素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:地名( 33 )

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 地御前の地名を紹介したが、これらは部落毎の地名でいつの時代から名附けられているのか分からない。

 上図はいつの時代のものか分からないが、海岸線は現在のJR線路より山側になっている。観音堂は離れ小島となっているが、今では周囲は埋め立てられ家屋が密集している。金剛寺の沖には「二ツ山」の地名も見える。

 この図に「砂畑」「八ツ面」「余田」等の地名があるが、この図の時代からあった地名か後から書き加えられたのかは分からない。

 文政二年(1819年 195年前)の「国郡志御用下調書出帳」に当村小名が記録されている。

「金剛寺(コンゴウジ)」 「今市(イマイチ)」 「ヤリコ廻(ヤリコザコ)」 「八ツ面谷(ヤツヲモテダニ)」 「野坂谷(ノザカタニ)」 「見上寺(ケンジヤウジ)」 「若宮谷(ワカミヤタニ)」 「横竹(ヨコタケ)」 「大迫谷(ヲヽサコタニ)」 「大神谷(ヲゝカミタニ)」 「氏ノ面(ウジノメン)」 「我が迫谷(ワガサコタニ)」 「花香林(カコウハヤシ)」 「志和久谷(?)」 「臼が迫(ウスガサコ)」 「本サコ(ホンサコ)」 「蛇が谷(ジャガタニ)」 「権四郎谷(ゴンシロウタニ)」 「牛が谷(ウシガタニ)」 「水木が谷(ミズキガタニ)」 「サバゝ谷(サババタニ)」 「塩鳥(シオトリ)」 「前ケ谷(マエガタニ)」 「挽木谷(ヒキギタニ)」 「椿谷(ツバキタニ)」 「ジゴク谷(ジゴクダニ)」 「隠亡谷(ヲンボウダニ)」 「釜が休(カマヤスミ)」 「ナカイケ」 「観音谷」 「晒シ越谷(サラシゴエタニ)」 「竹ノ内} 「神馬ガハナ(ジンメガハナ)」 「「松が久保」 「見ノ越(ミノコシ)」 「ヱノシリ」 「灰床(ハイトコ)」 「田屋」 「平原(ヒラバラ)」 「宮崎(ミヤザキ 平原之内)」 「キヨヒラ」 「神家(ジンガ)」 「鹿ノ子谷(かのこだに)」 「三枚田(サンマンデン)」 「鴨原」 「阿品」 「鰆浜」 「上田尻」 「下田尻」

 上記の内、「蛇が谷」「権四郎谷」「牛が谷」「塩鳥」「前が谷」「挽木谷」「椿谷」「ジゴク谷」「隠亡谷」「晒シ越え谷」「神馬ガハナ」「見ノ越」は阿品地区の小字であった。「灰床」は沖山と火立岩間の海岸付近である。

 また、「阿品」「鰆浜」「上田尻」「下田尻」については「飛郷」と注釈が付けられているが、地御前村時代は「大字」であった。
by hirosan_kimura | 2014-12-05 05:46 | 地名 | Comments(0)
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後に控えた後山町の巻

 「部落めぐり」の最終回として、当後町がその名にふさわしく最後の便りをいたします。この部落は、役場の後に当たり、また背後に山を控えているので「後山」と言われるのかも知れません。狭い地域ですが、家屋が密集しているので世帯数は六四もあり、人口は二七一(男一二六、女一四五)となっております。

 部落の特徴といっては別にありませんが、他部落に無いものとしては建具店が二軒(高橋、小方)あります。また特記事項としては消防用水池が有ります。逓信病院へ通ずる広い道路端、山の下に有るこの池洲は、一昨年の二月下旬から三月上旬えかけて完成されたもので、消防用水として万一火災の折の力強い水源であります。これは消防団の方々と部落民および周辺部落の労力奉仕によって堀り下げられたものですが、当時の御協力を振りかえり、深い感謝を捧げる次第であります。

 「部落のお金は会計担当の方に聞かなければよく分かりませんが」毎月電燈料を各世帯から二十円徴収して支払った余りと毎年二回行われる道作り奉仕出不足代金とを合わせて積立になっているものと思います。

 保健衛生その他の面で他部落との協力をお願いしてこの稿を終わります。

(昭和30年1月1日 総代木戸記)


