素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:行政( 10 )

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 先日、阿品に関する記事が新聞に掲載されたり、テレビで放映された。
 
 昨年7月に入札された鰆浜の県病院跡地が、土砂災害警戒区域に指定予定であったのを県が見落とし売却したものである。病院跡地11.500㎡を3億7千万円で売却したが、警戒区域に指定されたことで土地の価値が下がり差額9,800万円を賠償することとなった。

 指定予定を見落としたこと、差額を賠償することはともかくとして、隣接の山が土砂崩れが起きそうとは素人目には不思議な気もする。隣接地は山と云うより小高い丘のようである。元々ある自然の山で傾斜も緩やかで樹木も生い茂っており、崖崩れが予測される危険地域にも見えないが、専門家の目から見れば「土砂災害危険区域」に匹敵するのであろう。
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 阿品区域の山々は比較的緩やかで、土砂災害の起こりそうな場所は他地域に比べて少ないのかと思っていたが、予想以上に危険な場所が多いようである。
 
 中にはこんな所まで危険地域に指定しなければならないのかと思われる場所もあるが、万全を期して万一の災害に備えてあるのであろう。
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 急傾斜地危険地域に指定されている場所で、素人目に見ても明らかに危険な場所もある。

 この写真だけではあまり窺えないが、下から上を見ると見上げるような急斜面である。斜面も堅固とは言えず一部 玉石状の物が積み上げられたり自然の土肌のみの場所もある。斜面の上の方では土を掘り起こして野菜が作られている。

 崖上の家屋は崖地ぎりぎりに建っているものもある。上に住んでいる人は足元は気にならないかも分からないが、崖下に住んでいる人はいい気はしないであろう。

 この団地は阿品で一番古い団地であるが、現在の厳しい決まりではこのような崖地は許可が降りないかも分からない。
by hirosan_kimura | 2016-06-09 12:54 | 行政 | Comments(0)
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 明治16年の地御前村の調査表が目に付いた。県か国に提出したものであろうが調査項目が今と随分異なっている。村の所在が「安藝国佐伯郡地御前村」と標記されている表もある。最初に神社の調べが有り、「村社・三社、雑社・九社」でお寺は「末寺・有住・二ケ寺」とある。

 現在では廃止されているが、華族・士族・平民等の調べが有り華族は無く「士族3世帯 男7人 女8人」とあり残りは平民となっている。

 村の全世帯は471戸で人口は2,381人。男1,225人、女1,156人、計2,381人で内訳は
        男     女
 7歳未満 217人  212人
 7歳以上 352人  336人
20歳以上 482人  414人
50歳以上 167人  188人
80歳以上   7人    6人
となっており現在と比較すると、随分年齢構成が異なっている。 

 その他の調べは、「戸長役場 一箇所、戸長 一人、筆生 一人、学務委員 一人」とある。

 学校は「公立小 一校、学校教員は準小学卒 副導補 男 一人」となっているが意味はよく分からない。

 出生数は前年一年間分であろうが76人で、男37人・女39人となっている。

 死亡者数は44人で、男19人・女25人となっている。このうち14歳以下の死亡者は8人で、男8人・女0人となっている。80歳以上の死亡者は6人で男3人・女3人となっているが、当時としては随分長寿であったのであろう。

 ちなみに昭和31年に地御前村が5ケ町村と合併した際の人口は4,357人であった。明治16年の人口と比較すると73年間で1.83倍の人口数となっている。

 旧地御前村の地域の昨年の人口は21,354人となっている。130年前の地御前村の人口と比較すると約9倍になっている。世帯数でみると当時の471世帯が8,938世帯となっており、実に19倍近くに増加している。

 ちなみに一世帯当り平均家族数は、明治16年は5.05人であったが現在では2.38人と半分以下になっている。
by hirosan_kimura | 2014-02-20 14:45 | 行政 | Comments(0)
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 昭和5年の村議会に阿品に関する議案が提出されている。議案文は分かりやすいように現代文に書き直した。

