素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:地形( 28 )

№460 ぼらの養殖

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 ぼらは阿品でも良く見掛ける魚であるが、家に持って帰っても余り喜ばれず釣れても捨てるような魚である。近年は海の汚染が進み臭い魚と嫌われるが、昔は沿岸部でもまとまって捕獲される味の良い食用として親しまれ、高級魚として扱う地域も少なくなかった。またメスの卵巣を塩漬けして「カラスミ」と言われる貴重なつまみにもなる。

 ぼらは出世魚と言われ、地域によって異なるが、3cm程度のものをスシバリ、20cm程度はイナ、30~40cm程度はボラ、50cm以上はトドと言うそうであるが、イナとボラ以外の呼び方は聞いたことことがない。

 以前紹介したがJR阿品駅前の国道に調整池があった。昔は巾も相当広かったが新国道が整備される際埋立てられ随分巾が狭くなったが、昭和40年代頃までは国道沿いに細長い調整値池が残されていた。

 この調整池(阿品では池洲と呼んでいた)で魚の養殖が行われていtことも紹介したが、養殖をしていたのは在郷軍人会が行っていたそうである。

 毎年春頃、地御前の漁師さんからぼらの幼魚を買い付けていたそうである。どの程度の数量を買い付けていたのか分からないが一匹辺りいくらかで購入していた。小さな魚なので数を数えるのが大変なので、小さな杓で魚をすくい10匹数えてはごうな(螺貝の一種)を1ケ並べて計算したそうである。ごうなが100個になれば1,000匹のぼらの幼魚数となる。

 特別餌を与えたりの世話をしなくても大きく育ち、毎年正月が開けた頃在郷軍人会の人たちが池洲に網を入れて魚を捕獲していた。1年子・2年子はそのまま池洲に返し大きなぼらのみを出荷していた。

 どのくらいの売上額になったのかは分からないが結構なお金となり、在郷軍人会の運営費になったり時には酒盛りをする際のお酒代や料理代にしたと言うことである。

 戦後は池洲に生息している魚を青年団が網を入れて捕獲し、残った雑魚を子どもたちが争って取り合いをした記憶があるが、このような風習も何時の時か分からないが行われることもなくなった。
by hirosan_kimura | 2012-05-27 10:28 | 地形 | Comments(0)
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 鰆浜部落と地御前の境の山を鵯山(ひよどりやま)と言う。地元では単に鳥山(とりやま)とも呼んでいた。別名拝床山とも言われていた。

 この山はうっそうとと樹木におわれ海に面していた。高さは約80m前後で海側は急傾斜となっていた。鵯山と呼ばれたのはかつてこの山に鵯(ひよどり)が群生していたものによる。この数は半端なものでなく数えきれないほどだったそうである。

 春になるとこの鵯を鷹が追い付けまわすと鵯が森の中に隠れ込んだり、時には一斉に飛び立つと空が暗くなるほどで不気味な感じがするほどであったそうである。

e0125014_10103689.jpg 背後は急角度の瘤山が連なり、山裾には暗礁が多く要害の地であった。

 弘治元年(今から457年前)の8月21日に陶晴賢が厳島に進駐後、23日には毛利元就がこの付近を巡視し、28日にはこの山に陣地をはり厳島に攻め入る為の軍の方略を協議したと伝えられている。

 この山裾の海辺は道も無く干潮時に磯伝いに往来するしか無かったが、古い時代に人がやっと通れる程度の道が整備され、明治12年(今から133年前)に巾の狭い旧国道が完成している。

 その後、広電宮島線軌道のため海が埋立てられ、昭和7年(今から80年前)に完成した新国道のため山肌は削り取られ、鵯山周辺は大きく変わってしまった。

 かつては木々で鬱蒼と繁って山も、宅地の造成等で切り払われ山頂にはマンションなども建てられ鵯が群生していた頃の面影を覗うことも出来ない。
by hirosan_kimura | 2012-05-25 11:05 | 地形 | Comments(0)

