素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:幼小中( 21 )

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 先週の水曜日に阿品台西小学校三年生を対象に、阿品の昔の話をしに行った。平成18年に話をしに行ったのが最初で、今年で10回目位になる。

 当初は児童5~6名に保護者一人が付き添い、近くの集会所や自宅に子どもたちが来て話をしていた。子どもたちも学校から自宅まで歩いてきたり、話が済むと学校まで帰るのも大変であるし、たくさんの保護者が協力しなければならないので、今では話をする者が学校に行っている。

 三年生の子どもたちが一グループ15人程度に別れ、昔の阿品についての話を聞く。①昔の学校 ②昔の風景・建物 ③昔の祭りや芸能 ④昔の道具 ⑤昔の遊びの5グループでそれぞれ地域の人が一人か二人で子どもたちに話すものである。

 自分がいつも担当するのは「阿品の昔の風景・建物」である。相手が三年生とは言えいい加減な話も出来ないので、毎回かなりの事前準備をしていく。他のグループではどのようにしておられるのか分からないが、自分は昔の写真や絵図を小さなパネルにして説明を行っている。

 子どもたちは熱心に話を聞いてくれるが20分くらい説明し、後で子どもたちが様々な質問をする。あらかじめ子どもたちの質問内容を確認し事前に先生が連絡してくださるが、突然子どもたちがとんでもない質問をして呉れるので、いつも緊張をしている。

 例年の通り、阿品は海と山に囲まれ田畑がたくさんあり家も人口も少なかったが、山を削り谷を埋め「ふじタウンや阿品台ニュータウン」が造成され家がたくさん建てられた。阿品三丁目は海の中であったなどの説明をした。

 説明が終り質問の時間にある子どもが「三丁目の人たちは息が苦しくなかったのか」と尋ねてきた。一瞬何を言っているのか戸惑っていると、「三丁目の人たちは酸素マスクをしていたのか」と聞いてきた。

 これを聞いて理解できたが「三丁目は昔海の中であった」と説明したのを聞いた子どもは、「三丁目は海の中に家があり、人々は海中で生活をしていた」と解釈したらしい。

 改めて、昔は電車線路までが陸地で、その沖の海を土砂で埋め立てて陸地にして家を建てて人が住むようになったと説明しなおしたが、子どもの思いつきにビックリすると同時に、三年生にも易しく理解出来るような説明が必要だと反省した。

 数年前のことであるが一通りの説明が終わって質問で、「昔は阿品から中国まで歩いて行けたが、何日あれば中国まで行けたのか」と言うような質問があった。何千年か何万年前か分からないが、大陸と日本が続いた時代の話をどこかで聞いた質問であろう。

 「阿品の昔」とは関係の無い想定外の質問で、「大昔のことで調べていないので、先生に調べてもらってください」とお茶を濁しておいたが、先生もさぞ迷惑であっただろう。子どもたちの発想には驚かされるばかりである。

 昔の話では無いが今は無い「ナタリー遊園地」の話をしたり、写真を見せると子どもたちが目を輝かせて聞いてくれるのは面白い。
by hirosan_kimura | 2015-02-05 11:43 | 幼小中 | Comments(4)
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 現在の学校では入学式や卒業式など全校生徒が集合する際は体育館を利用している。昔の学校には体育館など無く大半の学校には講堂があった。今の子どもたちには講堂と言っても分からないのではなかろうか。

 昭和26年4月に小学校に入学した時は、地御前小学校では大正12年に建築された木造の校舎のままであった。正門の正面に二階建ての管理棟があり、その裏に二階建ての教室と平屋の教室がコの字形に建っていた。

 管理棟の一階は職員室・校長室・保健室がありその二階が講堂となっていた。しかしこの建物はあまりにも古く、二階の講堂にたくさん人が入ると建物が揺れるとか潰れるのではないかと言われていた。講堂に全校生徒が集合したような記憶は残っていない。

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 こうした中、昭和26年10月に管理棟の脇に新しい講堂の新築工事が開始された。
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 この建物は翌年春に完成し、5月3日には落成式が盛大に行われ餅まきなども行われた。今では餅まきも余り目にすることも少ないが、当時は一般の家でも家を新築すると餅まきを行うのが当たり前で、餅まきがあることを聞きつけると大勢の人が集まり、撒かれる餅を夢中になって拾い集めたものである。