注 一部紹介の無い部落は{ぢごぜん広報}が欠番しているため。
by hirosan_kimura | 2014-12-04 05:03 | 地名 | Comments(0)
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えびす町の巻

 当部落は、役場・農協を結ぶ線より北に展開する村内の中心街であります。胡子町といっても胡子神社はありません。昔は新宅(しんや)部落と言っておりましたが、明治以降いつごろから現在の胡子町と呼ぶようになったということです。

 戸数は四六、世帯数五二、人口二一九で男女の比例はほぼ相半ばしております。職業別には給与生活者二四軒(四七%)、農業及び商業それぞれ八軒づつ(各一五%9、その他一二軒(二三%)で、前記役場、農協の外に医院、呉服屋、醤油屋、食料品雑貨、花屋、理髪店等,仲々賑やかです。

 隣接部落に比べて土地が高いので、毎年の風水害の心配は少ない割に、井戸水は良くない家が多いので困ります。

 またお宮やお寺のような宗教的な建物がなく淋しいので、有志の方々が大歳神社前の仮堂に居らっしゃるおしゃか様をお迎えしようとして場所を当たっておられますが、仲々適当な土地が見当たらず未だに実現していない状態です。

 部落には衛生組合を組織し、婦人会の方々のお骨折を主として、衛生に意をそゝぎ、かやはえの居ない部落を目指して努力して年々実績をあげ、部落民感謝の的になっております。

(昭和29年12月1日 胡子町総代江盛記)
by hirosan_kimura | 2014-12-03 05:37 | 地名 | Comments(0)
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新港町の巻

 当部落は、人も知る郡下屈指の地御前海水浴場を控え、瀬戸の海とみなとぢごぜん及び国鉄山陽本線とに囲まれた一団の部落です。この中に人口一四八、世帯数三八、内男七三、女七五の善良なる村民が住んでいるわけです。職業別には、農家三、漁業六、商業二、その他二七の割合になりそれぞれ一致協力して仕事に精出しております。

 部落の中央を国道と電車線路が突っ走り、半分は国道より沖にはみ出しておりますが、夏は海水浴客で賑わい村の人々に地宮館の昔懐しい呼び名で通っていることはすでに御承知のこと、廿日市鉄道職員会館は先ごろ宮島鉄道職員会館と改名されているようですが、いっそのこと「地御前鉄道職員会館」になればよいと思います。

 その外、名産地御前イリコの網干場や石油の海上中継所たる中国石油株式会社、あるいは本村の産業で重要な地位を占めつゝある広島ベニヤ工業株式会社の原材料集積場等、仲々誇れるものも沢山あるわけです。

 どうぞ地御前神社にお参りの節や御用事でお通りなるときなど、こういうことを思いだして下さい。

(昭和29年11月1日 新港町総代羽佐田記)
by hirosan_kimura | 2014-12-02 05:59 | 地名 | Comments(0)
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濱町の巻

 当部落はその昔浜辺であったので浜之町と名附けられた。浜の町は戸数五十七戸で農家三十四、商家三、その他二十、人口約二百五十名、内男五、女五・五の割合であります。

 部落の中程に鉄筋コンクリートの警鐘台があって、村の大部分を一望の内に眺める事が出来、この警鐘台は大正十二年秋浜、砂畠有志の思案により始めは木造であった。建設に当たっては有志の方々杉柱を寄付され多くの人々が労力奉仕をし、火の見櫓として建設された。

 先端に吊された半鐘は当時米国より帰朝された元山彌七氏が記念として寄付された物で、一打すれば一円はもとより村外に迄も響き人々の胸を警しております。年月と共に老朽化したので危険を恐れ、昭和十一年鉢月鉄筋コンクリートによる動議が起こり、当時多額の経費を仰ぎ労力奉仕により、高大な警鐘台が建設され水火防犯等の危急を報じております。

 衛生改善としては地元関係者が多年悩みの種ともなっていた下水溝でこの改善に思を寄せていた処、昭和二十三年春村当局により資材の提供を受け、関係者各位の熱心なる労力奉仕と共にコンクリート施設工事が遂に出来上がり、衛生改善の基盤を築上げその後村衛生主催を中心に衛生組合を作り、部落組長・婦人会の協力を得て、野壺の蓋を作り便所の予防消毒、室内煙霧等施行して蝿や蚊の発生を防ぎ、屋外の清掃は各家庭共に(児童の協力を含む)お互いに気を附け、清潔と健康を促進しては薬代の縮小を計り、便所の蓋を作ると共に便の早期汲取り等各家庭にお願いして蝿の発生を事前に防止することに努力致したいと思います。

