素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:衣食住( 15 )

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 この図は大正14年調査の阿品の民家を示したものである。今から89年昔である。

 右側の緑丸は鰆浜で今の阿品一丁目である。中央の青丸は阿品で今の阿品二丁目。左側の赤丸は田尻で今の阿品四丁目。阿品三丁目は海の中、阿品台は山を削って宅地造成されたもので民家は一軒も無い。

 当時の鰆浜は世帯数18で人口は68人であったが、今の阿品一丁目は世帯数301で人口は731人に増加している。

 阿品は32世帯176人が455世帯1,164人に、田尻は2世帯18人が615世帯1,354人となっている。

 当時3部落合せて52世帯・262人が阿品全体の世帯・人口の全てであったが、今では3地区合せた世帯数・人口は1,371世帯・3,249人と、世帯数で26倍・人口で12倍となっている。

 鰆浜・阿品・田尻のみでなく現在の阿品・阿品台すべてで比較すると、世帯数は5,857世帯・人口13,929人となっており、世帯数で112倍・人口で53倍と増大している。

 このように大きく発展した阿品ではあるが、当時一世帯あたり家族数は5.03人が2.37人と核家族化し高齢化が急速に進んでいるのは気になることである。

 なお当時の調査によると、鰆浜に海上生活世帯が1世帯・男子のみ12人と記録が残されているが上記の数字からは除外している。漁を行なう船団の人達が、調査時に鰆浜の海岸に停泊していたものであろう。
by hirosan_kimura | 2014-04-28 14:10 | 衣食住 | Comments(0)
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 先日より阿品の東端(地御前五丁目地内)の海岸沿い道路で工事が開始されている。その工事は阿品地域に公共下水道管を埋設するための縦抗を掘るための工事である。上図のB地点。

e0125014_11462935.jpg阿品地域でも大半の家庭の便所は水洗化されており、汲取り便所の家は数えるほどしかないのではなかろうか。しかし阿品地域には未だ公共下水道は整備されていない。阿品台とふじタウンには小規模下水道が整備されそれぞれの団地に汚水処理場がある。マリナタウウンの900世帯のマンションには大型処理槽、その他の家庭には個別の処理槽が設けられ汚水を処理し海に放流されている。

 阿品地域に公共下水道が整備されるのは当分先のことと思っていたが、数年先には待望の公共下水道が整備されることになった。今回の工事はA地点(地御前神社前)からB地点まで下水道本管を敷設するための縦抗を築造するものである。

 下水道工事に当って素人考えであるが不思議に思っていたことがある。
①今回敷設する下水管の内径は800㎜であるが、この口径では中に人が 入って掘削できずどのように掘って行き掘った土はどうなるのであろう。前 に進むたびに新しい管を後ろに継ぎ足すのはどうするのだろう。
②A地点とB地点の間の国道は広電軌道を橋で渡るため急勾配となってい る。阿品側の汚水を一旦高いとこ ろに汲み上げるのはどうするのだろう。
③阿品台・ふじタウンの汚水を今回新設する下水管に放流するためには、 間にJR・国道・広電軌道が通って いるがどうするのであろう。

 先日、市の下水道担当課を訪問しこれらの疑問を聞いてみた。聞いてみれば成程と思われ素人考えの浅はかさを思い知れた。
①本管を埋設するのは縦抗より先端にドリルの付いた装置で堀進み、掘っ た残土は縦抗より外部に排出し、一定程度掘り進むと後部に排水管を継ぎ足し圧力を掛けて前に推し進めることを繰り返すらしい。埋設は直線のみでなくカーブしていても前に進めるらしいが、どのような構造になっているのか不思議でならない。
②下水管の埋設は国道の傾斜に沿ってされるのかと思ったが、管はA地点とB地点で水平になるように埋設されるので汚水は自然に流れるそうである。従ってA地点とB地点の中間あたりの埋設深度は地上よりかなり深い地点になるらしい。
③阿品台・ふじタウンの処理水は現在でも国道・広電軌道の下に埋設された排水管で海に放流されているので、C・D地点で排水管と新設される下水管を接続すれば良いそうであるが、聞いてみれば何のことは無い疑問であった。

