素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:出来事事件( 12 )

e0125014_1340934.jpg №21で{「明治天皇」阿品に御上陸}を紹介した。先日、地御前出身で広島市在住のOさんより新しい情報を提供していただいた。Oさんには今までもたくさんの情報を提供イタダキ、ブログでも何篇か活用させていただいた。提供して頂いた資料では阿品に関しては僅かしか触れられていないが、天皇が広島を訪問した理由や帰りに休憩された草津の小泉家に関して説明されている。


明治天皇の広島への巡幸
 明治18年4月、福岡県小倉近郊において、広島の第五鎮台と熊本の第六鎮台の諸兵を合同して実施大演習をおこなうことが企画され、この演習の状況を天皇に親閲を願うことを参謀本部長と陸軍卿が連署して上奏したのであった。

 そして演習閲覧後の還路の際には山口・広島・岡山の3県を巡幸頂くように奏聖請したのであるが、これに対して宮内卿から4月中旬に東京を出発され、演習後には3県下を巡幸されることが決まった、との連絡が入った。

 これに対して3県では、巡幸が円滑に進められるようにと、沿岸海浜の深浅の測量と浚渫、道路の整備や橋の改修をおこなうなどし、供奉の吏員や車の儀仗兵なども指名して準備万端整えていたのであるがたまたま天皇が微恙(軽い病気)にかかられたので、演習閲覧のための御行は取りやめとなった。

 天皇の巡幸を準備万端整えて待っていた3県下の官吏県民一同は、巡幸中止の報に落胆失望は大きかったが、これが宮内庁の聞くところとなり、改めて明治18年7月15日に告示があり、明治天皇は山口・広島・岡山の3県下を巡幸のために7月26日に東京を出発されることになったのである。

 この時の山口県から広島に至る巡幸日程は次のようであった。
7月26日、軍船「龍驤」艦に座乗、春日・筑紫の二軍艦に護衛されて品川      を出航。
7月27日、午後6時10分神戸港に投錨。
7月28日、午後7時50分伊予大浦に投錨。
7月29日、午後7時45分三田尻沖に着艦。
7月30日、山口県庁に臨幸。
7月31日、午前4時50分山口の宿泊所を出発。8時三田尻に到着、本艦              龍驤に座乗10時45分出航、午後6時厳島湾に投錨、大聖院の御座所に到着。

 翌8月1日 厳島神社に参拝されて幣帛神饌を捧げられ、別途神社の修繕費として金一封を充てるようにと県令に告げられたのであった。
 さらに浅野忠宮司の案内で社殿の説明を受けられ社内周辺を巡覧されて、午後1時行宮(天皇御幸時の仮御所)を出発、2時20分地御前村字阿品に上陸されたが、ここでも村民が花火を打ち上げて祝意を表し、ここから馬車で廿日市村の岩尾沢太郎宅に着かれしばらく休憩の後、草津村の戸長であり酒造業を営んでいる小泉甚右衛門の家にお着きになったのであるが、時に午後3時30分であった。

 同家には約40分余休息されて、一路広島に向かわれ、同日午後5時10分広島での御宿泊所となっていた偕行社に到着された。
by hirosan_kimura | 2016-03-07 14:48 | 出来事事件 | Comments(0)
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  №705で皇太后の厳島御参詣を紹介した。この記事では阿品の「お上がり場」に何時に到着され何時に出発されたのか、厳島から「お上がり場」への到着時間等は何時であったのかは紹介していない。色々調べてみるともう少し詳しい時間が判明したが、これはあくまでも事前に計画された予定時間で実際の時間は不明である。ちなみに昭憲皇太后は、今の天皇の曽祖父の御妃である。

明治28年4月12日
午前八時 御出門  
八時四十分 草津御着 小泉甚右衛門邸  御小休 
八時五十五分 同所御発

十時廿五分 阿品御着 御小休 御野立  十時四十分 同所御発船
十一時十分 厳島港御着船  

直に御馬車御乗厳島神社回廊入口にて御下車御通覧
正午十二時 紅葉館御着  御昼休所 岩村平助邸  
午後一時 同所御発御馬車
神社入り口にて御下車回廊通再び御馬車御乗大元神社へ成らせ
それより千畳閣御巡覧
午後三時 厳島御発船

