素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:行事祭礼( 22 )

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 毎月第三土曜日は「ふれあいサロン」開催日。昨年2月に準備を始め、昨年10月にやっと開催出来ることが出来た。

 スタッフは6名いるが皆素人ばかり。他のサロンでは新しく開催するところは、よそのサロンを見学に行き参考にするが、ここでは他のサロンは参考にせず、出来る範囲でスタートしてお年寄りの意見を聞きながら充実して行くこととした。

 最初は戸惑うことばかりであったが、4回目となるとまあまあ何とかスムースに進行できるようになった。

 事前にチラシを配布して参加を促すが、相手がお年寄りであり、忘れていた、風邪を引いた、腰が痛い、寒いので外に出たくないなどの理由で、三分の一くらいの参加であった。

 それでもスタッフ等を含めて20名。踊りもあり会場が狭いので丁度良い人数であった。

 スタッフは開始30分前に集合し、集会所の鍵開け、会場の設営、受付、茶菓の準備、講師の出迎え等を分担し準備を行う。

 1時30分から開催し、先ず軽い健康体操・童謡を手拍子取りながらみんなで合唱・それから余りきつくない踊り。

 今回は宮内から賑やかなおばさんたち4名が指導に来られ、面白くおかしくみんなで踊る。足の不自由な人は椅子に座ったままで手を動かすのみ。それでもみんな楽しかったと喜んでもらった。

 会場が狭いので、他の人にぶっつからないような踊りであったが、それでも皆さん満足されたようである。

 踊りが済むと簡単な茶菓子で自由におしゃべりをする。このなにげないおしゃべりも好評である。

 今回は踊りの指導に来て頂いた方が甘酒を提供して下さった。ぜんざいを用意しようと思ったが、お年寄りが餅を喉に詰まらすといけないので、甘酒にしたとの気の使いよう。ありがたいことである。

 会の運営は一回100円の負担。勿論スタッフも負担する。これで簡単な茶菓子や消耗品その他賄なわなければならないので、中々厳しいものがある。最初だけコミュニティより一万円の補助。三年間は社協より36、000円補助。但し今年度は年度途中の発足であり18,000円。

 補助金の無くなる4年目からはどうなるか心配である。講師等への謝金・車代など払えず全く無報酬。それでも毎回ボランティアで協力して頂いている。

 3時過ぎまでおしゃべりをし、お年寄りを送り出し会場の後片付け清掃を行い反省会を行う。今日の反省・次回の内容等を話し合う。全てが済んで集会所の鍵を閉めるのが4時過ぎ、ホッとする瞬間である。
by hirosan_kimura | 2010-01-17 15:24 | 行事祭礼 | Comments(0)

№286 とんど

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 昨日は阿品地区の「とんど」が行われた。場所は「県立地御前病院」の跡地。午後3時の点火であった。
 とんどの由来等は№31で紹介している。

e0125014_1414583.jpg 昔の注連飾(しめかざり)は燃やすと自然に帰るものばかりで造られていたが、今は針金や燃やすと有毒なビニール類がたくさん使われている。まず針金が使われていないかチェックを受け、小さな針金も取り外される。

e0125014_1415121.jpg 年男・年女の人が点火。










e0125014_14252230.jpg やがて大きく燃え上がる。





















e0125014_14323691.jpg 数本あった竹の最後が燃え折れて、やっと餅を焼いたりする。










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 餅を焼くには残り火の上に置く必要があるが、熱くて近寄れないので様々の工夫がしてある。直接残り火に接しないよう網の下に台を付け、上に針金で引っ掛けるようにして、長い竹の先の針金に鉤を付け残り火の上に置くようにしたもの。
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 竹の先を割り鏡餅を挟んだもの。
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 長い竹の先に針金をくくり引っ張る人もあるが、これは昔ながらの作り方で蔓を使用して居られる。このような工夫をされる方は今では少なくなってしまった。
e0125014_14361091.jpg 長い竹の先に金網をつけたもの。
 





e0125014_14363551.jpg 大半の人は餅を焼くだけであるが、これは餅と海老とスルメを焼いておられ、みんな羨ましがっておられた。
by hirosan_kimura | 2010-01-11 15:35 | 行事祭礼 | Comments(0)
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 昨晩は阿品地区新年互礼会があった。阿品台は昼の12時からであったが、阿品は夕方の6時から。