 A~B間の埋設が終わればC地点、B~C地点が終わればC~D地点と埋設工事が行なわれるのだろうが一日も早い公共下水道の整備が待たれる。

 廿日市市の公共下水道整備率は廿日市地区で42㌫、大野地区38㌫、佐伯地区37㌫程度であるが、宮島・吉和地区はほぼ100㌫となっている。

 現在、阿品台3,500戸・ふじタウン550戸が小規模下水道で汚水処理されている。この他マリナタウンのマンション900戸の大型処理槽による処理、その他の個別処理の阿品・阿品台地区すべてに公共下水道が整備されれば、廿日市の公共下水道普及率は一気に上がり60㌫程度になるそうである。
 
by hirosan_kimura | 2013-08-31 12:04 | 衣食住 | Comments(0)
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 大正9年の電灯数を調た様子である。地御前村全体の戸数は549戸とある。この中で内灯1,092個、外灯73個とある。外灯とは街路灯のことかと思ったがこの時代に街路灯は整備されていず、住居外の納屋や作業などする場所に設けられた電灯のことでは無かろうか。

 この調査でも阿品地域の鰆浜部落は田屋部落と併せて一つの調査区域となっており、阿品地域全体の状況は分からないが、阿品部落58戸に対して内灯107個、外灯5個となっている。

 内灯のみでは一戸当り1.8灯、外灯を合わせても一戸当り1.9灯のみであった。当時の農家の部屋は田の字型に配置されている場合が多く、最低でも四部屋はあったが全ての部屋に照明が無かったこととなる。

 今では電気代の計算は、各家にメーターが取り付けられ使った電力量に応じて支払っているが、当時は電気のメーターなど無く電灯一個に付き幾らと定額制であった。このため電気代節約のため取り付ける電灯の数を少なくしていたが、その代わり幾ら長時間点灯していても電気代は増えることはなかったらしい。

 すべての部屋に照明が無いので、家族が集まる主な部屋のみに照明が取り付けてあったのだろう。その代わり電灯には長いコードが付いており他の部屋に照明が必要な場合は長いコードを利用して電灯を他の部屋まで引っ張って利用することもあった。

 現在では全ての部屋はおろか、廊下・階段・便所まで照明の無い場所も無くコンセントも至る所に取り付けられている。

e0125014_14124551.jpg 昭和20~30年代でもコンセントが無いのが当たり前で、電灯以外のアイロンなどの電化製品を使用する場合は、電灯に二又ソケットを取り付けて一本の電気コードで一つは照明、一つはアイロンなどを使うのが当たり前であった。
by hirosan_kimura | 2013-03-21 06:53 | 衣食住 | Comments(0)

№511 かまぼこ兵舎

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 昭和20年代の終わり頃か30年代の初め頃、沖山の西側海辺に当時としては変わった建物が建てられた。現在の住居表示では地御前五丁目であるが、当時は田屋部落である。

 田屋部落と言っても鰆浜の隣接で、この建物の前辺りで魚を釣ったり貝を掘って良く遊んだりしていたので、鰆浜部落延長の一部くらいに思っていた。

 この建物は屋根がドーム型で平屋の建物であったが、その形から子ども達は「かまぼこ兵舎」と呼んでいた。兵舎と呼んでいたが米軍岩国基地の幹部が住むための住居であった。この建物の写真でも残っていないかと思うが手に入らない。

 遠い昔の記憶なので細部まで覚えている訳ではないが、屋根は緑色をした鋼板で外壁は煉瓦が積上げられており、赤い煉瓦と白いメチの色がとても綺麗であった。外壁には煉瓦造りの四角い煙突があった。建物前面にはベランダが有り白いバーゴラにはバラの花が絡まっていた。

