素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:行事祭礼( 22 )

№748 馬飛ばし

e0125014_1241976.jpg
 昨日は旧暦の五月五日のこどもの日であった。例年この日には地御前神社で流鏑馬の行事が行われる。子どもの頃には秋祭り・お正月・管絃祭と並んで年に何回もない楽しみにしている日であった。

 思い出されるこの祭りの日は、小学校は授業は午前で打ち切り、各家では御馳走を作り、神社前にはたくさんの屋台が立ち並び、沿道は人波でごった返し動きもとれないくらいであった。やがて流鏑馬の行事が行われ馬が走り抜け祭りは最高潮を迎えた。

 これらの賑わいは今では夢物語で、6・7軒の屋台・わずかな観客・例年初節句の男の子がお祓いを受けに来ていたが、今年は一人の姿も窺えないような寂しさである。

 何に掲載されたものか不明であるが、古い記事を紹介する。なお写真は昨日撮影したものである。

e0125014_1204494.jpg
 地御前神社では、毎年 御陵衣祭の時、流鏑馬神事が奉納される。御陵衣祭は、旧暦五月五日に端午の節句を祝う祭りで、厳島神社から宮司を迎えて行われる。
 
 この神社は厳島神社の外宮と称され、昔は厳島神社から白い神様と御神体が船に乗ってきて、その神馬を先頭に、白装束の若者が三つの神輿を担いで、参道を歩いたといわれる。しかし現在では、拝殿で初節句の男の子にお祓いをするなどの神事が行われるのみである。  

e0125014_1213252.jpg
 その後、舞楽「後の舞」が納められるが、これは厳島神社で舞楽面陵王をつけて元旦に奉納される「環城楽」「越天楽」で、舞い手も厳島から迎える。

e0125014_123035.jpg
 そしていよいよ、流鏑馬神事である。古式ゆかしい狩人の衣装を身につけた騎手が馬に乗り、まずは客殿の前で天地、東西南北の六方向に厄除けの矢を放つ。その場で馬が三回まわされ、それから参道を三往復する。衣装はすべて昔から使われているもので、笠には「慶長十三年(1608)五月吉日」と書かれており、その頃から行われていたと思われる。当時、安芸の守が私有馬を奉納馬に仕立ててこの神事を行ったのが始まりらしい。

 この地域では、端午の節句に菖蒲と蓬(よもぎ)を束ねて軒に挿して祝う風習があり、端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれる。その菖蒲の読みに勝負・尚武という言葉が掛けられ、流鏑馬神事が行われるようになった。

 地元では「明神さんの馬とばし」と親しまれていたが、馬が居なくなったこと、参道がアスファルトに舗装され馬が走れなくなったことなどから、昭和四十二年を最後に廃止されていた。それが地元住民の熱意で、昭和五十七年六月に十五年ぶりに復活。昔のように馬を勢いよく走らせることはできないが、その勇壮な姿は時代を逆行させてくれる。

 この日にはちまきやかしわもちを食べ、また軒にさしていた菖蒲と蓬を風呂に入れて菖蒲風呂にする風習もある。
e0125014_1221866.jpg
 この「ちまき」は地御前の友人が家で作ったと届けてくれた。子どもの頃には各家で必ずと言っていいくらい粽(ちまき)を作っていた。他の地区では「かしわ餅」を作っていたようであるが、阿品にはかしわの葉っぱが無いのでかたる「サルトリイバラ」の葉で包んだ「かたる餅」を作っていた。かたるをかたらと云うひともある。この粽を包む笹は吉和の方まで採りにに行ったそうである。
 
by hirosan_kimura | 2016-06-10 12:15 | 行事祭礼 | Comments(3)

№746御洲掘神事

e0125014_10315886.jpg
 いつも資料を提供していただいている方から珍しい写真を紹介してもらった。戦前に撮影された地御前神社「御洲掘神事」の写真である。神事の写真は幾種類か目にする機会はあったが、これほど全体像を捉えた写真は珍しい。右端にはかつての海水浴場の飛び込み台も映っている。