 参列者は62名であったが、会場が狭いので立食形式。阿品台ではそれぞれの配席が指定されていたが、阿品では自由席。

 そのため各自が自然と親しい者同士でテーブルに着くので、話も弾み和やかな雰囲気であった。生まれた時からの知り合いで、思いがけない昔の話が出たり、あっと言う間の2時間であった。

 出し物は佐方地区より来て貰った獅子舞であった。紹介された4人の中の一人が、今から30数年前に保育園に在園していた子どもで、年令は40歳前くらいであろうが、顔をよく見れば何となく幼児の頃の面影が伺えられる。

 その人の両親も知っているが、今は亡いお祖父さんも良く知っていた。不思議な縁にめぐり合わせた一日であった。
by hirosan_kimura | 2010-01-10 13:14 | 行事祭礼 | Comments(0)
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 昨日は、正午より阿品台公民館で「阿品台新年互礼会」が開催され参列した。

 参列者は81名であった。市関係者・市議会・県会・国会議員他地元関係者多数である。

 この時期は各地で互礼会が行われ、各議員は掛け持ちで忙しく、挨拶が済めば次の会場に行かれる人、他の会場に参加し遅れて来られる人と相変わらずであるが、今年は例年と変わり雰囲気が何となく違う。

 政権交代により、野党と与党が入れ替わり、これまでの主役が脇役のようであり、脇役だった人が主役になり、挨拶の中にも微妙にその立場が現れる。

 去年までは現職議員であった人が落選し、挨拶されても気の毒なようである。

 表面上は和やかに見える会も異様な雰囲気であった。
by hirosan_kimura | 2010-01-06 06:11 | 行事祭礼 | Comments(0)

№221 秋祭 2

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 本日は、阿品の氏神様「岩鏡神社」の秋祭りが行われた。本来は旧暦10月19日であるが、現在では10月の第二日曜日に行われている。

 祭礼は午前7時から行われ、神主の祝詞奏上から始められた
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 次に巫女舞で、今回は「浦安」と言う舞であった。

 巫女さんは本職の人でなく、一人は一般成人の人。もう一人は廿日市西高等学校三年生の学生であった。
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 巫女さんの舞に続き玉串の奉奠。神主に続き、神社総代・氏子総代・とうや(当屋?)・一般参拝者の順で行われた。

 その後、神主により安坐と御幣、及び神主の服装についての簡単な話があった。

 安坐とはゆったり座ることで、胡坐(あぐら)のことである。胡坐は無作法な座り方と思っていたが、胡坐にも作法があるそうである。

 目上の人や上座に、足の裏を見せないように座るのが正しく、足を組む時は外側の足の裏が、上座に来ないようにするのが正しいそうである。

 御幣であるが、普通は四垂れが多いが八垂れもあること。注連縄に垂れ下がっている物を御幣と勘違いしている者あるが、これは御幣でなく「しで(紙垂)」と言われるものである。

 御幣は神前等にあり、串に垂れ下げられた物を指すとのことであった。

 神主の位には特級と一級~五級まであり、等級によって袴の色や文様が異なること。特級は県内では厳島神社・速谷神社など四人しか居られないなどの話があった。

 神事は約一時間ぐらいで終った。その後、神前にお供えされていたご飯を、一口づつくらい頂き、直会(なおらい)に入った。

 例年なら、祭礼が済むと神輿の準備をしたり、神輿を担ぐ子ども達がたくさん集まり、神社周辺は大賑わいとなる。

 今年は阿品台西小学校が新型インフルエンザのため学年閉鎖となった関係もあり、神輿が中止となり寂しい限りである。

 神輿は以前大雨のため一回中止となったことがあるが、このようなことで中止になった例は無いそうである。
by hirosan_kimura | 2009-10-11 09:48 | 行事祭礼 | Comments(0)

