素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:冠婚葬祭( 8 )

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 このブログ№661で地御前の砂畠地区の紹介で葬儀の料理欄に「オヒラとオツボ」の文言があった。これを見たある方より「オヒラ・オツボ」とは何のことだろうとの質問があった。

 何気なく紹介した言葉であるが、地御前の人だけが使っていた昔の方言くらいにしか思っていなかった。念のため辞書を引いてみるとちゃんと載っており「おひら」とは、御平と表記し①平椀に盛った料理②平椀、平型かぶせ蓋の椀③鯛等の説明がある。

 「おつぼ」は御壺と表記し、①膳部にのせる、壺に入れた食物②御所などの中庭の敬称よある。ちなみに御壺に口を附けると、御壺口(おちょぼぐち)となるそうである。

 また別の人のコメントでブログの「廿日市ぶらり 2012年2月13日掲載(大原講中 講中膳)」で「おひらとおつぼ」を紹介していると教えていただいた。また「廿日市町史 通史編(下)」の998頁に宮内の佐原田講での葬儀の食事で紹介してあるとも教えていただいた。

 「おひらとおつぼ」を紹介して頂いた方のブログ「廿日市ぶらり」は、驚くほど各所に足を運ばれ専門的知識で記事を書いておられ驚くばかりである。興味のある方はこのブログを覗かれてはどうだろうか。

 いずれにしても何気なく訳も分からず紹介した「おひらとおつぼ」であるが、そう遠くない昔に当たり前に使われていた言葉が、今では死語のようになっている。阿品の地域でも自分たちが子どもの頃に極自然に使っていた言葉でも、今の人たちには意味が通じない場合が沢山見受けられる。
by hirosan_kimura | 2015-02-02 15:39 | 冠婚葬祭 | Comments(0)

№591 阿品墓地完成

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 昭和51年度より造成工事に着手した阿品墓地が昭和53年6月に完成した。この墓地は阿品台ニュータウンの造成により、阿品の谷の奥にあった墓地の移転先としての目的もあったが、新しく墓地を求める人への分譲もあった。

 この墓地はニュータウンとふじタウンの境界辺りで調整池の真上に当たる場所である。比較的便利の良い場所であるが、阿品の人たちにとっては気軽にお参り出来た墓地が、坂を上がって行かなければならず、特にお年寄りにとっては不便である。

◎墓地の名称及び所在地
 阿品墓地 地御前393番地の1
 国道二号線ナタリー遊園地前より約1km 徒歩で男性12分・女性14分

◎募集区画 168区画(1.5m×2m 3㎡)

◎1区画当りの使用料
 永代使用料 25万5千円  永代管理料 2万円

◎募集期間
 7月17日(月)から7月29日(土)まで

◎使用者の資格
 廿日市町内に住所を有する者に限る。ただし、町長が相当の理由があると認めた者はこの限りでない。
by hirosan_kimura | 2014-01-14 10:27 | 冠婚葬祭 | Comments(2)

№563 阿品の出産

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 阿品のある高齢者より、戦前の出産について話を聞かせてもらった。この例が特別なものでなくどの場合もほぼ似通っていたのだろう。

 妊婦になっても特別栄養を付ける言うことも無く、食事は家族と同じものを食べるのが当たり前であった。その食事も今と違って野菜中心の粗末なものであった。

 妊婦に余程のことが無い限り出産の前日まで、皆と同じように働くのが当たり前であった。

 出産の準備は今と違って大量の「おしめ」が必要なので、古い浴衣などを解いてたくさんのおしめを作っていた。赤ちゃんの着るものも古い着物などを解いて作っていた。

 当時は妊婦検診などは無く、ときたま産婆さんの所にいったり、産婆さんに家に来てもらって赤ちゃんの様子や妊婦さんの体調などを診てもらう程度であった。

 出産は自宅でするのが当たり前で、病院や妊婦の里で行なうことは無かった。

 産気づくと家の人が大急ぎで自転車などで産婆さんを呼びに行っていた。

 出産は家の奥まった部屋などで行なっていたが、産婆さんは出産を看取り姑さんが湯を沸かすなどおおわらわで準備した。

 出産後妊婦は赤ちゃんに付添っていたが、10日くらいで炊事・洗濯などに当っていたが、今と違って便利な家電もなく休む間がない位忙しく働いていた。洗濯機も無くおしめも手洗いで大変であった。姑さんがいない家庭など出産数日で家事を全部行なう必要があり、今では考えられないほどであった。

