素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:地形( 28 )

№743鰆浜の天井川

e0125014_13352986.jpg  阿品台が造成される前までは鰆浜の谷には、右奥の大谷から流れ出る川と左側奥の権四郎谷から流れる川の二本があり、河口から少し上流で合流し海に流れ出ていた。古い地図を見ると両方併せて「鰆浜川」と表示してある。

 両方とも奥域が短いので流れる水量は僅かなもので、幅の狭い川の底を水がさらさらと流れる程度であったが、絶えず清らか水が絶えることなく 流れていた。今と違い川底も両岸も自然のままで、川の深さは足首の少し上か膝の下ぐらいであった。

 このような川なので小さな子どもが川に入って遊んでも危険で無く、暖かくなると川に入って遊ぶ姿を見ることがあった。川にはメダカかたまに泥鰌がいる程度であったが、大谷から流れる川で鰻を掴まえたと言う人もあった。こんな小さな川に鰻が棲みついているとは驚きであるが、自然に掘れた穴に居たのか海から登って来たのかも知れない。

e0125014_1013771.jpg 右奥から流れる川は細い農道の横を流れていたが、左奥の権四郎谷から流れ出る川はそばの田圃より高い所に水が流れていた。

 真ん中に白く見えるのは台風の雨で増水した川であるが、通常は川底に浅く水が流れている程度である。川の右に細い畔道があり、田畑は一段と低い場所にある。

 左上は鰆浜の谷の奥にあった唯一の民家である。右上の谷は田畑ばかりであるが、今では上部の山は住宅団地で削り取られ、田畑ばかりであった谷は奥が見通せないほど民家が立ち並んでいる。

e0125014_10265034.jpg この写真はほぼ同じ場所を上流から写したものである。終戦後間もなく阿品地域を襲ったルース台風で鰆浜の川が決壊し、崩れた土手に土嚢を積み上げ修復しているところである。

 この写真では分かりにくいかも知れないが、川より一段低い場所に田畑がある。

e0125014_10134672.jpg 上の写真とほぼ同じ場所の現在の様子。川は道路の左下に見えるが、奥の山が削られ流れ出る水も僅かとなり川とも言えないような川になってしまった。昔の川の位置はこの写真の道路より少し高い所を流れていた。

e0125014_10143111.jpg 今では川の位置が変わっているが、それまではJR線路敷きのかなり高い位置の線路下の通水路に流れ出ていた。

 この写真は線路上側の通水路の遺構でであるが、ここからすぐ線路下を通水し、線路沖側は2~3mの高さから川の水が落下していた。子どもたちはこれを「鰆浜の滝」とかってに呼称し、夏の暑い時には頭から被って遊ぶこともあった。
by hirosan_kimura | 2016-04-03 11:55 | 地形 | Comments(2)
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 昭和31年3月16日、本村と大野町との境界を明らかにする必要が生じたので、緊急に村議会の協議会が招集された。問題は阿品部落、田尻の村境から、山頂のオドネ境に連なる境界の不確実な箇所を明らかにする方法であった。

 これは、相当意見を闘わせた結果、早急に大野町に連絡して双方協議のうえ、要所要所に境界標を打ち込む、ということに落ちついた。要所とは大体神馬谷、ナマコ山、赤子谷などである。

 この協議に附随して、阿品の奥の村有林を間伐する問題についても審議された。その結果、
一、間伐本位に切ること。
二、伐採は阿品部落の希望者のうち出来得る限り経験者とすること。
三、間伐に対する日当は出さないが、切った木は個人の取得とする。
四、無暗に切ってはならないので監督者を一名つける。

 伐採者を阿品部落の経験者としたのは、間伐現場が大変困難を極める所なので、実際問題として考慮が払われたわけである。

 今一つ当日協議されたのは、スリコギ谷及び長サコの谷の立木売却についてであった。これは、三月二十日に指名競争入札することに一致し十三名の指名、その他入札日に関する重要事項等が決定された。
by hirosan_kimura | 2015-01-21 14:19 | 地形 | Comments(4)
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 先日、JR阿品駅下りすぐ傍の線路脇法面崖の樹木などが綺麗に伐採された。この法面は樹木が生い茂り蔓などが木に巻きつき地形が良く分からなかったが、整備されたので崖を掘削した当時の様子が良く分かるようになった。

