素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:伝説民話( 16 )

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 今から四三二年前(弘治元年)毛利元就と陶晴賢の間で宮島をはさんでの合戦がありました。毛利の軍勢は対岸の宮島を攻めるために、阿品に兵力を集中させて上陸を企てました。現在、田尻に工事中の土屋病院の所に、その当時ーいたみがくぼーと言う地名があり、ここに毛利の陣屋がありました。

 今は団地に造成され残っていませんが、小さい川が海へ注いでいた所に下がトンネルになった小山がありました。このトンネル山から対岸の宮島の大元まで届く藁縄(わらなわ)を阿品の農民に作るよう毛利軍が要求してきたそうです。この縄を深夜たぐりながら、何隻かの舟で武士を宮島に運んで上陸を企て、途中の海上で戦いが行われました。その時、多くの武士が戦死し、死体が潮流によって阿品の海岸に流れ着きました。

 現在、阿品陸橋の掛かっている山が昔はーじんねい端ーと呼ばれており、また阿品公民館の裏あたりは明治10年頃までは、大洲と言う地名になっていました。このくぼみに死体がたくさん流れ着きましたが、その当時は阿品の平地はほとんどが海であったそうです。

 この山伝いに物もらいのお坊さんが通りがかり、現在、おしえ地蔵がある所の山へ藁屋根のお寺を建て、多くの武士を葬むったと言うことで、この山は今でも寺山と呼ばれています。阿品地区には現在でも山裾に当時の墓(五輪塔)がたくさん存在しています。
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 フジタウン造成工事のとき、これらの墓を集めフジタウンの西側へ廿日市町が供養の合碑を建立しています。その他、現在五か所に墓が残っているのを確認しています。                    中山龍三記

昭和62年3月31日発行 「さんさん阿品」第6号より抜粋
by hirosan_kimura | 2015-06-26 15:39 | 伝説民話 | Comments(2)
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 阿品の地御前寄りの沖島は現在では開発されかつての面影はないが、海辺に突き出た小山にも関わらず鬱蒼と木々が繁り美しい景観であった。

 山中には栗の木があったり季節には「あけび」なども熟し、小学校の帰りには山に登って遊んだりもしていた。麓の海岸には「あさり」や小魚などもたくさん居り、これらを夢中で獲った記憶も残っている。

 この山の海側の岩肌は、海水に浸食され小さな洞窟が出来たり複雑な地形となっていた。その小さな洞窟の一つに「岩国通し」と呼ばれる洞穴があった。
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 沖島周辺は国道や広島電鉄軌道敷設のため海が埋め立てられ陸続きとなっている。
 地御前神社から阿品方面に向かう絵図を見てみると、国道と電鉄軌道が交差する辺りにすでに細い道が通っておりかなり昔から沖山は陸続きになっていたようである。

 しかしこの地が「沖島」となっているので遠い昔には狭い海を挟んで独立した島であったのだろう。海砂が海流で移動し埋め立てられ自然に島が陸続きになったのかも分からない。また狭い海峡を人の手で埋め立てて陸続きにし、人の歩く道を作ったのかも分からない。
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 「岩国通し」と呼ばれた岩穴は沖島の先端に近い場所にあったらしい。この岩穴は入り口部分は高さは2~3㍍あったが、幅は人がやっと通れる程度しかなかった。奥行きも数㍍程度しかなかった。狭くなった奥に小さな穴があったが人も入れずその穴の奥行きがどの程度あるのか確かめようもなかった。

 昔からの言い伝えでは、この穴は岩国まで続いているので地元では「岩国通し」と呼んでいた。なぜこの岩穴が岩国まで通じていると言われ始めたのかは分からない。

 昔の人は確かめようも無いこと、不思議なことがあれば様々なことを想像し作り話を言い伝えてきたが、この「岩国通し」も誰かが根拠のない想像で作り上げたものがあたかも真のように伝わってきたのであろう。作り話にしても何故「岩国」の地名が出たのかが調べようもない。