 新しい新しく出来た建物は赤い瓦にピンクのような壁で当時ではとても洒落た建物におもえた。この建物は講堂として学校の行事のみに使われるのでなく、村人の集まる行事にはいつもこの建物が使われていた。講堂に併設して当時は活発であった青年団専用の部屋もあり、学校の講堂と公民館を合わせたような施設であった。

 今では余り聞かないが年に一回小学校の学芸会では、大勢の村人がご馳走を持参で一日中楽しんだものである。また年に何回かは映画の上映会が行われ、娯楽の少なかった当時、家族や兄弟総出で見に行くのも大きな楽しみであった。何回か見に行った映画ではあるが不思議とどんな映画であったか記憶に残っていない。

 その後木造の校舎は昭和30年ころ解体され新しい校舎に生まれ変わっている。木造の管理棟も今は無く、新しい講堂もしばらく利用されていたがいつの時代か分からないが解体された。今では道を挟んで立派な体育館が整備されている。
by hirosan_kimura | 2014-10-22 14:15 | 幼小中 | Comments(4)
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 昭和54年4月に「阿品台東小学校」が開校した。今から37年前である。阿品台に大型団地が造成されたため地御前小学校から分離したが、開校時の児童数は177名であった。

  この小学校は団地内に新設されたが阿品の子ども達も全員転校することとなった。それまでは地御前小学校に通学していた。今から138年前の明治16年に開校された地御前小学校に、曽祖父の代から通学していた学校と離別しなければならないのは寂しい限りであったが、阿品の子どもが全員転校するので従うざるを得なかった。

 右上の赤い部分は「光の園」、阿品台に属さず地御前地番のままであるが、阿品台に隣接しているので阿品台東小学校区となっている。

 新しい学校は団地の丘の上にあり阿品全体から見れば端の方にあったが、それまで通学していた地御前小学校のことを思えば大半の者は近くなった。

 しかし阿品一丁目の東端の「光が丘」団地は、直線距離でいえば小学校に近いが間にJRのトンネルが通過する山があり、国道を迂回すればかなりの距離があった。そのため道とも言えない山道を越えて通学する子どもたちもいた。

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 開校時には177名の児童数でスタートした東小学校も、団地への入居が進み児童の多いときには1,150名のマンモス校となった。このため昭和58年4月1日に「阿品台西小学校」が開校した。学校区は阿品台西・阿品台山の手と阿品一丁目から四丁目の阿品全体とされた。

 このため子どもの中には、入学は地御前小学校、二年生で阿品台東小学校、六年生で阿品台西小学校と住まいは変わらないのに小学校を何回も転校しなければならな子どももあった。

 阿品一丁目から西小学校は遠いので、校区を変えないで欲しいとの地域の要望も出されていた。

 また地御前小学校から阿品台東小学校へ校区が変わって4年経過すれば、地域と学校の連携や保護者同との交流も深まり転校には強い反発もあった。

 また阿品一丁目と二丁目は振興団地と異なり遠い昔より深い絆で結ばれていたので、一丁目・二丁目が離れず東小学校へ残りたいたの強い要望があった。

 しかしそのような願いも受けいられず阿品全体が西小学校への校区決定がされた。阿品二丁目は比較的西小学校へ近いので止む無く校区の変更に従う者もあったが、絶対認めないと頑張る人もあった。

 阿品一丁目は西小学校が遠いので、西小が開校しても校区変更の許可申請を教育委員会に出し東小学校に通学する子どもたちが大半であった。一丁目で西小学校に転校する者もあったがその人数は僅かで、規則通りの学校に通学する子どもの方が奇異に思われるほどであった。

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 こうした事態に教育委員会も放置することが出来ず、阿品台西小学校が開校して6年目にやっと阿品一丁目の校区が阿品台東小学校へと規則が改正された。

 こうして阿品の一丁目は阿品台東小学校区、阿品二~四丁目は阿品台西小学校区となった。しかし遠い昔から深い絆で結ばれていた阿品一丁目と二丁目は、小学校区とコミュニティ区が異なると言う弊害を生じている。
by hirosan_kimura | 2014-02-05 15:00 | 幼小中 | Comments(0)
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 阿品台中学校は昭和56年4月1日(今から33年前)に開校した。この中学校が開校するまでは阿品の子ども達は七尾中学校に通学していた。阿品台中学校の校区は阿品と阿品台地区であるが、中学校のある場所はこの地域の端っことなっている。光の園は阿品台に含まれず地御前の地番であるが、阿品台東小学校区となっている。

