素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:文化芸能( 7 )

e0125014_8503971.jpg カープ戦が伯仲した時に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープが 勝ち 勝ち 勝ち勝ち」との応援歌が流れる。NHKの視聴者よりこの歌の由来について質問があったらしい。NHKでは由来を調べるために色々資料を探しているうちに、偶然このブログの「№525 宮島さんの神主が」が目に止まったようである。

 先日、ブログのコメント欄にNHKの人より「宮島さんお神主に」ついて取材せせて欲しいと投稿してあった。由来については「ひろしま郷土史研究会」が発行した「ふるさと ひろしま」の中より引用したものである。この冊子は古本屋でたまたま目に付いたものであるが、地御前の郷土歴史研究家「渡辺 通」さんが「宮島さんの神主が」について書かれたものを引用したと返信しておいた。

 NHKで調べられた結果、渡辺さんはすでに無くなられ、ひろしま郷土研究会も活動を停止されているとのことであった。

 応援歌の由来については先週の木曜日に第1弾が放映されたが、25日木曜日午後6時30分の「お好みワイド広島」で第2弾が放映されるので、興味のある人は是非見られたら良いのではなかろうか。

 NHKは大きな組織なので個人がこつこつ調べるより情報量も豊富であり、新しい話や面白い話があるのでは無いかと放映日が楽しみである。

 カープ戦の時に熱狂なファンによって歌われるこの歌はカープ専用の応援歌、また広商野球部の応援歌と思っている人が大半であるが、地御前で野球の応援歌として歌われ始めたのはまぎれも無い事実である。 
by hirosan_kimura | 2013-07-23 09:35 | 文化芸能 | Comments(0)
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 カープ戦の盛り上がったとき応援団の中から「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには いつもカープが 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」と歌が鳴り球場中響き渡り試合が一層盛り上がる。

 この歌はカープの応援歌だと思っている人が多いが、県立広島商業高校の人に言わせると、この歌は県商野球部の応援歌であるが、応援する時盛り上がるのでいつの間にかカープファンが勝手に歌いだしたものだそうである。

 広商では「宮島さんの神主が 御みくじ引いて申すよう 何時も広商は 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」とカープと広商の文句が入替っているだけで殆ど同じである。

 しかし、この応援歌は地御前村で歌われ始めたのが真相である。

 地御前村では明治30年頃、村の青少年がハワイ帰りの移民に習って盛んに野球の試合を行なっていた。 野球の練習や試合は明治29年に旧国道や、山陽鉄道が広島三田尻間の鉄道用地敷設のため海を埋立てた、阿品の田尻海岸の鉄道と山の間の空き地で行なわれていた。

 当時の地御前村では、「町組」と「浜組」に分かれて野球の試合が行なわれていた。当初は「町(又は浜)勝て 町(又は浜)勝て 勝った方がえーよ 勝った方がえーよ」との囃子言葉で応援していた。

 明治40年頃には他の町村との対抗試合で「いつも 地御前が 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」と付け加えられ、今歌われている応援歌に近い形となっていった。

 明治44年夏には「宮島さんの神主が ~~」の文句が頭に付け加えられた。
 これは日清戦争以降の宮島杓子で「召し(めし)取る」と「飯(めし)取る」の語呂合わせの戦勝という縁起感と、地御前神社の拝殿の修復が行なわれた時期が重なり、村民の悲願がかなったため神託的な歌詞が盛り込まれたものと伝えられている。

 明治44年の夏には、地御前の郷友クラブと廿日市の篠尾倶楽部の対抗試合が行なわれた。
 この試合では地御前側は多数の応援団を送り込み、村にある限りの太鼓やラッパ隊10名、祭礼用の天狗の服装に大杓子を持ち込み、応援歌を怒鳴りながら前代未聞の応援戦を繰り広げ、周辺の人々を仰天させた。

 地御前野球応援団の派手な応援は、広島にも飛び火して伝わった。明治45年の春に行なわれた、当時の県中と広島商業の対抗試合にも、両校の白熱した応援団両方が地御前の応援歌と服装を持ち込んだので、野球場は大混乱を招いたそうである。

 この混乱を収束するため両応援団で協議し、地御前の応援歌についてどちらか一方が辞退することなった。
 県中・広島商業いずれにも地御前出身の在学生が居り「本来、地御前の応援歌なのでお前らで決着せよ」言うこととなったが一任された二人は親友関係もあったので、二人の話し合いの結果広商野球部の応援歌に決まったそうである。

 小学校の運動会では「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには いつも赤(白)が 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」と、赤白両者が必死で怒鳴り揚げながら応援していた。
 深い意味も分からず歌っていたが調べてみると面白いいきさつがあるものである。
by hirosan_kimura | 2013-03-01 11:01 | 文化芸能 | Comments(1)

№478 盆踊り

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 昨晩は阿品公民館駐車場で阿品の盆踊りが行われた。

 盆踊りは元々は仏教行事で、念仏踊りが盂蘭盆の行事と結びつき,精霊を迎える死者の霊を供養するものである。昔は旧暦の7月15日に行われ、盆踊りの日はいつも満月であった。