 終りに名声薫四海、清河活力も香よく当部落より湧き出し愛飲家の色を飾って居ります。

(昭和29年10月1日 浜之町総代吉本記)
by hirosan_kimura | 2014-12-01 04:57 | 地名 | Comments(2)
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南町の巻

 「南町」の町名は、いつ頃つけられたものかよく分かりませんが、北は大小路を境として中の町、東は山陽線の鉄路を隔てゝ新港町、西は瀬戸川向こうの鹿の子町とに囲まれたいわゆる地御前街の南にある部落であることから言われたものと思います。

 世帯数は五十九で、内農業は十二、漁業七、その外会社その他に勤めておられます。当部落には小学校あり、公民館あり、青年会館あり、氏神さんの大歳神社(近く再建)あり、また有名な地御前神社あり等々、とても文化教養施設の多いところで、他部落に誇れるわけです。

 部落の南側に鉄道の踏切が有って、昔こゝには踏切番がおられたのは皆様御存じのことですが現在はどうしたわけか有りませんので、時々事故を起しています。特に学校の子供などが通うのに非常に心配です。十分御注意願いたいと思います。

e0125014_14453019.jpg 次に有名な地御前神社の祭神は厳島神社と同じく市杵島姫命外十柱で航海守護の神様です。鎮座の起元は神武天皇東征の時お立ち寄りになった所だというもの、推古天皇の時、厳島神社と同時に鎮座されたというもの、あるいは風波で神官が宮島え渡れない時厳島神社を遥拝する所であったとゆうもの等の諸説がありますが、平清盛の時代に存在していたことは確実とゆうことです。

 郷土史に出ていたように「地御前」の地名もこの社殿名「地の御前」の略称をとったと言われています。詳しいことは先ほど掲示されましたから御覧下さい。たゞ旧五月五日の御綾夜祭と六月十七日の管弦祭は余りにも有名です。

(昭和29年9月1日 南町総代 松本記)

追記
 氏神社、大歳神社の再建改築工事は、十月上旬より基礎工事に着手していたが、近く木取りに取りかかることになった。工事完了は大体来春五月末日ごろの予定。
by hirosan_kimura | 2014-11-30 05:39 | 地名 | Comments(0)
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北の町の巻
 丸子山と智秀山(観音山)は元一連であり、明治の中頃迄大前氏が渡海屋といって、宮島への出船場であったとは嘘のような変り方です。宣なるかな、、村は中町を中心としてその南町その北町この三つが繁華街という所であったものでしょう。

 今この部落は世帯数四四、人口男七八・女九九 計一七七を有し、店舗一八、農家八 其他から成り、町内には郵便局、消防機具庫、組合配給所、歯科医、西向寺、それに広島新四国八十八ケ所四番の霊場、行基菩薩の作と称せられる十一観世菩薩を祀る観音堂があります。大風などで屢々老木が倒れましたが、一度も被害が霊験新とも申しましょう。

e0125014_4345715.jpg 両日は三月一日、八月九日(四万八千日)の縁日で相当の参詣者もあって賑わっています。只境内が狭小なので信徒の中にも之には色々心配しているようです。

 大鐘再供養のため着々歩を進めているようです。

 町費は数個の街灯料或は善行児の奨励金等を差引残額三、一二三円を有しています。

 部落の大部が低湿なのと排水が不良なのとは部落民の最も苦慮している所です。

 浪の音 松のひゞきも 智秀山 風吹きわたす 宮島の里

(昭和29年8月1日 北之町総代吉本記)
by hirosan_kimura | 2014-11-29 05:43 | 地名 | Comments(0)
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ひと目で見渡せる田屋の巻
 
 田屋町は戸数二十七戸 人口一三二で農業、漁業、土木工業等、種々な職業を営んでいる小部落です。

 中央には、昔より一本大松があり、西には地御前共同農園として、過去約二十年前、地御前村発展のため、約五町幾反歩の山林を村民の力によって開墾した果樹園があります。ただしこれは、戦時中の人手不足と、食糧増産のため、協議のうえとうとう果樹を倒し、各町々に分配して農場とし現在に至っております。

