素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:農業( 14 )

№745 田植えの準備

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 今、阿品では冬の間放置されていた田んぼがが耕され、田植えの準備の真っ最中である。かつては部落の沖から奥までさえぎる建物もなく、JR線路付近から最深部ま見通すことが出来ていたが、今では住宅の間に田んぼが散在しているような状態である。

 上の写真の場所でもすぐ近くにまで住宅が迫り、田んぼは建物に囲まれたような状況である。

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 この場所は一昨年まで稲作の行われていた田んぼであったが、高い擁壁が立てられ盛り土がされ、今では住宅の建築の真っ最中である。

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 住宅地は正面に見えるすぐそばの田んぼまで迫り、高い擁壁に囲まれ田んぼは窮屈そうである。

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 向かい側の田んぼも田植えの準備が行われているが、すぐ左側の田んぼが埋め立てられ住宅用地になっている。一昨年までは隣の田んぼも稲作が行われていたが、用地境にはあまり高くない擁壁で区切られている。

 左端に耕運機が見えるが、作業の途中で人が離れているのでなく、よく見ると耕運機が泥土の中にはまりこんでいる。

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 人の話によるとこれほど埋まり込むと重機などで吊り出さないと無理らしい。

 昨年はこれほど埋まり込むことはなかったが、隣の田んぼとの間にコンクリートなどで擁壁ができると、田んぼの地中の水の流れが変わるのか、土中の水はけが悪くなるのかは分からないが、泥土で田んぼでの作業が難しくなるとのことである。

 長年支障なく農作業が出来た田んぼも、周囲の環境の変化により思わぬところに支障が生じることを知った。
by hirosan_kimura | 2016-05-29 14:21 | 農業 | Comments(0)

№655 収穫の秋

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 阿品では稲刈りの真っ最中である。連休が始まるが台風が来そうなので、その前に刈り終えようと平日にも関わらずあちこちで稲刈りが行われ、稲の残された田んぼは僅かとなっている。

 かつて阿品の平地部分の大半では稲作が行われていた。今では住宅団地となっている阿品台も、幾筋の谷が枝分かれして山奥まで伸びて、細い谷あいの奥まで開墾されその大半が田んぼとして稲が作られていた。

 その山奥まで伸びていた田んぼも、団地造成のた山を削り谷を埋めて住宅地となり多くの田んぼが消滅してしまった。田尻地区も「ふじタウン」造成のため田んぼのあった谷が埋められ、住宅地となり田んぼは消滅してしまった。

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 それでも平地部分の耕作地はの大半は田んぼで、秋になると稲が黄金色に輝き、黄色い絨毯を敷き詰めたような美しい景色が広がっていた。

 残された田んぼもJR阿品駅が開業してから、虫食い状態に住宅地となっている。

 古い資料であるが嘉永15年(1638年)、今から376年前には田尻23畝、阿品汐入新開80畝、阿品607畝、鰆浜379畝の田んぼがあったとの記録が残されている。

 今では田尻と阿品汐入新開は埋め立てられすべての田んぼは消滅している。

e0125014_1226595.jpg 左図の緑部分は残された田んぼで稲が植えられている場所である。

 鰆浜(阿品一丁目)では数年前までは僅かな田んぼで稲作が行われていたが、今では稲作は全く行われていない。

 阿品のJR線路から沖側では、小さな田んぼで一ヵ所のみ稲が植えられている。田んぼの残されたのは阿品(阿品二丁目)でも、どんどん田んぼが埋め立てられ住宅地に変わっている。

 かつては秋になると黄色い絨毯を引きつめたような風景が広がっていたが、今では住宅と住宅の間にある田んぼがいつまで残されて行くのであろうか。
by hirosan_kimura | 2014-10-10 12:02 | 農業 | Comments(2)

№611 ヒトデの肥料

e0125014_19511711.jpg 今では余り見かけられなくなったが、西広島バイパス開通前には阿品の海岸の堤防の上では「ヒトデ」を乾燥させる光景が良く見られていた。これは畑の肥料にするためで、農家の人が行なっていたのだろうが チョットした家庭菜園をする人たちもこのヒトデの肥料を利用していた。