午後三時三十分 阿品御着 御小休 御野立  三時四十五分 同所発
午後五時十五分 草津御着 御小休 御野立  五時三十分 同所御発
午後六時十分 還御

 お上がり場に到着後は「小休み」「野立て」とあるが発船までたった十五分しかない。この間にトイレにも行かれたであろうし、「野立て」など優雅な時間も無く慌ただしいものであっただろう。

 行き帰り合わせて三十分程度の滞在であるが、皇后陛下がお茶を飲まれるための休憩所・トイレ等は仮設のものとはいえ大掛かりな準備が何日も前から行われたのであろう。

 阿品の人々は仮設の施設が準備される様子や、皇后陛下の姿を遠くから拝見したり、さぞ大騒ぎの出来ごとではなかっただろうか。

 上記は予定時間で実際の時間は不明であるが、広島を出発された時間、厳島の「岩惣」到着十二時は予定通りとなっている。ただ帰りの「お上がり場」到着時間は予定では三時三十分となっているが、実際の到着時間は五時十五分と一時間四十五分も遅くなっている。

 従って御座所への帰還時間が六時十分の予定が、六時五十分と四十分おそくなっている。天皇や皇后の行幸計画はでは分単位・秒単位の計画が立てられると聞いたが、四十分も計画を外れているのは皇后が厳島を気に入り予定時間を超えるほど見物されたのか、なにかアクシデントでもあったのであろうか。
by hirosan_kimura | 2016-02-13 14:32 | 出来事事件 | Comments(0)
有料駐車場の料金改定
e0125014_15142225.jpg №568で紹介したが、昨年9月の初めごろ新設された24時間100円駐車場が、オープン記念期間が終了したのか11月13日から300円に値上げされた。
 当初から結構利用されていたが、3倍もの値上げで利用する人が激減するのでは無いかと思っていたが、料金を回収する人も驚くぐらい利用率が良いらしい。駅から少し離れているが高台方面に住んで居られる方が、車をここに駐車し広島方面にJRで行かれるのに便利が良いのであろう。


枯木の芸術切り倒される
e0125014_15145535.jpg №581で紹介したが、鼓ケ浜集会所の傍にあったマロニエの木が枯れてしまい、枯木をそのまま利用して近所の方が着色された。
 目を奪うようなカラフルな芸術品となり通り掛かる人の目を楽しませていた。
 このまま朽ち果てるまで長く残されれば良いと思っていたが、先月の中旬に根元から切り倒されてしまった。理由は分からないが、余りにもカラフル過ぎて目障りに思う人でもあったのだろうか。

e0125014_774335.jpg その後集会所附近を通り掛かった際、細切れにされていたものがあったので、写真にでも撮っておこうと思っていると処分されてなくなっていた。早く撮っておけばと残念に思っていたところ、ある方が別の場所に保管してあったものを撮影しわざわざ送って下さった。
by hirosan_kimura | 2014-01-08 08:54 | 出来事事件 | Comments(2)

№470 山羊の解体

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 昭和30年頃のことである。近所のある家に山羊を飼っておられた。当時は農家でなくても山羊やウサギや鶏などを飼うのは珍しいことではなかった。

 我家でも綿羊を一頭飼っていたが、年に一回くらい綿羊の毛を刈り取り仲買人のような人に毛糸と交換して貰っていた。当時は子どもだったので、仲買人の人が何処から来られるのか、その場で刈った毛を毛糸と交換して貰っていたのか、我家の羊の毛を一旦持ち帰り毛糸の加工して持って着ておられたのかは良く分からない。