 また南は沖山別荘地帯です。そして後に国鉄山陽線、前に電鉄宮島線、その沖は観光道路で、毎日毎夜、通行する汽車、電車、自動車、人それに加えて海を走る船などとても賑やかです。

e0125014_4334144.jpg さて、眼前に迫った管絃祭には、地御前より続く海岸に見物の人や自動車の波でごった返すことは御承知のことです。

 つぎに部落の衛生上では、後側に鉄道用地を拝借し、十分なる下水道を部落民共同によって竣工させ、臼井を中央より両側に分け海に流れるようにしております。下水道は常に清潔に使用しなければならないと思います。

 終りに部落として御礼申し上げたいことがあります。それは終戦後今日まで、あらゆる建物改築所処の改修、防火用水溜池、農道復旧等を着々と進められることに対し、関係各位の御苦労をお察しする次第です。
 特に目下工事中の田屋町浦、平原谷水道改修は大変ご心配を頂き、喜んでおります。

 現在部落として一番お願いしたいことは防火用溜池に、有府港(地御前神社横)西側下水道、土管口の東を掘って万一の場合に備えたいことです。どうか一日も早くこれが実現しますよう、各位のご理解を得たいと存じます。

(昭和29年7月1日 田屋町総代住川記)
by hirosan_kimura | 2014-11-28 05:42 | 地名 | Comments(0)
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鹿之子町の巻

鹿の子群れ飛ぶ
 書けと言われるまゝに筆を取ったがさて、何を書いてよいやら少々まごつくが、久し振りにわが部落の昔を想い出してみよう。

 まず厳島神社と言えば鹿が思い出されるが、明神様と鹿の子町は結びついたものゝようだ。その昔は未開の山また山を思わせるそれこそ鹿の子でも住んでいた平和な山間だったにちがいない。大昔のことは私どもの知る由もないが、われわれの古い先祖は一体どんな暮らしをしていたろうか。

 御承知のように小学校の裏に当たる当部落は、戸数三十五戸、世帯数三十九、人口百九十五の小部落で、南に御山をめぐらし、西北に神鹿山、神之子山を背負い、東は地御前村内につらなる。

 このように町名また山々の名をもってみても明神様の御山にして、多くの鹿が群がり遊んでいた平和な山野だったにちがいない。

 鹿之子山には十五の地歳が鎮座します御堂が有り、毎年八月二十四日がお祭りである。神鹿谷より流れる小川は当部落を通り地御前港に至る。

 道路は四方八方に通じ交通は至極便利である。最近神鹿道は村当局を始め、関係諸氏の協力により改修工事が着々と進み四月いっぱいには完成予定で、将来の発展には大きな役割を果たすことゝなろう。

 現在産業方面はあまりみるべきものはないが、当部落は大半が農家で田五町三反、畑六反部を耕し、すでに苗代期に入った今、ことしこそはと張切っている。

 終りに衛生方面では、年々婦人会の御協力によってうるさい仕事をやっていただいているが、一般の方々もこれに協力し完全にカやハエを退治したいものである。

(鹿之子町町総代川本記)
by hirosan_kimura | 2014-11-27 05:43 | 地名 | Comments(0)

№667 地御前の地名

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要町の巻

村の標準部落
 当部落は地御前の入口と言ってもよい所ですが、土地が低いので大暴風になると沖の土手が崩れるかといつも心配します。あまりよい部落でもありませんが、いろいろな点からこの村の標準的な部落ですから次にそのあらましを知らせましょう。

 人口=二六三、世帯数=六三、小学校在学児童数=約三十、世帯別職業数=勤め二十、農業二一、商業八、漁業四、工業一、無職九、以上六三世帯。

 この部落には先ほど、村当局や消防団の御尽力によって火災用の溜池が作られました。その際には当部落はもとより浜町金剛寺の一部の皆さんに、二日ないし三日間の御奉仕を頂き一同喜んでいる次第であります。

 終りに今市川の清潔についてですが、これは浜町、砂畠の皆さんと共に今少し注意して、いつもきれいに水の流れるようにしたいと思います。

(昭和29年4月1日 町総代佃記)


追記
「オヒラオツボ」は方言かと思い辞書も調べなかったが、ある方より調べれば分かると教えてもらった。

おつぼ(御壺)
膳部にのせる、壺に入れた食べ物。

おひら(御平)
平椀(ひらわん)に盛った料理。
by hirosan_kimura | 2014-11-26 04:47 | 地名 | Comments(3)