№445 峠(たお)

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 JR線路の奥側に鰆浜から阿品に抜ける道路がある。今では自動車も通れ舗装もしてあるが、この道は峠を掘り下げ切り開いて道路巾を広くしたものである。

 この道路が出来るまでは畦道より少し広い程度で、地元ではこの道を「たお」と呼んでいた。「たお」とは「峠」の別称らしい。

 元の道より少し位置が変わっているが、以前は左側の家のすぐ傍をギリギリの所で上り坂となっており、現在の道路の上数㍍の所あたりを右側にカーブしていた。

 母の実家が阿品にあったので良く行っていたが、この道は国道を通るより近道なので良く利用していた。夜遅く暗くなって鰆浜の家に帰る時、山道で明かりもなく鰆浜側には火葬場もあったので、気味悪く恐れ恐れ帰ったことを思い出す。

 阿品で葬儀があった際は棺桶を担いだ長い葬送の列が、国道側を通らずこの道を鰆浜の火葬場まで向かって行っていた。

 上の写真の赤い線あたりを旧道は通っていた。
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 この写真は阿品側からのものであるが、現在の道路の上を横切り、左側の階段の上付近に抜けていた。

 古い道路は、現在の道路よりかなり高い所を横切っていた。

e0125014_10491583.jpg この写真の右端が二枚目の写真の階段の上付近にあたるが、僅かに旧道の面影が残っている部分である。
e0125014_1049412.jpg この写真は阿品側に下る手前付近であるが、右側は山の斜面で左側は高い崖となっており、古い道路の雰囲気が残っている。

 阿品の海岸沿いに道路が無い時代、旧山陽道は宮内から奥に入り山陽自動車道がある谷を通り、九州方面に行っていた。

 今から838年前の承安4年9月に今川貞世が都から九州探題として着任する際、地御前神社付近より山路に入り阿品の谷を通り大野方面に抜けた際、この道を通ったと推定されるほど古い道路である。

 極一部分しか残されていない道路であるがが、この写真は当時とほとんど変わらない雰囲気が窺える場所であろう。

e0125014_10502219.jpg この写真は阿品側の平地に降りきった場所である。鰆浜側では旧道の面影は見れないが、阿品側は昔のまま残されている。
by hirosan_kimura | 2012-04-26 12:07 | 地形 | Comments(0)

№441 池洲

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 「№377いけす」でも掲載したが、現在のJR阿品駅前広場の国道に沿って細長い調整池があった。この駅前広場一帯は今でこそ国道と同じ高さとなっているが、広場が整備されるまでは国道より数㍍低い低地であった。

 そのため大雨の際の雨水を一時貯留したり、大潮の際海水で浸水しないようにするための調整池があった。この調整池を地域では「いけす」と称していた。

 いけすは海と繋がっていたため海の魚もたくさん棲息していた。子どもの頃は偶然海の魚が侵入したくさん住み着いているだけと思っていたが、魚を養殖するために国有地である調整池敷地を村が有償で国より借用し管理していたらしい。
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 昭和14年に村が国有地を借上げるために借地料等を取り決めた請書である。

請書
広島県佐伯郡地御前村字阿品新開地内潮廻
面 積       一四四三坪六合弐勺五
壱ケ年使用料金 四円参拾参銭

右ハ昭和十四年四月十日付指令河第六一九号ヲ以テ
第二種区画漁業魚類養殖ノ為昭和十四年
四月ヨリ昭和十九年三月迄五箇年間御許可
ヲ得候に就テハ御命令書の各条項を承諾シ
請書差出候也
 
 昭和十四年四月十四日

評価書
町村名 地御前村
字    阿品新開
地番  二五六五番
地目  潮廻
坪数  一四四三・六二五(約4,850㎡)
一ケ年坪当占用料 三厘弱
一ケ年占用料    四・三三円
出願者住所 地御前村一四一一番地
氏名 佐伯信(当時の村長)
 右之通り評価候也
 
