素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:神社( 11 )

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 昭和二十五年九月のルース台風による阿品部落第一の被害は、岩鏡神社が裏山の崖くずれの為一瞬にして形も分からない位バラバラにコワレタことです。

 その後再建の話がもち上りましたが、なかなか具体化されなかった。ようやく昨年の夏祭の際、話がまとまり再建に決定して、まず一戸当り経費千二百円見当で工事に着手したが予算が足りず二千三百円見当に修正されました。

 幸いに村当局より多大の援助を始めとし他部落・他村より寄付を賜り、総工費十七万円、氏子奉仕日延五百人夫を費やし、遂に本年四月完成したのであります。

 この大事業を完遂できたのは、何と云っても「一致協力」の賜物でありましょう。
  (昭和28年9月15日 世話人本田記) 
by hirosan_kimura | 2014-11-19 08:57 | 神社 | Comments(0)
e0125014_1072421.jpg 阿品の氏神様は神社庁での正式名称は「岩鏡神社(いわかがみじんじゃ)」となっている。
 
 しかし地元の人達で「いわかがみじんじゃ」と呼称する人はまず無く、「いわがみじんじゃ」と言うのが通常である。また親しみを込めて「岩神(いわがみ)さん」とも呼んでいる。

 この神社は本来「岩神社(いわがみしゃ)」「磐神社(いわがみしゃ)」と呼ばれ、「岩神大権現(いわがみだいごんげん)」が正式名称と伝えられている。

 神社に小さな石碑が残されているが、表に「岩神大権現」、右横に「文政十二年」、左横に「九月吉日」と今から185年前に彫られたものも残されている。

 「岩神社」が「岩鏡神社」となった詳しい経緯は不明であるが、大正7年に「佐伯郡史」が編纂された際、阿品の習慣により「神」に「鏡」の字を使用していたので「岩鏡神社」と届け出られたため、この名称が正式神社名となったとある。

 しかし阿品の古い人達の言い伝えにも、「岩神」に「岩鏡」の文字を当てはめていた習慣は聞いたことも無いそうである。

 「鏡」の字を当てはめた経緯は分からないが、神社には鏡のように光る岩が祀ってあったが、戦後間もない台風で神社の建物が濁流で押し流された際、祀ってあった鏡も行方不明になってしまったそうである。

 神社名を届け出る際、「岩神神社」では神の字が重なり紛らわしいので、「神」の字に「鏡」を当てはめて「岩鏡神社」と届出たのかも分からない。読み方も「鏡」の字を当てはめても「いわがみ神社」のままであったのが、手違いで「いわかがみじんじゃ」となったのかも分からない。

 仮に神社名を「いわかがみじんじゃ」と届出たのなら氏子の人達にも周知してある筈であるが、阿品の人々の大半が「いわがみじんじゃ」と総称しているのも不思議であるが、今となっては真相は分からない。

 今では祀ってあった鏡のような岩も所在不明であるが、ある人の話によると密かにこの岩を持ち帰り家の中に隠している者が居ると聞いたことがある。神社に祀ってあった物を家に隠しているような恐れ多いことをする者が居るとは考えられず単なる噂話であろう。
by hirosan_kimura | 2014-05-22 11:29 | 神社 | Comments(0)

№494 地御前神社

 阿品の資料も無いので、今回は阿品には関係ないが「地御前神社」を紹介して見る。
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 これは地御前神社付近を描いた絵図である。年代は分からない。神社の前はすぐ海岸で海中に木の鳥居が建っている。神社左側の川の海岸沿いに大きな松の木が一本描かれているが、昭和30年代終わりごろには残っており、この松のすぐ前を通って毎日小学校に通学していた思い出がある。
 阿品は左手の山の裏側になるが、左端に「火立岩」が描かれている。
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 神社が老朽したのか無くなっていたのかは分からないが、明治四十年に神社再建のための寄付が集められている。神社再建に当たっては、地御前より海外に移住されていた人より多額の寄付があったらしい。
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 神社再建の図とあるが、「拝殿二宇ハ旧藩主ノ建立」と「拝殿再建 横十四間 縦五間」と小さく書いてある。この図では木製の鳥居が海中に建てられているので、計画では海の中に鳥居を建てる予定であったのだろうか。
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 「地御前神社上棟式奉祝記念」とある。
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 神社前に大勢の人が見えるので完成の記念式典でも行われているのであろう。鳥居は地上に石造りで建てられている。
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 神社横の記念碑前のものであるが、記念碑の完成式のものであろうか。
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 神社前の海水浴場の写真である。年代は分からないが、神社前に国道も広電軌道も見えないので昭和6年以前のものである。左端には「有府の水門」の石造りの太鼓橋が写っている。その左には藁屋根の民家も見える。
by hirosan_kimura | 2012-10-09 16:39 | 神社 | Comments(0)
e0125014_10574024.jpg 由緒ある神社ではその神社の故事来歴を記した掲示板などが建てられているが、阿品の氏神様「岩鏡神社」にはそのような説明も無く、神社の由緒などは殆ど残されていない。戦後の台風被害で壊滅する前の神社は写真なども残されていず、神社の配置なども良く分からない。

  №463で人から聞いて想像図を記したが、実際にはかなり異なっているようである。阿品川傍の山裾にあった旧神社は、左図のようであったらしい。

e0125014_1114848.jpg 言い伝えによると岩鏡神社は創建当時からこの地にあったのでなく、遠い阿品の先祖が出雲の国から祭神を分祀し、今の阿品二丁目11番付近の谷に小さな祠を建てたのが、岩鏡神社の始まりらしい。何時の時代か分からないがふじタウン山裾の旧神社の地に移設されたそうである。