 この写真を提供していただいたのは撮影者の孫に当たる方である。この写真はパノラマ写真のようであるが、別々に撮影した三枚をつなぎ合わせたものだそうである。別々に撮影した風景写真ならいざ知らず、動き回るたくさんの人がいる写真をつなぎ目も分からず、一枚の写真に加工する技術は不思議である。

 撮影者の方は明治39年にアメリカに移民として渡り、昭和2年に帰国し広島市の中心部で写真店を営んでおられた。戦争の悪化により昭和17年に写真店を閉鎖し地御前の実家に移り住まれ、昭和40年に76歳で亡くなっておられる。

 昭和20年に原爆が投下され広島は壊滅状態となったが、戦前に撮影された膨大な数の写真は地御前の実家に移されていたため戦禍を逃れることが出来た。7年くらい前にはこれらの貴重な写真が公表され、写真展が開かれたりマスコミを賑わしたこともあった。

 管絃債祭は毎年旧暦の6月17日に行われ子どものころには「十七夜 じゅうしちや」と呼んでいた。当日は神社前も阿品の海岸沿いも、たくさんの観客で溢れかえっていたが今では寂しい限りである。今年の「十七夜」は7月18日に行われる。

 祭りは事前の「祭場整備」の「お洲掘り」から始まる。厳島・地御前両神社前で行われるが地御前側では祭りの二日前の正午の干潮時に、神社前の砂浜を左右に掘り分け、澪木(みおぎ 水路を示すために建てられた杭)を立て、厳島から来る管絃船の着岸を円滑に行うために行う。

 洲掘りの地ならしのため、美しく飾った数頭の牛を近隣から集め、五・六十人が見守る中、村長の指揮の元に行われた。この洲掘りも農耕牛の減少により、今では機械による整地作業となってしまった。
by hirosan_kimura | 2016-06-01 11:40 | 行事祭礼 | Comments(4)
e0125014_103246100.jpg
七月二十日 中国新聞

厳島の管弦祭 二十六日に執行される
電車も開通したので 例年以上賑ふ見込
 
 厳島の管弦祭は来る二十六日(旧六月十七日)に執行されるが、当日は午後六時頃満潮と共に人崎を発し、海上管弦舞楽を催しつつ地御前神社に渡御し、夫より引返し長浜・大元を経て午後十二時頃に還御になるのであるが、今年は電車も新宮島(現在の広電阿品東駅約三百㍍東)まで開通して渡島には非常に便利になっているので、厳島地御前共に例年よりは数倍の参詣見物の人出を予想され、既に厳島三笠ケ濱には急造の売店がギッシリと建てられ、興行物も沢山出来ているが、従って不正商人やチボ(すり・巾着切り)も多数入込むかもしれぬので、厳島署では夫らを警戒厳重取締るべく準備を整えている。
e0125014_10333865.jpg
七月二十七日 中国新聞

宮島管弦祭 二十六日夜神輿還御
人出無慮(おおよそ・だいたい)十万に達す

 厳島神社の管弦祭は廿六日午後五時より菊池宮司以下総員の出御祭に始められ、式後直に御神輿は同神社禰宜の先導で大鳥居の三舸を組合せ美しく装われた御座船に移され、管弦楽の奏楽と共に江波及阿賀の漕船に護られて、満潮の海上を静に地御前に向い地御前火立岩付近で地御前村長外多数のお出迎え向け、奏楽裡に地御前に至り三代〇の〇御当の奏楽あり。