 出産後33日くらいは赤ちゃんと一緒に家に居ることができたが、それを過ぎると田畑に出て皆と一緒に農作業を行なわなければならなかった。

 乳の出が悪いときは今と違って粉ミルクなどもなく、「おもゆ」を飲ましていたがそれでも赤ちゃんは何とか育っていた。

 今と違って、妊婦や赤ちゃんの栄養状態や衛生状態も悪く、出産中に妊婦さんが亡くなったり、たくさん生んだ赤ちゃんも大きくなる前に亡くなることも珍しいことではなかった。 
by hirosan_kimura | 2013-08-08 13:45 | 冠婚葬祭 | Comments(0)
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 「№181 知らないほうが良い場所」で紹介したが、この地は「赤子谷」とも地元の人が「地獄谷」とも呼んでいた気味の悪い場所があった。この地は名前の通り地元の人も余り寄り付かなかったが、中にはここで採れる「わらび」は太くて立派なので採取して食べていたそうであるが、子ども心にもこんな所で採れる「わらび」を食べる人があるのかと不思議に思ったものである。

 身元不明の死亡者が出る度に土葬に行っていたこの地も、町営火葬場「霊峯苑」が完成し遺体の火葬をするため訪れることも無かった。しかし毎年の盆前に町内に散在する数箇所の無縁墓地にお墓参りをしていた。お墓参りには上司より一人で行けば良いと指示されていたが、大抵の無縁墓地は人里離れた寂しい場所にあった。この地をお参りする時も、気味が悪いので余り中に入らず入口付近で灯籠と線香を立て手を合わせて帰っていた。

 その内、この谷を含めた一帯が宅地造成により谷が埋立てられることとなり、たくさんの人骨を掘り起こすこととなり、行政・開発業者・その他関係者で現地調査が行なわれることとなった。

 昭和49年7月16日午後1時に現地集合し、久し振りに訪れたが生い茂っていた草木が刈り払われて地形がかなり分かるようになっていた。以前訪れていた時のように、至る所に遺体が埋葬されその部分だけ土地が陥没し相変わらず不気味なことは変わりない。
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 調査に先立ち僧侶にも同行してもらい、慰霊に対して供養を行なった。

e0125014_9452412.jpg 土葬された遺体には標柱も建てられず、どの場所に誰の遺体が土葬されているか分からないが、比較的新しいものには埋葬した際に廿日市町が標識を立てているがその数は僅かである。殆どの木柱は朽ち果てているが「昭和三十四年五月三十日午後八時 山陽本線下り線路」「昭和三十七年五月五日 山陽線踏切下り線於死亡した。」などと記してある。その他何か書いてあるが判別出来ない。

 翌々日18日9時より、遺骨の掘り起しについて業者と打合せ会を現地で行なっている。この地で掘り起された遺骨は近くに慰霊碑が建てられ埋葬されていたが、この地も開発により今では「赤子谷」の無縁遺骨は市営火葬場「霊峯苑」に眠っている。

 以前は阿品の人も気味悪がって近づかなかったこの地も、開発により一変しかつての面影を伺うことも出来ない。
by hirosan_kimura | 2013-07-05 10:36 | 冠婚葬祭 | Comments(0)
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 この写真は阿品のある人が亡くなり葬式の際の記念写真である。場所は阿品陸橋下の国道付近である。左側の棺桶を中心に参列者が左右に並んでいる。

 棺桶が入れられているのは大名籠のようであるが勿論寝棺でなく、遺体は樽状の桶の中に正座し手を合わせて座っているのであろう。この後、何人かで担いで鰆浜の火葬場に荼毘に向かったのであろう。