220 秋祭 1

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 明日は阿品の氏神「岩鏡神社」の秋祭りが行われる。
 
 数日前に注連縄(しめなわ)の縄と、注連縄飾りの作り方を記入したチラシが配布された。

 注連縄は神聖な場所に、穢れや災禍などの侵入を防ぐために張られるものである。

 一昔前まではすべての家庭に注連縄を張っていたが、新しい家の多い今では半数以上の家庭に張ってない。

 注連縄の意味が分らず張らないものであろうが、昔からの風習を子ども達に伝えて行きたいものである。

e0125014_10124876.jpg 一週間前くらいに町内の入口に幟が立てられた。

 折角立てられたのに、台風が来ると言うので倒されまた立て直された。高い幟を立てるのは大変で、役員の方にはご苦労なことである。

 毎年、祭前日の朝には獅子が廻って来るが、今年は来ないようである。

 部屋をくるっと廻って、獅子の口をぱくっと一回あけるだけのことであるが、世話をする人が居ないのか、ご祝儀の集まりでも少なくなったのであろうか。

 こうして昔からの風習が少しづつ廃れて行くのであろう。
by hirosan_kimura | 2009-10-10 10:52 | 行事祭礼 | Comments(0)
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 昨日は阿品台の敬老会があった。例年なら敬老会に近い日曜日に行われるが、連休や小学校・保育園の運動会等と重なり、10月にずれ込んだ。

 会場は、日赤看護大学の学生食堂を借用し行われた。75歳以上の対象者849人の内285名の方が参加され、出席率は33.5%で対象者の三人に一人の参加となる。

 民生委員の役割は、出欠の確認・金曜日に行われた会場設営の手伝い・当日の手伝い・欠席者への記念品の配布等であるが、式典を企画・準備・当日の進行等をされた役員の方の気苦労は大変であったろう。

 廿日市の敬老会は、平成10年までは各小学校区毎に11箇所で行われていた。しかし対象者の増加ととともに、公民館等の会場も狭く対応しきれなくなった。また、敬老会を運営する地区コミュニティ等から地区主催には限界があり、市の責任で行って欲しいとの要望も挙がってきた。

 そこで平成11年度より市主催とし市全体を対象とし、スポーツセンター一箇所で行うこととなった。 対象者4,086人 参加者1,301人であった。

 しかし、各地区で行っていたのと異なり会場も遠くたくさんのバスを借り上げたり、会場も広すぎ後ろの方からは舞台も離れすぎ、催しものも遠すぎて良く見えないなど不評であった。

 平成14年度には対象者4,952人と4年間で21%も増加したが、出席率は下がる一方であり、平成15年度からは再び各地区での実施となったものである。

 敬老会は終戦後、兵庫県のある町の町長の発案で始まったものらしい。当時の高齢者は元気な内は働きづめで、老衰で働けなくなっても孫の守くらいで楽しみも少なかった。

 年金制度・医療制度を始め、今のような見るべき高齢者に対する福祉制度も無かった。こうした中、日本の発展のため働きづめの高齢者に感謝するため、暑さも一段落し、稲の収穫等で農作業が忙しくなる前の9月中旬を選び、高齢者を慰労するためのものであった。
 
 今では、高齢者に対する制度も充実され、元気な高齢者は金銭的にも余裕があり、旅行に趣味にと若者達が羨むほど、大半の高齢者は充実した生活を送っておられる。

 高齢化が急速に進んでいる現在、高齢者を大切にし敬うことは大切であるが、そろそろ敬老会のあり方を見直す時期に来たのではなかろうか。

 敬老会の参加者は対象者の3分の1のみ。むしろ、病弱等で参加できない方への配慮を中心とした方法へと切り替える必要があるのではないかと考えるものである。
by hirosan_kimura | 2009-10-05 06:33 | 行事祭礼 | Comments(0)
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 7日金曜日は厳島神社の管弦祭であった。御座船が厳島神社から地御前に渡る頃を見計らって、海岸に見に行ってみた。

