素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:社会( 10 )

e0125014_11445121.jpg

 昨年の秋に国勢調査が行われ、その一部の状況について速報値が発表された。この中で阿品の高齢化に関する資料が目についた。通常高齢化を表す場合65歳以上を高齢者としているが上の表は75歳以上の割合を示している。65歳以上と比較するとより厳しい高齢社会を表していることとなる。

 表では75歳以上20%越を赤、以下10%以上、5%以上と白は5%以下である。阿品は大きく分けると阿品地区・阿品台地区と分けられる。

 阿品地区では四丁目が飛びぬけており20%を超えている。四丁目は昭和53年2月に完成した住宅団地であるが、宮島を見下ろす高級住宅地として売り出された。当時は若い人たちや子どもたちばかりで活気溢れる街であったが、40年近く経過した現在では高齢化が進み子どもたちも少なくなっている。この団地は高台にあり麓の駅や買い物帰りの高齢者にとっては大変そうである。

 三丁目は800戸以上のマンションと、180戸くらいの戸建て住宅からなっているが75歳以上は10%を超えている。高台の住宅地に住む高齢者が自宅を手放して空マンションに移り住む方もあるそうである。

 一丁目と二丁目は阿品の大元であるが、古くからの住宅と新しい住宅が混在している。もう少し高齢化が進んでいると思っていたが5%以上と若い人や子どもが多いようである。この地区は平地でJR駅、広電駅もあり人気の住宅地である。近年田畑が埋め立てられ住宅の建設が進んでいる。特に一丁目の県病院跡地は近い将来の宅地開発により、若い人たちで賑わうことであろう。

 阿品台は昭和53年ころより入居の始まった県により造成された住宅団地であるが、早くから入居してる一・二・三・四丁目は驚くほど高齢化が進んでいる。

 阿品台東は390戸、西は700戸の県営住宅があるが、若い方や子どもたちがたくさん住んでおり75歳以上人口は5%未満と驚くほど少ない。

e0125014_1021898.jpg

 阿品台は高台にあり高齢者が低地に転居される方も多いらしい。不動産業者の話によると、阿品台では売り家の話があっても買い手が少ない。反対に阿品一・二丁目で土地を買い求める希望者はあるが、売地が滅多に出ないそうである。

 つい最近、JR阿品駅すぐ裏の畑が埋め立てられ宅地の造成が行われている。
by hirosan_kimura | 2016-07-07 12:11 | 社会 | Comments(7)
e0125014_11361341.jpg昭和56年5月23日 阿品公民館オープン 
 
 地御前のふるさとの匂いが、いまだに残っている山陽本線のほとりに阿品公民館ができました。
 風薫る新緑に浮かぶその姿は、阿品地区住民の心のつながりの場であり、学習の場でもあるべき公民館本来の役割を、象徴しているともいえるでしょう。

 地域の人々に愛され親しまれる公民館を念願し、地域の人々と共にそのんsksみを、創造していきたいと考えております。ご意見ご希望を率直にお寄せください。

 先般実施しましたアンケートにつきましては、町内会長さんをはじめ、皆様のご協力をいただきありがとうございました。この結果にもとづき教室・クラブの活動を、7月中旬より開始いたします。近日中に阿品公民館だよりで、会員の募集を行ないますが、多数ご参加いただきますようおまちしております。

 人の集まる場所は集会所程度の広さしかなかった阿品地区に、立派な公民館が出来たのは阿品地区住民には大きな喜びであったが、それまで慣れ親しんできた地御前公民館との別れでもあった。公民館を利用するのに地域の制限はなかったが、地御前公民館に長年習い事に行っていた母が、阿品公民館完成後に友達もたくさん居り慣れ親しんだ地御前公民館に行った際「阿品にも公民館が有るのに何故地御前公民館に来るのか」と言われて寂しかったと話したことがあった。

 小学校区も変わり長年一心同体で付き合ってきた地御前地区と、少しずつ縁が薄くなって行くことは阿品地区住民にとっては寂しい限りであった。

 阿品公民館の初代館長は「高橋攝助先生」であった。この先生は地御前小学校に長年教職に就いて居られた方で、自分も3・4年生の時の担任の先生である。非常に厳しい先生であったが特技は授業中に無駄話などしている子ども目がけてチョークを投げて当てることであった。教壇から後ろの席の子どもに投げても当てられるとような驚くべき命中力であった。

