
今の時代に鰆浜の浜辺で地引網を行うと、魚などは僅かしか獲れず、ごみなどの散乱物や牡蠣殻などの方が多いのではなかろうか。]]>
№410 村の漁業
http://hirosankim.exblog.jp/16178355/
2011-10-25T10:55:58+09:00
2011-11-11T14:30:41+09:00
2011-10-25T10:55:54+09:00
hirosan_kimura
水産
昭和9年地御前村の漁業の状況を調査した資料より。
水産業
○漁業盛 理由 海岸線曲屈している
砂泥岩 鰮(いわし)の好漁場
○漁業の方法 舟曳網 建網 手釣 かきの養殖
主要水産業
せくろいわし 12,000〆 25,200円
たい 120〆 660円
ちぬ 400〆 880円
かれい 200〆 300円
ぼら 300〆 360円
其他 7,500〆 8,250円
とりがい 2,500〆 500円
あさり 10,000〆 1,500円
いか 800〆 360円
たこ 300〆 240円
えび 600〆 480円
なまこ 1,300〆 360円
いりこ 25,200円
水産物総数 42,554円
戸数 66戸
一戸平均 644.75円
単位の〆は貫目であろう。現在地御前の水産物の大半は牡蠣養殖によるものであるが、この資料では牡蠣の漁獲高が示されていないので其の他に含まれ、わずかな漁獲量だったのかもしれない。
漁獲高と総計が一致しないが、「せくろいわし」と「いりこ」は重複し、その他どこかに誤りがあるのかも知れない。
漁業者一戸当の平均が、年間644円とあるが、今の物価に当てはめるとどの程度の収入となるのであろう。
それにしても、現在の地御前の海岸と比較すると、遠浅が広がり海草が繁茂し、水はきれいでゴミも少ない当事の海の豊かさが偲ばれる資料である。]]>
№408 鰯網
http://hirosankim.exblog.jp/15885935/
2011-10-13T09:48:40+09:00
2011-10-24T12:10:51+09:00
2011-10-13T09:48:37+09:00
hirosan_kimura
水産
毎年、この季節になると宮島の沖から大漁旗を掲げて帰ってくる鰯漁の船の風景を思い出す。色とりどりの大きな大漁旗をたくさん船に掲げている様子は、華やかで勇ましい風景であった。
広島湾でいつの時代から鰯漁が始まったのかわ分からないが、大正14年の地御前村の資料では「由来本村はは煮干鰮(いわし)の名産地にして年々四張乃五張ノ鰮地引網出漁シテ、産額の多キ年ハ漁期半ケ年に約六万円ノ煮干鰮ヲ製造致シ候。之に従事スル人員ハ男子百四十人乃百七十五人、女子百人乃至二百人アリテ」とあるように村の経済を大きく支えていたようである。
この鰯漁は広島湾に回遊する鰯の漁が減ったり、質が落ちたため昭和30年代の初めにはほとんど行われなくなった。
鰯漁は二艘の引き舟、網を引くろくろのある二艘の網船、網の具合を網船に旗で合図を送る見図船(ミトブネ)と採れた鰯を湯がく炒屋船(イリヤブネ)の計六艘で一船団であったそうである。
湯がいた鰯は陸に持ち帰り、空き地という空き地に広げて乾燥されていた。
古い阿品の地図にも、田尻と鰆浜の海辺に「鰯干場」と記録されている。
記録によれば、大漁の時は一船団で莚(ムシロ)千数百枚を敷き並べて乾燥するほど広い敷地を要したらし。
自分が子どもの頃には鰯漁も規模が小さくなったとは言え、地御前の港周辺の空き地や道路わきに鰯を広げて乾燥していた情景がかすかに記憶にある。
上の写真は場所は不明であるが、田尻か鰆浜で鰯を乾燥させている様子である。女・子ども総動員で鰯を広げて乾燥させている。
昔ほど鰯が採れなくなったとは言え、時期が来ると海岸のすぐ傍で鰯が素人でもたくさん採ることが出来る。「7回洗えば鯛の味」と言われるほど鰯の刺身は美味しいが、今の若い人は包丁やスプーンで鰯を捌いているが、母親たちは道具を使わず指先だけで器用に捌いていたのを思い出す。]]>
№358 わかめ
http://hirosankim.exblog.jp/12560346/
2010-04-29T20:47:00+09:00
2011-10-27T10:47:33+09:00
2010-04-29T20:47:01+09:00
hirosan_kimura
水産
本日は「昭和の日」で休日。天気も良く潮加減も良いので、阿品の磯は潮干狩りの人達で溢れかえっていた。その殆どはアサリを掘る人達である。
一昔の阿品の磯にはアサリがたくさん居り、子どもでもバケツ一杯のアサリを掘るのは造作なかったが、今では少なくなっている。
アサリは好きで掘りにいくこともあったが、時には僅かしか採れないので折角掘ったアサリを捨てて帰ろうかと思うこともあったので、今ではほとんど掘りに行くこともない。
大半の人がアサリを掘る中で、わかめを採っている人もあった。春先にはたくさんの人達がわかめを採っておられたが、旬を過ぎた今ではわかめを採る人はほとんどいない。
わかめを採っている人に「硬くて食べられないのではないですか」と聞くと、「柔らかそうなのを選んで採っている。今の季節のものでも美味しい。茹でて冷蔵庫に入れておけば保存もきく」と話しておられた。
わかめは岩にたくさん着いており、採るのは造作なく短時間でいくらでも採れる。