 問題は参列者が記念写真を撮影している場所で、国道2号線上を横切って並んでいる。

 阿品付近の新国道は昭和6年4月に着工され、昭和7年3月に完成した。当時の阿品の人々は旧国道と比較して幅の広さにびっくり仰天し、有事の際には飛行機でも離着陸させるのかと思ったそうである。

 新国道が完成した当時は、通る自動車は午前中にチチヤス乳業の車が牛乳を広島まで出荷し、午後にその車が帰って来る程度で、それ以外の自動車が通れば「今日はチチヤス以外の自動車が通った」と噂しあう程であったらしい。自動車以外には馬車や人が引く荷車がたまに行きかう程度で、阿品の人々は何と無駄な広い道路を作ったのだろうと言っていた。

 この程度の交通量なので、国道上に整列して記念写真を撮影するくらいは何の支障も無かったのであろう。

上の写真の中央よりやや右の溝は、国道と広電宮島線の境界である。
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 国道に並びきれなかった参列者は広電軌道の上までならんでいる。この写真の撮影年月日は不明であるが、国道が未舗装であるが舗装されたのは昭和11年。広電宮島線が宮島口まで延長されたのが昭和6年2月。これらから推測すると昭和5年の終わりごろから、昭和10年までの間ではなかろうか。
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 この写真は葬儀の参列者が記念写真を撮るために並んでいた国道と広電軌道とほぼ同一箇所である。撮影した時点ではたまたま国道の交通量も少ないように写っているが、切れ目なく自動車が行きかい休日や行楽シーズンには大渋滞が日常となっている。

 国道の上で記念撮影どころか、信号の無い所では国道を横断するのも命がけである。
by hirosan_kimura | 2013-05-16 11:47 | 冠婚葬祭 | Comments(6)

№538 阿品の葬式

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 家の人が亡くなると大野や阿品から遠く離れた親戚や知人に知らすのに、当時は電話など普及していないので近所の人に頼んで、徒歩や自転車で連絡をしてもらっていた。これを阿品では「飛脚」を頼むといっていた。

 葬式の準備や手配は「講」の人がすべて行なっていた。阿品の講は東組と西組の二つに分かれていた。講の女性たちは葬式の料理を作るのにおおわらわであったが、献立はほとんど決まっており煮物・素麺・酢の物・あらめ・味噌汁などであった。意味は良く分からないが、おひら・おつぼ・おせんなどがあったと言う人もある。あんぱんも付いていたらしい。

 平釜でご飯を炊いていると子どもたちが集まって来て、おこげが出来るのを待っていておこげに砂糖や塩をまぶしてもらって食べるのが楽しみであったそうである。

 男たちは葬儀の準備が主であったが、亡くなった人の家には二本の竹に紙で飾り物を付けたものを家の入口に立て、野辺送りに行く時はその飾りを葬列にかざして火葬場まで行っていた。

 葬列には亡くなった家の人・親戚・近所の人・知人などが同行して長い列で鰆浜の火葬場まで行っていた。子どもたちも葬列に参加したが、お菓子が貰えるのが目的で葬式があるのが楽しみだったらしい。

 火葬は近所の人たちが薪を燃やして行なっていたが、火葬場での儀式が終わると野辺帰りで家の人や親戚
の人たちが会食を行なうので、その接待で近所の手伝いの女性は大忙しだった。火葬を手伝った近所の人々は隣家で相伴にあずかり、酒なども出て大騒ぎをすることもあったらしい。

 火葬場に残った人はしばらく火葬の様子を見ていたが、火葬の途中で遺体が海老のように曲がり起き上がったようになることもあるので、この時はスコップで遺体を叩きつけ元に戻すこともあったそうであるが、いくら遺族が見ていないと言え随分と乱暴なことをしたものである。

 翌日、火葬をした人は遺族が骨拾いに来る前に火葬の状況を下見にいったが、たまに遺体が半焼けのこともあり再度焼き直すこともあったそうである。

 この話は阿品のある高齢者から聞いたものであるが、半分冗談で作り話もあるかも分からない。

 上の写真は嘉永二年六月生れの祖母の葬儀写真の一部であるが、葬儀の年月は分からない。
by hirosan_kimura | 2013-04-12 14:02 | 冠婚葬祭 | Comments(4)

