素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:医療( 6 )

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不鮮明であるが村の隔離病舎のあった場所

 今から85年前の昭和5年1月7日に、地御前村長より広島県知事への報告書による。

医師
 村内の医師は男1名、女1名の計2名で、両者とも「官公私立(指定)医学専門学校卒業」による医師資格取得者とある。

歯科医師
 村内の歯科医師は男性1名で「試験及第」による資格取得者とある。

産婆
 村内の産婆は3名であるが性別の記録はない。恐らく全員女性であろう。いずれも「試験及第」による資格取得となっている。

隔離病舎
 伝染病患者が発生した場合隔離する施設で、「町村若しくは之に準ずべき者の設立に係るもの」とあり、病舎数は一箇所で病床数は8床とある。

患者
 成人のトラホーム・花柳病(性病)患者は37名で、内トラホーム患者5名とある。

種痘
第一期
       善感人員   不善感人員   合 計
第一回     78名        0名    78名
第二回      1名        0名     1名
第二期
第一回     13名       72名    85名
第二回      3名       57名    60名
とあるが、種痘接種をした結果を示すものであろう。
by hirosan_kimura | 2014-04-11 13:52 | 医療 | Comments(2)

№558 吉田病院(2)

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 吉田病院については「№87」「№451」でも紹介した。今まで病院の建物が分かる画像がなかなか無かったが、偶然見つけることが出来た。この写真の手前側が我家である。

 病院は中庭を挟んで「ロ」の字形に建てられており、診察室の上部とレントゲン室以外は平屋の病室が建てられていた。中央の建物がレントゲン室のあった建物で、急な階段を上がった所に独立したレントゲン室があった。

 左側の建物は一階に診察室・薬剤室があり、一階に窓が四つあるが、一番左が待合室、右側に看護婦さんの休憩室などがあった。この二階は病室ですべて個室であったが中には畳敷きの部屋もあった。

 レントゲン室右側の病室から右端の病室が縦に並び、二階建ての建物の向こう側にも平屋建ての建物が、中庭を囲むように建てられていた。以前は精神科もあったので中には窓に鉄格子の嵌められた病室もあった。

 「№451」でも紹介したが家のすぐ傍なので入院患者さんと親しくなり、病室に入り込んで花札などして遊ぶこともあった。昭和30年代の終わり頃、廿日市町で赤痢が大発生した際は余りにも患者が多く、隔離病舎に収容しきれずこの病院にもたくさんの患者さんが収容されたこともあった。

 この病院の敷地には、前庭・中庭・後庭にも沢山の木々が植えられ中でも桜の木がたくさん植えられていた。春になると桜の花が一斉に咲き誇り、中庭では部落の花見を行なうこともあった。安静を要する入院患者さんの病室のすぐ傍で、飲めや歌えの大騒ぎなど今の時代では考えられないことである。

 夏になると蝉がたくさん鳴いており、病院の庭は子どもたちの蝉取りで大騒ぎであったが怒られたような記憶もない。

 院長先生が亡くなられ病院が休業となり、建物をそのまま使用して「南風荘」と言うアパートとなった時代もあった。病院の施設のままなので、炊事場・便所・風呂などはすべて共用であったが、多いときには40世帯近くの人たちが住んでいた時代もあった。
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 そのアパートも取り壊され医院の施設が建てられていたこともあったが、今ではマンションが建てられ昔の面影は無い。
by hirosan_kimura | 2013-07-09 14:38 | 医療 | Comments(2)

№510 乱暴な治療

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 昭和36年に国民皆保険が実施され国民健康保険が適用されるまでは、医療を受けるのに自営業や農業の人たちは掛かった費用を全額負担する必要があった。医療費の負担が重かったり医院数も限られており、昔の人たちは重い病気や大怪我などを除いてめったに病院に行くこともなかった。

 そのため民間療法で病気や怪我を治さなければならなかった。自分たちが子どもの頃でも腹痛になれば薬草を煎じて飲まされたり、少々の怪我では「ドクダミ」を揉んで怪我の部位に張ったりしたこともあった。