 水気を含んだヒトデは重いので海岸から遠く離れた人が肥料にすることは先ず無く、海岸沿いの人のみがヒトデの肥料を活用していたらしい。

 ヒトデは海が干潮の際いくらでも拾うことが出来るし、漁業をする人の魚を獲る網にもたくさん入っていたそうである。ヒトデは太陽の熱で乾燥するので、乾いた物を石などで叩くと粉々になるくらいであった。生乾きの時は臭気を発するので近づくと気分が悪くなりそうであった。

e0125014_19514373.jpg ヒトデの乾燥は堤防の上に何十mにも渡って並べられ、その数は驚くほどたくさんある場合もあった。

 子どもの頃にはヒトデの肥料にどの程度効力があるのか思っていたが、ヒトデの肥料はとても効き ①土壌を元気にする。②野菜などの根毛を太くする。③根付きが良い。④夜盗虫が近づかない等多くの利点があるようである。

 ヒトデはあさりなどを食べつくすなどの害があり嫌われとなっているが、今では肥料にするために堤防にたくさん並べられた光景を見ることも無くなった。嫌われ者のヒトデをもう少し活用しても良いのではなかろうか。

 厄介者のヒトデであるが、汲取り便所に数匹投入すると蝿が発生しにくくなり、一部の地域では今でも活用しているそうである。
 
 なおヒトデは「人手」「海星」「海盤車」とも標記される。
 
by hirosan_kimura | 2014-02-03 09:53 | 農業 | Comments(0)
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 昨日は友人と定例の登山にいった。台風で全壊した宮島の仁王門が再建されたので、これを見るため弥山に登ることとした。天気は良かったが黄砂が飛来し視界は良くない。

 すっかり春の陽気で宮島の植物も新芽が芽吹き始めている。馬酔木の花がそこらじゅうに咲き誇っている。宮島では鹿が食べるため様々な植物をフェンスで囲ったり、幹に網が巻きつけてあったりするが、馬酔木は鹿が食べないので至る所に繁茂し美しい花を咲かせている。

 この木や花には毒があるので、昔は害虫予防の農薬として使われていた。昔の記録を見ると冷害や害虫の大発生により凶作となり飢饉に見舞われることが珍しくなかった。

e0125014_1055529.jpg 今のように農薬が無かった時代、馬酔木が貴重な害虫予防に使用されていた。寛政五年(1793年)今から220年前、佐伯郡御役所から郡内の割庄屋宛に馬酔木を使った害虫予防の文書が出されている。


 
 「馬酔木の葉を、稲に虫が発生した時に刻んで稲田に入れたならば、直ちに虫は死失する。畠作物に虫が発生した時には、水に漬けておいた馬酔木の葉の汁をかければ虫は死ぬ。広島藩以外の海辺の村の百姓は、馬酔木の葉を蓄えておいて、虫が歩いて上がって田の中に入って稲虫になった時に、専ら使用しているので心得させるために申し聞かせる。組合や村々へ洩れのないようにこのことを触れておけ」と言うものであった。

 文書に書いてある虫とは二化螟(にかめいちゅう)のことである。二化螟虫は、幼虫が茎の中に食入って稲を枯死させる害虫である。

 今では農薬で駆除出来るが、昔は蛾を捕殺するか、蛾の卵を獲る、被害を受けた茎を切り取るなどしか駆除の方法は無かったらしい。

 昭和初期には、田植え時期になると子ども達が午前中で授業を終えて、長さ三尺くらいの竹笹で稲をなで、飛び立つ蛾を捕らえ、葉に生みつけている卵を採り持参したビンなどに集める奉仕作業が行なわれていた。

 馬酔木を農薬代わりに使用してどのくらい効果があったのかわ分からないが、昔の阿品の農家でも害虫には苦労していたのであろう。
by hirosan_kimura | 2013-03-09 11:48 | 農業 | Comments(0)

№486 陳情書(4)

e0125014_1419249.jpg跡作の便否
 苗代を各自で作る方が利点があることは以上述べた通りであるが、その跡の作業に於いても各自で行うほうが良いことは言うまでもない。

 各自で行えば肥料についても、木灰や塵溜や余った肥料を取り合せて使用することも出来る。

 また作業についても他の作業の合間や、他の作業が済んだ後の僅かな時間を利用して行うことも可能である。

 このように特別に手間を要することもなく、特別の費用を要することもなく耕作、植え付けを行うことが出来る。その後も他の作業に併せて施肥や草取りを行うことが出来るので大変便利である。

 これが共同苗代となれば、有り合せの肥料を取混ぜて使用することも出来ないので、肥料を購入せざるを得なくなる。作業においても僅かな仕事でも何人かの人が出て行わなければならず、時間の無駄である。