№487 旧火葬場

e0125014_9171684.jpg 阿品の火葬場は鰆浜の奥ににあったが、昭和43年に町営火葬場「霊峯苑」が完成し、だんだん使われなくなり今では廃止されている。火葬場のあった裾に地元の人が慰霊碑を建立されている。

 その昔阿品の火葬場は阿弥陀坊付近にあったらしい。火葬場と言っても施設らしきものも無く、野焼きのようなものだったのだろう。

 阿弥陀坊の火葬場が鰆浜に移転されたのは、明治17年と伝えられているが残された文書によると、明治20年10月18日となっている。おそらく移転し使用開始されたのは明治17年であったが、火葬場用地として正式に届け出られたのが明治20年であったのであろう。

 あるいはこの地に火葬場が移転されても、野焼きに近い火葬で施設も無かったが、明治20年に火葬炉などの施設が整備され、正式に地目変更され届け出られたのかも分からない。

場   所  字鰆浜三四三番地  元地目 山林
地   価  拾九円四拾八銭壱厘
地主姓名  村共有地
地目変更  火葬場用地 明治20年10月18日

 右は火葬場用地組替 工事着手仕候間 前記之月ヨリ免租相被成仕度此段奉仕候

   佐伯郡地御前村戸長  中井 寿太郎
     
     明治廿年十二月十三日

 廣島県知事  千田 貞暁殿
by hirosan_kimura | 2012-09-18 10:23 | 冠婚葬祭 | Comments(0)
e0125014_2035181.jpg 鰆浜のある家の庭にお地蔵さんが安置されている。

 国道すぐそばの騒音の中で、今では静かに鎮座しておられるが、一昔前まではこのお地蔵さんは事あるごとにあちこちの家に連れて行かれていた。

 かつて阿品では結婚式の際に、ひそかにお地蔵さんを結婚式のある家に運び込むと言う風習があった。

 いつごろこの風習が無くなったかは分からないが、今ではそのようなことをする人はいない。

 結婚式の当日、近所の親しい若者達が近くのお地蔵さんを、婚家の人に見つからないように運び込んでいた。鰆浜のお地蔵さんや、今はふじタウンの坂を下りた所に安置されている「教え地蔵さん」が運び込まれていた。

 「教え地蔵さん」は今でこそ民家の近くにあるが、昔は大野に山越えをする、阿品の谷の奥に居られた。(№7参照)

 運び込まれるお地蔵さんは、多い時には7~8体になることもあり、地御前や大野のお地蔵さんも運び込まれることもあったと言うことである。

 運び込まれた家では後日、お地蔵さんの赤い前垂れを新調して、元あった場所に返さなければならなかった。

 重いお地蔵さんを元にあった所に返すだけでも大変であったが、見慣れないお地蔵さんを返すには、どこに居られたお地蔵さんかも分からず、運び込まれた家では元の場所を探すのが大変だったらしい。

 何故このような風習があったのかは分からないが、「お地蔵さん」は座りが良い。嫁いできた花嫁さんにその家に居座ってもらいたいと言う願いと、楽しみの少なかった田舎での、運び込む若者達がいたずらをして喜ぶと言う面白さが半分あったのではなかろうか。

 この他に式が済んで宴会中に、羽織・袴の花婿を数人の若者が無理やり連れ出し、泥田に投げ込んで面白がる風習もあったと言うことである。

 花嫁を先に迎えられた若者のやっかみから始まったものかも知れない。一張羅の晴着を泥だらけにされるのもいい迷惑であっただろうが、昔から伝わる風習でもあったし、お祝いの気持ちも込められていたので、怒るに怒られなかったそうである。

 今ではこんな風習は残っていないが、阿品以外でもこのようなことがあったのであろうか。
 
by hirosan_kimura | 2009-04-24 04:50 | 冠婚葬祭 | Comments(0)