 踊りは太鼓の音頭で「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊るものであるが、それぞれの地域ごとに独特の唄がや踊り方があり、今でも日本各地で唄い踊り継がれている。

 しかし、太鼓を叩いたり音頭の名人と言われた人も少なくなっている。新興団地では地域の伝統に関係の無い唄をCDやテープで流して踊る盆踊りも珍しくない。
 
 昨晩の踊りは夕方6時頃開始されたが、最初は子どもたちの喜びそうなクイズやゲームなどが行われ、8時過ぎより踊りが開始された。踊りは櫓の上で叩かれる太鼓で調子をとって、流しの「春徳丸」や木遣りの「宮島八景」を歌い手が歌い、櫓を囲んだ踊り手が合間に掛け声を掛けながら踊るものである。

 この踊り方は地御前踊りとも言われるが、手のひらを耳横でくるっと回したりするので「耳繰り」と言う人もある。歌は譜面もなく口伝えに教わるので、教える人によって微妙に節回しが異なることもある。

 昭和30年代頃、盆踊り唄の名人と言われる人が二人おられ、それぞれ微妙に節回しが異なっていた。教えてもらった方はお互いに相手側には「品が無い」、自分の方が「威勢が良い」などと張り合っていたが、今でもこのようなことを言っているのであろうか。

 一昔前の盆踊りは、阿品の奥の精米所があった前の道路で行っていた。余り広い道路ではないので反対側の踊り手と手が触れそうなくらいの細長い円を作りぐるぐる廻って踊っていた。

 単調な踊りを繰り返し繰り返し踊っていた。この踊りは夜中過ぎまで、いや朝まで踊り続けるなどと聞いていたが、子ども達はその内飽きたり眠くなったりするので途中で家に帰ってしまい、終わりまで居た覚えも無く何時ごろお開きになっていたのか未だに覚えが無い。

 他の地域では盛んに行われていた盆踊りも、手伝う人が少なくなったり、太鼓や歌い手の名人が居なくなったりして、盆踊りを止めたりCDやテープで音楽を済ましたりする所もあるらしい。

 幸い阿品では「郷土芸能保存会」が結成され、盆踊りや祭りの音頭が継承されている。大きく変容した阿品であるが、貴重な風習が何時までも子どもたちに長く伝えられて行けば良いと願うばかりである。
by hirosan_kimura | 2012-08-14 10:54 | 文化芸能 | Comments(0)
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 14日土曜日に阿品台西小学校の学習発表会と、午後には西小祭が行われた。

 午前中の発表会は例年なら体育館の前方に子ども達、後方には保護者が着席し体育館一杯に人が溢れていたが、今年は随分と様子が変わっていた。

 体育館に着席しているのは保護者のみ。子ども達は学年ごとに自分達の発表の時間になると入って来、ステージで発表が終ると退室し、また次の学年が入室して来るので有る。

 新型インフルエンザが流行しているので、出来るだけ子ども達が他の学年に接触しないためだそうだ。

 午後には、保護者や地域の人たちにより、ラーメン・パン・フランクフルト・昔の駄菓子の販売や、校庭ではゲームなどが行われた。

 また、郷土芸能保存会の人達により、餅つきと餅の販売が行われた。阿品では一昔前には正月や何かと目出度いことがあると、餅つきが良く行われ搗きたての餅を食べるのがご馳走であったが、今ではスーパーなどで年中販売されており、子ども達が喜んで餅を食べることも無くなった。

 昔のの餅つきは足で踏む台唐(だいがら)で行われていたが、唄をに合せて搗く餅つきは石臼と杵を使用して行われる。当日は餅つき唄はなかったが、子ども達が順番に杵を持たせてもらい興味深そうに餅を搗いていた。

 阿品では餅つき唄が何時ごろから唄われているのかは分からないが、目出度いことがあると餅つき歌に合せて餅を搗くことが披露される。公民館が落成した時・フラワーフェスティバルなどでも披露された。

餅搗き唄

めでたえー めでた この家の 祝いの もちつきじゃ 
お伊勢様にも えーやこら あげましょうよ

見ても 見事な えーえーえー 津久根が 島わよー 
地から 生えたか のーげに 浮き 浮島かよー

安芸の 宮島 えーえーえー 廻れば 七里よー 
七里 七浦のーげに 七ー 七恵比須よー

めでた めでたが えーえーえー 三つ 重なりてよー 
庭にゃ 鶴亀 のーげに 五葉の 五葉の 松よー

竹に すずめが えーのーえー
「ちゅん ちゅん ばた ばた 小羽を 広げて 
三寸 小枝の こまかい ところに」
品良く とまるよー とめて とまらぬ 
「三千世界に すこぶる べっぴん といちを 迷わす こいつも」
色の 色の 道よー