 古い阿品では大人でもこの話を信じている人も有ったようであるが、まして子どもたちはこの穴が岩国まで通じていると思っていたらしい。

 小さい頃からこの話を良く聞いていたが半分は疑問・半分はひょっとしたら本当のことだろうと思っていた。今の子どもたちに話せば一笑に付されるであろう。

 昔から言い伝えられてきた不思議な「岩国通し」であるが、この話を知っている人は阿品でもほとんど居なくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2014-10-24 14:58 | 伝説民話 | Comments(0)
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 №654で紹介した「阿弥陀坊」のすぐ南寄りの谷は「神馬の窪」と呼ばれていた。その右側の海に突き出た山裾は「じんねいばな」とも呼ばれていた。神馬とは厳島神社の神馬でかつては厳島神社で大切に飼われたいた白馬である。

 厳島神社入口すぐ傍に「神馬舎」があるが、数十年前まではここで白い白馬が飼われていた。その神馬が言いなくなってからは造り物の馬が展示されていた。

 この馬が生存していた頃には、毎年旧暦5月5日に行なわれる地御前神社で行なわれる御陵衣祭に、厳島神社から地御前神社にこの神馬が連れて来られていた。

 この神馬は厳島から宮島口までは船に乗り、宮島口から地御前神社までは国道沿いを歩いてきていた。毎年この日には午前中は地御前に向かって、祭りが済むと宮島に向かって我家の前の国道を白装束姿の人に引かれてポッカポッカと歩く姿を目にしていた。この白馬を阿品では「じんねんさん」と呼んでいた。

 御陵衣祭は「うまとばし」と言っていたが、流鏑馬で走る馬は別にいて「神馬」はお祭りの儀式のために連れてこられていたようである。

 いつの時代か分からないが地御前神社に向かう途中に白馬の乗った船が嵐で沈み、白馬は溺れて死んだそうである。白馬の遺体は阿品の海岸の山裾に埋葬されこの地を「神馬の窪」と言われるようになった。

 夏の夜などに年寄りから子どもたちは恐ろしい話を聞かされていたが、「神馬の窪」の話も良く聞かされていた。夜の暗いときにこの附近を通りかかると、この馬の亡霊が「ヒヒーン ヒヒーン」と泣くのでこの近くを夜に通るのが恐ろしかったそうである。

 本当に馬の幽霊が出ていたのか単なる作り話かは分からないが、阿品の人に言い伝えられてきた話である。

 今ではこのあたりの谷は造成され住宅地となり、夜に馬のいななきを聞くことも無い。いつの頃か厳島神社の白馬も目にすることも出来なくなった。御陵衣祭りでは道の両側の露店を蹴散らかして馬が走り抜けるような勇壮な姿も見られたが、今ではこのような光景も目にすることも出来ない。
by hirosan_kimura | 2014-10-01 12:34 | 伝説民話 | Comments(2)

№620 地御前の伝説

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 昭和16年に発行された「神武天皇聖蹟誌」に地御前の伝説と言う項目がある。

 {芸備国郡誌「挨宮恐謂地御宮乎」芸藩通史巻二安芸国古跡考埃宮の條に「或は埃宮を佐伯郡地御前社とする説あれど何の據も見えず」とある以外に同村並に飯田社家にも何等伝所がない。

 厳島神社禰宜野坂元定氏の談に據(よ)れば、現在神社の西側にある極めて狭小の入江があるが、之は有府(ありふ)之水門(みなと)と称し、これ即、神武天皇埃御着岸地なりと、今此水門は鉄道と宮島電車軌道に挟まれて東面する長さ約廿間幅員約十間、深さ六尺程度の楕円形を為しているが昔はやゝ西方に擴(ひろが)り二倍大であったと言われるに過ぎない。