 今の時代なら子ども目がけて頭や顔にチョークを投げたりすると、暴力だとと問題になるかも分からないが当時は投げられた子どもが悪いのだと問題にもならなかった。

 このように非常に厳しい先生であったが、子どもたちにも地域の大人にも親しまれていた。高橋先生が館長になられた当時は、公民館に用事が無くても成人した子どもたちも地域の人々も先生を訪ねては、昔話や世間話をしに行っていた。地域の人々に親しまれていた高橋先生も亡くなられて久しい。
by hirosan_kimura | 2014-01-17 11:57 | 社会 | Comments(4)

№543 阿品の集会所

e0125014_1538367.jpg
 地域のコミュニティ活動を推進するため、市内にはたくさんの集会所がある。

 阿品・阿品台地域では市有13(赤)、共同住宅併設6(青)、地元所有2(緑)、各戸区分所有9(ピンク)と30箇所の集会所がある。これ以外に各マンションでは建物内に集会室が設けられている。

 廿日市市では新しく合併した地区では集会所の整備は様々で、用地も建物の地元負担で行なう、用地は地元が提供する、建設費の一部は補助するがあとは地元負担など様々であった。

 旧廿日市市では小学校区毎に11ヶ所の公民館があり多人数の集会は公民館を利用し、地域の少人数の集会は集会所を利用と言うことで、歩いて行ける範囲半径300m以内に一箇所の集会所を整備することとしていた。

 敷地は一箇所250㎡を基準とし、建物は100㎡を目安としていたが後に車椅子で便所を使用出来るようにと110㎡となった。これも目安であり敷地の大小、建物の利用世帯が少ない場合は110㎡より狭い箇所もある。

 集合住宅併設は県営住宅に5箇所、県警官舎1箇所の6集会所があるが建物は県が整備している。

 地元所有は鰆浜とふじタウンの2箇所である。鰆浜は廿日市ニュータウン開発時に県が整備し地元に移管している。ふじタウンは宅地開発をした業者が整備したものである。

 ユニークなのは阿品台北タウンハウスの集会所である。タウンハウスは390世帯程度あるが、3社の住宅メーカーが3期に渡って住宅を建てたが、40世帯程度に一箇所の集会所が整備されている。この集会所は小さな部屋が一室ある程度で、各世帯の区分所有になっている。余りにも小さな集会所で使い勝手が悪く狭い範囲に9箇所もあるので、一時市に引き取って欲しいとか廃止したいとの声が出たこともあったが、今でも活用されているらしい。

 いずれの集会所も管理は地域で行なっており、市からの補助金は僅かな額で維持管理費の捻出に様々な方法が採られているようである。使用者から利用料を徴収する所。町内会・自治会等から支出し地域の人の利用は無料とする所もある。利用の少ない曜日に塾に貸しその利用料で経費を賄う所もあるらしい。

 今では殆ど無いが通夜や葬式に集会所を貸し出し、葬式があれば集会所に利用料が入るので助かると言うこともあった。

 利用に当っては利用者のの責任によりある程自由に使用出来るところ、細かい規則を作り制約の多いところと様々であるが、地域の人が気軽に使える集会所になることも大切である。

 いずれにしても地域の強い要望により整備された集会所であるが、人々の出入りで賑わう集会所、いつも閑古鳥が鳴いており使用されているのがめったに無い集会所もある。

 集会所の利用状況を見れば、その地域のコミュニティ活動が活発に行なわれているか、地域の団結力が強いかを伺うことが出来る。
by hirosan_kimura | 2013-05-10 11:00 | 社会 | Comments(0)
e0125014_938573.jpg
 阿品地域には小学校区ごとにふたつのコミュニティ組織が結成されている。「阿品地区コミュニティをすすめる会」と「阿品台地区コミュニティをすすめる会」である。

 旧廿日市市区域では小学校毎に11ケ所のコミュニティ組織が結成されているが、最初に組織が結成されたのは地御前地区で昭和52年6月5日に組織が出来た。これは昭和51年に当時の宮沢広島県知事が地御前に来られ、地域コミュニティの重要性を説かれたのがきっかけで、地御前地区を県内のモデル地区に指定されたことによるものである。