 学校から一番遠いのは阿品三丁目であるが、結構遠く坂道を登って行かなければならない。七尾中学校に通っていた当時に比べると比較にならないくらい近くなったが、過去の経緯を知らない人にとっては学校は通学地域の真ん中にあるのが当然なのに、何故校区の外れに中学校があるのか不思議に思う人もあるらしい。

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 七尾中学校から分離した当時の阿品台中学校は阿品台東小学校と地御前小学校が校区となっていた。この時には両小学校区の中間当りに中学校があり違和感はなかった。

 その後宮内地区の人口が急増し七尾中学校では生徒数が多くなり対応が難しくなってきた。阿品台中学校区も人口が急増していた。そのため地御前小学校と宮内小学校を校区とする新しい中学校を新設することとなり、野坂中学校が開校した。

 開校時は校区の真ん中にあった阿品台中学校も、地御前小学校区が野坂中学校区へと分離したため校区の外れに中学校がある状態になってしまった。
by hirosan_kimura | 2014-01-24 13:50 | 幼小中 | Comments(0)
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 地御前阿品地区の廿日市ニュータウンに、新築工事がいそがれていた東小学校が完成し、昭和54年4月6日から開校のはこびとなりました。

 校地面積は2万8,747・01㎡で校舎等の建物延面積は、すべて完成すると4,462.10㎡、体育館は1,154・51㎡となります。

 建物の総工費は5億円でこのたびは第一期工事で、普通教室棟と体育館です。続いて5月末までに特別教室、管理棟が完成し、7月はじめまでにはプール等所設備の全てが完成する予定です。

学区の変更 昭和54年4月から適用
 昭和54年4月より開校される、阿品台東小学校の学区をつぎのように設定しますので、ご協力ください。
◎バイパス以西、有府川の延長および阿品高通線以南(地御前小学校区 は、前記阿品台東小学校区を除く地御前地区
◎七尾中学校区に編入

 この学校区の変更により、阿品地区の子ども達は祖父や曽祖父の時代から通いなれた、地御前小学校と離れなければならなくなった。
by hirosan_kimura | 2014-01-16 10:49 | 幼小中 | Comments(0)

№571 保育所

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 現在、阿品地域には阿品台東保育園・阿品台西保育園の2園の市立保育園がある。東保育園は昭和57年4月に開園しているが「ふじタウン」が完成した頃である。その後児童の増加により昭和60年4月に西保育園が開園した。西保育園についてはこのブログ№206で紹介している。

 阿品台東保育園が開園するまでは阿品の子どもたちは地御前保育園に通園していた。地御前保育園は遠いいようであるが、現在、三十数歳以上の子どもたちは地御前保育園に通園するのが当たり前と思っていた。

 地御前保育園の沿革は終戦後、正行寺を利用して農繁期の託児所が開設されたのが最初である。この託児所については№490で紹介している。

 その後昭和26年にお寺を利用して定員50名で保育所として認定されている。保育園の施設はお寺の本堂と前庭を園庭として活用していたが、子どもたちは本堂の中をかけりまわり本尊を悪戯したりするので、僧侶は機嫌が悪く保母さんが怒られることがしばしばだったそうである。

 昭和27年4月にはお寺の裏の畑を潰して木造平屋の園舎が新築され、地御前村立保育所が開所している。昭和42年9月には道を挟んで向かい側に新しい園舎が新築移転された。現在の保育園がある場所であった。この園舎は旧施設とは比較にならない立派なものであった。しかし六角形の保育室を繋いだような園舎で屋根はブリキで天井は低く夏には室内が高温になり、午後の午睡時間には子どもたちは汗だくで寝る始末であった。その上屋根が複雑で新築間もなく雨漏りが続いていた。

 特に屋根の継ぎ目の雨漏りがひどく直しても直しても雨漏りは止まらなかった。ある雨の日に所長から電話が有り、「すぐ見に来てください。廊下を歩くのに子どもたちが傘をささなければならない」とあり冗談かと思って行ってみれば誠に悲惨な状態であった。その後屋根のトタンを撤去してスレート葺きに改築したが小さな雨漏りは続いていた。この建物も取り壊され今では新しい施設に建て替えられている。