 これを順番に出て作業を行うとなると、各自の農作業に忙しい時とそうでない時あるし、当番が当たった人によって作業内容に安と難があり、苦情が百出するであろう。またこれに変わって人を雇って作業すれば、雇賃が高価になる場合もあり無理である。

 農家は廃物利用の肥料を用い、朝星のある内から夕星が出るまで働き、甘藷・大根等の粗食を食し、倹約を重ねて生計を立てていると言うのに、共同耕作ともなれば廃物利用の肥料を使うことも出来ない。肥料にも労力にも金銭が必要となる。

 また共同苗代には管理者を置く必要があり、農業に経験の富んだ老農の人を選定必要があるが、その人自身にも農業で忙しい時もある上、共同の事務を行うため相当の手当てを給する必要もある。

 倹約してやっと生計を立てている農家にも、これらの経費を負担する必要があるので、終にはこれらの農家の経済を混乱さす原因にもなる。

 今一般の農家の有様を観察してみると、熱心に農業に従事するのは中老以上以上の農民であるが、昨今の壮年者にあっては殆ど農業に心が無いように感じられる。

 農業界のために前途に憂慮が堪えられない折柄、共同苗代は煩雑・困難・不便利・不経済な規則が行われば、益々農業を嫌悪するようになるので、絶対に共同苗代設置規則の廃止を懇願してやまない。
以上陳情仕候也

明治四十二年二月〇〇日

 佐伯郡地御前村百八拾参番地  渡邉平左衛門㊞
 同郡  同村千四百六拾壱番地  角宮  保太郎㊞
  以下多数農民の署名添付

 難解な文章を現代文にしたので意味が良く分からなかったり、文章のおかしい部分もある。それにしても今から103年前に「今の若い者は農業に心が無いようである」とは面白い。
by hirosan_kimura | 2012-09-14 08:46 | 農業 | Comments(0)

№485 陳情書(3)

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肥料の便否
 
 苗代整地の時期は、麦の施肥すでに済み、稲の施肥は未だ必要無い時であり人糞等の肥料が不要なため、その肥料を各自の苗代に使用するのに好都合である。

 しかし共同苗代となった場合には、肥料を持ち寄り苗代に使った場合には、それぞれの肥料に濃い・薄い、良否があるため苦情が出て困難なため、これを無くすために人糞等の肥料を買い入れて使用しなければなくなる。

 各自で苗代を作れば不用の肥料を使えば済むものを、共同苗代にすれば、お金を出して他より購入するのは、農家の経済上不利益であるのは言うまでもない。従って共同苗代の廃止を懇望するものである。


運搬の便否

 農家は概ね一箇所において、思い通りに纏まって耕作出来る場合は少ない。大抵あちらの場所、こちらの場所に方在して耕作している。

 各自で苗代を作るには用水がある限り、それらの田の近くに苗代を作っている。それは苗代に使用する肥料等は、春季の農閑期に行うので重荷では無い。田植え時にも苗代が近いので苗の運搬等にも便利である。

 もしこれを共同して遠方に苗代が作られると、極めて忙しい時期に遠方より苗を運搬しなければならないのは大いに不便であるのは言うまでもない。

 運搬してきた苗が田植えの際、僅か一把でも不足した時は又遠方の苗代に取りに行かなければならないが、苗を取ってくる間は早乙女らにを無駄に待たすこととなる。

 農作業で忙しい時期にこのような不便利が出る可能性もあるので、共同苗代の廃止を懇願するものである。
by hirosan_kimura | 2012-09-13 15:52 | 農業 | Comments(0)

№484 陳情書(2)

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理由書

地勢
 当地御前村の地勢たる南北は壱里余、東西僅かに拾八町。東南の方、海に沿って壱里に余り、南北の方小山を以って境界となっている。それより数十の山脈は東に走り海に向かって起伏して櫛のようにである。

 小さな谿の小さな流れは直に海に注流して、いずれも下流に便することが無い。特に南北の方の小山は、宮内村字鎗出と言う深い谷があって、前方の高い山の水は鎗出谷に流れている。