 前の広い庭には全面に芝生が繁り緑の絨毯のようで、絵本に出てくるような美しさであった。休日には家族の人がベランダでお茶を飲んだりされるのを遠巻きに眺めることもあった。

 何かの機会のの時に家の中に入れてもらったことがあるが、広い部屋が5・6室あったようである。勿論室内は土足であるが、床には一面リノリュウムのようなものが張り詰めてあるのも珍しかった。当時の暖房は火鉢かコタツくらいであったが、この家はボイラーで沸かした温水で室内を暖めているのも不思議であった。蛇口をひねれば湯が出るのも魔法のようであった。その頃は湯を沸かすと言えば炭を熾したり薪でやかんか鍋で沸かすのが当たり前、風呂の湯を沸かすのも一仕事であった。

 当時の貧しい生活から見ると、夢のような住居と生活振りでであったが、羨ましいと思うより自分たちには無縁のものと感じていた。

 今、この住居や生活を見てもビックリすることも無かろうが、当時の貧しい日本の生活ぶりからは想像も出来ないアメリカ人の豊かさを感じたものである。

 この建物もしばらくは残されていたが、いつの間にか解体され、今では別の家が建てられている。
by hirosan_kimura | 2013-01-24 11:01 | 衣食住 | Comments(2)

№481 阿品の水道

e0125014_1053569.jpg 水は日常生活に欠かせないものであるが、現在の阿品地域では上水道が引き込まれており、井戸などの自家水で生活している家庭は数えるほどしかないであろう。阿品に上水道が引かれた時期ははっきりしないが、地御前村に水道の施設が整備されたのは昭和31年である。

 旧地御前村・宮内村が共同で串戸の水道局がある川の対岸に上水道施設を整備した。水源は前の御手洗川で給水人口4,800人、一日の旧水量は720㎥の簡易水道であった。川と山の間の狭い敷地に濾過池・ポンプ施設・裏の小高い山に排水池があった。この施設は近年まで残されていたが今は無い。

 給水区域は宮内村は小学校から沖付近、地御前村では民家が密集している小学校付近までで、勿論阿品地域には送水管は敷設されていなかった。

 この頃の阿品地域ではすべての家庭で自家水であったが、たくさん水を使うのは入院設備のある吉田病院・県立地御前病院くらいであったが、それぞれ大きな井戸があり何とか対応出来ていたのであろう。

 昭和31年に旧廿日市町と5ケ町村が合併した際の建設計画によると、「水道事業に関する事項 水道事業を阿品(旧地御前村)、砂原・的場・佐原田(以上 旧宮内村)へ拡張する」とあるので、阿品へ上水道の給水が開始されたのは昭和35~6年頃ではなかろうか。

 昭和39年には廿日市町全体を賄うために、給水人口20,000人、給水量5,000㎥の上水道施設が整備されたが、主な水源は御手洗川の伏流水とその他数箇所の小規模な井戸があるのみであった。

 昭和42~3年頃で在っただろうが大干ばつで御手洗川が干上がったことがあった。当初は夜間のみの給水制限であったが、その内昼間も長時間給水を制限せざるを得なくなったことがある。

 五日市が町広島市と合併していなかったので、五日市の水道局と交渉し両町境で送水管を接続し夜間のみ五日市町の水を貰い廿日市の配水地に溜めさせて貰うような状況であった。

 その内水不足は悪化の一方となり、朝6時~8時まで、夕方も6時頃から8時までに朝夕2時間づつしか給水出来ない事態となった。

  配水量を減らすため配水地から出る根元のバルブを絞り水圧が下げられている上に、阿品は給水管の末端で距離がありなかなか水が届かなかった。

 朝6時になるのを待って水道の蛇口を開いてもすぐには水は出ず、やっとチョロチョロと出たかと思ったらすぐに給水停止の8時になり一滴も出なくなる。夕方も同じ事で待ちに待って6時に蛇口を空けても、まともに水も出ないのにすぐに次の給水停止時間になる有様であった。