 式後、再び海上を一路長浜に向い〇〇楽が奏せられ、長浜鳥居前で越天楽神事を終え御座船は大元に至り、老君子の楽神事を終わると〇聲の吹奏と共に大鳥居に帰還され、菊池宮司以下の御迎えを受け〇〇〇の奏楽〇〇に客人神社に向かわされ、続いて枡形に入らせられ〇〇〇の奏楽神事後に、御座船は下先に御帰還され〇〇〇の奏楽裡に御本殿に入らせられ、還〇祭の御式を以て午後十一時に〇祭典は終つたが、当日は大〇雨後の快晴であって近郷よりの参拝者は非常な数で、省線の臨時列車増発・瓦電宮島線及連絡船の増発をなして参拝者の便宜を計ったが、殊に今年は瓦電宮島線の地御前新宮島間が開通した為めに、昨年以上の人出があり何れの船車とも鈴なりの人で運びきれず。

 尚四国九州の遠方よりも汽船や船漁船を仕立て渡島し、大鳥居を中心に大元・長浜の海浜はこれらの船で埋まり数千艘に達した。又数日前より参詣する人も多数ありいづれの旅宿も満員で、祭典当時は厳島全町の道に悉く人に埋まり身動きも出来ぬ有様で、午後六時愈々御座船の出発となるや、全島は勿論海上の数千の船は一斉に献灯し、恰も竜宮の現出の如きの大偉観を呈したが緯午後十一時御帰還と共に、流石の厳島も静寂に夜と共に更けて行ったが此日の人出は十萬を超えて居た。
 
 この雑沓を取締る為厳島全署員及同〇〇軍人消防組合等で海上陸上を警戒したが大なる事故もなく済んだ。

註 文中の〇は判読不能部分
by hirosan_kimura | 2015-05-08 14:16 | 行事祭礼 | Comments(0)

№681 じんねんさん

e0125014_112498.jpg

  このブログ№654で「厳島神社の神馬」を掲載したが、今ではこの白馬も居なくなり厳島神社入口の白馬舎に作り物の神馬が展示してあるのみである。厳島神社の神馬は色の付いた馬が奉納されても、数年経つと白馬になると年寄りなどから聞いたことがあるが本当だろうか。

 毎年、地御前神社の「馬飛ばし」の日には、厳島神社の人が白馬を引き連れ阿品の国道を地御前神社に向かう姿が見られた。夕方には地御前神社から厳島神社まで連れて帰っていた。

 阿品ではこの白馬を親しみを込めて「じんねんさん」と呼んでいた。阿品には「神馬のくぼ」「じんねいばな」の地名が残されている。「神馬(しんめ)」が「じんね」となり「じんねんさん」と変わったのかも分からない。

  流鏑馬で走る馬の写真はたまに見掛けることはあるが、この白馬が地御前神社に連れて来られた時の写真でも無いかと探してみたがなかなか見つからなかった。先日、いつもブログの材料を提供して下さる方より白馬が写った写真を提供してもらった。

 写真の場所は、地御前小学校脇の「大歳神社」下の「釈迦堂」の前である。写真を提供して貰った方は昭和初期のものでは無いかとのことであるが、傍に写っている子どもの服装から見ると昭和20年代か30年代のものでは無いかと推測されるが、詳しい年代は分からない。

 この写真を見ると、祭りの朝に阿品の道路を地御前神社に向かい、夕方になると厳島神社に歩いて帰る白馬の姿が思い出される。

 また祭りの日には授業中もそわそわして、学校が終わると沢山の露店や祭り見物の人たちの中を急いで家に帰り、僅かな小遣いをを貰って祭り会場に行っていたことなどが懐かしく思い出される。
by hirosan_kimura | 2015-01-31 11:14 | 行事祭礼 | Comments(5)

№583 雀のご馳走

e0125014_1348648.jpg 毎年暮れになると上平良の農家が作ってくださる注連縄(しめなわ)が届く。小さな家にはにつかわない立派な注連縄である。

 ところが玄関ドアに飾って離れてしばらくすると、数匹の雀が来て飾りの稲穂の籾をついばみ床には籾殻がたくさん散らかっている。籾の中身だけを上図に食べているが器用なものである。