 例年の如く寂しい限りで、御座船を取り巻く船は十数隻。海岸から見物している人も数人のみ。

 昭和40年代の始め頃までは、御座船の周りを数百隻の船が取り囲み、海岸端にはギッシリと見物人があったものである。
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 毎年管弦祭りが近づくと、数日前から瀬戸内海の島々から遠くは四国の方から、家族ぐるみで漁船に乗り込み船に泊り込み自炊をしながら、祭りに備えていた。

 その数は数え切れないほどで、神社を中心に西の松原から小学校の方までギッシリと埋め尽くしていた。

 漁業を営む人達が、厳島神社に安全祈願をするためと、楽しみの少ない時代の数少ない娯楽でもあったのだろう。

 その漁船が、御座舟に付いて地御前沖まで伴をしていたので、御座舟の運行のみでも圧巻であった。

 管弦際は旧暦の6月17日に行われるので、地元ではこの祭りを「十七夜(じゅうひちや)」とも「おかげんさん」とも呼び、子ども達はこの日を心待ちしていたものである。

 4年に一回うるう年があり2月に1日 日にちが追加されるが、旧暦では「うるう月」があり今年は5月が二回あったため、管弦祭が8月になり遅くなったが、例年では学校の夏休み前のことが多い。

 子どもの頃には管弦祭の日は小学校が昼までで終っていた。下校途中に地御前神社の境内を通って帰宅するのに、道の両側をギッシリと屋台が埋め尽くし、中には早々と営業をしているものもあった。

 わくわくする気持ちを抑えながら急いで家に帰り、昼食を済ませて僅かな小遣いを貰いお祭りに行くのが楽しみであった。

 夕方が近づくと厳島神社にお参りするため、国道の下りは渋滞が起き、下り電車も乗客で身動きが出来ないくらいであったが、今では国道も広電もガラガラ。

 御座舟が厳島神社を出発する頃になると、阿品の海岸では見物客で一杯であったが、今では僅かな人が居るのみ。

 御座舟が地御前神社に到着する頃が祭りの最高潮で、地御前神社附近は人ごみで溢れかえっていたが、今ではその頃の面影もない。

 祭当夜は各家々では親戚や知人を招き、子どもはご馳走を食べ、大人はお酒を飲んで楽しんでいたが、今ではそのようなことをする家も僅かである。

 大人も子どもも一年の数゙少ない楽しみの一つでであったが、今では阿品の人でも管弦祭があったことさえ気付かない人もある。

 誠に寂しい限りであるが、昔のような賑わいを取り戻すことは出来ないのであろうか。
by hirosan_kimura | 2009-08-10 01:55 | 行事祭礼 | Comments(0)

№191 原爆記念日

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 本日は原爆が投下されて64年。平和公園では盛大に式典が行われる。

 広島での原爆投下時の正確な犠牲者数は今でも不明で、9万人~12万人、中には14万人との推説もある。

 被爆者健康手帳所持者は236,569人で昨年より8,123人減。手帳所持者の平均年齢は75.92歳で年々高齢化が進んでいる。

 阿品では広島市から遠く離れているので、海岸沿いの家で窓ガラスが割れたり、引き違い戸が爆風で外れたくらいの被害しかなかったが、阿品だけでも数人の死者が出ている。

 そのほとんどが若者で、学校に行く途中での被爆死が多かったそうである。

 一昔前までは老人が集まると原爆の話しがいつも語られていたが、今では原爆の話題が出ることはほとんどない。

 その日の夕方くらいから怪我をした人が阿品にもたくさん辿り着かれ、目を背けたくなるほど全身火傷だらけの人。翌日からは海岸にたくさんの死体が流れ着き、火葬場で火葬するのに間に合わず、海岸や谷間に埋葬したこと。