 昭和十四年三月十四日
    評価委員 地御前村助役  益岡春登
      同         書記  中野茂平
by hirosan_kimura | 2012-04-22 09:05 | 地形 | Comments(0)

№438 阿品沖の海岸

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 田尻海岸の埋立工事は昭和41年10月に着手されているので、この写真はそれ以前のものである。今から50年近く前に撮影されたものである。

 右上海岸に突き出た岬も残っており、松の木が青々と繁り麓には僅かではあるが砂浜もある。

 左上は宮島で、海中には牡蠣養殖のためのひびも見える。この辺りは干潮になると、遠浅の砂浜が現れあさりなどをたくさん採取することが出来た。
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 ほぼ同一の場所から撮影したものであるが、マンションがたくさん建てられ遠望は出来なくなった。

 この場所は遊園地「広島ナタリー」があったが、遊園地閉鎖後にショッピングセンターとマンションが建てられている。

 埋立前の写真と比較出来るのは、左端中央の宮島の山が僅かに覗えるのみである。
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 三丁目の中央部から東方面を望んだ、海岸埋立前の写真である。

 前面は海で中央上あたりに「お上がり場」が見える。この辺りの広電宮島線軌道位置は今と変わっていない。
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 埋立後は、遊園地閉鎖後にショッピングセンター「フジグラン」が建てられ遠望は効かない。

 電車ホームがあるが元の「広電田尻駅」であったが、現在では東側に移設され「広電阿品駅」となっている。

 右上の影は団地に入るための「阿品陸橋」の一部である。

 岸辺からは面白いように小魚が釣れ、干潮になると遠浅の砂浜でアサリや小エビ・蟹・なまこ・海草などが採れていたのも遠い昔話となってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-04-19 12:19 | 地形 | Comments(0)

№431 水準点

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 水準点は地殻上下変動の監視、地図の作成や各種測量の高さの基準となるもので、一等・二等・その他に区分されている。一等は県内に415ケ所あり国土地理院が設置管理している。

 その内の一つが、鰆浜の広電阿品東駅近くの上り線路の脇にある。近隣では地御前神社境内、串戸の平良・宮内境、市役所大野支所に設置されているのは知っていたが、鰆浜に設置されているのは知らなかった。

 先日、弟が駅のすぐ傍に水準点があるのを教えてくれたので行って見た。他の場所のものは人目に付き易い場所に設置されているが、鰆浜にあるものは電車線路と国道に挟まれた場所にあるので気がつかない筈である。
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 この水準点は№1678と記されている。
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 脇に標識が建てられているが、この施設を破壊したり機能を損なう行為をしたものは、2年以下の懲役又は100万円以下の罰金だそうである。

 この水準点は何時設置されたものかは分からないが、地御前神社や串戸にあるものは旧国道があった頃の名残であろう。

 鰆浜にあるものも旧国道が整備された頃に設置されたものかは分からないが、バイパスの工事が行われた際に今ある場所に移設されたのかも分からない。
by hirosan_kimura | 2012-03-19 11:09 | 地形 | Comments(2)
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 上図は明治27年発行阿品付近の地図に着色したものである。今から118年前のものである。

 緑色が山。茶色が平地。青は海面の埋立地。平地は中央が阿品(阿品二丁目)、右側が鰆浜(阿品一丁目)、左の大野境付近が田尻(阿品四丁目)である。

 中央の埋立地は今から200年前くらいの干拓地と、130年前くらいに前に旧国道新設の際、開拓された阿品新開である。200年前に開拓された部分は予測で、境界の正確な部分は不明である。
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 この図は現在の状況であるが、一番大きく変わったのは山が削られ団地が造成されたことであろう。

 黄色い部分が山を削り住宅地が造成された部分であるが、右側の広い部分が「県営阿品台ニュータウン」。左の大野境が「ふじタウン」である。

 この大型団地以外に鰆浜の奥と阿品境に「阿品団地」が今から50年近く前に造成された。元は阿品地区ではなかったが今は阿品一丁目に編入されている「光が丘」と言う小型団地も山を削って造成されている。