 毎年暮れになると覚えているのか注連縄が飾られるのを覚えているのか、タイミング良くついばみに来るものである。冬の食料の乏しいこの頃、雀にとっては大ご馳走であろう。注連縄の飾られた家をあちらからこちらへと食べまわるのに大忙しである。お陰で稲穂はほとんど丸裸で籾殻のみが撒き散っている。これも雀助けであろうが、もう少し時間をかけて少しづつ食べて呉れればと思う。

 注連縄は神様の占める場所の境界を示すもので、玄関に飾ればこれ以上家の中に不浄なものが入り込まないと伝えられている。

 注連縄は正式には12月23日に飾るのが本当らしいが、現在では年末中に飾れば良いと言われている。但し12月31日に飾るのは「一夜飾り」と言われ避ける方が良いらしい。これは葬儀の前夜を連想し神様に失礼に当るそうである。29日に飾るのは9が苦に繋がるので避ける人もあるらしいが、29が福(フク)読め縁起が良いとされ今ではあまりこだわる必要はないらしい。

 注連飾りを除くのは本来、小正月(1月15日)までとされていたが、現在では1月7日が一般的とされており、それもお日様が力を増す午前中に外すのが良いと言われている。

 外した注連飾りは神社で処分してもらったり、「とんど」で燃やすのが良いとされている。阿品では県病院跡地で行なわれていた「とんど」も今年から行なわれなくなった。

 ごみとして出す場合もそのまま出さず、新聞紙を広げその上に注連飾りを置き、注連飾りに左・右・左・右・左・右と片方に三回塩をふり掛け、そのまま新聞紙に包めばごみとして出して良いそうである。

 しかしこれらの習慣は地方によって違いがあるらしい。

 お正月にはほとんどの家に注連飾りをするのが当たり前であったが、今では飾られない家も結構見られる。またその注連飾りもプラスチックで作られたり、印刷物のものも珍しく無い。いつまでも雀が正月の注連飾りを楽しみに待つ時代が続いて欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2014-01-06 14:43 | 行事祭礼 | Comments(0)
e0125014_12262019.jpg

 №31、№286でも紹介したが1月13日に阿品地区コミュニテイ主催の「とんどが」、鰆浜の県病院跡地で行なわれた。長く空き地となっていた県病院跡地を県が処分するということで、この地での「とんど」は今回で最後となる。

 県立地御前病院は昭和18年9月16日に開設された「教員保養所」が、昭和26年6月1日より県に移管され県立地御前病院となった。教員保養所はどこが所管であったのかわ知らないが、主に結核の教員の療養所でたくさんの教員が入所されていたのを微かに記憶している。

 県立地御前病院は県立病院の再編により昭和42年3月31年に廃止され、県立広島病院地御前分院として残されたが、この分院も昭和47年3月31日に廃止された。

 病院跡地は空き地として残され、以来40年間地域に開放され「盆踊り」や「とんど」地域の行事や高齢者がゲートボール場として活用してきた。一部は県の職員のためのテニスや野球などにも利用された。

 この跡地は約16,000㎡くらいあるが、この間№45でも紹介した山陽自動車道を新設する際、道路予定敷地内の大竹にある精神病院移転用地として計画されたが、地元の強力な反対運動の結果計画が撤回された経緯もある。

 その他の施設への転用が模索されたこともあるが、一定の敷地面積はあるものの国道等への接続が困難で実現に至らなかった。国道へ通じる道路は何箇所かあるものの車の離合も困難な道ばかりである。この地から国道へ最短の道路を拡幅しても出た所には中央分離帯があり左折しか出来ない。