 その中で、出来物などが出来て膿が溜まった時「蛭(ひる)」に膿を吸い出させると聞いていた。蛭は田んぼ・湿地・山の湿った所に良くいる「なめくじ」に似た気持ちの悪い生物である。「蛭」は小さな隙間からでも入り込んで肌に張り付き血を吸うので、農作業をする人や山仕事をする人に嫌われていた。

 幼い頃、母の足に腫物が出来て膿で足が浮腫んだ際、「蛭」の居る田んぼに行き数匹小瓶に詰めて帰り、腫れた部分に二・三匹の「蛭」を載せると見る見る間に膿や血を吸って、信じられないくらい蛭が膨れあがるのを見たことがある。見ていても気持ち悪かったことを思い出す。作業などの最中に蛭に咬まれると痛いが膿を吸わせた時は痛くなかったのだろうか。蛭の吸った所からばい菌が入り傷口が悪化することは無かったのだろうか不思議に思ったものである。

 腫れ物の治療だけでなく蝮(まむし)に咬まれた時も毒を吸い出すこともあったそうである。今ではこんな馬鹿げた治療をする人も無かろうが、此れも昔の人の智恵だったのだろう。

 この治療方法はこの地方だけかと思ったが、蛭は悪い血を吸いだすので出来物にたからせて血を吸わせる治療はインドなどで昔から行なわれていたらしい。

 気持ちの悪い蛭であるが血の凝固を防ぐ力があることから、古来より瀉血などの医療用として用いられてもいたらしい。

 昔の人たちは滅多に病院に掛かることも無かったが、今ではどこの病院も高齢者達で溢れかえり、国も自治体も医療費の負担増で財政が破綻しそうになってしまっている。
by hirosan_kimura | 2013-01-23 10:29 | 医療 | Comments(0)

№388 県病院の増設

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 このブログ№85で紹介した鰆浜の「教員保養所」は昭和18年に開設され、昭和26年に「県立地御前病院」となった。現在一丁目のグランドの場所である。

 当事の敷地は小川で囲まれた青い線の中であったが、昭和29年に病棟の増設が計画され用地を確保するため付近の村有林・田畑・宅地が買収された。

 川より上部、赤い斜線部分が敷地拡張のため買収された部分である。

 増設されるまでの病院は事務棟・病棟・炊事棟その他の建物が有り、全て木造の平屋であった。病院の周囲は小川で囲まれ、メダカなどを捕まえて遊んだ記憶がある。事務等の前は小さな広場となっており子ども達はそこで良く遊んでいた。図中央下方に「正門」とあるが、満潮時には僅かではあるが「白魚」が遡ってくることもあった。

 病院の敷地内には自由に出入り出来、敷地内を走り回っても怒られることもなかったような記憶がある。ただし午後の安静時間には敷地内であまり騒がないようにと看護婦さんから注意される程度であった。

 敷地が拡張される以前にはすぐそばに益井さん・佐神さんの家があり同級生でもあり良く遊びに行っていた。この家は立ち退きにより益井さんは阿品(今の阿品二丁目)へ佐神さんはすぐ近くに引っ越された。小学校の四年生くらいではなかったかと思う。

 図の緑の四角、右側が益井さん宅、左が佐神さん宅であった。

 周辺の田畑も200坪程度買収され病院用地とするためには高さ四尺程度の埋立が必要で、隣接の村有林の山を削った土砂で埋立てられ、土砂を取除き平地になった用地も県に買い上げられ病院敷地とされた。

 県が買収した村有林は600坪程度であったが、買収価格は坪当たり500円とされた。

 病院用地の拡大により村道の廃止もあったが。廃止により耕作地に行くことが出来ない時は、病院内の敷地を行き来しても良いとの申し合わせもあった。

 用地の拡張により敷地内に小川が流れることとなり、ヒューム管を敷設し小川を埋立てることとなった。村が小川を埋立てる条件として、「護岸に使われている石は村へ提供する」とあるがこの石はどこに使われたのであろう。

 新しい病棟は昭和30年2月に完成し、敷地面積約5,000坪、建物面積約900坪、病室数35室、職員60名、患者定数200名となった。

 この病院は昭和47年3月31日に廃止された。 
by hirosan_kimura | 2011-05-27 13:12 | 医療 | Comments(5)

