素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:軍事( 9 )

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 日本軍の大尉機を打ち落としたグラマンヘルスキャットの米軍隊長のトミー・ハリス中尉は、「太平洋戦争中に遭遇した中で、桜木大尉は最も手ごわい相手であった。
 巴戦を何度も繰り返しもう少しでこちらが撃たれる寸前に、私の弾が桜木機のエンジンに当った。桜木大尉も私も戦闘機のパイロットとして、当然やらなければならないことを遂行した。
 結果論であるが桜木大尉が戦死されたことに、深甚なる弔意を表し心よりご冥福を祈っている。」と後に語っている。

 戦闘中には地御前小学校にも、米軍機と日本機の薬莢が降り注いだ。校庭にいた先生は、声を張り上げて生徒に教室に入るように命じた。
 幸い生徒には当らず無事であった。校庭に降り注いだ薬莢は、生徒や当時学校に駐屯していた兵隊が拾い集め、時を移さず来校した憲兵に引渡した。

 村人の中にはは田畑に落ちた薬莢をバケツに何杯も拾い集め、村役場に持って行った人もあった。
 敵が撃ったのは13㎜機関銃の弾であったが、13㎜機関銃弾は地御前にあった旭兵器(株)地御前工場でも造り始めたばかりであったそうである。

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 この戦闘で地御前の中谷家に爆弾が投下された。中谷家は形跡もないほど木っ端微塵に吹き飛ばされ家族5人が即死されている。中谷家を含め三棟全壊・二棟半壊で、重傷者一名・軽傷者二名の被害があった。

 当時、地御前村は広島県の中でアメリカに一番多く移民を送り「アメリカ村」と呼ばれていたので、地御前がまさか攻撃されるとは思っていず、村人は初めて戦争を実感したそうである。これを契機に村人は本気で防空壕を造り始めた。

上の写真 爆撃された中谷家跡。  
下の写真 旭兵器(株)地御前工場の一部を移設した「広島市児童文化会
       館」のカマボコ型大ホール。この建物は「県立屋内プール」を
       建設するため昭和39年に解体された。 
by hirosan_kimura | 2013-02-27 11:30 | 軍事 | Comments(2)
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 丁度この頃乗客で満員の列車が、山陽本線宮島口駅を出発して広島に向かい阿品付近を走っていた。列車は突然狂ったようにスピードを上げて走り、阿品のトンネルの中で急停車した。
 
 乗客は何も知らされないままひと時を過ごしていたが、空中戦が終わるのを待って列車は何事もなかったように、再び動き出して無事広島駅に到着した。

 この間、空中では双方の戦闘機が正面衝突するほど近づいた途端、一機が急上昇し他の一機は煙を吐きながら海中に海中に落ちて行った。墜落した時間は午前九時十四分であった。
 
 これを見ていた村人たちは一斉に手を叩き喜んだが、落ちたのは敵機でなく日本軍の戦闘機であった。
 
 墜落した戦闘機に乗っていた搭乗者を助けようと、鰆浜の漁師が船で助けに行ったが、現場に到着した時には既に死亡していた。襟に付いていた階級章を見ると大尉・将校であった。

 遺体は現場でパラシュートに包まれ地御前の西向寺に運ばれた。
 当時西向寺には約五十人の兵隊が駐屯していたが、その兵隊が見守る中住職の読経が静かな境内に流れた。兵隊たちも次々と焼香し戦死した将校の冥福を祈った。
 
 後にこの将校は九州出身の桜木大尉であることが判明した。桜木大尉は当日は非番であったが、隊長の山本順三少佐に「自分が出る」と言って小月飛行場から飛び立っていた。
 
 大尉の出撃時は奥さんは六ヶ月の身重であったが、八月にその子が生れたそうである。
by hirosan_kimura | 2013-02-26 10:03 | 軍事 | Comments(0)
グラマンヘルスキャット機
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 №469で「敵機墜落?」を載せたが、これは阿品の子ども達の話であった。この空中戦について詳しい資料をを提供してもらった。

 昭和20年3月19日早朝、米軍機は九州沖の空母「ホーネット」より16機の「グラマンヘルスキャット機」が爆弾を搭載して出撃した。目標は呉湾に集結していた日本艦艇を撃沈することであった。

 全機が瀬戸内海を東進し呉湾上空を目指して飛行していた。米軍機を迎え撃つため小月基地より12機が出撃したした日本機は、宮島上空あたりで待ち伏せしていた。米軍機16機の内8機が日本機を攻撃して他は呉に向かった。