 当時は阿品地域も「地御前地区コミュニティ推進協議会」に含まれていたが、阿品台東小学校の開校により学校区の変更があり、昭和56年11月8日に「阿品地区コミュニティをすすめる会」が発足することとなった。この時点では阿品台地区も阿品地区に含まれていた。

 その後、阿品台西小学校の開校もあり昭和58年6月12日に「阿品台地区コミュニティをすすめる会」が発足し、阿品地区と阿品台地区が分離し現在に至っている。

 その後、新しい組織の結成は数年見られなかったが住民間の交流も希薄化する中で、市もコミュニティ組織の重要性を認識し他地域へも組織の結成化を推進することとなった。当時は市民間にもコミュニティの言葉そのものも理解されていず、各地域には町内会・老人クラブや福祉・衛生関係などたくさの組織があるのに屋上屋を重ねることは無い。町内会が中心となって地域作りをすれば住むことであるなどと、中々前に進むこともなかった。

 この間、市も地域に出向いてコミュニティ活動の重要性を説いて回るうち、少しづつ地域に理解も得られることになり、平成元年4月に宮内地区、同年5月串戸地区、同年9月佐方地区に組織が結成された。その後、平成2年宮園・廿日市地区、平成3年平良地区、平成4年四季が丘・原地区が結成の至りとなり、全小学校区への組織化がなったのである。

 結成化されれば市から補助金が出るが、この補助金を目当てに組織が立ち上げられた地区もあった。現在の補助金額は分からないが、当時は一地区均等額10万円に人口千人当り1万円で限度額20万円であった。

 また、結成はされたものの既存の組織との調整で揉めさん返り、今までうまく行っていた地区内がかえって不穏な雰囲気になってしまったと、市に苦情が持ち込まれるような有様もあった。紆余曲折もありながら地域の人たちの創意と工夫により、佐方地区のように市民センターの運営を地域で行なうまでになった地区もある。

 コミュニティ組織も成熟し各地区とも様々な取り組みが行なわれているが、問題なのはコミュニティ組織の地域と小学校区が異なる地域が一部あることであろう。阿品地域でも阿品一丁目は阿品台東小学校区、コミュニティは阿品地区。阿品台西地区は阿品台西小学校区、コミュニティは阿品台地区となっている。

 今では小学校と地域との連携は以前と比べて希薄化しているが、何かにつけて学校区とコミュニティ区が異なるのは問題も多く、そのしわ寄せは子どもたちに行っているのではなかろうか。

 今では世代も変わり以前とは違うが、祖父の時代、曽祖父の時代から地御前小学校と地域は一体となっての付き合いであった。学校区の変更により阿品地区と地御前地区は切り離されてしまった。その時は阿品の人々は一抹の寂しさを感じたものである。
by hirosan_kimura | 2013-05-08 11:27 | 社会 | Comments(0)

№229 阿品公民館

e0125014_16112890.jpg
 土曜日と日曜日に阿品公民館の公民館祭があった。
 
廿日市市内の公民館は「市民センター」となっており、市民センター祭が正しいのであろうが、長年、公民館と呼んでいたので、今でも公民館と言った方が馴染みがある。

 10時半頃覗いてみたが、早かったせいか来場者も溢れるばかりとまでは言えないまでも、かなりのの人が来ておられた。

 駐車場にはバザーやうどんなどの出店、館内では公民館で活動しておられるサークル等の展示物や、催しものが行われていた。

 これだけの行事を行うには、職員を始め実行委員の人達が企画・準備・当日の運営と大変であっただろう。

e0125014_16142521.jpg


 廿日市では小学校区に一箇所公民館が整備されている。

 阿品公民館は昭和56年3月に完成している。敷地面積は872.95㎡。RC三階建てで延床面積872㎡。工費は1億3,400万円であった。

 開館間もなく落成式が行われ地域を挙げてお祝いをしたが、その中で祝いの餅つきが行われ。餅つきに合わせて「餅つき唄」を歌ったのも懐かしい思い出である。

 開館準備等もあり、事業開始は5月23日からであるが、初代館長は高橋先生であった。

 あえて先生と呼ぶのは小学校時代の恩師だからである。小学校の3・4年生で二年間の担当であった。

 高橋先生は、普段は優しい先生であったが、怒られると震えあがるほど恐ろしい先生であった。この先生の特技はチョーク投げであった。

 授業中、席で無駄話などしているといきなりチョークを額目がけて投げられるのである。命中率が抜群で、後方の席であっても教壇から投げられたチョークが、見事に目掛けた児童の額に命中していた。

