素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:人口( 6 )

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 昭和28年7月15日号「ぢごぜん広報」に7月1日現在の部落別世帯数・人口が掲載されている。記事の内容は

「男女のつり合は?
 戦争によって女が男より大分多かったが神様はよくされたもので、終戦後八年、男女数の平均がほぼとれてきた。」

 当時の村全体の世帯数は869世帯、人口は3,932人となっている。村の内、「鰆浜」「阿品」部落は飛郷で「阿品地区」、阿品地区を除いたものが本郷と区分されていた。

 当時、飛郷の阿品地区は世帯数は101世帯で村全体の11.6%を占めていた。人口は552人で村全体の14%であった。

 平成26年10月現在では地御前地区と阿品地区を合わせると、世帯数は9,049世帯で当時と比較すると10.4倍、人口は21,370人で5。4倍となっている。当時一世帯当たり4.5人の家族が2.3人となっており核家族化の進んだ状況が良く分かる。

 阿品地区のみでみると、世帯数が101世帯から5,796世帯と57.3倍、人口は552人が13,864人で25.1倍と脅威的に増加している。

 ちなみに地御前地区では、世帯数が768世帯から3,253世帯へと4.2倍、人口は3,380人が7,506人と2.2倍の増加であるが、如何に阿品地区の世帯数・人口の伸びが大きいか伺える。

 当時阿品地区は世帯数で11.6%、人口で14%を占めているに過ぎなかったが、現在では世帯数で64%、人口で64.5%と本郷と飛郷の比率が逆転してしまった。
by hirosan_kimura | 2014-12-06 11:55 | 人口 | Comments(0)
e0125014_14383548.jpg 明治30年、今から117年前の地御前村の人口は男1,443人・女1,362人で計2,805人であった。

 生年毎の資料によれば、明治30年生まれが当然0歳で遡ること慶応・元冶・文久・万延・安政・嘉永・弘化・天保・文政・文化生まれと遡り,まるで時代劇に出てくる年号が続く・

 一番高齢者は文化12年生まれで82歳、何れも女性の方である。82歳といえば今と比較すると驚くほどの高齢者ではないが、現在の平均寿命男79・94歳・女86・41であるが、当時の平均年齢は男42・8歳・女44・3歳から比べると相当の長生きであったのであろう。
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 現在少子高齢化が進み日本の未来が危惧されている。117年前の地御前村の年齢構成と比較しても参考にはならないだろうが、当時の地御前村の未成年者は45㌫を占めていたが、現在日本全体の未成年者は17㌫に過ぎない。

 60歳以上の高齢者は地御前村が6.3㌫であったのに対して、現在の日本全体では31・3㌫を占めるすさまじさである。

 現在日本人全体の年齢を均すと44・9歳であるが、当時の地御前村は平均年齢26・1歳となっている。単純に現在と比較しても意味はないが、60歳を過ぎれば立派なお爺さんと呼ばれていた時代で、今のような医学も進んでいず早死にをしていたのであろう。 

e0125014_14401458.jpg 統計上15歳から64歳までを生産年齢と言うが、当時と比較すると生産年齢者の比率は余り変わっていない。しかし14歳未満の比率は、今と比較すると驚くほど高かった。

 反対に高齢者の比率は当時と比較すると、驚くほど高くなっている。
by hirosan_kimura | 2014-07-14 15:36 | 人口 | Comments(0)
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 昭和5年(今から84年前)の地御前村の死亡者の資料がある。現在とは死亡原因の分類の方法が異なっているので単純には比較出来ない。

 現在の日本国民の死亡原因の順位は、悪性新生物(癌)・心臓病・肺炎・脳血管障害となっているが、現在一位の癌は当時の分類では「伝染性及び全身病」の中に含まれ、はしか・猩紅熱・コレラなどと同分類に含まれている。

 昭和5年の村の人口は不明であるが、3年後の昭和8年の統計では557世帯、2,641人となっているがこの数字と大きな差は無いと思われる。人口比と比べた死亡率は現在と比較するとどうなのであろうか。

 分類は上記より多数の項目があるが、死亡者の無い項目は除いているが自殺者や不慮の事故等での死亡者は無かったようである。

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 年齢別に見ると10歳未満が三分の一を占めているが、この中でも一歳児が10名で全死亡者の27㌫を占めており当時の乳幼児の死亡率が高いことが伺える。

 当時の統計では0歳児の項目が無いので、数え年での標記で統計の一才はは現在の0才に当るのかも分からない。

 一歳児の死亡原因は、伝染性および全身病が男2名、急性気管支炎男2名、肺炎男2名・女3名、消化器疾患1名とある。

 ちなみに老衰が死亡原因の年齢は、84歳女性一名、86歳男一名・女一名、89歳男性一名で、最高年齢は91歳の女性とある。
by hirosan_kimura | 2014-04-16 13:18 | 人口 | Comments(0)
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 このブログ№419で大正14年国勢調査による阿品の人口を紹介した。当時の調査区は鰆浜は田屋地区と併せて行われたため、鰆浜のみの人口が分からず阿品部落のみを紹介した。