 現在、保育園の送迎は保護者が付添うのが当たり前であるが当時は保母さんたちが送迎していた。朝は何人かの保母さんが分担して保育所から遠い場所まで迎えに行き、保育所に向かう途中で子どもたちを迎えながら行き、帰りは保育所からそのコースの子どもたちを何人か引きつれ最後の家の場所まで送って行っていた。

 阿品地域では保育所から遠いので毎日阿品駅(現在の阿品東駅)まで保母さん迎えに来て電車で地御前駅まで行きそこから歩いて保育所まで行っていた。帰りも同じく阿品駅まで保母さんが送りに来て駅で解散していた。自宅から阿品駅までは殆どの子どもたちが一人で行くことが多かったが、車の通行も少なく不審者など居ない長閑な時代であった。保母さんによる送迎も昭和40年代の初め頃、三歳未満時の保育が開始されて保護者による送迎となっている。

 役所で保育の担当期間が長かったので、なにかにつけて保育所職員と旅行に行ったり飲み食いを良くおこなっていた。一杯飲むと昔の苦労話が良く出ていた。一人の保母の担当児童数は40~50人が当たり前で、一人で70~80人くらい見たこともあったなど嘘のような話。園庭の遊具はブランコと滑り台くらい、室内の遊具も少なく折り紙くらい。保育料は保育所職員が家庭を徴収して廻り、冗談であろうが徴収の成績が悪いと払うお金が役場に無いので給料が払えないと言われたことなど、今の保育園職員が聞いたらビックリしそうである。

 この文で保育所と保育園の文言が入り混じっているが法律上は今でも「保育所」となって児童福祉法でも「保育所」と明記されている。市でも以前は条例規則などで「保育所」と定められていたが、現在では「保育園」となっている。しかし子どもたちは何十年もまえから「所長さん」と言わず「園長先生」と呼称していた。

 何十年前と言えば、保育士一人当たりの受け人数は、0歳児3人、1・2歳児6人・3歳児20人、4・5歳児30人と長い間改正されていない。少子化問題が深刻な今、もう少し子どもたちに対する予算を大幅に増やすよう政治家は真剣に考えて欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2013-09-18 11:53 | 幼小中 | Comments(0)
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 阿品台西小学校は4月9日に入学式が行なわれ、97名の新一年生が入学してきた。今年度当初の全校児童は532名である。
 小学校入学前の保育園や幼稚園の登園は、保護者が付添っていたが小学校では子どもたちのみで登下校を行なわなければならない。朝の登校は上級生と一緒に行けるが、終業時間の早い一年生は子どもたちのみで下校しなければならないので、下校路毎にグループ編成し地域の人が各2名程度付添うこととなった。
 先週は学校給食が無いので昼前に小学校に集合し、今週は給食終了後の1時30分頃学校を出発した。
 来週からは新一年生も午後の授業が始まり、上級生たちと一緒に下校するのであろうか。

e0125014_14481622.jpg 担当したのは三丁目・四丁目のグループであったが、この地区はマンションも多いので20名以上の新一年生がいる。先頭と最後に大人たち付添ったが、学校を出発する時は二人づつが手をつなぎ二列で整然と歩いていても、その内手を離したりかけりだす子もいて、大声で注意するも中々言うことを聞いてくれない。

 その内、子どもと子どもの間が大きく離れたり、座り込む子どもがいたり中々大変である。大勢の子どもを担任する先生の苦労が偲ばれる。家の近くになると保護者が出迎えており、子どもを親に引渡すと緊張がいっぺんに緩む状況である。

e0125014_2115302.jpg いちごグループは小学校から比較的近い「県警宿舎」まで帰る子どもたち。







e0125014_211666.jpg みかんグループは宮島口東・宮島口上に帰る子どもたち。このグループはおおの東小学校区であるが、阿品台西小学校が近いので校区越えて通学する地域である。






e0125014_2116292.jpg メロングループは阿品二丁目の沖側の子どもたち。








e0125014_21172121.jpg ももグループは小学校すぐ傍の「県営住宅」の子どもたちであるが、隣接の阿品台山の手・福面の子どもたちも含まれる。





e0125014_21174848.jpg りんごグループは阿品二丁目奥の子どもたち。

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 午後も授業のある上級生は休憩時間中で、グランドを走り回って遊んでいる。
by hirosan_kimura | 2013-04-20 11:53 | 幼小中 | Comments(0)