 この場所は阿品の山が谷別れし何本か海岸まで延びていた峰の一つであったが、明治29年(今から118年前)に山陽鉄道(今のJR)の線路を敷設する際、海に向かって突き出ていた山際を削ったもので地肌は当時のままの面影を残している。

 当時は写真の崖地の上には山が続いていたが、昭和40年代に造成された住宅団地「ふじタウン」の工事により山が削られ住宅地となった。

e0125014_149102.jpg 山が削られ崖地となった場所は、左図の赤線部分である。

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 今から460年前、毛利軍と陶軍が戦った厳島合戦の際、阿品附近にはたくさんの戦死者が流れ着いた。漂流した戦死者を弔うため旅の僧がこの附近に小さなお寺を建てたので、この地を阿品の人々は「阿弥陀坊」と呼称していた。

 地御前の人々は海岸の小島や海に突き出た岬を「小坊主(こんぼうず)」と言っていたが、地御前の「金剛寺二つ山」「観音山」「沖山」と阿品の「火立岩」「神馬の鼻」「田尻山鼻」とともに「阿弥陀坊」を合わせて、地御前の「七小坊主」と称していた。

 またこの崖裾に阿品の「火葬場」もあった。火葬場と言っても特別の施設は無く野焼きに近いものであったらしい。この火葬場は明治17年9月に鰆浜へ移転している。この火葬場も昭和43年1月に町営火葬場「霊峯苑」の完成とともに廃止された。

 かつては火葬場もあった辺鄙な地であったこの場所も、JR・国道・広電の自動車や電車が行き交い、山の上には「ふじタウン」、海側には「鼓ケ浜」の住宅やマンションが立並び大きく変容している。
by hirosan_kimura | 2014-09-23 15:06 | 地形 | Comments(4)

№641 釈迦の寝姿

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 日本三景の一つ、世界遺産にも登録された宮島は阿品の目の前に浮かび、原生林の緑に覆われ美しい風景である。その稜線は凹凸し変化に富んでいる。

 この稜線は見る方向により、釈迦の寝姿・観音さんの様にも見られ昔から神の島として崇められている。

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 どの方向から見るのが釈迦の寝姿に相応しいのか分からないが、阿品の海岸から見えるのは宮島の山の中央当りの左側が頭で、真ん中辺りが鼻と唇に見える。

 見方によっては数年前の豪雨で崩壊した、白い山崩れの跡が目にも見える。

 阿品から眺めるより五日市か西区の方から眺めるほうが、よりお釈迦様の美しい姿が見えるのかも分からない。

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 人によっては、裸の女性が横たわったように見えると言う人もある。神の島を女体に例えるのは恐れ多いことであるが、そう言われば女体に見えないこともない。

 右側が頭で、出っ張った顎があり中央部分が乳房で、左に腹部から足に続く。

 この女性は顎が出っ張りすぎで首は短く足もスマートでなく、余り美しい女性には見えない。

 違った方向から見れば、もう少し美しい女性に見えたり、他の形に見えるのかも分からない。
by hirosan_kimura | 2014-07-06 10:24 | 地形 | Comments(0)
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 この写真は余り鮮明ではないが昭和40年頃の沖島橋附近から下り方面を望んだ写真である。

 橋を下ったすぐ右の山は海岸を埋立てる際の土砂を採取するため、大きくえぐられ窪地となり南側は崖状態となっていた。右側中央の建物は建設省がこの附近の国道を管理するための小さな事務所や、管理人の住居などが立てられている。

 写真中央附近には今は無い「火立岩」や子どもの頃良く遊んでいた防波堤などが映っている。遠くにはこんもりと松の木の繁ったお上がり場も見える。左端三番目の電柱の頭附近に映っている黒い点のように見えるのは、かつてこの地より渡航していた宮島航路の桟橋の残骸の一部である。