 海岸の埋立では今から90年近く前、新国道・と広電宮島線の延長に伴い海岸沿いが帯状に3,200坪程度の埋立が行われた。

 今から43年前くらいには、田尻住宅団地・遊園地ナタリー(阿品三丁目)の敷地として約165,000㎡の海岸が埋立てられた。

 また、今から39年前には「西広島バイパス」の出口として広電の沖合い移設、道路の拡張用地として,鰆浜の海岸が帯状に7,268㎡埋立てられた。

 自然に恵まれ緑豊かであった阿品は、山が削られ海は埋立てられて原型を留めないほど大きく変わってしまった。

 現在、元の自然が見受けられるのは阿品台の裏山と、団地の乗り面に僅かに残された部分と、鰆浜を取り巻くように残された山のみである。

 鰆浜と阿品の間の僅かな山も、一時は開発の計画もあったが今は中断しているようである。これらの山が何時までも残ってほしいものである。
by hirosan_kimura | 2012-01-29 11:43 | 地形 | Comments(2)

№396 海岸線の痕跡

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 阿品は山陽鉄道・国道・広電・団地の造成・西広島バイパス工事等により、海岸が埋立てられ古い海岸線はすべて消滅している。

 それでも良く観察してみると、昔の海岸線らしき場所を僅かに窺うことができる。
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 ①の場所は古い時代から砂浜があったが、国道・広電の新設により埋立てられた。鼓ケ浜の住宅地が埋立てられるまでは、山が海まで突き出しその西裾に砂浜が残っていた。今から40年少し前のことである。
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 その砂浜も僅かではあるが面影がのこっている。廿日市高校の艇庫がある前あたりである。

 潮が満ちると艇庫のすぐ前まで海水が来る。それにしてもこの土地は登記簿ではどこまでが海で、どこから陸になるのか境界がどうなっているのであろうか。
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 この絵図は②の場所で、かつては田尻山の一つの峰が海までのびていた。峰の途中が削られ鉄道・国道・広電の新設により分断されていた。

 ほんの40年前までは、先端に残された山が岬のように残され周囲の風景に風情を残していた。この岬も団地造成のため削り取られ跡形も無くなってしまった。
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 この写真を見ただけでは何か分からないであろうが、堤防と民家の間の溝の下に岬の先端の下部部分の痕跡が僅かに残されている。

 事実かどうか分からないが阿品の言い伝えでは、厳島合戦の際、この岬から厳島まで縄を渡し、その縄を手繰って毛利軍が軍船を厳島まで行ったと言うことである。

 岬の先端には縄を結びつけたと伝えられる「鼻繰り岩」も残っていた。この合戦で勝利したので「運勝の鼻」などとも呼ばれていた。
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 現在「お上がり場」のある場所は、阿品の峰の先端の一つ「監視山」が海に突き出していた。③の部分である。

 その突端に「亀岩」と言われる小岩が海に浮かんでいたが、国道・広電の新設により山の先端部が削られ、「お上がり場」が造成されかつての名残も無い。
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 お上がり場の岸壁の下に、小岩の痕跡の一部らしきものを見ることが出来る。
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 正確に言うと阿品ではないが、かつて広電宮島線の終点で、宮島に渡る連絡船桟橋ががあつた地御前寄りに「沖島」と言われる島があった。④の場所。

 いつの時代か分からないが埋立てられ陸続きになっていたが、国道や広電新設のため陸地側が削られ島の形は大きく変わってしまった。

 それでも島の大半が残され、青々とした木々が茂っていた。子どもの頃は学校の帰りなどにこの島の山に登り「山ぶどう」「あけび」などを採って食べた記憶も残っている。

 昭和38年にこの山も削られてしまい、銀行の保養所・ドライブインなどに変わり、地御前川の海は牡蠣の作業所を新設するため埋立てられた。
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 堤防の下にかつての山の先端下部であった岩の痕跡が僅かに残されているのみである。
by hirosan_kimura | 2011-07-13 09:32 | 地形 | Comments(0)