 先生にチョークを投げられた児童はたくさんいたが、それを恨みになど思う者はなく、卒業後の同窓会などではいつもその話題がでていたものである。

 当時の先生は今と違い、児童・保護者・地域の人にも慕わられ、高橋先生が阿品公民館の館長になられた時は、地域では喜び歓迎したものであった。

 その先生は惜しいことには早くに亡くなられた。

 阿品に公民館整備の話が出た時、建設場所について随分議論があったようである。

 阿品と言えば、鰆浜部落(今阿品一丁目)と阿品部落(今の阿品二丁目)が主であったが、どちらも自分に有利な意見を譲らず、鰆浜と阿品の中間の山を造成して建てたらとの案も出たが、さすがにその案は認められず、結局今の場所に整備されたらしい。

 当時はJR駅も無かったが、その後公民館の目の前にJR駅が整備され、広電阿品駅とも横断歩道で結ばれ交通の便は抜群の公民館となった。

 このため、JRや広電を利用し阿品地域以外の利用者もたくさんおられるのではなかろうか。
by hirosan_kimura | 2009-10-19 17:19 | 社会 | Comments(0)

№135 旧公民館

e0125014_152147.jpg
 今から約50年位前の昭和35年4月、阿品地区に公民館が建てられた。

 場所は阿品部落の国道を少し奥に入った所であった。今では民家が建てられている。

 公民館と言っても集会所を広くした程度の木造平屋の建物であった。勿論常駐の職員などいず、管理は地元で行っていた。

 それでも狭くて古い、地元でクラブと呼んでいた施設を長年使用して来た地域にとっては、待ち望んだ施設であった。〔№120参照)

 小さな舞台のついた板敷きの広い部屋、畳6畳くらいの和室、トイレと物入れがあるだけの施設であったが、地域の集会や選挙の投票所(№106)、その他会合等が行われ、阿品地域で唯一の文化施設であった。

 5月22日には完成祝賀会が行われた。地域住民挙げての参列の元、来賓多数が招かれ祝典・地元民による演芸・祝宴等が盛大に挙行され、当日はお祝い気分で盛り上がった。

e0125014_15214762.jpg
 昭和58年4月1日に、今のJR阿品駅裏に鉄筋コンクリート3階建の公民館が落成した。旧公民館用地は借地であったことにもよるが、長年阿品地区住民に親しまれてきた旧公民館は、新公民館開館後間もなく、その役割を終え解体された。

 ネタが切れそうなので今後は、土・日曜・祝祭日は休稿とする。次回投稿30日。
by hirosan_kimura | 2009-04-28 05:29 | 社会 | Comments(0)

№120 阿品のクラブ

e0125014_1113518.jpg

 かつて阿品に地元の人が「クラブ」と呼んだ施設があった。今で言う集会所的な建物であったが、敷地も狭く余り立派な建物で無かったような記憶がある。

 この建物が建てられたのは、大正の終わり頃か昭和の初めが頃ではないかと言われているが、詳しいことは分からない。

 建てられた当時は、阿品には皆が集まれるような施設が無く、阿品よりハワイに移民された篤志家の寄附により建てられたらしい。土地は地域の方の借地であった。

 建物も余り広くなく、人々がぎゅうぎゅう詰めに入っても5~60人くらいで動きが取れないくらいで在ったらしい。

 このような施設であったが、地域の共有財産として「クラブ」と親しみを込めて呼ばれ、長年様々の集会や行事が行われ、大切に使われていた。

 何歳くらいであったかはっきりしないが、幼い日の夕刻頃、母親に連れられて無声映画を見に行ったことをかすかに覚えている。

 映画の中味は覚えていないが、当然白黒映画で、弁士の人が何やら怒鳴るような声で説明したような記憶がある。遠い日の思い出である。

 その後、阿品の国道近くに公民館が出来、いつの間にかクラブは使われなくなった。公民館と言ってはいたが、集会所と同様の施設であった。この集会所も阿品公民館が整備された後に解体された。

 クラブは昭和44年10月頃解体されたと言うことである。
by hirosan_kimura | 2009-04-13 06:06 | 社会 | Comments(0)