 鮮明ではないが前から2台目の自動車の左側に映っているのは桜の木であるが春になると見事に花が咲いていた。今でも排気ガスの傍で生き残っているが春に咲く花は以前のように勢いは見られない。

 この附近は西広島バイパスの出口として以前の名残が見られないくらいに大きく変貌している。

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 道路を拡幅するため海岸が帯状に埋立てられた。このため「火立岩」や防波堤は消滅した。広電軌道は海側に移設され海岸沿いには道路もも新設されている。

 バイパシの出口の橋脚のため建設省の建物は取り除かれている。橋のすぐ脇にはマンションが建てられている。崖状の山は階段状に削られ「光が丘」という小さな団地が造成されている。

 大きく変容したこの附近の景色であるが、当時のままなのは「沖島橋」と遠くに望まれる宮島の山並みくらいであろう。。
by hirosan_kimura | 2014-01-20 10:59 | 地形 | Comments(0)

№556 鰆浜の川

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 古い記録によると「鰆浜川 水源権四郎谷より流出、海に入る。凡そ五町三拾九間流出」とある。川と言っても鰆浜地区は奥行きも知れているので、小川に毛が生えた程度のものであるが、それでも水が切れることもなくきれいな水が流れ、鰆浜地区の田畑を潤す水源であった。

 権四郎谷を水源とするとあるが大谷と言われる谷からも水が流れ、途中で合流して海に注いでいた。

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 鉄道が新設され一部川は改修され、左側の川は鉄道軌道下を暗渠で流し、線路沖より高さ2~3mくらいの高さから真下に流されていた。子どもの頃はこの場所を「鰆浜の滝」と呼び水遊びを良くしていた。

 右側は鉄道軌道の奥に行くガードが作られ、細い道の脇に川が流れるようになっていた。この道はめったに人が通ることも無く、沖側から奥に風が通り脇に小川が流れ涼しいので、夏などには小道の上にござを敷き遊んだり昼寝をすることもあった。人が通る時は一旦ござを仕舞い通り過ぎるとまたゴザを敷いて遊んでいた。

 県病院が新設された際、若干川の位置が変わったがほぼ昔の川筋で、今の鰆浜集会所付近で二つの川は合流している。小さな川ではあったがメダカなども泳ぎ夏になると阿品ほどではないが蛍も飛んでいた。この小さな川で鰻を獲ったと言う人もあった。

 春先になると河口では白魚も獲れていた。満潮になると鉄道線路付近まで海の水が流入していた。

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 左側の川は鉄道軌道新設の際に変更されたものか分からないが、天井川とまでは行かないが川が付近の田畑より若干高い位置にあった。川が高いと田畑に水を引き入れるのには便利であっただろうが、少しの大水で田畑に水や土砂が流れ込むこともあった。

 上の写真は昭和26年10月のルース台風で川土手が決壊したものである。川の水が土手すれすれまで増水している。

 写真の写りが悪く鮮明でないが、たくさんの人々が決壊した土手を補修している。左上の民家は鉄道より奥に唯一一軒のみあった家である。この家以外に民家は無いが、今では谷の奥が見通せないほど沢山家が建てられている。

 小さな川であったがいつも絶えることなく清水流れていた川も、阿品台団地の造成により昔の面影は無くなってしまった。権四郎谷から流れる川は奥の山がすべて無くなり、水源が無くなったので川底にチョロチョロと申し訳程度に水が流れているのみである。

 右側の大谷から流れる川は、団地造成で谷が埋められ川そのものが姿を消してしまった。変わりに団地の下水処理場の処理水が海まで放流されている。
by hirosan_kimura | 2013-06-28 09:52 | 地形 | Comments(0)

№555 沖島

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 沖島付近は現在地御前五丁目に属する。元々阿品地域では無いが鰆浜に隣接し、阿品の人たちにとっては古くから親しまれている。今では小高い山も削られ昔の面影もないが、子どもの頃にはこの付近で遊んだりアサリを掘っていた。