№87 吉田病院

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  鰆浜の「藤和阿品ハイタウン」のマンションのある場所には、明治28年に開業したレンガ工場があった。このレンガ工場は大正の終わり頃まで操業されていた。

 この場所に昭和6年に「吉田病院」が開院した。広島市で開業されていた吉田寛一先生が、この地に分院を建てられ、内科・精神科60床で開院された。

 病院の敷地の中に高い煙突があったが、子どもの頃は病院の避雷針かと思っていた。レンガ工場の窯のエントツだったということは後になって知った。

 原爆の投下により広島市内の本院は壊滅したが、被爆された吉田先生は体調不良にも拘わらず、鰆浜から広島に通よわれ、福屋百貨店内に仮設された臨時広島市民病院長として、救護業務に尽くしておられたが、原爆症のため、昭和20年9月3日に51歳の若さで亡くなられた。

 寛一先生が亡くなられて繁満先生が引き継ぎ開院しておられた。繁満先生も昭和36年12月6日、50歳の若さで亡くなられている。

 この病院は敷地が広くたくさんの桜の木が繁り、花見時には中庭で部落の花見を行っていた。子どもの遊び場所にもなっており、夏には蝉をたくさん採ったりしていた良く遊んでいた。

 この病院には長期療養の人が入院しておられ、患者さんと近所の子ども達は仲良しになった。病室は個室であったので部屋に入り込み、お見舞いの菓子をもらって食べたり、花札を教えてもらって遊んだりもしていた。

 入院患者の人達は長期入院の方が多く、ひまをもてあましておられたので、中にはアサリを掘りに行ったり、岸壁から釣りを楽しむ人もあった。時には患者さんと一緒に小船で沖に出て釣りをし、釣った魚を病室でこっそり焼いて一緒に食べたりしたこともあった。
 
 先生や親に見つかり怒られたこともあったが、のんびりした時代であった。

 繁満先生が亡くなられて病室を改造して、「南風荘」と言うアパートに使用されたこともある。

 その後、晋一先生が病院に建て直し開院されていたが、それも取り壊しマンションとなり、今ではその一階に「吉田内科胃腸科医院」として開院されている。
by hirosan_kimura | 2009-03-09 04:32 | 医療 | Comments(0)

№85 県立地御前病院

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 鰆浜のJR線路沖にグランドがあるが、県立地御前病院の跡地である。今ではお年寄りがゲートボールをしたり、地域の盆踊りやとんどの際活用している。又、県職員の福利厚生施設として野球やテニスに利用されている。

昭和18年(1943年)9月16日
 昭和15年頃より田圃を埋立てて敷地造成が始まる。昭和17年より施設整備が行われ、昭和18年9月16日に「教員保養所」が開設される。当初は結核教員を対象にした施設で、地元住民は診療してもらえなかったが、後に地元住民の診療も行われるようになった。外来診療 内科・小児科。

昭和26年(1951年)6月1日
 「教員保養所」が「広島県立地御前病院」となる。昭和28年には児童病棟が整備され、結核性疾患の子どもたちの療養が始まる。

昭和30年(1955年)2月15日
 施設が増築される。増築後の概要 敷地 約5,000坪。         総建坪 約900坪。 病室数 35室。職員 60名。患者定数 200名。

e0125014_1131616.jpg  航空写真を拡大したのであまり鮮明でない。






昭和32年(1957年)9月25日
 病院内に、地御前小学校・七尾中学校の特殊学級の併設が認可され、小・中各一名の教師が配置される。

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 ある方から提供いただいた当時の職員の写真である。はっきりした撮影年月日は分からないが、昭和30年代後半のものでないかと思われる。前列右から4番目が成富院長先生。その右側が荒木先生と思われる。

昭和38年(1963年)4月1日
 病院内の特殊学級が、広島市光町に県立養護学校が設置されたのに伴い、移管され「広島県立養護学校地御前分校」となる。

昭和42年(1967年)3月31日
 県立地御前病院が廃止される。ただし、昭和47年3月31日までは県立広島病院地御前分院として存続されることとなる。                内科 小児科 呼吸器科 外科 理学診療科 ベッド数 200床

昭和47年(1972年)3月31日
 広島県立病院地御前分院廃止される。 
by hirosan_kimura | 2009-03-07 02:56 | 医療 | Comments(0)