 半ば磨滅した説明標に「旧六月十七日厳島管絃祭の当日御座船渡御の時風波高ければ此水門に繋船す」と読得が、今は勿論、かかることは不可能で、今の繋船場所は社殿の東前海岸で、玉の池と言う所で行なわれる。}

 日本書紀に記されている神武天皇東征の際の行宮の地は、今では安芸郡府中町と言われているが地御前神社との説もあるが何等根拠がない。

 神社西側の有府の水門は鉄道と電車線路に挟まれているが、かつてはこの二倍程度の広だがあり管絃祭りの際風雨が激しいときはこの港に管絃船を繋いでいたと説明されている。

 上図では「有府の水門」の様子は分からないが、海上の鳥居の前には「玉の池」が描かれている。
by hirosan_kimura | 2014-02-22 12:05 | 伝説民話 | Comments(0)
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 その昔、地御前の漁師の間で不思議な信仰があった。それは「船霊(ふなだま)さん」と呼ばれていた。地御前の浜で作られた船には船霊さんを納めていた。船霊さんは船の守護神として信仰される神様であるが、「船神(ふながみ)」さんとか「おふなさま:と呼ぶ人もあった。

 船霊さんは時化(しけ)や不慮の事故による災難や、大漁などを前もって船頭さんに知らせてくれる神様である。

 地御前では新しい船が造られると船おろしの儀式が行なわれていたが、その儀式の前に船霊さんを新造船に納めていたがこれを「お性根(しょうね)を入れる」と言っていた。

 船霊さんは、男女ニ神・サイコロ二個・五穀・一文銭十二個を小さな箱に納め船の胴梁の中央に納めていた。ご神体は紙を二つ折りにして作り、五穀は米だけを少々入れていた。一文銭はその年の月の数だけ入れるので閏年には十三枚いれていた。サイコロは船大工が余り木などで作っていた。その数字は波が穏やか魚がたくさん獲れて荷が一杯になるようにとの願いが込められていた。

 船霊さんは鈴虫の鳴くような声で、時化(しけ)や災難の前兆の時は激しく、大漁の時は機嫌よく鳴かれるそうである。そしてその声は昼間より夜の方が良く聞こえていたそうである。船霊さんの鳴き声は誰にでも聞けるものでなく船頭か船主だけに聞こえるそうである。船霊さんの鳴き声で吉凶を判断できるのは、長年の経験と勘によるもので船頭の力量にによると伝えられていた。

 また、船霊さんは漁の時だけでなく船頭さんにまとわり付いて、船を降りても付いて来られることもあったそうである。

 不思議な信仰であるが、今でも地御前の漁師さんの間でこのような信仰が残っているのであろうか。
by hirosan_kimura | 2014-01-28 12:27 | 伝説民話 | Comments(0)
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 ブログ№24で紹介したが、かつて田尻沖の海中に「十兵岩」と言う大きな岩があった。泳いでいた子どもが大きな蛸に体を巻きつけられ、この岩の穴に引っ張り込まれ亡くなったと言う伝説の伝わる岩である。

 今ではこの岩は住宅団地造成の為壊されてしまったが、岩があったのは田尻沖の海中であった。阿品は昔、田尻・阿品・鰆浜と三つ大字が有った。上の絵図では田尻が広く描かれているが、一番広いのは阿品で次に鰆浜、田尻は一番狭かった。

 田尻沖にあった十兵岩であるが、昭和53年に廿日市町教育委員会発行の「「廿日市の民話伝説」では「鰆浜の十兵岩」と紹介されている。その後発行された廿日市町広報の「ふるさとの民話と伝説」シリーズでも「鰆浜の十兵岩」と紹介されている。

 せめて「阿品の十兵岩」とでも紹介されていれば、岩の有った場所が田尻と阿品の境界沖でもあるし、「№18 広い阿品・狭い阿品」であるように、田尻・阿品・鰆浜を包含して広い意味での阿品と称していたのに思う。