  阿品まで水が届かないのは当然で、夜間・昼間に水道が停止され、朝の6時・夕の6時になると一斉に水を使うので、途中の家庭で水が抜かれ最末端の阿品まで水が来ないのである。

 鰆浜の吉田病院は先代の先生が亡くなられ、当時は病室を改造し「南風荘」と言うアパートで40世帯くらい入居しておられた。水道局には水が出ない電話が鳴りっ放し、中には水道局に怒鳴り込んで来る人もあった。

 その人には水源の川を見てもらっていた。川には一滴の水が流れていず、カラカラに干上がっている状態を説明すると、納得はされないまでも渋々帰られるのであった。

 小さな川しか無く水源に乏しい廿日市であるが、今では大竹の弥栄ダムから送水され給水制限は無くなった。今では誰もが蛇口を開けば水の出るのが当たり前と思うが、もう少し水のありがたさを感じる必要があるのではなかろうか。 
by hirosan_kimura | 2012-09-08 12:20 | 衣食住 | Comments(0)

№468 藁屋根

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 藁屋根の家は、今では余程田舎にでも行かないと見られないが、昭和30年代か40年代の初め頃までは、阿品でも藁屋根の家が1・2軒残っていたような記憶がある。

 古い時代の阿品では全部の家が藁屋根であったが、他より阿品に移り住んで瓦葺きの家を新築されたり、藁屋根の家が古くなって瓦葺きにし、段々と藁屋根の家は少なくなって行った。

 昭和の初めごろ、阿品には30軒余りの民家があったが、その内10数軒が藁屋根の家であったらしい。

 藁屋根は何年かすると藁が朽ちて葺き替えが必要である。飛騨の白川郷の合掌葺屋根の葺き替えは、大勢の人が総出で屋根の葺き替えを行う映像を見たことがある。

 阿品の家は規模が小さく比較出来ないにしても、屋根葺きの際は大勢が取り掛かって行っていただろうと想像していたが、ある人から聞いた話しでは少人数で行っていたらしい。

 屋根の葺き替えを行う時は、地御前から屋根葺き職人に来てもらいその人の指示を受けながら、家族のみか親戚の人に手伝ってもらうくらいで少人数で行っていた。地御前の職人さんの都合がつかない時は、大野から職人さんに来てもらうこともあったそうである。

 屋根葺きにはたくさんの藁を必要とするので、平素から納屋の屋根裏に藁を貯めておき屋根の葺き替えに備えていたそうである。

 屋根の葺き替えは一度に全部行うことは大変なので、一年目には四方ある屋根の一面のみ行い次の年は別の面を行うと言うように、四年かかって全面の葺き替えを行ったそうである。

 藁は麦わらを使うのが通常であるが、稲の藁を使用すると長く持たなかったそうである。阿品の農家では牛を飼っており田畑を耕したり、牛小屋の敷き藁を肥料にしていたが、刈り草のみでは餌が足らないため藁を刻んで飼料にしていた。

 刈り取った藁は屋ね葺きにも必要、牛の飼料にもしなければならないので、余り規模の大きくない阿品では藁を貯めるのが大変だったらしい。藁屋根を葺き替えるのに一度に全部葺き直さず、四面の屋根を一面ずつ年を変えて行っていたのは、藁の確保が難しかったのかもしれない。

 それにしても屋根の葺き替えは大仕事で、葺き替えの日の前から準備が大変だったらしい。特に炊事場の上の屋根を葺き替える時は大変だったそうである。

 炊事場は火を炊くため天井が無く、葺き替えのため藁を取り除くと青空が見えたそうである。葺き替えの時、藁屑やほこりが直接落ちてくるので、葺き替えまでに炊事道具を片つけたり覆いをかぶせたりしていた。葺き替えが済んだ後の掃除や後片付けも大変だったらしい。