 本村は山は低く谷は浅く小山が起伏するのみで、いずれも水源として頼む森林が無く、頻繁に灌漑の用水に乏しい。村落の所々に溜池を設けて灌漑に供する状況です。

 従来より苗代に於いては、小谷やその他僅かの水利に便利な場所を選び、面積一畝もしくは二畝の苗代を設けて来た次第です。これを規則に基づき、二反歩もしくは三反歩の大面積の苗代を一箇所に設けたときは、到底苗代灌養の用水に欠乏し、完全に稲苗を生育できない事態は火を見るより明らかな事実です。

 もしこれらを溜池に近接して設け用水欠乏の場合は、溜池の用水を利用するには限りある溜池の用水は、苗代の期間に枯渇し、本田に移植後の稚苗の灌養に供すべき用水を失い、言うまでもない惨状に留まるのは明らかな事実です。

 このような困難に至る恐れがあるため、共同苗代の廃止を切望する理由です。


作業の便否
 
 苗代設置の時期は、農閑時に付きそれぞれが繁忙を感じることがない。またそれぞれが刈取り時期を予測して、50日ないし60日の移植時他を見定め適当に播種している。これを共同苗代にすると共同一致して播種するため、各自の移植時期に適さない場合もある。若い苗は当時期に至らすことも出来るが、老苗は稚稲の発育を害し、遂に最終の不結果を招くに至る。

 また各自においてこれを行うには農閑の時期のため繁忙を来たさないが、これを共同作業にした場合、各自の必要な苗が異なり、それに応じた出合いなどその労力に煩雑を極め、各自で行うより返って手間を取る事があり大いに不便である。

 また各自で作すのは小面積のため土地の選定も容易であるが、共同して大苗代にするときはいかなる土地においても優劣があるのは免れないが、その優劣により稲の生育に優劣があるのは自然の理である。

 崖の根は悪く、畦際の苗が良いが優劣ある苗を各自に分配する際、抽選の方法で行えば異議が無いと言うが、それは理屈上のことであって、同じ労力・同じ費用を出して劣等の苗の分配を受けた者は、不平を唱えるだろう。

 劣等の苗を田に移植しても発育遅滞で、収穫に大きな影響を及ぼすのははなはだ気毒千万ある。苦情が続出し解決は困難である。
by hirosan_kimura | 2012-09-12 06:27 | 農業 | Comments(0)

№483 陳情書(1)

e0125014_10573540.jpg 明治41年に県の通達により「共同苗代設置規則」が定められた。これは個々の農家で作っていた苗代を共同で設置する規則であった。

 共同設置の趣旨は不明であるが、この共同設置に対して農家は猛反発したらしい。阿品の農家を含めて地御前村の農家は、この規則を廃止するよう陳情書を提出している。陳情の結果この規則が廃止されたのかは分からない。

 この陳情書は陳情の趣旨に加え、理由書として「地勢」「作業の便否」「肥料の便否」「運搬の便否」「跡作の便否」等長文になっているが、内容をみれば当時の農作業の一端が覗えるので、4回に分けて全文を掲載してみる。

 原文は文章も難しく分かりやすくしてみたが、判読不明の言葉もあり理解出来ない部分もあるが、趣旨を大きく逸脱はしていないであろう。


陳情書
 明治41年8月に県令第70号を以って「共同苗代設置規則」が発布された。これは農事を改良し農民の福利を増進する目的なので、不肖農民等は謹んで服従するべきであるが、実行方法を実地に照らして熟慮してみると受け入れ難いものである。

 我が村の地勢は耕地の多くは山の間に介在し、田は狭小で高低差が甚だしい。これらは各所に散在し道路は曲がりくねり狭いうえに、山を越え谷を越える必要がある。

 従って肥料や稲苗などの運搬、その他交通の便が悪く共同作業には適していない。また元来より用水が乏しい農村であり、到底共同大苗代の用水を確保することは出来ない。

 又、朴直な農民の性質として個人的作業には忠実熱心であるが、共同作業となると比較的忠実にならないのは人情として免れないものである。

 個人の苗代では廃物を利用出来るという利便性があるが、共同で行えば必要なものを買い入れなければならない。しかも繁忙の時期に管理その他の夫役も煩わしく煩雑である。

 これらのことは農民の零細な経済を惨憺たる苦境に陥れることとなる。不利不便の共同苗代を強制執行すると、官民の不調和をかもし農業の衰退を来すは必然である。

 その他挙げれば多くの理由があるので次に挙げて陳情する。一度農民等の村落を調査していただければ事実が判明するので、農民の為に令を廃止していただくために詮議され、尊厳を冒涜して陳情します。
by hirosan_kimura | 2012-09-11 11:54 | 農業 | Comments(0)