 子ども心にも恐ろしい話しばかりであったが、今では語り継ぐ人もいない。

 兄も犠牲者の一人で、当日は通学途中 白神社附近の電車の中で被爆したらしい。当日帰宅しないため、翌日は母が一歳にも満たない自分を背負って市内を探し回ったが兄は見つからなかったそうである。

 翌日、地御前の知人より兄が坂町の鯛尾という所に収容されていることを聞き、艪で漕ぐ小船で兄を迎えに行った。

 特別大きな外傷も無かったそうであるが、すぐ隣の吉田病院に入院し治療してもらったが、8月11日に亡くなった。16歳の若さである。

 生前 母がよく、「遺体も見つからない人も多い中で、自宅に連れ帰り病院に入院し、母親や家族に看取られながら亡くなったので、よしとしなければならない」と言っていたが、子どもに先立たれた嘆きはどのようなものであったろう。
by hirosan_kimura | 2009-08-06 05:08 | 行事祭礼 | Comments(0)

№154 馬飛ばし

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  昨日は旧暦5月5日。地御前神社の御陵衣祭があった。地元では(ごりょういさい)と言っていたが、(ごりょうえさい)が正しいのだそうだ。

 また流鏑馬(やぶさめ)の神事があり、子ども達はこの祭そのものを馬飛ばし(うまとばし)と親しみを込めて呼んでいた。
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 2時からは神社では長い長い神事の後、舞楽が奉納された。舞楽は毎年二曲奉納されるが今年は陵王と納曾利であった。舞楽には長い歴史があるが、宮中や特別な場を除いて一地方に延々と伝えられて来ていることは、極めて稀有なことらしい。

 その後流鏑馬の神事が行われるが、今は馬も乗り手も殆どいず、道路もアスファルトで舗装され、形式的な神事に終っている。
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 今では露店も数えるほどしかなく、人出も少なく寂しい限りであるが、昭和30年代頃までは地域を挙げての大イベントであった。

 朝学校に登校する時間には露店の準備が始まっており、授業中もそわそわして勉強が身に入らなかった。当時は馬飛ばしの日は学校は昼までで終っていた。急いで家に帰りご飯を済ますと小遣いを貰って神社に駆けつけていた。

 家々ではご馳走を作りお客さんを招き、大人達は日中にも拘わらずご馳走を食べ、お酒を飲んでいる光景がそこらじゅうに見えた。

 露店は神社から小学校附近まで両側にギッシリと並び、何処から来たのかと思うほど人出があった。

 子ども達は僅かな小遣いを握り締め、駄菓子を買ったり籤を引いたりするのが楽しくて仕様が無かった。
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 今でも忘れられないのは簡単な小屋掛の中で見たろくろ首である。着物を着て座っている女の人の首が伸びていくのを見てビックリ仰天した。

 何のことは無い。座っている人と首の役は別の人で、首の役の人が幕の切れ目から顔を出し、見ている人には分からないように梯子を上がって行くだけであった。

 そのうち流鏑馬の神事が始まる。馬には白馬と茶色い馬がいて、白馬は神馬で厳島神社から来ていた。茶色の馬は近郊の農家から来ていたが、遠い昔には浅野藩から馬に乗る武士と茶毛の馬が差し出されていたそうである。

 今と違って道路は舗装されていず馬が走り抜けたり、的を弓矢で射るのをわくわくして見たものである。

 この地方では子どもの日の祝いは、「御陵衣祭」に併せ旧暦で行っていた。粽(ちまき)やカタル餅を母親が作ってくれるのも楽しみであった。

 家々の屋根には菖蒲と蓬(よもぎ)を束ねたものが乗っており、厄除けとし後は風呂に入れて子ども達の健やかな成長を願っていた。
 
今は寂れてしまったお祭りであるが、昔のように賑わいは取り戻せないものかと願うばかりである。

 北海道に行ってきます。次回投稿は6月5日。
by hirosan_kimura | 2009-05-29 04:47 | 行事祭礼 | Comments(0)