 それでも藁屋根の家は、冬は暖かく夏は涼しかったそうである。しかし藁屋根の葺き替えや手入れが大変で、藁屋根の家も阿品からすっかり無くなってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-06-10 15:47 | 衣食住 | Comments(0)
e0125014_9321285.jpg  三丁目の遊園地「ナタリー」の跡地は、マンションと大型スーパー「ふじグラン」が建てられている。

 マンションは三階建ての低層と15階建てまでの総戸数802戸が立並んでいる。マンションは平成11年に最初の建物が建ち、平成21年3月に最後の建物が建てられた。

 最初の建物が建てられて13年が経過しているが、外観から見ると外壁が傷んでいるように見受けられないが、先日より外壁の改修が始まっている。

 足場の低層部分は職人さんが手作業でパイプを積上げていたが、だんだ上の部分になると手作業で運び上げるのには限界があるのか、昨日は大型クレーン車が来ていた。

 クレーンを伸ばすと見上げるような高さで、よくひっくり返らないかと思うほどの高さである。

 足場が組まれた所からシートが張られ、外壁を削っているのか騒音が鳴り響いている。部屋の前面にはシートが張られ、終日騒音がしており中に住んで居られる人はたまったものではなかろう。

 この建物は14階建てであり最上階までクレーンが届くが、都会に行くと100階建てくらいのマンションもあるらしい。

 これらの建物の外壁改修の際は、どのようにして工事用の足場を組んで行くのか不思議に思う。
by hirosan_kimura | 2012-02-19 10:15 | 衣食住 | Comments(2)
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 今の子どもたちに、昔は家の中でねずみが走り回ったり、天井裏から蛇が覗いたなどの話をすると信用してくれない。

 衛生状態の悪かった昔の家では、家の中にゴキブリがたくさん走り回ったり蚤に噛まれて夜もろくに眠れないのは当たり前であった。今ではダニはどこの家でもたくさん生息しているらしいが、それ以外の不快害虫は夏に戸を開け放しておくと蚊が入って来るくらいである。

 そこで昭和30年代くらいまでは年に一回くらい、村が全世帯の家を消毒していた。消毒の方法が今では考えられないが、家中に消毒薬を噴霧していた。

 まず各家庭では外面に面した窓や戸をすべて締め切り、室内のふすまや障子を開放し押入れなども開け放す。そこで玄関など一部開いた所からリヤーカーなどの乗せた動力の噴霧器で家の中に煙状になった消毒薬を吹き込んでいた。

 外に面した窓などはすべて締め切っているとはいえ、小さな隙間から煙が噴出すこともあった。消毒中は勿論、消毒が済んで2~3時間くらいは家の中に入ることは出来ない。その間は大人は外で仕事をしたり、近所の人と世間話などで時間をつぶし、子どもたちも近所の子どもたちと遊んだりしていた。

 家中の消毒薬の煙が収まった頃中に入れるが、それからが大変で畳や床などについた消毒薬をふき取らなければならなかった。

 どんな消毒薬が使われていたのかは分からないが、今このような方法を行うと健康被害などクレームが出るのではなかろうか。

e0125014_13583482.jpg昭和32年9月に鰆浜・阿品地区で害虫駆除の室内噴霧が行われている。鰆浜では25日の午後35世帯。阿品では26日に一日かけて87世帯に消毒が行われた。消毒は役所の職員が一軒づつ廻って行い、鰆浜は藤川さん、阿品では本田さんが立会人となり、一軒も漏れなく消毒が行われたか確認のため同行された。

 いつの時代にこの消毒がなくなったのかは分からないが、この時期が最後くらいだったのだろう。。

昆虫駆除室内噴霧の実施について                     各位
 今年は町内の赤痢・疫痢の患者数は昨年の三倍の発生を見て居ます。初秋から初冬にかけて赤痢・疫痢・伝染病の流行期でありますから各位におかれましては、手洗いの励行、早期診断、昆虫の駆除等を周知徹底の上伝染病発生防止にご協力をせつにお願い申し上げます。