 なぜこのようなことになっているのかは分からないが、阿品地域に精通していない人が聞きかじりで「鰆浜の十兵岩」と記録したのであろう。せめて地御前の人が拘わっていればこのような間違いは無かったであろう。

 地域に詳しく無い人が上記の記事を見れば、昔鰆浜に十兵岩が有り今では消滅してしまったと解釈し、間違って後世に伝わって行くものだろう。こうして歴史は伝わって行き、いつしか間違ったことが本当のことの様になって行くのかも知れない。
by hirosan_kimura | 2013-09-29 12:20 | 伝説民話 | Comments(5)
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 「№418 運勝の鼻」で紹介したが、阿品の言い伝えでは厳島合戦の際、阿品の農民が総出で長い荒縄を綯い田尻海岸の運勝の鼻から対岸の宮島まで縄を渡し、毛利軍は夜陰にまぎれてこの荒縄伝いに船を渡した。
 
 また阿品の山々の峯に肥田子をたくさん並べそれに肥松を燃やし篝火とし、対岸の宮島の陶軍にたくさんの毛利軍が対岸に待機しているように見せかけたとの言い伝えが残っている。このことは大正14年の「地御前村基本調査」にも記録として残されている。

 しかし、何時も疑問に思っていたのは厳島合戦があったのは今から450年前で当時の阿品には僅かの農家しかなく、農家が総出で荒縄を作っても対岸の宮島まで届く長い縄を作ることが出来たのか。毛利の大軍が阿品に待機していることを見せかける篝火を燃やすほどの肥田子を、僅かの戸数の農家が持っているなど考えられない。

 また、別の説では荒縄は地御前の漁師が漁に使うための縄を集めたもので、この功績により地御前の漁業者は毛利元就より見渡す限りの漁業権を与えられたとの話も残されている。

 この話をある時、宮島の歴史に詳しい大学教授に確かめたことがある。大学教授の話によるとそのような説は聞いたことも無いし、数多く残されている文書にもそのような記録は無いとのことであった。

 厳島合戦の際、毛利軍は嵐の中を「火立岩」を出陣し大回りをして敵軍の背後の包ケ浦に上陸した①。またもう一軍の小早川水軍は敵軍に分からないように火立岩から陸沿いに船を進め、大野の先まで大回りし敵軍陣地の塔の岡前まで船を進めている②。

 幾ら夜陰で嵐の中ととは言え、わざわざ敵軍に発見されそうな真正面から軍船を乗入れることは、誰が考えても有り得ないことだとのことであった③。

 聞いてみれば成程と思われるが、阿品や地御前での言い伝えや村の記録にも残されているのか不思議な話である。真相はどうなのであろうか。
by hirosan_kimura | 2013-09-28 11:49 | 伝説民話 | Comments(0)

№566 えんこう

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 夏休みの残り僅か3日となってしまった。真面目に宿題をしなかった子どもたちは今頃必死で宿題を片付けているのかも分からない。

 かつての阿品では夏休みになると、海に野山に子どもたちの歓声が一日中続いていたが、今では夏休みでも町中はひっそりしている。子どもたちは一日中どこで何をして遊んでいるのか不思議に思う。

 今では海で泳ぐことは禁止されているのであろうが、昔は一日中海で遊んでいた。泳いだり釣りをしたり砂浜で貝を掘ったりして飽きもせず海で遊んでいたものである。

 海で遅くまで泳いでいたり、盆を過ぎて泳いだりしていると親に良く「えんこう」にさらわれるとか肝を取られるとか言って脅されていた。

 「えんこう」は「猿猴」のことで河童の異名で中国地方西部で呼称されている。伝説上の動物であるが、「えんこう」が泳いでいる子どものお尻から手を突っ込んで肝を抜くそうである。

e0125014_11283081.jpg 広島には今でも「猿猴川」「猿猴橋」と言う地名も残されている。

 高学年になると信じる者はは居ないが小さな子どもは本気でそのような動物が居るものと信じ、親から「えんこう」にさらわれる。「えんこう」に肝を抜かれると脅されると恐ろしかったものである。