 今でこそ地続きになっているが、古い時代には陸地から少し離れた島であったらしい。この島の山は沖山と呼んでいたが、小さな山であるが木々が鬱蒼と繁っていた。この山でアケビなどを採って遊んだことなどが思い出される。

 古い時代の記録によると、万治元年(1658年)にこの山が御建て山に指定されたとある。御建て山とは今で言う保安林のようなものであろうか。広さは竪一町横三十間とある。

 上の図は広電軌道・国道も無い時代のもので道路は旧国道であろう。新国道が整備された際、沖山の山肌が削られ付近の様子は大きく変わってしまった。右下海中の岩は今は無い「弊司岩」である。

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 この地図は明治26年3月に発行された、沖山付近の拡大図である。道路は今の国道2号線でなく旧国道である。この地図をみると遠い昔には沖山が島であったことが伺える。陸地と島の間の狭い地に道路が通されている。

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 この図は文政7年(亜824年)頃の沖山付近である。茶色の線は道路であるが地御前神社前を海岸沿いに通り、沖山の裏側を通って拝床付近の海岸に出ている。それから先は道路が途切れているが、阿品方面に行く際は潮の引いたときに磯伝いに通行していたらしい。

 この時代には阿品付近には海岸沿いに道路が無く、他の地域に行く際は山伝いに行っていたらしい。

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 この図では火立岩脇に道路が見掛けられるので、上の図の何年か後らしい。右側な田んぼは田屋地区であるが、国鉄軌道・広電宮島線・新国道の開通により昔の面影は無い。右端に続いては地御前神社がある場所である。

 川の左側道沿いの松は、昭和40年代頃までは残っていたような記憶があるが今では見ることは出来ない。

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 この写真は昭和の初めか大正時代で地御前側から見た沖山である。磯で潮干狩りをしている人があるが、沖山の山裾には岩礁があり、その左に小さく「弊司岩」が見える。この岩も今では見ることが出来ない。 

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 この写真も上の写真と同時代のものである。右端の地御前神社前の海水浴場の飛び込み台が小さく写っている。

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 鰆浜側から見た沖山であるが、昭和30年代の風景である。この美しい山も昭和38年に山が削られ、地御前側の海岸7,067㎡が埋立てられた。

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 現在の沖山付近であるが、バイパス工事などで周囲の風景はかつての面影は見られない。
by hirosan_kimura | 2013-06-27 13:33 | 地形 | Comments(0)

№554 田尻の海岸

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 昭和40年代の初め頃までは、田尻の海岸に山が残り付近の風景に彩りを添えていた。この付近の写真は遠方より写したものや余り鮮明なものは無かったが、最近かなり鮮明な写真が手に入った。近くで撮影され松の枝まで判別出来るものである。

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 この美しかった風景も海岸が埋立てられ住宅が建てられかつての面影は無い。家が建て込み上の写真と同じアングルで撮影出来ないが、この写真はほぼ同じ場所の現在の様子である。

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 明治の初めごろまでは上図のように、田尻山から海岸まで山が岬のように伸び、このあたりは白砂青松の美しい風景であった。

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 明治の中旬頃、旧国道や山陽線の開通により田尻山から連なる尾根が削られたが、それでも広電宮島線軌道沖には尾根の一部が残され、海岸には美しい砂浜も残っていた。

 昭和44年に田尻沖海岸を埋立住宅団地にするため、残された小山も削り取られてかつての美しい海岸の面影も残されていない。

追記
 一番上の写真は「田尻海岸」の写真と紹介したが、田尻でなく宮島の浦の写真のようである。削除すれば良いのだが、このブログの中には他にも間違いがあろうと言うことでこのまま残しておく。
by hirosan_kimura | 2013-06-25 13:43 | 地形 | Comments(0)