 尚標記昆虫駆除室内噴霧については伝染病発生防止の一環として、全世帯一斉に実施の計画でありますが、これが施行に当たっては費用の内薬品代の半額を貴殿の部落の負担に御願いしますからその点ご了承宜敷くご協力御願い致します。                      昭和32年9月5日
by hirosan_kimura | 2011-11-11 14:21 | 衣食住 | Comments(0)

№401 タオルの支給

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 昭和24年今から62年前、終戦間もない頃、各世帯の人数に応じて放出タオル・綿布が支給された。

 この品は戦時中の軍の隠匿物資かアメリカ軍が放出した物かは良く分からない。

 今ではタオルは粗品や景品で貰うことが多く、家にもたくさん溜まっており購入する必要が無いほどであるが、終戦間もない当時としては貴重品であったのであろう。

 支給に当たっては各部落の世話役の人が、全世帯で一軒一軒を聞き取りをしその数に応じて支給がされている。

 支給されたのは、タオル・湯上りタオル・綿布とあるが綿布は、綿布補助券・綿布予約券とある。綿布は一時に必要数が配布出来ず、不足分は予約券で後ほど支給されたのかも分からない。

 配布の状況を見ると鰆浜部落では、43世帯194名に対してタオル10枚・湯上りタオル32枚・綿布106枚・綿布予約券46枚とある。

 阿品部落は、61世帯296名に対して、タオル16枚・湯上りタオル24枚・綿布153枚・綿布予約券66枚とある。

 阿品全体では、103世帯490名に対して、タオル26枚・湯上りタオル56枚・綿布259枚・綿布予約券112枚が支給されている。

 ちなみに我家では両親と子ども4人の6人家族で、湯上りタオル2枚・綿布4枚の支給となっている。

 たった一枚のタオルの支給のため、部落の世話役の人や村役場の担当者は多くの労力を費やしたのであろう。

 支給された物がどんな品質の物であったのかは分からないが、つい数十年前にタオル一枚が貴重品であった時代もあったのである。
by hirosan_kimura | 2011-09-06 09:37 | 衣食住 | Comments(0)

№382 阿品の家

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 昔の阿品の農家は藁屋根に土の壁作りがほとんどであった。今では建替えられ昔の農家は阿品で見ることは出来ないが、昭和40年代の初めごろには最後の藁屋根の農家が残っていたような記憶がある。

 阿品の農家と言っても特別なものでなく、近隣の農家の建物はほとんど同じような造りであった。屋根は藁葺・壁は土で出来ており、間取りの似たようなもので「田」の字の形に部屋が配置され、玄関・炊事場は土間で通利抜け出来るようになっていた。

 昔の農家では農作業を行うのに今のように耕運機などはないので、農家は牛を飼い田んぼを耕していた。上図の配置は少し異なっているが、母屋が左側に牛小屋や納屋は右側に配置されていた。

 母屋と牛小屋は続いて建てられている場合もあり、離れていてもすぐ隣接して建てられていた。近隣の地域を見ても、決まったように正面から見て母屋が左側・牛小屋等は右側に建てられているが、何か理由があるのであろうか。

 母屋の前には大抵の家に広い庭があったが、そこは収穫物を脱穀したり筵の上に広げて乾燥したりする場所となっていた。

 「田」の字の形に配置された家は障子や襖で仕切られており、暑い夏になればそれらを外せば涼しい風が家中を吹き抜けるが、昔の家はプライバシーもないような有様であった。

 便所と風呂は母屋と離れており、寒い冬でも一旦外に出て行く必要があったが、夜に便所に行く時は子供心に恐ろしかった記憶がある。

 風呂の水は井戸から汲み上げ運び薪でたいたり、炊事も薪で煮炊きする必要があり、洗濯機や電気釜などの文明の利器もなく、昔の主婦はさぞ大変だったろう。
by hirosan_kimura | 2011-03-07 13:16 | 衣食住 | Comments(0)