 県は跡地をどのように活用される計画か不明であるが、民間に払下げられ住宅地として開発されるかマンションでも建てられるのではなかろうか。

 いずれにしても長年地域で活用された空き地が無くなることは地域にとっては残念なことであるが、県も財政難の折いつまでも空き地のままで置くと言うことは困難であろう。

 かつての阿品では広い田んぼが広がり、「とんど」をする場所にことかかなかったが、民家が密集した今となってはたんぼで「とんど」をするなど不可能なことである。

 遠い記憶では浜辺の干潮時に海で「とんど」が行なわれた記憶がかすかにあるが、阿品の海も埋立てられ浜辺も一部しか残っていない。残された浜にも牡蠣養殖のひびが設置され「とんど」が出来る広い場所も残されていない。海で行なうには干潮時を利用する必要があり、限られた時間内に準備をしたり、燃え尽きるのを待って餅を焼いたり、後片付けをするのは不可能である。

 長い間、阿品で行なわれてきた風習がまた一つ消えようとしているが、まことに寂しい限りである。
by hirosan_kimura | 2013-01-16 10:22 | 行事祭礼 | Comments(0)

№432 神輿の音頭

e0125014_1059471.jpg
 秋祭りの季節ではないが、先日コメントで昔聞いた「こども神輿」の時の音頭が今でも使われているのか、曲名などを知りたいと言う質問があった。

 勿論今でも引き継がれているが、盆踊りで歌われている歌と同じ歌詞であるが、神輿では節回しが全然異なっているようである。

 どちらとも主に二つの歌が歌われているが、木遣りの「宮島八景」と流しの「春徳丸」がある。

宮島八景
 矢野の入江の釣り船は 宇品の沖にと漕ぎい出す
 江波をさかえに能美島 阿多田が浦をと打ち過ぎて
 はるかに沖をと見渡せば 見ても見事な津久根島
 地から生えたか浮島か ちょいとじかたに渡りては
 黒居の明神伏し拝み 五日廿日の浦伝い
 浦を伝ふて串戸町 地御前神社を伏し拝み
 我は竹子(ちくし)の者なるが 今年初めて宮島に
 されば参詣申さんと 両社に参りて伏し拝み
 (以下、延々と続く)

春徳丸
 今度長崎恵比屋の甚九 甚九もとより小間物売りよ
 今じゃ小間物売りをばやめて 大阪がよいのいとまのだてよ
 船をつくろや春徳丸を 船じゃ七反九反で新造
 荷物ととのえ今日吉日と 明日は日も良し乗り止めましょう
 柱ゆり立て責口しめて いかり繰上げとも綱とりて
 帆をば巻きあげ下関を走る 周防灘をば 首尾よく越えて
 播磨灘をば早やのり越えて 須磨や明石の名所をながめ
 ここは何処かと船頭に問えば 一の谷又兵庫の沖で
 甚九恋風吹き捲くりつつ やあれうれしや大阪が見えた
 (以下、延々と続く)

 盆踊りでは打ち叩かれる太鼓に合せこれらの歌がうたわれ、秋祭りの神輿では軽快な太鼓が打たれ、合いの手に「はーやっとこせー よーいやら あれわいせ これわいせ さーなんでもせー」などの掛け声が入る。

 今では子どもが台車に乗せられた神輿の綱を引っ張りながら、町内を練り歩いているが、一昔前の阿品では青年が中心で、二本の丸太棒に俵を積み重ね榊や紙で作った飾りものがあるのみのシンプルなものであった。当時は神輿と呼ばず「俵揉み」と言っていた。

 秋祭りと言えば大人も子どもも年に何回もない楽しみの一つで、岩鏡神社では一日中人が途切れることも無く、大人たちは酒盛りで賑わっていた。

 当時と比べると秋祭りも静かなものであるが、この風習がいつまでも続いて欲しいものである。
 
by hirosan_kimura | 2012-03-22 11:56 | 行事祭礼 | Comments(1)
e0125014_921762.jpg
 昨日は阿品の氏神様「岩鏡神社」の秋の例祭。朝から子どもたちが東・西に分かれて、かわいい神輿を担いで町内を練り歩いた。今では神輿は子どもたちが担ぎ、その神輿も可愛い物となっている。