 近所で飼っておられた山羊は乳を採るのが目的であったのだろう。その山羊は、その家のおじさんの出勤前に近くの原っぱに連れて行ってもらい杭に繋がれ、一日中自由に草を食べさせてもらい仕事が終わった夕方に迎えに行き家に連れて帰ってもらっていた。朝夕、山羊を引いたおじさんが我家の前を通られるのが日課であった。

 いつも山羊を繋がれるすぐ傍には、排水を国道の下を通し海に流すための排水溝があった。ある日の夕方おじさんが山羊を迎えに行くと、その段差の下に山羊が誤って落ち繋がれた縄で首を吊り山羊が死んでいた。おじさんもビックリされたし山羊も随分苦しんだだろう。

 翌日近くの山の麓で、今は亡き吉田先生が山羊を解剖して子どもたちに見せる言うので集まって遠巻きに見学をした。先生は山羊の腹を切り、これが心臓・これが肺などと説明して下さったがとても気持ちが悪かった。

 解剖した内臓などは傍に埋められたが、きれいな肉を切り分けて皆に配分してもらった。今の時代のようにいつでも肉を買って食べると言うような時代でなかったので、みんな喜んでその肉を貰って家に持ち帰った。

 我家でも夕食に山羊の肉を煮て食べたが、大人たちは美味しいと言って食べたものの、毎朝毎晩おじさんに連れられて我家の前を通っていたのを見ているので、山羊が可哀想でとても食べる気にはならなかった。

 今から60年近く前の、鰆浜部落の出来事である。
by hirosan_kimura | 2012-06-26 10:10 | 出来事事件 | Comments(0)

№83 厳島合戦(6)

e0125014_171277.jpg 厳島合戦の戦いにより、大野瀬戸で溺死・浮浪し又は島内で殺された数千人の遺体は、対岸の赤碕及び阿品に流れつき葬られた。中には遺族が後に石塔を作ったものもあった。

 阿品に流れ着いた死体は、旅の僧が墓を建てて手厚く葬り、供養のため小さな寺を建てて守っていたが、長い年月の間に継ぐ人も無く、寺も荒れ果て無くなり墓だけが残された。

 JR阿品駅の西側に「阿弥陀坊」「寺山」の地名も残っていたが、鉄道の整備や団地の開発により今は痕跡も残っていない。

 別の説では、当時財力のあった馬間(下関)の商人が、流れ着いた人の墓を建てて弔ったとの言い伝えも残っている。

 これらの残された墓等も、明治時代に入り海岸沿いに道路・鉄道などが整備された際に多くは消滅してしまった。

 残された数少ない石塔も誰一人弔う者も無く、谷間や山中に埋没仕懸っていたが、ふじタウン造成により消滅する恐れがあったため、篤志家の方が七ケ所の残存墓石を集積し、一箇所に集め弔って居られる。

その墓石は合計で三十余基に達する。場所は阿品公民館裏の山裾である。
by hirosan_kimura | 2009-03-05 04:47 | 出来事事件 | Comments(0)

№82 厳島合戦(5)

e0125014_14112526.jpg 毛利軍は一気に急峻な博打尾を越え、陶軍の塔ノ岡目指して攻め下って行った。暴風雨で油断していた陶軍は背後から急襲され、驚愕狼狽 完全に浮き足立って逃げ惑うばかり、ついに陶晴賢は追い詰められ、高安ケ原で自刀し果てた。

 こうして阿品・厳島を中心に戦われた「厳島合戦」は毛利軍の勝利のうちに終結した。

 これまでの記述は戦記物や、阿品の言い伝え等を記してきたが、戦記物は読者の気をひくため、作者が史実と異なった記述や、作者が作り上げた話も多く、どこまでが正しいものか分からない。地元の云い伝えも誤っているものもあるかも知れない。