№480 阿品の家畜

  昭和21年2月に農家で飼育されている家畜の調査が行われた。現在の農家では耕運機や稲刈機など様々の農機具が備わっているが、当時の農作業は人の手か家畜によって行われていたので、農家には牛か馬が必ず飼育されていた。当時阿品で飼育されていた家畜の様子である。


e0125014_11375194.jpg  阿品では当時2軒の農家でそれぞれ1頭づつ馬が飼育されていた。年齢は3歳が1頭、4歳以上16歳以下が1頭とある。
  性別は1頭が牡、もう1頭は「キンヌキ」とあるので去勢されていたのであろう。




e0125014_11383592.jpg 牛は17軒の農家で1頭づつ飼育されていた。 年齢は18ケ月未満が1頭、18ケ月以上が16頭であった。
  年齢は17頭すべてが牝であった。




山羊
e0125014_11385967.jpg 山羊は5軒の農家で1頭づつ飼育されていた。年齢は1年未満が2頭、1年以上が3頭と記録されている。5頭すべてが牝であり乳を採るのが山羊を飼う目的だったのだろう。当時は赤ちゃんの粉ミルクは簡単に手に入らず、母親の母乳が出ない時には赤ちゃんに山羊の乳を飲ますことも珍しいことではなかった。


緬羊
e0125014_11391833.jpg 羊は1軒の農家で2頭飼育されていた。2頭とも1歳以上・牝と記録されている。毛を採るのが目的であったのであろうが牝なので乳も絞っていたのかも分からない。
 我家でも一時羊を飼育していたが、定期的に毛を刈り毛糸に加工しセーターを編んでもらったこともある。

 これ以外の家畜では鶏が飼われていたがなぜか調査されていない。鶏は農家以外でも庭先で何頭づつか飼育され、当時は鶏が産む卵は貴重な栄養源であった。豚は当時の阿品では飼育されていなかったようである。

 農機具は動力籾摺機が1台とある。阿品の奥にあった精米所のことであろう。今の農家では様々な農機具があるが、当時阿品では農機具と呼ばれるものは1台のみで、あとの農作業すべてを人の力や牛や馬で行っていたのである。当時の農作業の過酷さが覗える。
by hirosan_kimura | 2012-09-07 13:19 | 農業 | Comments(0)

№474 稲の収穫

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 明治17年(今から128年前)の地御前村の「稲 概況調べ」によると

一 品名         早稲 
一 作付反別      壱町弐反五畝
一 一反歩見積産額  壱石七斗壱升

一 品名         中稲
一 作付反別      五拾七町壱反三畝
一 一反歩見積産額  壱石七斗八升

一 品名         晩稲
一 作付反別      拾五町九反七畝
一 一反歩見積産額  八斗九升

とある。反当たり算出額は、今と比較するとどのように差異があるのであろう。

 補足説明として

 本年の作毛は播種以来、気候平穏 晴、雨適度、頻年乾燥に苦しむ山田と〇も〇秋時を得、日を追て成長し、七・八月間降雨、稀にして一時用水に貧と〇も溜池水を濯いて旱害に給し生長を全せしに、八月二十五日暴風雨の為、少しく害を蒙りすさまじく続て北風吹て、気候凄冷の為に中晩稲は少しく吐穂の季節に晩し、随て充分の豊熟を得ざりし処、忽ち気候復常遂に大害に至らす、近来相当の平作を得たり。 早稲は其全分を刈蒦し不日中稲刈りの着手に及べり。

 毛筆での記録のため判読が不能な文字もあるが、

 「本年は稲の種を播いて以来、気候は平穏で晴れも多く雨も適度に降り、例年は水不足に苦しむ山田において収穫の秋を迎え日を追うごとに良く生長している。

 七月・八月には雨が少なく水不足もあったが、溜池の水を使って稲の生長を促すことが出来た。

 八月二十五日には暴風のため少し害を蒙った。北風がすさまじく続いて気候が冷たかった為、中晩稲は穂が出るのが遅れたが、気候が持ち直したので大きな害には至らず、平作を得ることが出来た。

 早稲は充分稲が実り、近日中に稲刈りに着手することが出来るに至っている。」

 おおよその説明は以上のようなものであろう。
by hirosan_kimura | 2012-07-23 15:39 | 農業 | Comments(0)