 昭和30年代頃までは神輿は青年が担ぐもので「俵揉(たわらもみ)」と言っていた。その名の通り俵を三段重ねその上に飾りつけをしたものを、二本の太い丸太に乗せて阿品の青年が町内を練り廻っていた。

 音頭を執る人の合間に、担ぎ手も大きな声で合いの手を入れそれは勇ましく勇壮なものであった。家々を廻る中には、担ぎ手に冷酒を差し入れ時には酒が廻って、ろれつが廻らなくなったりふざけて無茶苦茶になったりすることも当たり前であった。

 子どもたちはそんな様子が面白かったり時には恐ろしかったりしたが、「俵揉」について廻るのが楽しみであった。

 楽しみの少ない当時としては、大人も子どもも秋祭りは一年の中でも待ち遠しい行事のひとつであった。各家ではご馳走を作り、親戚や知人を招いて大人はお酒を飲んだり終日賑やかであった。

 母の実家が「岩鏡神社」のすぐ傍で、秋祭りには必ずといっていいぐらい行っていた。神社では朝から人の訪問が絶えず、太鼓の音が鳴り響いいていた。

 そのうち阿品では「はな」と呼んでいたが顔に恐ろしい面を被りはでな衣装を着、手には竹の棒を持ち家々を廻って来た。

 今では「はな」は子どもが衣装を着て、おとなしく神輿について廻る程度であるが、当時は若い青年が「はな」になり、若い女性を威嚇して追いつけ回していた。

 特に新婚の花嫁はターゲットにされ、はなに見つからないよう家中を隠れ廻っていた。時には「はな」が家々で酒をふるまってもらい、酔ってへべれけになり無茶苦茶にふざけまわることもあった。

 子どもたちもふざけて追い回されることもあったが、恐ろしさ半分・興味半分で「はな」の廻る後を追いつけまわしていた。あれほど大騒ぎしていた「はな」がどこに行ったか分からなくなり、みんなで探し回ると田んぼの隅で泥酔して寝込んでいたこともあった。

e0125014_934334.jpg 今では秋祭りに家々でご馳走を作りたくさんの人が集まることも、勇壮な「俵揉」も恐ろしい「はな」も、それを追い回す子どもたちの歓声も聞こえなくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2011-10-10 09:48 | 行事祭礼 | Comments(0)

№406 廃れる風習

e0125014_10395413.jpg

 明日9日は阿品の氏神様「岩鏡神社」の秋の例祭である。祭りに先立ち町内全戸に藁縄と紙垂の切り方が配布される。祭りの数日前までには各家では玄関周りに注連縄(しめなわ)を張りめぐらす。

 以前には極当たり前のように各家庭で注連縄を張っていた。しかし祭り前日と言うのに注連縄を張ってある家は三分の一もない。我が町内会は海を埋立てて作られた住宅地。大半は他地区から移り住んだ家庭ばかりとはいえ寂しい限りである。

 古来しめなわは、清浄・神聖な場所を区画するものであるが、各家庭で注連縄を張り巡らすのは、家の中に悪霊を入れず、けがれを去り無病息災・家内安全を願ってのことと言われている。

 なにもかも合理的な考えの現在、単なる迷信・根拠の無いことと注連縄を張る家も年々少なくなっている。注連縄の深い意味もわからず、単なる飾り物としか思われていないのであろう。

e0125014_1041369.jpg 毎年、秋祭りの前日には地御前の氏神様「大歳神社」より神主さんと獅子がやってくる。太鼓を叩きながらやって来るので、遠くから太鼓の音が聞こえてくると、間もなく我家に来るのが分かるので慌てて家の中を片付けて待っている。