 ここに記述したものも、数ある諸説の中の一つであり、信憑性も疑わしく事実とことなることは十分考えられる。

 この記述は火立岩から出陣したとしているが、歴史家の中には串戸沖から出陣した説、草津沖から出陣した説を唱える者もある。

 軍勢も毛利軍の4千人はともかく、陶軍の2万人は誇張で1万人に満たず、せいぜい7千人から8千人が正しいとの説もある。

 田尻の運勝の鼻から厳島まで、地元から集めた縄を綯いそれを伝って軍船を進めた説も、作り話と説く歴史家もある。

 しかし、地御前の漁業権が広いのは、阿品の人々が戦いに協力したので、毛利元就が褒美として、見渡す限りの海を地御前の漁業権として与えたとの言い伝えもあるそうである。
by hirosan_kimura | 2009-03-04 05:22 | 出来事事件 | Comments(0)

№81 厳島合戦(4)

e0125014_1332581.jpg 渡海に当っては、田尻(今の阿品三丁目西端)の「運勝の岩鼻」に自然の波浪で出来た岩穴から、阿品の漁家から漁業用の縄を集めた物を束ねて大縄とし、これを繋いで縄を酒樽で浮かし、厳島の聖崎の岩まで渡したとの言い伝えがある。

 櫓を漕がずに大縄を手探繰って、櫓音・声を忍ばせ軍船を進め厳島に押し渡った。

 船団は闇を衝いて海上に出たが、風は横殴りの強風で波浪が荒く困難を極めたが、半途でようやく風雨が和いだ。渡航の作法はすべて軍令どおりで、戍刻(午後九時)になって元就の乗船した第一船が厳島包ケ浦に着いた。

 到着するやいなや元就は、すぐさま海岸で篝火を焚かせた。その火を目印に全軍の上陸したのが、亥の刻(午後10時)であった。

 全軍を攻撃位置に就けるに先立ち、元就は渡海に使用した兵船をすべて、夜の明けぬうちに対岸にことごとく引き戻さすよう命じた。

 頭衆が「万一の用心に備えて、是非一艘だけでも残すように」と元就に云うも、一向に取り合わなかったとのことであった。

 漕ぎ戻る船頭に元就は「船、地に着せば、地御前・阿品・大野・玖波表へ罷り出て、幾千とな篝火を焚くべしと相触れ申し通すべし」と云い含めたと云う。

 阿品の海岸では、百姓が肥田子(肥桶)を数百並べこれに松明を括り付け、山々の峯々に篝火として焚き、陶軍に数千人の軍団がいるように見せかけたと云う。
by hirosan_kimura | 2009-03-03 04:11 | 出来事事件 | Comments(0)

№80 厳島合戦(3)

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 酉の刻、元就は全軍に出陣の法螺貝を吹き鳴らさせたが、出発に当って船頭たちの間から、又もや異議の申立てがされた。 
 
風雨が激しく、この荒天ではとても船は出せないと云うものである。

 酉の刻を前にして暴風雨が激しくなり、暗黒の天地に雷鳴がが轟き始めたのである。視界の遮られた海面に、波浪が白い牙を剥いていた。

 船頭たちは、この荒れ模様では櫓・櫂が波にさらわれて、船を進めることが出来ない。仮に船を海上に出したとしても咫尺を弁せず、無事目的地に着くことが出来ないと云うのだ。それに転覆の危険がある。将士のあいだからも渡航延期の声が起こった。

 だが元就は断固としてこの要求を斥けた。「今日は最上の吉日であり、西風は吉例である。この風雨こそ、天が我に加護を垂れ給う御しるしである。

 この暴風で敵は必ず油断して、警戒を怠るであろうから、まさに出陣の好機である。この好機、逃がして成るものか。全軍、速やかに出陣せよ」との命を下した。

 元就は出陣にあたり嫡子の隆元に「御自分は陸に残られへ。この一戦でわれ若しく討死候はば、何とぞ後手の弓矢成し立て候様遊ばされ、御家を保たれ候様に」と云うと、隆元は「元就公御残り遊ばされ候とても、渡海仕り候者共悉く討死仕る候ては、恩召され候様弓矢は成り立ち申すまじく候。
 