 宮島上空のグラマンヘルスキャット機との空中戦で日本機はわずか2機が残ったが、地御前・阿品・宮島長浜沖海上の空中で両軍の壮烈な空中戦となった。

 近辺の地上では大騒ぎになり、敵味方の機関銃の音が交差するなか、半鐘は鳴り響き子ども達の悲鳴などで騒然となった。

 恐ろしさの余り家の中に避難した人々も空中戦が気になるので、家から出て上空を見上げると、敵と味方の戦闘機が、すさまじい機関銃の音をさせながら空中戦が続いていた。

 そのうち一機の零戦がグラマン戦闘機の編隊の真只中に突っ込んで行った。慌てて飛び散るように四方に逃げたグラマン機も日本軍の戦闘機が一機であることを確かめると、身軽になって戦うため載せていた爆弾とタンクを投下して反撃を開始した。敵も味方も上空を急上昇と急降下を繰り返し、機関銃を撃ちまくった。

 空中戦では敵と味方の飛行機がぐるぐる廻って、相手を追いかける巴戦を繰り返していた。敵の後に付き機関銃を発射すれば相手を確実に打ち落とせるわけで、戦闘機乗りなら誰でも知っている攻撃法であった。

 巴戦に入る前に何度も日本の戦闘機が、敵の戦闘機の群れに突っ込んでいる。機関銃の弾が無くなったからでなく、機関銃の弾が充分ある時に突っ込んだのは、地上に上り列車が走っていたのでこの列車を守ろうとして、単機で敵の群れに突っ込み敵の注意を自分に向けさせたらしい。 
by hirosan_kimura | 2013-02-25 14:04 | 軍事 | Comments(0)

№469 敵機墜落?

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 アメリカとの戦いで日本の戦局が厳しくなった頃のある時、阿品の上空でアメリカと日本の戦闘機が空中戦を行った。その内一機に弾が当たり、その戦闘機は南の方に墜落して行った。

 これを見ていた阿品の子どもたちは、日本軍が敵機をやっつけたと歓声をあげた。

 子どもたちは敵機が海に墜落するのを見ようと、大急ぎで海岸沿いまで走って行った。その戦闘機は宮島沖の海中に墜落したが、墜落した戦闘機は日本軍のものであったそうである。

 阿品の人に子どもの頃の思い出として聞いた話である。この頃には敵機も日本本土に自由に飛んで来ていたらしい。

 アメリカ軍による直接の被害は阿品では無かったが、地御前では小学校の近くの民家に弾薬が落とされた。これにより、民家が三棟全壊・二棟が半壊・その他10棟が被害を受けた。

 また、死者5名・重傷者1名・軽傷者2名の被害があったそうである。 
by hirosan_kimura | 2012-06-11 14:21 | 軍事 | Comments(2)

№459 うさぎ

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 年代ははっきりしないが昭和の初めごろ、阿品の国道をたくさんの海軍兵学校の人たちが列をなして行進して来たそうである。何の為阿品にたくさんの兵学校生が来たのか見物していると、田尻の山の山頂付近の峰に長い網を張ったそうである。

 網を張り終わると兵学校生は麓に隙間無く横一列に並んだそうである。枝木を地面に叩きつけ大きな声を上げながら峰に向かって登って行ったそうである。

 何をしているのかと思ったら、藪に隠れている「うさぎ」を捕獲するためであった。藪に隠れていた「うさぎ」は驚いて山頂に逃げていったそうである。「うさぎ」は追われると高い方に逃げる習性があるそうである。

 山頂に向かって逃げた「うさぎ」は峰に張ってある網にからみつき一網打尽となったそうである。捕獲された「うさぎ」を木の棒に数頭づつ結びぶらさげて意気揚々と、阿品の国道を行進して帰ったそうである。

 地御前小学校に到着した一隊は、「うさぎ」を調理して食事にして食べたそうである。その「うさぎ」の数は少々のものでは無かったと言うことである。

 田尻の山は現在は団地として開発され往時の面影も残っていないが、当時は木々が生い茂り「うさぎ」を初め様々な動物の住む自然豊かなやまであった。

 阿品のある人から、子どもの時の思い出として聞かせてもらった話である。
by hirosan_kimura | 2012-05-26 11:39 | 軍事 | Comments(2)
e0125014_14385342.jpg 原稿が無くて困っていたら、「№153 山に掘られた穴」で記事を書いてもらった人から再度提供いただいた。

 





 7月の中旬に降った大雨で、見晴らし山の鰆浜側で小規模の山崩れが発生した。ここは海側から2番目の弾薬庫の入り口と思われる。

黄色火薬
 この弾薬庫には、前回記したセルロイド型火薬のほかに、直径4~5cm 長さ20cmくらいの油紙の袋に入った、黄色の粉の火薬があった。この黄色火薬を使用して風呂を沸かす家もあった。2本もあれば沸いたようである。