№112 生活改善

e0125014_1863358.jpg

昭和30年9月1日 村広報紙による阿品の紹介

「新生活の部落を目指して」
 村の端にあり、ともすれば色々な公民館行事に参加するのに、不便があった阿品部落では、春の農繁期前に部落の婦人会のあいだで、生活改善の事について研究しようと声がもり上がり、それもただ婦人だけの会合とせず、部落全体の活動にしようというので、中田村議やPTAの原田委員長、精農家の本田さんなどの肝いりで、第一回会合を郡の生活改善普及員の清光さんを招き、「農繁期料理講習会」が行われました。

 続いて第二回は植上がりに、PTAの連絡会をかね、第三回は八月十八日に、阿品部落公民館で夏の料理講習を行っています。

 九月は子供のおやつの作り方、十月はお祭りをひかえて、お客様料理の講習の身近な問題、そしてだんだんに衣・住・保健衛生へと回を重ねて、お互いが生活の向上に努力しようと、会員四十名は明るい希望をもっていますと、班長格の岡田さん話しています。

 試食後「ママのひとりごと」の合唱や、婦人会服を皆で作り、会合等の服装改善を行う相談や、公民館の一部を改装してモデル台所を作り共同利用しようという計画のはなしなど、一つ一つの夢が実現されて、ほんとうに新生活運動が地御前の一角から呱々の声を上げています。

註 ここで指す公民館とは、丸市さんと本田さんの間に在った「クラブ」と思わ    れる。
by hirosan_kimura | 2009-04-05 03:50 | 社会 | Comments(0)
e0125014_13251587.jpg  廿日市市高齢者ケアセンターは、阿品四丁目の丘の上にある。広島湾を眼下に見下ろし、厳島・遠くは瀬戸の島々が展望できる素晴らしい場所にある。この施設は平成7年2月に竣工している。

 敷地面積約7,000㎡、建物は鉄筋コンクリート三階(一部四階)で、建物延床面積5,700㎡の施設である。

 この施設は市の保健福祉研修センター、特別養護老人ホーム、ケアハウス、ディサービスセンター、在宅介護支援センター等の機能を備える。

 開設当時は、医師会事務局・訪問看護センターも併設されていたが、別の場所に商工保健開館が整備された際移転し今は無い。

 平成17年4月には、ケアセンター内に廿日市市で初の「障害児ディサービスセンター」の事業が開始されている。

 この施設が出来るまでは廿日市市内の特別養護老人ホームは、昭和46年10月に開設された原の奥にある「清鈴園」のみであった。

 今では福祉施設は便利の良い街中にあるが、「清鈴園」が整備された頃はこのような施設は、人里離れた山奥に整備するのが当たり前と云う時代であった。

 この施設は定員も少なく、入所するには何年も順番を待たなければならず、やっと順番が来たらその人はすでに亡くなっていたということは珍しくなかった。

 このような状況の中で新しい施設の整備が急務であったが、廿日市市は市域も狭く土地価格が高いため、新規に土地を購入し施設も整備するとなると、それだけの資金力のある法人は中々存在しなかった。

 そこで福祉関係者は阿品四丁目の市有地に目を付け、その土地を貸与し長年 市の福祉施策に貢献された法人に建物を整備して貰う案を出した。

 ところが宮島を見下ろす一等地の市有地に、高齢者の施設を整備することは、勿体ないことでとんでもないとの考えが主流であった。当時市内には宿泊施設もなく、その土地に宿泊施設を誘致する案が先行していた。

 そこで福祉関係者は有識者からなる任意の団体を作り、その力を借りて高齢者施設整備の方策を模索したが、長い期間前に進むことは無かった。

  その内市長が交替したが、新市長の「長年社会に貢献されてきた高齢者にこそ、便利の良い風光明媚な場所に施設を整備するべきだ」との方針の元に急展開することとなった。

 ひとつの施設を整備するためには時間を掛けて計画し、県と協議しながら認可に向けて補助金申請の手続きを進めるのが通常である。

 当時は各地で施設整備要望も多く、限られた国の予算の中で補助金の獲得は困難な状況であった。近辺では旧佐伯町や島嶼部で施設整備の計画が進められ、早くから県との協議を行っていた。