 今の子どもは少々のことは本気にしないであろうが、昔は架空の話や幽霊の話などをして子どもが悪いことや危険なことをしないよう子どもに言い聞かせていたのだろう。

 子どもが暗くなるまで海に居るのも危ないし、盆を過ぎて海水の温度が下がって泳ぐことは風邪を引くことのないよう「えんこう」が出ると脅かしていたのだろう。

 今のこどもに「えんこう」と言っても何のことか分からないし信用もしないであろう。むかし阿品でも使われていた「えんこう」と言う言葉を聞くことも無くなった。

 その他に夜遅くまで遊んでいると「ことり」にさらわれる。ことりは肝を薬にするため子どもをさらって肝を取る人のことで小さな頃は「ことり」の言葉も恐ろしかった。「ことり」は「子捕り」か「子盗り」ではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2013-08-29 12:00 | 伝説民話 | Comments(2)
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 「北の子の星」とは北極星のことで、地球上から見るとほとんど動かず古代より方位を見定める目標に利用されてきた。この星について地御前では次のような伝説がある。

 昔、地御前に熊野屋徳兵衛という千石船の船頭がいた。日本海を航海して北海道から昆布や鰊を積込んで処々方々に売っていた。彼のことを人々は「きたまい」の人と呼んでいた。

 徳兵衛の航海中、彼の妻は二階の天窓からさし込む「北の子の星」の明かりで機(はた)を織っていた。ある日妻は徳兵衛に「あなたは何を目印に「きたまい」をなさるのですか」と聞いた。彼は「それは動かぬキタノネノホシを目印にする」と答えた。

 妻は「あのネノホシはわたしがためしたのに、二階の天窓で一寸角動いています」と言ったという。

 この話は「安芸国昔話集」などの著書がある磯貝勇氏が各地で伝説を収集していた際、偶然 地御前村のある少年より聞いたものである。

 北極星は古代より真北の天空で微動もせず航海中の目印とされてきたが、正しくは真北の方向から少しずれていて、北極の周りを小さい円を描いて動いている事実を物語るものである。

 世界でも珍しいと言われるこの伝説が、地御前の村で始めて発見されたらしい。この伝説は当時話題となり、昭和30年9月5日付けの中国新聞に掲載された。

 また星の伝説研究の大家「野尻抱影氏が、「新青年」と言う雑誌にこの伝説を紹介され全国の星仲間の話題を奪ったそうである。

 ちなみに地御前のある少年とは、今は亡い私の従兄の一人である。
by hirosan_kimura | 2013-01-18 11:09 | 伝説民話 | Comments(0)
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 昔阿品のある人が、狐の巣穴の前にあった木をうっかり切ったそうである。その人は狐に悪いことをしたと思ったが、「これで巣穴の前が明るくなり、邪魔な木が無くなり出入りも見易くなっただろう」とそのまま帰ったそうである。

 その晩、その人の家の天井から狐が「家の戸を薪にするために売って、そのお金で宝くじを買え」と言ったそうである。

 その人は、巣穴の前の木を切った恩返しに狐が教えてくれたのだろうと思い、家の戸を売って宝くじを買ったそうである。

 しかし宝くじははずれだったそうである。

 また狐が来たので、「宝くじははずれた」と狐に文句を言うと、狐は「入口の戸が無くなったので家の中が明るくなり、出入りも見易くなっただろう」と言ったそうである。

 この話は「日本昔話」にも似たような話があるそうである。昔話にある人の姓と、この話が伝わる家の姓が偶然同じなので「日本昔話」の話が阿品の話として,その家にだけ言い伝えられているのかも分からないそうである。
by hirosan_kimura | 2011-02-20 11:42 | 伝説民話 | Comments(0)