 戦後は衛生状態も悪く蚤が非常に沢山いたが、駆除する薬も無く皆困っていたが、誰ともなく黄色火薬を床のの下に撒けば、蚤がいなくなると言う風評がたち、多くの家で撒かれ、蚤の駆除には効果があったようである。


魚を獲る火薬
 弾薬庫にあった別の火薬で、若い衆たちが今のポンプ場辺り~樋口辺り(現在の水路)のてんばから、魚の群れを見つけて火薬を投げると、大きな音と水飛沫が上がり沢山の魚が腹を反して浮いてくる。

 その魚を別の組が肥え舟で回収する。又火薬を投げる……。 子どもは危ないからあっちへ行っとけ。あの魚は如何したのかな?


火薬遊び
 色鉛筆くらいの太さで、黒くて中空の火薬があった。これを海で拾って乾かし、15cmくらいに折って片方に火を点け投げると、地上・空中・水中でもあらゆる方向に飛び跳ねる火薬があった。

 これには「シュウバン」と名付け、学校から帰るとマッチを持って海に行き遊んでいた。今なら父兄や学校で大変なことであろう。


今なら子どものアルバイト
 高射砲の先端に付けるといわれていた卵くらいの大きさで、真鍮で出来た物が弾薬庫から出され、お上がり場公園に積まれた上陸用舟艇で海に捨てられていた。

 信管は10個入りの綺麗な蓋付きの缶に入れられ、木箱に5缶入れてあった。進駐軍が帰った夜、缶を貰うため木箱をばらし、缶の中の信管を海に捨てる人がいた。

 缶は米・麦・豆等を入れるのに重宝し、阿品・鰆浜ほとんどの家にあった。又、一時はあさりの剥き身の取引には、これが枡がわりに使用されていた。(約6合)

此処までは大人の話

 それから4~5年たってお上がり場周辺の海には、引き潮になると信管がゴロゴロしていた。その頃、自転車で来た古がねを買う人が、信管を買うから拾って来いとのことで、
¨なんぼで買うんや¨  ¨一個5円で買うたる¨  ¨よぅしゃ¨

 其の頃、ラムネ一本5円。一日に20~30個拾った。(其の頃、大人の日雇い日当240円) そうこうする内、買う人が増え1個10円になり20円になった。台風の時には面白いように拾えた。(昭和24~25年くらい) 其の内、物が段々無くなり終わった。


忌まわしい話 1
 弾薬庫には壁と天井に丈夫な木の板が使用してあった。中の火薬・弾薬が運び出された後に、他所から木の板を持ち帰る人が来て、かなり儲けたようである。無理な取りかたをして、天井が崩れ大怪我人が出て禁止されたようである。

忌まわしい話 2
 魚を獲るための火薬を段取りする為、何人かが集まって用意している時に誤って爆発して、片目を見えなくした人、一人。片方の手首を失った人があった。当時は医療機関も近くに無く、随分苦しまれたとの事。二人とも、傷は完治された。
by hirosan_kimura | 2009-09-13 08:55 | 軍事 | Comments(0)
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「ふるさと 阿品 よもやま」を閲覧している人に、ネタが無くなり困っていることを話したところ、原稿の提供を頂いた。№32「阿品の弾薬庫」をより詳しく、紹介してもらったものである。

 鰆浜側から阿品側へ見晴らし山を掘られた2本のトンネルは、昭和17年頃から工事が始まり、昭和19年頃完成した。この間、昭和18年には民家2軒を立退かせいる。(これ以外に阿品にも数本あった。)

 その内の1本は、現在2本立っている携帯電話の海側(写真左側のアンテナ)下辺りであった。

 幼い子どもの頃見たので規模ははっきりしないが、幅9尺・高さ12尺くらいの素掘りであった。側面と天井面には松の丸太を組み、厚い板(今の足場板の様な板)で補強してあった。