 こうした中、廿日市市内への施設整備の協議に県の担当に行ったところ、けんもほろろで「他の自治体は県と連携をとりながら長い期間掛けて計画している中、突然このような協議に来るとは廿日市は何を考えているのか」と反対に怒られ、すごすごと帰ったのを今でも思い出す。

 その後、関係者の熱意と努力でようやく認可されることとなった。

 総事業費は15億2700万円。用地は市が貸与することとし、整備費の一部4億1300万円を市が負担し、法人と市共同で整備したものである。

 整備当初は風光明媚な場所の施設として、全国各地からの視察も殺到していた。

 今は亡き母もこの施設のディサービスを定期的に利用していたが、ある時「今日はどこに行ったのか」と訊ねると、痴呆の始まっていた母は「友達とバスに乗って、知らない島の温泉に行ってきた」などと答えるので、苦笑したことが懐かしく思い出される。
 
by hirosan_kimura | 2009-03-17 04:45 | 社会 | Comments(0)
 児童養護施設「光の園」は、原爆で親を亡くした子どもの施設として、昭和22年(1947年)4月 当時の安佐郡祇園町の三菱重工広島製作所労務課の建物を利用し事業開始された。開始当初は18名の子どもで出発した。

 昭和23年3月には広島市基町の第五師団兵器部西町倉庫跡に移転している。昭和27年12月には厚生大臣から社会福祉法人の認可を受けている。

 この地は国よりの借地であったが立ち退きを迫られ、新たな移転用地を探していた所、地御前の篤志家の方が私有地5,000坪を寄附された。

 今でこそ阿品台団地と同じ高さの敷地となっているが、当時は見上げるような山の上で、そこに至る道路は地御前神社南側の天井の低いガード下を潜って行く細い道しかなかった。

 整地は米軍岩国基地の兵士が休日ごとに奉仕作業で行ったが、手作業のため極めて能率の悪いものであった。
e0125014_1029366.jpg

 写真でははっきり分からないが、豆粒のように写っているのは、たくさんのアメリカ軍兵士がスコップや鶴嘴で山を削っているものである。

 余りにも作業が捗らないので、ブルトーザーを搬入しようとしたが、唯一の道路である鉄道のガード下は、巾も天井高も低く重機を入れることが出来ない。

 そこで国鉄トンネルを出たあたり、今のバイパスの橋の架かっている辺りから搬入することとした。線路用地は一段と低くなっているため、国鉄の運行を一時ストップし木材や柴を線路上に敷き詰め、その上をブルトーザーを通し線路の反対側に渡した。

 今は無いが近くに「井上日本瓦製作所」と云う瓦工場があった。瓦を焼くためには沢山の燃料が必要であった。このためこの工場には燃料の薪や柴が山積みされていた。ブルトーザーを渡す線路の上に敷く木材や柴は、この工場から運んだと聞いたような気がする。

 今では、一施設の敷地造成のため国鉄の運行を止めるなど考えられないが、さすが米軍の威力はものすごいものであった。重機の稼働により造成工事の能率は飛躍的にアップした。

 作業の合間に兵士たちは、地御前神社や地御前小学校周辺に良く遊びに来ていた。子ども達は休憩時間や放課後珍しいので兵士に付きまとっていた。

 兵士達はジープの上からチューインガムや十円玉をばら撒き、子ども達が競って拾らうのを面白がっていた。後でこれを聞いた担任の先生が、「日本は戦争に敗れたが誇りを無くしてはならない。兵士がばら撒くのを拾うような情け無いことはしないように」と涙ながらに話されたのを思い出す。

e0125014_10293249.jpg
 こうして昭和31年1月20日建物も完成して広島市より移転することとなった。園児数は72名。建物の延坪は約500坪であった。
同時に子ども達は地御前小学校・七尾中学校に転校した。

 未就学児は当初、地御前保育所に通所していたが、養護施設・保育所に国のお金がつぎ込まれており、措置費の二重払いとの指摘を受け、その後施設内に保育所が開所している。

 阿品台団地の完成により、「光の園」と阿品を分断していた山も削られ、団地の住宅と一体化しているが、「光の園」の住所は今でも「廿日市市地御前」のままである。

 児童の施設であった「光の園」も平成2年10月1日に、市内で最初のケアハウス「インマヌエルホーム」が開設され、同時にディサービスセンターの事業も行われた。 
by hirosan_kimura | 2009-03-14 04:49 | 社会 | Comments(0)