 今回、田屋部落と鰆浜部落それぞれを区分してみると、大正14年の鰆浜部落の世帯数・人口が判別出来た。

 大正14年10月1日現在の鰆浜は世帯20世帯・人口81名、内訳は男50名・女31名となっている。ただしこの内一世帯は○○番地地先となっているので、陸上に家屋が無く船上で生活していたらしい。たまたま調査時点で鰆浜の海上に停泊していて国勢調査の対象にされたのか、常時鰆浜沖に停泊し漁業に従事していたのかは分からない。

 この世帯は全員男性で12名であるが船上で生活していた人を除くと、当時の鰆浜の世帯は19世帯・69名となる。

 現在阿品地域は約5,700世帯・15,000人程度であるが、大正14年当時は鰆浜・阿品を併せても275人・53世帯程度でしかなかった。世帯で100倍以上、人口で50倍以上になっている。

 当時の一世帯当たり家族数は鰆浜が4.2人、阿品が5.7人と差があるが阿品は大半が農家で大家族であったのかも分からない。ちなみに現在の阿品地域の一世帯あたり2.4人である。
by hirosan_kimura | 2012-09-06 15:23 | 人口 | Comments(0)
e0125014_12533537.jpg 阿品二丁目の世帯・人口は約410世帯・約1,100人である。

 現在、住居表示等が実施され区域は若干異なるが大正14年の国勢調査によると34世帯194人とある。この数字の中には鰆浜は入っていないが、田尻の2世帯は入っている。

 昭和10年の調査では40世帯185人となっている。昭和23年の人口調査では62世帯268人となっている。

 大正14年当時は、阿品地域には鰆浜・阿品・田尻の三地区があったが、調査は田尻が阿品と併せて行われているが、鰆浜は田屋地区と同一の調査区とされている。

 鰆浜地区の調査状況が分かれば、阿品地域全体を把握することが出来るが資料が無いのは残念である。


世帯  男 女  計     世帯  男  女  計
 1   2  3  5      18   3  5  8
 2   4  4  8      19   4  2  6
 3   1  5  6      20   0  2  2
 4   3  4  7      21   0  1  1
 5   2  5  7      22   1  1  2
 6   4  2  6      23   6  2  8
 7   4  2  6      24   3  0  3
 8   2  3  5      25   4  3  7
 9   3  2  5      26   5  4  9
10   1  3  4      27   2  3  5
11   3  4  7      28   3  3  6   
12   2  3  5      29   5  5 10
13   6  1  7      30   4  2  6
14   1  0  1      31   0  1  1
15   1  4  5      32   1  2  3
16   3  4  7      33   5  5 10
17   5  3  8      34   2  6  8

 世帯は番号としている。我家は鰆浜地区であるが当時は阿品に住んでいた。№32である。母の里は№11であるがどのような家族構成であったのだろうか。

 №33・34が田尻地区であるが、当時は2世帯のみであったらしい。

 現在では単身世帯が増加しているが、当時は3世帯となっている。

 一世帯当たり5.7人であるが、今の二丁目では2.6人と半数以下となっている。
by hirosan_kimura | 2012-01-07 14:27 | 人口 | Comments(0)

№50 阿品の人口

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 阿品に何時の時代から人が住み始めたかは定かでない。かつて阿品台団地が造成される以前に、阿品の谷の奥に「阿品積石古墳」があった。当時は1200年前に造られた物と推測されていたが、団地造成の際発掘調査の結果では500年程度前に造られた物と判明した。

 阿品には古い時代の創建と言われる「岩鏡神社」があるが、記録も残っていず何時の時代の物か分かっていない。

 元禄4年(1691年 今から318年前)の文書に、阿品には「阿品屋」「岡本屋」「小田屋」の三軒の農家が有ったとの記録がある。当時はいくら大家族といえ、三世帯では多くても十数人の人口ではなかったであろうか。

 文政10年(1827年 今から182年前)の地御前村図絵では、阿品に7軒・下田尻に1軒の家が描かれている。この絵図が家屋数を正確に現しているかは定かでないが、総世帯数は8世帯で総人口はせいぜい50人程度ではないかと推定される。

 その後の世帯・人口の推移は分からないが、昭和28年9月 阿品の人口298人・世帯数65世帯とある。昭和29年1月 鰆浜の人口302人・世帯数38世帯とある。鰆浜が世帯数に対して人口が異常に多いが病院があったことによるかも知れない。

 いずれにしても今から50数年前までは、阿品全体で人口600人・世帯数100世帯余りであった。

 その後、徐々に人口・世帯数も増えて行ったが大きな変動は無かった。しかし、昭和52年 ふじタウン 570区画、廿日市ニュータウウン 3,500戸の団地が造成され、マンションの建設が続いた。

 一昔前には僅かな人口・世帯であった阿品も、世帯は5,000戸以上・人口15,000人を越え大きく変貌したのである。 
by hirosan_kimura | 2009-01-31 04:38 | 人口 | Comments(0)