第23号議案 公有水面使用について支障有無の件
 本村漁業組合理事世田金作より牡蠣養殖の目的を以って、本村阿品新開地先公有水面7段3畝21歩6合5勺の使用出願箇所は、船舶の航行及び碇泊其の他公益上支障無きものとする。
 昭和5年8月19日提出
     地御前村長代理助役  瀬良武一郎


第24号議案  土砂売却に関する件
 佐伯郡地御前村字田尻甲420番地の1 山林7町4段5畝3歩の内、土砂1300立坪 右呉市宮原通り八丁目5番地 合名会社水野組 代表者水野甚治郎へ、土砂1300立坪を金390円に補償金200円合計590円にて売却し、代金は本村小学校の修繕費として積立てるものとする。
 昭和5年10月7日提出
     地御前村長代理助役  瀬良武一郎

説明
 右山林は土地が痩せていている。従って立木は生育不良で収益は無いが、土砂を採取すれば風景絶佳になり別荘地に適するので、将来有利になると認められる。


 田尻山林の土砂採取の目的は何であったのかは分からないが、国道の拡幅か広電軌道延長のため海岸を埋立てるものであったのだろう。採取地はどこか分からないが現在はどうなっているのであろう。
by hirosan_kimura | 2013-07-25 09:49 | 行政 | Comments(2)
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  然るに競艇施行者側の懇請はせつなるものがありましたので、地御前村側としては悪情勢の中にたちて熟慮の結果、若し我々がこの
状況の中に立ちて善処協力するとなれば、この反対運動を緩和善処する条件として、この競艇の収益金の中より大野町と同額なる収益金の配分をしてもらえるかとの申入れに対し、中津井県会議員・山本県会議員の立会の面前において競艇施行者代表(当時宮島町長梅林儀一氏)は、地御前村代表者の立場及村民の心情を了とせられ、申入れの旨を了承受諾の意思を表示せられ申入れを確約されたので、当方も村財政の乏しきことも考慮し、尚且つ隣村の友誼関係もあり忍び難きを忍び苦痛なる心境に耐えて、反対運動中止に努力善処し懇請に沿いたい旨を申述べました。

  更に施行者より設置運動反対中止の旨を、広島海運局並びに県庁に連絡方の要請があったので、会見の翌日(昭和二十九年七月二十三日)地御前村代表者は、広島海運局及県庁地方課を訪れ改めて事の成行き述べ、設置及反対運動を考慮する趣旨を報告しました。

 前述の如き困難なる状況と経過を辿ってきたのであります。

  然るに当時設置反対の声はなお残存している中にあって、本村代表者は前述の昭和二十九年七月二十二日の会見の際の確約条件履行について、その後施行者側に対ししばしば速やかに約束を履行せられことを請求していたにも拘わらず履行せられず、その後施行組合においては宮島町・大野町・大竹市の施行者に競艇収益金の配分がありましたが、本村に対しては何等の交渉がなく今日に至っております。

  依って本村代表者は再三再四施行者側に対して交渉するも履行せられず、当方は実にその誠意の程推しはかりがたく且困惑せるものであります。

  その後再度の交渉により、施行者組合事務局長福田氏より本村の代表者に示されたものは、当方より示した年百万円の競艇収益金を配分されるよう請求に対し参拾万円の額であったので、交渉は結論に至らなかったのであります。

  本年一周年を迎える「競艇場の回顧」と題するパンフレットによれば、施行者側に相当額の収益金配分があるも、当方に対しては今日に至るまで、何等の連絡もなき状態で施行者側の現在の心境は、実に了解に苦しむものがあります。

  我々当方代表者は設置反対団体及び村民の間にあって、真にこの問題に対する責任と苦しき心情は何物にもかえがたき心境に立っています。

  右衷情を了せられまして、前述の如き経過を御覧せられ相互の確約条件を、速やかに履行せられんことを請求し且要望する次第であります。

  茲に本書を上程し、速やかなる善処を請求します。

   昭和三十一年十一月六日
      広島県佐伯郡地御前村長   八本 松之助㊞
         地御前村議会議  長 谷口 健  一㊞
         地御前村議会副議長   益田 砂次郎㊞