№496 小学校の遠足

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 この写真は昭和29年春に、地御前小学校の子どもたちが遠足で「チチヤス」に向かっている所である。

 地御前を離れて数十年、現在京都に住んでおられる方が偶然このブログを見られ、ネタ切れで困っていることを知って提供して頂いたものである。

 場所は鰆浜の観光道路で今は無い「火立岩」付近である。正面の山は沖山であるが、今では削られて殆ど面影は残っていない。右側の柱は広電の電柱。左側は鵯山(ひよどりやま)の法面である。

 中央は国道であるが当時は観光道路と呼んでいた。全面が白ぽっく見えるが、中央のみコンクリート舗装され両側が2mくらい土のままであった。

 この写真でも分かるように自動車は一台も見えず、たまに車が通過するくらいなので道路わきを子どもたちが手を繋いで歩いても危険ではなかった。

 今の子どもたちの遠足は何処に行っているのか良く分からないが、当時の地御前小学校の遠足は「速谷神社」「海老山」「桜尾城跡」「チチヤス」「大野の滝」「宮島」が定番であった。

 当然バスなどで行くのでなく一年生でも歩いて行くのが当たり前。宮島に行くときも桟橋までは歩いて行っていた。上の写真でも分かるように一年生は六年生の子と一人づつ手を繋いで行っていた。

 小学校から東方面に行く時は何とも思わなかったが、西方面に行く時は阿品から小学校に集合し、また引き返して家の前を通って行くので、阿品の子ども達は家の前で皆が来るのを待っていれば良いのにと思っていた。 その代わり帰りは阿品で解散させてもらえるので、地御前の子ども達は羨ましがっていた。

 当時の子どもたちからみれば、今の子どもたちの食べ物は毎日が大ご馳走に見える。当時の弁当は今の子どもたちから見れば貧しいものであるが、粗末な弁当でも日ごろ食べるものとは違うので弁当を食べるのが大きな楽しみであった。
by hirosan_kimura | 2012-10-16 10:37 | 幼小中 | Comments(0)

№395 修学旅行

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 今回は直接「阿品」とは関係ないが、小学校の修学旅行のことを載せてみた。今から55年前の昭和31年のことである。

 当時は敗戦から10年経過したばかり、今と違って家族で泊りがけで旅行に行くことなどまず考えられず、隣部落の母の実家に泊まった記憶があるくらいである。

 今の子ども達も修学旅行を楽しみにしているが、当事は今の子が楽しみにしているのと違った意味での大イベントであった。

 二泊三日の別府・阿蘇・熊本巡りといっても、旅館に泊まったのは一泊のみ。帰りは夜行の車中泊。椅子も背中を直立にして座り通しであった。

 5月8日 7時30分に小学校に集合し、地御前駅から電車で宮島口駅に行き9時4分発。7時間36分汽車に乗り、4時40分に別府駅に到着し地獄巡り後、旅館に行き宿泊。

 翌日は別府を6時40分発車の汽車に乗り、4時間かかって阿蘇坊中駅着。阿蘇山登山後1時46分発車し、一時間半乗車し3時14分熊本着。

 熊本では熊本城・水前寺公園を見学し、夕方5時20分熊本駅発、11時間21分乗車し5月10日早朝4時41分に宮島口駅到着。

 締めて22時間25分汽車に乗ったことになるが、見学できた時間は僅かな時間であった。

 修学旅行のしおりを見ると今と随分異なっているように思う。

 修学旅行の目的は、「自然美に優れた自国に対する国民的誇りを高め、祖国愛・郷土愛の精神をたかめる」とある。

 行きの車内の弁当は、おむすびの主食と、いたみにくい副食とある。

 間食は、学校で配布するので家から持って行かない。

 米四回分6合持って行く。今時、旅行するとき米持参でないと食事が出来ないとは理解できないであろうが、当時はこれが普通であった。それにしても子どもが四回の食事で米6合必要とは多いような気もする。

 小遣いは300円まで。

 服装は、よく洗濯したほころびのないもの。特に下着は清潔なもの。

 ねま着・下着の着がえは不用。

 入浴の時、ぬいだものは風呂敷に包む。

 汽車の中で寝なさいと言われたら、目をつむりましょう。

 なにもかも恵まれた子ども達が当事の修学旅行の様子をしると、どんな思いがするのであろうか。

 修学旅行にいって半世紀以上経過したが、何もかも珍しく坊主地獄や血の池地獄にびっくりし、阿蘇の雄大さ、熊本城・水前寺公園の美しさ、夜旅館でさわいで先生に大目玉をもらったことなど、懐かしく思い出す今日この頃である。