 まして私残り候様との儀、存知も御座なく候」と返事をして、自分の具足の上帯の端を切り、二度とは結ばぬ決死の覚悟を示して、真先に乗船した。

 この隆元の気合に呑まれて、ひるんでいた将士たちの気持ちも奮い立ち、われ先にと廻船に乗り込み勇躍征途に着いた。
by hirosan_kimura | 2009-03-02 05:28 | 出来事事件 | Comments(0)

№79 厳島合戦(2)

e0125014_1834698.jpg 出陣間際になって渡海方法について、異議を唱える意見が出された。それは前日から時雨交じりの西風の強風が吹いているので、厳島に渡海するのに火立岩からより、串戸の方が良いというものであった。

 串戸から出せば追風であるが、火立岩からでは半分は向い風になると云うものであったが、元就は「串戸より船出すれば、敵方に見付けられる。」と火立岩からの出港を決行することとした。

 出陣に際して元就は、次のような指示を出した。すなわち人数は、出発に先立ち組ごとに名前書きして、船に組々の相印を立てておく。

 ほら貝を合図に、各組その相印ある船に乗り込み混雑を避けること。一度にどっと押し出さないよう、二十間・三十間の間隔を取って順番に押し出す。

 一夜陣のことであるから、将兵が腰に付けてある食料以外の兵粮は、船に積み込んではならないと云うものであった。

 また、船事法度として次の事が布告された。
一 渡海の船は、篝火一圓停止の事。
ニ 本船の桃灯(提灯)を目に掛け、此の火次第に諸勢乗るべき事。
三 船頭の外、高声禁制の事。

 全船に篝火を焚かず、元就の乗る本船にだけ一燈を用いて、他の船はこれを目標に航行せよ。掛け声・櫓拍子等は一切これを禁止すると云うものであった。

 七ツ時に食事が終ったあと、全軍に三日分の兵糧が配られた。兵糧は餅一袋・焼飯一袋、及び米一袋である。これを各人腰に付けるものである。

 また、搦め手攻撃の本隊には、山道を登らなければならないと云うことで、特に水筒の携帯が命ぜられた。その外侍も足軽もすべて襷を掛け手拭で鉢巻をし、各人柵の木一本、縄十尋づつ準備することを命じられた。
by hirosan_kimura | 2009-03-01 05:12 | 出来事事件 | Comments(0)

№78 厳島合戦(1)

e0125014_17293220.jpg 弘治元年(1555年)の八月二十一日に陶晴賢が厳島に進駐後、毛利元就は二十三日に鰆浜の火立岩附近を巡視し、二十四日に吉田勢が草津に勢揃いした後、二十八日には火立岩上の灰床山に再移動した。

 軍勢は地御前神社の北側谷あい、もしくは田屋浦に隠されていたものと推察される。この日に待ちに待った、応援の村上水軍三百艘が駆けつけた。

 二十九日朝までに軍の方略を協議した。攻勢部署は
①毛利軍は海山を越えて、厳島神社裏の陶軍の背後に向かう。
②小早川軍は船で陸岸沿いに大野水道に出で、途中で反転して神社前で 陶軍船団に割込み、陶軍本部の 前面に向かい攻撃する。
③村上水軍は大野水道を越え陶軍の退路を断つ。

 行動は二十九日の夜陰に開始し、戦闘開始は十月一日の日の出と同時にすることと決まった。

 九月晦日、元就はそれまでの本陣のあった火立山から、田尻の運勝の鼻海岸線に全軍を移し、七ツ時(午後四時頃)に夕食を採り、酉の刻(午後六時頃)全軍に出陣するよう命じた。

 この日元就は、朝から毛利氏直属の水軍である河ノ内警固衆を呼んで、厳島渡航の密命を伝え廻船の用意をさせた。船一艘に水夫三人宛、一艘五十人乗りとして四千人を運ぶ八十艘の廻船が必要であった。

 船は近年諸所の廻船を切り捕ったものがあり間に合ったが水夫が足りず、飯田越中守が浦々島々に早舟を出し駆り集めた。

 佐西郡では山あがりしている者まで、駆出されたと云われる。
by hirosan_kimura | 2009-02-28 04:16 | 出来事事件 | Comments(0)