№527 阿品の海抜

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 一昨年3月に発生した三陸沖地震以来、海に近く海抜の低い阿品では津波に対する関心が深まっている。近くのスーパーに「ここは海抜2m」の表示がされている。

 この海抜について何処を基点として2mなのか議論されたことがある。満潮時だ、いや干潮時だ、満潮と干潮との中間点だ。満潮時にしても大潮と小潮では高さが異なる。基準値は広島湾だ。いや東京湾だなどと素人同士で議論して結局分からずじまいに終わった。

 市役所の担当者に尋ねたところ、東京湾の中等潮位と言うことであった。東京湾の平均海面とは、全国の標高の基準となる海水面の高さで、1873年から1879年までの当時の隅田川河口で測定された記録を元に決定されたものである。

 海抜2mとは低すぎるが、阿品三丁目では大潮の際は道路から手を伸ばせば海水面に届きそうな場合が再三あるので、小さな津波が来ても住宅地は浸水してしまうだろう。海抜はインターネットで調べれば日本全国どこでも検索できるが、我家もスーパーと同じ平面なので海抜2mと言うことであろう。

 阿品では太平洋で津波が起きても、四国があり、瀬戸内海の島々があり、さらに広島湾の奥なので大きな津波に襲われることはないであろうなど素人判断をしている。津波が来たらスーパー屋上の駐車場に避難すれば良い。すぐ近くのふじタウンや阿品台の高台に避難すれば良いなどと噂をしている。

 しかし皮肉なことにこれらの高台に住んでいる人たちは高齢化が進み、買い物やJR・広電・病院が近くにある平地が便利と、海沿いの平地にあるマンションなどに移り住む人もある。
by hirosan_kimura | 2013-03-07 10:35 | 地形 | Comments(3)

№492 高畑山(2)

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 №234でも紹介したがこの山は標高197.5㍍と低い山であるが、面白い山なので再度掲載してみた。

e0125014_1430367.jpg 広島湾近辺の山は松と低い雑木が多いが、この一帯は付近の山と形相が異なり照葉樹林が多く、中には驚くほどの巨木が立っている。団地のすぐそばの山になぜこのような樹木が残されているのか不思議に思うくらいである。
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 登る途中は木々が繁っているので見通しはきかないが、ときたま樹木の切れ目から遠望出来る場所がある。阿品全体を見渡せる場所は少ないが、前方に阿品の海岸付近・広島湾・江田島方面が望めて素晴らしい景色である。

 団地すぐそばの山でありながら登る人は限られているようである。登山道も各ルートが整備されているので、気軽にたくさんの人に親しんでもらいたい山である。
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 角度を変えてみると、前方に素晴らしい宮島の景色を眺望出来る。

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 この近辺の山は、照葉樹林帯を覗き赤松の樹木が繁っていた。このためこの一帯は秋になるとマツタケがたくさん生える場所であったが、松枯れにより赤松は全滅状態となっている。

 このため、松くい虫に強いスーパー松が開発され周辺に何本か植えられている。試験的に植えられたものであろうが赤松の巨木に育つためには、まだまだ年月を要するであろう。

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 西高側の下山道の途中に数十メートルに渡って「かすみ網」が設置されている。これは鳥類の調査のためのものであるが、調査時以外は小鳥が絡みつくので「かすみ網」はたたんである。

 この調査は国の許可を受けているが、鳥類調査が行われると言うことは、自然が豊かで小鳥たちがたくさん生息していると言うことであろう。

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 高畑山の麓付近に、阿品台西保育園の年中児が園外保育に来ていた。子ども達は小さな虫を見つけると歓声を挙げたりしていたが、団地内の保育園のすぐそばに自然豊かな森が残っていることは素晴らしいことである。

 海岸沿いの自宅から高畑山の頂上まで40分もあれば登ることが出来る。ゆっくり歩いても往復二時間もあれば充分である。

 折角身近な所に自然の残された場所があるので、阿品の人々が気軽にこの一帯を散策すれば良いと思うばかりである。
by hirosan_kimura | 2012-10-04 15:21 | 地形 | Comments(0)