以前には阿品の海岸でわかめを見ることもなかったが、三丁目の堤防の下に大きな捨石があり、いつの間にかわかめが繁殖したらしい。
阿品の人は「もずく」「岩のり」「おご」などは昔から採取していたが、わかめを採る習慣も無く今でも地の人はわかめを採取する人は余り見かけない。 わかめを採っていた人は「てんぐさ」も採っておられたが、寒天にするには手間が掛かり「てんぐさ」を採る人はめったにいない。
田舎に住んでいる人は山菜等も収穫出来るが、海辺では「あさり」や「魚」も釣れ、「海藻」も採る気になれば収穫出来ありがたいことである。]]>
№189 はまぐり
http://hirosankim.exblog.jp/10774713/
2009-08-04T04:31:47+09:00
2011-10-25T09:11:31+09:00
2009-08-04T04:31:45+09:00
hirosan_kimura
水産
「はまぐり」は吸い物・酒蒸し・土瓶蒸し等で食される美味しい貝である。
「その手は桑名の焼きはまぐり」と言われるように、三重県では名産となっている。
「はまぐり」は阿品では無縁と思われているが、今から40年くらい前までは阿品でも「はまぐり」が採れていた。
場所はお上がり場に近い砂浜であった。たくさん採れる貝ではなかったが、アサリを掘っているとたまに出てきて、「はまぐりが」採れたと喜んだものである。
その「はまぐり」もいつの間にか、阿品では全く姿を見ることが出来なくなった。
この「はまぐり」は日本各地でも漁獲量が少なくなり、「はまぐり」と称して売られているものの中に、北アメリカ原産の「ホンエビスガイ」が多いそうである。
北朝鮮では生の「はまぐり」にガソリンを掛けて焼く、「はまぐりのガソリン焼き」と言う大胆な調理方法があるそうであるが、臭くないのであろうか。
阿品(今の広電阿品東)駅の沖で泳いでいると、貝で足を切ることがあった。この貝は「立ち貝」と言っていたが、正式には「たいらぎ」と言うそうである。
この貝は先端が尖り砂泥に立っており、上部は薄くかみそりの刃のようになっていた。水中に生息しており刃の部分が少し砂泥の上に出ていた。
この貝は阿品では泳いでいる時怪我をすることがあるので、迷惑がられるばかりで食べることは無かった。
しかしこの貝の貝柱は寿司の高級ネタで、さしみ・バター焼き等にするととても美味しいものらしい。
この貝も、今では阿品の海岸では全く見ることは出来ない。]]>
№175 魚の餌
http://hirosankim.exblog.jp/10612878/
2009-07-14T04:39:00+09:00
2011-10-25T09:16:12+09:00
2009-07-14T04:39:32+09:00
hirosan_kimura
水産
その餌は主に鯛を釣るためのもので、鰆浜周辺の女の人達の何人かが自分達で餌を掘り卸店に納めていた。
餌の採れる場所は鰆浜沖、地御前沖と遠くは佐方川河口付近から美の里沖附近までの海岸であった。餌の採れるのは大潮を挟んで5日前後。ひと月に10日くらいに限られていた。
潮の引くのは昼間と限らず、夜中から朝方のこともあり、寒い雪の降る凍えるような冬でも餌を掘ると言う厳しい仕事であった。
鰆浜周辺で掘られる餌は、卸店が舟で掘る場所の沖に来ているので、その場で計量し買い上げていた。
佐方川沖に掘りに行く時は、阿品駅(今の阿品東駅)から「山陽女学園駅」までは電車で籠を背中に背負って行き、餌の採れる海岸まで歩き、帰りは餌で一杯になった籠を背負い電車で阿品まで帰っていた。
潮の加減によっては夜中の終電車で行く場合も有り、電車が運行していない時間の場合は歩いて行くことも有った。帰りは朝の始発電車で帰ったこともあるそうである。
オオコムシ
オオコムシはミミズのようで、長さは10~15cm。太さは鉛筆くらいで、熊手のような道具で掻いて採っていた。今でもあさりを掘っている時にたまに見つかる場合もあるが、見慣れない女性はや子どもであれば気持ち悪がるであろう。
キドウ
キドウは長さ10cmくらいの太くて短く白っぽい虫で、その太さは人差し指くらい背ある。穴の中にいるので、餌を掘る道具で大きな穴を掘って採っていた。
採った餌は鮮度が大切なので、阿品の電停に着いたらすぐにその足で卸業をしておられる人の所へ持って行っていた。
採れた餌は一貫目(約3.75kg)100円であった。一晩で500円くらいになり、当時の女の人としては良い稼ぎであった。
卸屋では餌をざるに入れて洗い、穴のたくさん開いた木箱に入れ海中に浮かせ泥を吐かせていた。
その木箱は「えんばこ」と呼ばれていたが、「餌箱(えさばこ)」からきた呼称だろう。
火立岩沖にあった宮島航路桟橋の残骸跡に片方の綱を結び、その綱に何箱かの「えんばこ」を連ねて浮かせ、もう片方の綱の端は沈めた錨に結んであった。
餌は主に山口県大畠の漁協に卸されていたが、萩・長門・仙崎方面からの注文もあった。
電報で注文が入ると、米袋を頑丈にしたような紙袋に入れ茣蓙(ござ)でくるんで、宮島口駅より汽車で送っていた。
宮島口駅までは荷台の頑丈な自転車で運んでいたが、注文の多いときはバタンコ(オート三輪車)を所有しておられる地御前の店に頼んで、宮島口駅まで運送してもらっていた。]]>
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