阿品よいとこ えーいえ 一度はおいでよ 春は桜に のーげに 
夏は 夏は かんげんよー

阿品よいとこ えーいえ 一度はおいでよ 秋は鰯に のーげに 
花は 花が 咲いてるよー

これが えーえーえ これが この家のをー えんやこら 
納めの うすじゃよーあーら 御縁 えーえーえ 
御縁 有るなら えんやこら 来年もよー

 餅搗き唄は、歌詞も楽譜も記録されたものが無いので、歌い手によって微妙に詞や節回しが異なっている。「 」内の「ちゅんちゅん ばたばた」と「三千世界に」の部分は急に節回しが変わり、読むように唄うのも面白い。

 最近では歌い手もだんだん少なくなっているが、何時までも唄いつがれ餅つきが披露されることを願うばかりである。
by hirosan_kimura | 2009-11-17 13:43 | 文化芸能 | Comments(0)

№119 頼山陽と鰆浜

e0125014_1019262.jpg 頼山陽は江戸時代後期の日本を代表する漢学者で、歴史・文学・美術の分野で活躍した人である。

 大阪で生まれたが、父春水が広島藩学問所の儒学者に登用され、山陽が三歳の時から広島で暮らしていた。

 山陽は寛政12年9月に脱藩し京都へ行ったが、11月に広島へ連れ戻され屋敷内に幽閉されたこともあった。

文化四年(1807年)
 山陽が27歳の時、鰆浜の灰床山(別称 鵯山)より厳島を遠望し詠んだ詩がある。

 閉門修史出門遊 逐次吟朗上面接 落日蒼茫千古 毛陶戦遽来是前洲

 漢文の解読は苦手なので、正しいかどうか分からないが、おおよその意味は次のようなものではなかろうか。

 謹慎中で門を閉め家に閉じこもり、歴史書の編修に当っている身であるが、門から出て遊山に出掛けた。

 風景を眺めながら、声を高らかに次々詩を詠った。

 遠い昔から、遠くまで青々と広がった風景が、今まさに日が落ちようとしている。

 前の浜は、毛利と陶がかつて戦った地である。

 漢文に詳しい人がいれば、正しい解釈をしてもらいたいものである。
by hirosan_kimura | 2009-04-12 03:56 | 文化芸能 | Comments(0)
e0125014_3543239.jpg 日本の産業スパイ小説の魁となった「黒の試走車」の著者である梶山李之は、一時 鰆浜(阿品一丁目)に住んで居たことがある。

 昭和20年11月に朝鮮から引き揚げた彼は、鰆浜に住み農業の真似事や釣りなどをしながら生活をして居た。

 梶山李之は昭和5年に韓国で生まれた。母はハワイの日系移民2世であった。

 彼が鰆浜に住んでいたのは、広島高等師範学校(今の広島大学)に入学し、広島市に移転するまでの僅かの期間であった。

 梶山李之の住んでいた家屋は今でも残っている。一部改築されているが外観はほぼ当時のままである。

 大学在学中文学に興味を持ち、広島文学協会を設立している。卒業後上京し作家を目指した。彼の著書には「赤いダイヤ」等もあるが、昭和44年には高額所得者番付作家部門一位になったこともある。

 母が移民経験者であり、ハワイ移民をテーマにした「積乱雲」執筆のため、香港で取材中に吐血した。現地の病院に入院したが、昭和50年5月11日 45歳の若さで亡くなった。

 小説「積乱雲」は未完成のまま終ってしまった。

その他の著書
黒の超特急 大統領の殺し屋 甘い樹液 族譜 李朝残影 悪の勇者   かんぷらちんき 虎と狼と にぎにぎ人生 等
 
by hirosan_kimura | 2009-03-19 05:12 | 文化芸能 | Comments(0)

№65 柿本人麻呂

柿本人麻呂は万葉集の代表的歌人として有名である。人麻呂が詠んだ歌に
「ほのほのと あかしの浦の朝霧に 島隠れ行く船をしぞ思ふ」(古今和歌集)がある。
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 この歌は、人麻呂が播磨(今の兵庫県)の明石の浦で詠んだものとされている。

 ところが播磨の明石でなく安芸の明石、すなわち宮内の明石から厳島・阿品方面を眺めて詠ったとの仮説をした学者がある。

 播磨の明石の海岸端に立って、船が朝霧に島がくれゆく情景には無理があると云うことらしい。島は淡路島と考えられるが、詠ってあるような実景は不自然だそうである。

 芸藩通史の書出帳(村々から提出された伝承等の資料)に、人麻呂が宮内の明石集落に逗留した際、山高く登り厳島方面を見ながら歌を詠んだとの記述がある。

 人麻呂は石見国の朝集使として赤名峠を越えたり、明石を経て海岸から船便や山陽道を辿って、石見と都をしばしば往来したと伝えられている。

 明石部落から山高く登り阿品方面を眺めると、厳島が眼前に見えその左手に小島が望めると云う。

 明石に宿泊した人麻呂が、早朝霧立つ浦で小島に消え入る船を観て詠んだ歌と云うのである。明石の部落からは山が遮り阿品方面は望めないが、少し高い所に登れば阿品方面を望めたのであろうか。

 この説はあまりにも大胆であり、真偽の程は分からない。「人麻呂」は「人磨」とも称される。
by hirosan_kimura | 2009-02-15 04:15 | 文化芸能 | Comments(0)