  宮島競艇施設会社々長  梅林 義一殿    
by hirosan_kimura | 2012-09-20 09:18 | 行政 | Comments(0)
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            宮島競艇収益金配分請求要望書

 宮島町外五ケ町村施行組合による宮島競艇が、昭和二十九年六月大野町宮島口に設置の報道が新聞紙上に発表せられたのでありますが、競艇場と村境をせっしておる本村に対しては、本施設の設置について何等の通報交渉もなく、従ってこれが設置については一驚を喫したる状況で、この設置の報道本村内に伝わるや本村の教育委員会、PTA,婦人会、青年連盟等、各団体を始め村民挙ってこれが設置反対の声が起こり、此れに加わふるに大野町青年連盟、大野浜毛保漁業協同組合等の反対の声も加わり、一層熾烈さを加え喧喧ごうごうたる状況に落入り、村当局も深くこの事態を憂慮せる時、当時施行者代表たる宮島においてはこの事態に一驚し、宮島町助役、宮島町福田氏(現在の施行組合事務長)等本村役場に来庁い、これが反対緩和方に善処協力するよう陳情希望せられ、更にこれに引続き宮島町議会長山中氏、同町議会議員等相伴い本村役場に來庁せられ、本村の反対運動に対し善処方協力方を切に懇請せられました。

 村当局も、設置反対の声は益々壮んになり事態は真に悪化重大さを加うるに至り、村当局・関係団体幹部代表は数回に亙り対策協議を重ねる状況で、事態は益々進み憂慮に耐えず、村当局・関係団体代表はこれが設置反対陳情を幾度か施行者並びに広島海運局・県庁等に続行して、設置反対の声は真に熾烈を極めたのであります。

 この間にあって村当局も隣接町村の友愛友誼関係もあり、真に困惑せる状態でありました。

 この時に当たり昭和二十九年七月二十二日、宮島競艇場施行者側と、中津井県会議員・山本県会議員の両県議から、宮島競艇場設置について懇談したい旨の申入れの連絡があり、当村より村長・村議会長・同村議会副議長が、県庁において両者会見を致しました。

 その会見の際、競艇施行者側より前記本村代表者に対し縷々情を具し、競艇場設置反対運動中止の切なる懇請がありましたが、当方としては本村に於ける現在の村内各団体及村民の、猛烈なる反対運動の雰囲気と状況を具に述べ、事態は容易にこれに応じ難き旨極力陳述したのであります。
by hirosan_kimura | 2012-09-19 10:21 | 行政 | Comments(0)
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  明治16年の地御前村の資料があった。今から129年前である。阿品の資料があれば良いが地御前村全体のものしかない。古い資料なので判読出来るものもあるし、字がかすんでいたりして数字がはっきりしないものもある。そのため一部数字を推測したものもあり合計が合わない部分もあるが、大まかな状況は分かる。

 当時の村は戸数471戸、男1,225名・女1,156名で計2,381名であった。
 年齢構成は
        男    女   計 
 7歳未満  217  212  429
 7歳以上  352  336  688
20歳以上  482  414  896
50歳以上  167  188  355
80歳以上    7    6   13

 もう少し年齢区分が多ければ高齢化率など今と比較出来るだろうが、半数近くが未成年であることが分かる。

 これ以外の区分で、士族が戸主男3、女0、これ以外の士族の家族は男3、女8、計15人とある。

 公立小学校が1校で児童が男19名、女25名とあるが、余りにも児童数が少ないので児童数の一部かも分からない。学校教員は訓導補1人、教導職僧2人とあるがもう少し調べる必要があるであろう。

 神社は村社が3、雑社6、合計9社とある。寺は2寺とある。

 戸長役場の職員は、戸長1、筆生1、学務委員1、衛生委員とあるが、これで役場の機能が果たせたのであろうか。

職業別は
     男   女   計
僧      3    0    1
医術    1    0    1
農業  446  257  703
工員   58   27   85
商業   82   29  131
雇人   11   16   27
雑業  211  395  606