№390 鼓ケ浜の海岸

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 この図は明治の終わりごろから昭和の初めごろの、鼓ケ浜海岸の図である。詳しい年代は分からない。

 線路脇の四角に斜線は民家であるが、二軒の家があったことが記されている。

 海岸沿いのピンク色は明治12年に開通した旧国道。鉄道は明治30年に開通した山陽鉄道(今のJR)であるが、この軌道の位置は現在とほぼ同じ場所である。

 この図を見ると海に突き出た山の一部を削り取り、旧国道・鉄道線路を敷設した様子がよく分かる。

 その後海を埋立て、旧国道を拡幅しその沖側に広電宮島線が新設されている。

 その際海に突出た岬も削られ、昭和40年代には岬の一部が残されていたが、岬の左側の海面を埋立て住宅団地にした際、僅かに残された岬も削り取られてしまった。岬の一部でも残されていたならと残念でたまらない。

 図の岬右側の灰色の部分は、旧国道造成の際に山を削った残土で海面を埋立てたのかも分からない。昭和20年代の初めごろまでNHKの保養所が建っていたが、その施設はその後料亭のようなものとなり、いつの間にかこの施設も無くなった。

 この場所は今では住宅地の一部となり、競艇選手の宿泊施設も建てられている。

 黄色い部分は砂浜とも陸地とも区別の付かない土地であったが、現在では廿日市高校の艇庫が建てられているが、その建物の前の海辺で僅かに当時の面影が残されている。

 前面に宮島を望み、自然溢れたこの地も鉄道から奥側は山を削り谷が埋立てられ住宅地となった。

 海側は左側海面が埋立てられ住宅地と成り、右側海面は競艇場となり開催日にはモーターの轟音が鳴り響いている。

 海面に臨むのは、中央部分が僅かに残されているのみである。 
by hirosan_kimura | 2011-06-07 12:47 | 地形 | Comments(0)
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 県の造成した廿日市ニュータウン「阿品台」は、昭和49年7月より造成が始まった計画戸数3,500戸・計画人口12,600人の大型団地である。

 昭和53年8月より入居が開始されたが、山地を造成されたため平地より低い所で20数㍍の標高がありなだらかな傾斜となっている。

 更に「阿品台北」は一段と高くなっており、標高60数㍍以上あると思われる。この地に行くためには急勾配の車道を行く必要がある。

 息子が小学生の頃「阿品台北」の友達の家に遊びに行く際、「行くのが遠く大変だろう」と言うと「Z坂(ゼットザカ)を行けば近い」と言っていたが「Z坂」の意味が良く分からなかった。

 良く聞いてみると大人はあまり通らなかったが、急勾配の法面に幅の狭い歩行道があり勾配がきついため直線の道が付けられず、途中で二回の折り返しがありその形が上からみると「Z」の字に見える所から、子ども達が「Z坂」と呼んでいたが、いつの間にかこの呼称が地域では正式名称ののようになっている。

 「阿品台北」は二期に渡って家屋が建てられたが、子ども達は最初に家が建てられた地域を「古北(ふるきた)」、後に建てられた地域を「新北(しんきた)」と呼んでいた。これもいつの間にか大人たちのあいだでもごく通常の地名のように呼ばれている。

 この地名も最近では差別のようであるので、余り使わないようにしようと言うことらしい。「古北」は聞きようによっては「古狸(ふるだぬき)」のようで、「新北」は新参者のように受け止められるとのことらしい。子ども達が何気なく使い出し、地域にも根付いた地名も様々な見方・考え方がされるものである。

 「阿品台北」の街区番号は1~50番まであり大半が高台にあるが、この内1番のみは坂の下にある。この街区は「北一(きたいち)」と呼称している。同じ「阿品台北」の中でも色々な呼称があるものである。
by hirosan_kimura | 2011-03-16 10:41 | 地形 | Comments(0)