 参加した児童は、男子44名 女子14名 計58名であった。

 引率は、阿部校長先生、阿品の開業医で校医の吉田繁満先生、担任の菱田・山崎先生、中・低学年で担当であった高橋・池田・津島先生の7名であった。

 泊まった旅館は別府市の「海楽荘」、木造二階建てであまり大きな旅館でなかったような記憶がある。今でも営業されているのであろうか。もし存続しているのなら、機会があれば一度泊まりに行ってみたいものである。 
by hirosan_kimura | 2011-07-07 12:08 | 幼小中 | Comments(0)

№393 安全マップ

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 一時、子どもに対する事件が続き中には殺人までに発展し、子どもを持つ親は戦々恐々になったものである。最近は収まったかのように思われるが、それでも様々な事件、事件に発展しそうな例が後を絶たないらしい。

 事件から子どもを守るため、各地の小学校では安全マップを作成することが進んでいる。地域の人と子ども達が地域を点検し、それぞれの視点で危険な場所を見つけると同時に、子ども達に注意を喚起するものである。

 阿品台西小学校でも四年生を中心に、毎年地域の危険な場所の点検が行われている。今年も6月17日に地域の点検を行い、6月24日に子ども達が纏めた成果の発表会が行われた。

 17日は地域内を20班に編成し、それぞれ子ども4~5人、保護者1名、地域に精通した協力者1名で約2時間程度の地域の点検を行った。

24日には保護者や子ども達と一緒に点検に回った地域の人達も参加し、子ども達がそれぞれの斑毎に成果を発表した。平素、地域のことは良く分かっているつもりでも、子ども達の視点から見ると違った見方もあり、大いに勉強することが出来た。

e0125014_1050393.jpg 「こども110番」が表示されているのを見かけるが、子ども達はこの表示された家などを随分頼りにしていることが分かる。この表示はどこが管轄しているのか分からないが、随分前に選定されその後事情が変わり、「こども110番」の用をなさない建物や個人の家があるように感じる。定期的に点検することが必要ではなかろうか。

e0125014_10511551.jpg 我が町内でも転勤や住んでいた家の高齢者が亡くなり誰も住んでいなかったり、別荘等に使われ結構空き家が多数見受けられる。平素から手入れがされていれば良いが、植木が生い茂り外から見通しがきかない場合は結構危険である。

 こうした空き家は、植木を選定し見通しがきくようにしたり、不要な家屋は撤去して貰うよう持ち主への働きかけが必要である。

e0125014_10515275.jpg わが町内は三方を海に囲まれ堤防があるため、海側は道路よりからの見通しはきかない。海に下りるため三箇所に階段が設けられているが、階段の外は道路から死角となり危険な場所の一つである。

 昼間は結構釣り人があり目が届きやすいが、釣り人の居ない時間帯や夜間は通り掛かる人もなく危険である。

 海側には排水の土管が貫通しているが、この土管は大人でも屈めば侵入することが出来る。潮の満ちているときは進入出来ないが、潮を引いた時間帯は危険な場所のひとつである。

 e0125014_10523616.jpg 公園は道路脇にあり病院や民家に隣接しているので、大人の視点からみれば安全なようであるが、子どもから見れば危険な場所と写るようである。

e0125014_10532141.jpg 町内の入口付近に電鉄会社の資材置き場がある。

 この場所は高いトタンの塀が設けられており、大人でも中に入ることが出来ず危険な場所とは感じなかったが、子ども達はどこから入るのか分からないが、中に入って遊ぶことがあるようである。

 中に入ると外からは全く分からず危険な場所の一つであろう。

e0125014_1054758.jpg わが町内は三方を海に囲まれ堤防があるため、海側は道路よりからの見通しはきかない。

 昼間は結構釣り人があり目が届きやすいが、釣り人の居ない時間帯や夜間は通り掛かる人もなく危険である。

 海側には排水の土管が貫通しているが、この土管は大人でも屈めば侵入することが出来る。潮の満ちているときは進入出来ないが、潮を引いた時間帯は危険な場所のひとつである。
by hirosan_kimura | 2011-06-25 12:44 | 幼小中 | Comments(0)