 もう少し職業区分が小さければ当時の様子がよく分かるだろうにと思う。それにしても「雑業」の中はどんな職種であったのだろう。
by hirosan_kimura | 2012-09-09 16:05 | 行政 | Comments(0)
e0125014_9553596.jpg 国勢調査実施年である昭和20年は、戦争の影響で調査が実施されなかったとある。

 ところが地御前村の古い書類に「昭和20年 人口調査ニ関スル書類」が残されている。

 国勢調査に変わるものとして調査されたものであろうか。

 この調査の集計表では、鰆浜・46世帯・292人、阿品・63世帯・292人、合計・109世帯・584人となっている。

 年齢別を集計したものでは、鰆浜・244人、阿品・296人、合計・540人となっている。

 集計と年齢別人口が異なる理由は分からないが、鰆浜の差48人は病院の入院患者の差であると思われる。

 これを考慮すると、鰆浜45世帯244人、阿品63世帯296人が地域住民により近いのではなかろうか。

 従って昭和20年10月頃は、現在の阿品・阿品台地域で108世帯・540人程度の人口・世帯数であったのであろう。

 現在は阿品・阿品台地域で5,234世帯・14,402人となっているので、世帯で48倍、人口で26倍となっている。

 世帯と人口の伸び率が二倍近く異なるが核家族化によるもので、昭和20年の一世帯当たり平均家族数が5人に対して、今では2,7人となっている。

 現在、少子高齢化が急速に進み日本の将来が危惧されている。昭和20年当時は鰆浜・阿品併せて、0~14才が29.6㌫、15~64歳64.0㌫、65歳以上が6.2㌫であった。

 現在の阿品地域のみの年齢構成は分からないが、廿日市市全体では0~14歳13.6㌫。15~64歳64・9㌫。65歳以上は21.5㌫程度である。

 現役世代の割合は当事と余り変わらないが、年少者は2.1分の1、高齢者は3.4倍となっており、いかに少子高齢化が進んでいるか良く分かる。

 ちなみに昭和20年に調査した人は、鰆浜地区は阿品地域で唯一商店を開業し長年民生委員を勤められた「藤川策一さん」。阿品地区は地元の名士「原田清さん」。

 いずれも阿品に古くから住んでいる人なら、知らない人はないであろう。
 
by hirosan_kimura | 2011-06-23 10:49 | 行政 | Comments(0)

№106 選挙

e0125014_1372691.jpg 昨日は廿日市市市議会議員選挙日。午前中に投票所の阿品公民館に行く。投票事務に当る市の職員は知らない顔ばかり。投票に来た人に出会っても知らない顔ばかり。知っている人は立会人の二人の人のみで、時代の流れに驚くばかりである。

 市の職員であった時は、選挙と云えば必ずといっていいくらい投票事務、開票事務の手伝いがあった。投票事務にあたる職員といえば阿品在住の人ばかり。投票に来る人は顔なじみばかりで、名簿を見なくても顔と名前が一致する人ばかりであった。

 たまに知らない顔の人が来られると、一体あの人は誰だろうと思うくらいであった。それも当然で、選挙事務を手伝い始めた頃の昭和39年10月の阿品の有権者数はたったの381名であった。

 それが昨日の選挙での阿品の有権者数は3,947名、実に10倍以上になっているのである。阿品で生まれた人はほんの僅か、殆どが転入された人達である。

 e0125014_16322024.jpg投票は通常朝7時から始まる。投票の終了は以前は18時であったが今は20時となっている。今のように有権者が多いと途切れ無く投票者が訪れるが、昔の選挙では1時間近くも誰一人投票に訪れないことも再三であった。

 特にお昼の済んだ12時過ぎ位から2時頃までは投票に来る人も少なく、来られても忘れた頃にポツリ ポツリと来られる。投票事務に当るもの、立会人も暇を持て余し雑談をしたり週刊誌を読んだりしていた。