 獅子が家に上がり座敷などで口を二三度パクパクとし、玄関先で頭をたれて神主さんより御祓いを受ける。あっという間に済んで仕舞うことだが、大半の家では獅子が来るのを迷惑がり、廻って行く家は数分の一しか無いとのことである。
 
 e0125014_11313277.jpg昔から阿品に伝わる風習もどんどん失われて行く。このようなことで、阿品に住んでいる子どもたちが自分の住んでいる地域に愛着を持ち続けて行く事が出来るであろうか、疑問に思う今日この頃である。
by hirosan_kimura | 2011-10-08 11:39 | 行事祭礼 | Comments(0)

№403 敬老会

e0125014_10591774.jpg
 敬老の日を迎え各地区で敬老会が催されている。阿品地域でも阿品地区と阿品台地区の二ヶ所で行われる。

 廿日市市では平成10年までは、11地区のコミュニティ組織に市が補助金を出す方式でそれぞれの地域で敬老会が開催されていた。

 ところが高齢者の数は年々増加し続け、各地区の公民館では会場が狭く開催が困難となる地区も大半であった。小学校の体育館で開催するにしても、高齢者が行きにくかったり、会場に机などを公民館などから運搬するのが大変であった。

 9月とは言え暑い日であれば、冷房設備の無い体育館での開催は高齢者に不評な地区も大半であった。地域のお世話をする人はたまりかねて、地区での開催は不可能なので市が責任をもって開催して欲しいとの要望が出された。

 市でも何とかしなければならないと言うことで、平成11年から市のスポーツセンター「サンチェリー」で一括開催することとなった。ステージの設置・椅子などの設備を業者に委託し、何十台のバスを借り上げ参加者を会場まで送迎するなど大掛かりなものとなったが、高齢者には不評で、ステージでの催しが後ろの方の席でははるか遠くで何をしているのか見えにくい。

 送迎のバスも何十台の中で帰る方向を間違えられ、参加者が家に帰ってこられないので大騒ぎになった例ももある。こうして一括開催は3年で止めることとなり、すったもんだの挙句現在では地域開催にもどっているが、増加し続ける参加者の対応で各地区とも苦慮しておられるようである。

 阿品地域では二地区での開催で対象者も何百人にもなっているが、昭和28年の地御前村の敬老会では、鰆浜地区が対象者が5人、阿品では14人と併せても僅か19名であった。

 この中には明治3年生まれの父の姉や、明治14年生まれの母方の祖父の名前も見える。

 この年の敬老会は、地御前小学校旧講堂及公民館となっている。11時開会 11時10分婦人会・青年連盟・保育所児童の演芸 12時食事 13時人形芝居観覧となっていた。

 敬老会の費用は、米2斗3,400円・もち米7升1,260円・あづき3升750円・かまぼこ150枚2,400円・巻昆布60枚1,500円・菓子300ヶ8,700円・その他 へぎ箱 箸 のし紙 薪5束 謝礼 その他 1,973円で村役場負担分合計19,923円となっている。

 わざわざ村役場負担分となっているので、これ以外に婦人会・青年連盟・その他の負担分もあったのかも分からない。お昼の弁当は婦人会が調理したものと思われる。

 敬老会は終戦間もない頃兵庫県の片田舎の村長が、お年よりは元気な間は働き詰めで、お年寄りが自由になる小遣いも無い、お年寄りに対する福祉制度もほとんど無い、その他楽しみの少ないお年寄りに対して暑い夏が過ぎ、米の収穫などが始まる農繁期前の9月に、お年寄りをみんなで招いてせめて一日くらいは楽しんでもらい、お年寄りに感謝しようと始めたのが各地に広がったものである。

 お年寄りに対する制度がほとんど無かった当時と違い、今では年金・医療・介護等の施策も充実している。

 これに対してお年寄りは増え続け、制度を維持するために国も自治体も財源の捻出に苦労している。当然国民の負担も増え続け、若者たちは負担に耐えかねて将来に希望を不安視するものも少なくない。

 敬老会のあり方も、そろそろ見直す時期に来たのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2011-09-18 13:13 | 行事祭礼 | Comments(0)