 穴堀りは多くの人でツルハシとシャベルで行い、土の運搬にはトロッコで周辺の田や畑に出し、敵の飛行機に分からないようにと、その上に山の木で覆ってあった。

 工事人は若い人が多く、良く働いていた。夕方には割りと早く帰ることがあったので、皆が帰った後は穴の中で遊んだり、トロッコに乗ったりして親に良く怒られた。

 完成後は急に監視が厳しくなり、何か運び込まれたようであった。

終戦後、進駐軍が多く来て彼らの管理下で、各弾薬庫からかなりの量の木の箱が,お上がり場(現在の倍以上の広さがあった)に運び出され山積みにされた。

 これらの物をアメリカの上陸用舟艇に積み込み、沖の方の海に捨てていた。

 その中の一種は、厚さ2.5センチ・幅30センチ・長さ1㍍位の綺麗な木で出来た箱があった。後で聞くところによれば、ほう(朴)の木のこと。

 あまり立派な板で出来ているので海に捨てるのは勿体ないから、希望者には中味(金属の箱)は海に捨て、木の箱は配ってくれた。

 この板で床を張る家、家具を作る家、私の家にはこれで作った製図板が今も有る。

 その時海に捨てたはずの金属の箱(上質な亜鉛版)、そのまた中味を海に捨て、これでバケツやツルベを作ってくれる人がいて、阿品・鰆浜の家ではかなり普及していた。

 その金属の箱の中身は、細いセルロイドの様なものであった。それを海から拾って来て、当時マッチが不足していたので、点け木(つけぎ)として使用する家が多く有った。危ないこと。(以下、続編に続く)
by hirosan_kimura | 2009-05-28 05:41 | 軍事 | Comments(0)

№75 防空壕

e0125014_10252541.jpg 防空壕は第二次世界大戦中に、アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による大規模空襲が現実となり、大都市を中心に昭和19年頃から学校の校庭、強制疎開の空き地、個人宅内などに大量に造られるようになった。

 空襲警報が鳴ると身近なところに造られた防空壕に身を隠した。しかし、資材不足のため、ほとんどが防護効果がなく、大量の焼夷弾による爆撃が行われると、地下壕で蒸し焼きになって死亡する人々が続出したと伝えられている。
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 阿品地域でも防空壕が造られたが、都市の防空壕が地下壕が多かったのに対して、山に横穴を掘った防空壕であった。

 家の裏に山がある家ではほとんど防空壕が掘られていた。防空後は手作業で掘られ、各家により若干規模は異なるが、幅は1㍍前後・高さは大人が頭をかがめて通れる程度、奥行きは7~8mくらい、更に突き当りからTの字に横に伸ばしてある場合もあった。

 阿品では空襲警報が出て、防空壕に避難したことがあるのかは知れないが、地御前では敵機の空襲により家屋が倒壊し死者も出ている。

 戦時中は働き盛りの男子は出征し、残された女性も松根油を採取するため駆出され、家事や育児に大変だったそうである。自分が乳児の頃には、日中は安全な防空壕に寝かされていたと聞いたことがある。

 阿品にたくさんあった防空壕は、終戦後はサツマイモを保管したり、物置として活用されたこともあるが、子どもが中に入って遊んだり、危険なため大半は埋められている。

 下の写真は阿品に残っている数少ない防空壕であるが、入り口は崩れかけ這ってやっと中に入れる状態であるが、中に入ると比較的当時ままで残っているものである。
by hirosan_kimura | 2009-02-25 04:25 | 軍事 | Comments(0)

№32 阿品の弾薬庫

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 終戦が近くなった頃、海田市にあった武器や弾薬を疎開さすために阿品や地御前に地下壕がほられた。

 地下壕を掘ったのは朝鮮から連れて来られた若者で、1月から5月まで海田市の駐屯地で軍事訓練や作業を行い、5月から7月末までトンネルを掘る作業に従事させられた。

 トンネルの掘られた場所は、地御前では金剛寺小学校下の川沿い、桃山団地下であった。阿品ではJR阿品駅裏附近の崖下。鰆浜と阿品境の国道寄りの山のニケ所である。

 JR駅裏の傾斜地では5本、鰆浜・阿品境の山では8本掘られて2本貫通したらしい。子どもの頃にはこのトンネルが残され、恐る恐る中に入って遊んだ記憶があるが、今は埋められて跡形もない。

 トンネルを掘った若者達は、地御前国民学校やお上がり場の粗末な作業小屋で寝泊りしたが、いつも食料に飢えており、空腹のあまり附近の民家に食べ物を分けて貰いに行く者もあったと言う。

 終戦直後には爆弾処理のため、阿品の人々は当番でその作業に従事させられたと言われる。そのために進駐軍が監督にあたり、拳銃を構えたりするので子ども達は怖がってそこを避けて学校に通ったりしたという。

 不発弾をいたずらしていた地元の若者が、暴発により大怪我をした者もあったと聞いたことがある。

 アサリを掘っていると、板状の火薬が沢山出てきて地元の人はそれを風呂の焚き付けにも使っていた。子ども達は火薬を粉にして筒状の物に詰め込み火を付けて、ロケット遊びなどして良く大人に叱られもした。今は海辺を幾ら掘っても火薬などは出て来ない。
by hirosan_kimura | 2009-01-13 10:15 | 軍事 | Comments(3)