 今では投票に行っても、立会人に一言・二言話しかけるくらいであるが、以前は投票に来る人も顔なじみばかり、座り込んで世間話をして帰る人も有った。のんびりとした古き良き時代で有った。今では考えられないことである。

昭和31年7月8日 参議院選挙
(以下数字は阿品のみ。阿品台除く)
有権者 324名。 投票率 69.74%

昭和39年10月31日
有権者 381人。  投票者 282人。  投票率 74.02%。      当選者 豊田正夫

昭和40年3月28日 町議会選挙
有権者 394人。  投票者 330人。  投票率 85.79%。

昭和46年6月27日 参議院選挙
有権者 462人。  投票者 319人。  投票率 69.05%。 

昭和49年7月7日 参議院選挙
有権者 666人。  投票者 518人。  投票率 77.78%

昭和52年3月27日 町議会議員選挙
有権者 741人。  投票者 539人。  投票率 72.74%。

昭和56年3月29日 町議会選挙
有権者 765人。  投票者 573人。  投票率 74.90%。

昭和60年3月24日 町議会選挙
有権者 1,526人。  投票者 1,077人。  投票率 70.58%。

平成9年3月30日 市議会議員選挙
有権者 2,372人。  投票者 1,495人。  投票率 63.03%。

平成21年3月29日 市議会議員選挙
有権者 3,947人。

 昭和40年代終わりまでは、阿品の投票率は常に町全体を上回っていたが、人口が増加し昭和50年代に入ってからは、町全体の投票率より下回っている。今回の選挙の結果はどうであろうか。

 現在の阿品公民館が整備されるまでは、旧公民館が投票所であった。
 
by hirosan_kimura | 2009-03-30 06:02 | 行政 | Comments(0)
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  かつて阿品は「阿字名村」と独立した村であり、元和5年(1619年)の文書には「阿字名村には阿品・鰆浜・上田尻・下田尻の4つの字がある」と記されていたが、あまりにも小さいので、芸藩成立以前の不明の時期に地御前村に併合された。
 
 文化4年(1807年)の文書では地御前村 総人口763人 男434人 女329人と記録されている。阿品には3軒とある。

 芸藩時代には安藝国佐伯郡地御前村と称されている。佐伯郡は佐西郡と称されていた時代もあった。

明治5年(1872年)には県内が17の大区、150の小区に編成され、地御前村は第4大区・第5小区とされる。第5小区は、地御前村・大野村・口谷尻村・玖波村・松ケ原村・谷和村から成っていた。

明治11年7月には、郡区編成法により大区・小区が廃止され、佐伯郡地御前村となる。

昭和31年9月に、旧廿日市町・平良村・原村・宮内村と地御前村が合併し、新廿日市町となる。新町面積 42.89平方㎞ うち地御前4.69平方㎞。

昭和60年9月1日、国勢調査により廿日市町が日本一の人口となる。(人口 52,020人)

昭和63年4月1日 廿日市町が廿日市市に市制施行される。(人口 56,618人)
by hirosan_kimura | 2009-02-05 04:30 | 行政 | Comments(0)
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 現在の阿品は廿日市市の一部であるが、昭和31年9月には旧廿日市町・平良村・原村・宮内村・地御前村が合併し、新廿日市町となり昭和63年4月1日に市制施行されたものである。

 阿品は地御前村の一部であったが、かつて阿品は独立した村であったことがある。

 元和5年(1619年)7月13日の「厳島社家・供僧・内侍三方給地等付立文書」に「河井村(下平良の可愛か?)・宮内村・阿字名村(今の阿品)・地御前村」などの村名が載っている。

 同文書には「座主領として一、地御前・四十五石余 一、阿字名村・九石壱斗」と記されている。

 しかし、慶長6年(1601年)の検地において「阿字名村」は余りにも小さく、時代は不明であるが芸藩成立以前に地御前村の一部となった。

 現在でこそ阿品地域は世帯は5,000世帯以上、人口も15,000人程度の地域となっているが、僅かな世帯・人口しかない地区が、独立した村であった歴史があるのである。
by hirosan_kimura | 2008-12-21 10:58 | 行政 | Comments(0)