 移設後の神社の資料も残されていないが、明治5年(今から140年前)に描かれた簡単なスケッチのようなものによると、山裾に小さな正殿があり拝殿は川の上に建てられいる。神社の敷地は819坪とあるがその内98㌫が山林で、平地の境内地はほとんど無かったようである。

 ただし、この資料も正式に記録されたものでないのでどこまで信憑性があるのかは疑わしい。

※下の図  川の上の建物   誤 正殿  正 拝殿
by hirosan_kimura | 2012-07-03 11:44 | 神社 | Comments(0)
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 各地の神社を参拝すると、大概の神社には神社の由来などを記した説明板があるが、阿品の岩鏡神社には由来などの説明板などは無い。

 以前、神社を管理している人に神社の由来などを尋ねたことがあるが、何時の時代どのような由来でこの神社が開かれたかなどの文書は一切無いとのことであった。阿品の遠い祖先が出雲から神様を分詞したのではないかとのことであった。

 現在、岩鏡神社は阿品の部落の丘にあるが、元々はふじタウン麓の川の傍に鎮座していたが、昭和25年のキジヤ台風(昭和26年のルース台風が正しいと言う人もある。)により神社裏の崖が崩れ、前の川が氾濫し、神社の建物は跡形も無く壊され流失した。

 流失前の神社の写真でも無いかと思うが中々見つからない。誰かに尋ねれば神社の配置でも分からないかと思うが良く分からない。上の図は想像で書いてみたものである。

 正殿と拝殿は別棟でそれぞれ広さは5坪5分3厘8毛との記録がある。神社裏は岩のある崖山で前は川が流れていた。神社境内は819坪くらいあった。大半は山林であったのだろうが現在の神社と比較すると相当広かったのだろう。

 詳しい配置図か当時の様子を記憶している人はないものであろうか。

e0125014_14565748.jpg ある人の話によると、当時の神社は建物も小さく廻りに巨木こそなかったが、巨岩がありこれこそ本当の神社と言う雰囲気であったそうである。

 お祭りには浪花節や明石の「かんま」が来ることもあった。

 岩鏡神社はたくさんの田畑を持っており、その年貢が入るので「金持ち神社」と言われていたそうである。このため神社に要する経費も困ることはなかった。

 明治政府が神社の統廃合命令を出した時も、岩鏡神社は金持ちであったため統廃合を免れることが出来た。たくさんあった神社の田畑も、戦後の農地改革により大半を失うこととなった。

 この写真は何かの行事の際、阿品の女の人が踊っているところであるが、場所は旧神社の境内とのことであるが、確かなものかどうかは分からない。
by hirosan_kimura | 2012-05-30 15:46 | 神社 | Comments(0)
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 阿品の氏神社は「岩鏡神社」である。他のお宮に行くと神社の由来を記した看板が設置されているが、この神社には説明板も無く、由来もはっきりしない。

 戦後の台風で神社の裏山の崖が崩落し神社は跡形もなく壊滅したが、この台風は「キジヤ台風」であった。いや「ルース台風」であったと言われている始末である。

 祭神は「アシナヅチ」「テナヅチ」の二神であるが、古事記では「足名椎命(あしなづちのみこと」「手名椎命(てなづちのみこと)とあるが、日本書紀では「脚摩乳命」「手摩乳命」と標記されている。

 このニ神の漢字表記は古事記と日本書記では異なっているが、遠い昔には日本には文字が無く、漢字の発音の似たものを当てはめていた。かつて「阿品」も「阿字名」と標記されていた時代もあった。

 「アシナヅチ」「テナヅチ」の由来も明確でなく諸説ある。

1 「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チは精霊の意」があり、父母が娘の手足を
  撫(な)でて,慈(いつく)しむ様子を表しているという説。

2 「畔(あ)の椎」「田(た)の椎」の対であるという説。
 
3 古語で蛇を「ミヅチ(御づち」と言われたように蛇を指すところから、「脚無  
  し蛇」「手無し蛇」と、手足を持たない蛇神を示すという説。

4 アシナは「浅稲(アサイネ)で晩生(おくて)の稲」、テナは「速稲(トイナ) 
  で早稲(わせ)の稲」をいう説等がある。

 出雲神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)の子どもが、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)と素戔鳴命(すさのうのみこと)で、手名乳命と足名乳命は奇稲田姫命の子どもとの神話がある。

 出雲地方の祭神が、遠く離れた阿品に祀られているのか分からないが、原の極楽寺山の「蛇の池」に八つの面を持った大蛇が住み着いていた。

 この大蛇があまりにも悪いことするので、素戔鳴命が追い出し、平良の可愛で斬り殺したところ、この大蛇の首が空高く舞い上がった。

 この蛇の首は地御前の「八つ面谷(やつおもてだに)」の池に潜り込んだとの伝説が残っている。

 この大蛇を祭神とする「八面社(やつおもてしゃ)が、地御前北一丁目のバイパス沿いに今も祀られているが、阿品の「岩神社」もこの伝説と何らかの関係があるのかも分からない。

 それにしても阿品の歴史ある氏神様の、故事来歴が何ら残されていないのは不思議な思いがする。
by hirosan_kimura | 2009-12-30 15:29 | 神社 | Comments(0)

№237 地御前神社 

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 このブログは阿品限定のため、内容も限られるため話題が少なくなるばかりである。今回は阿品を外れて地御前神社を記事にしてみた。

 地御前神社は厳島神社の外宮であるが、仁安三年(1168年)今から約840年前に建物が建てられた。現在の建物は宝暦十年(1760年)今から約250年前に再建されたものである。

 厳島は神の島と言われ、神職と言えども宮島に人の住むことが許されなかった。厳島へは毎日神官が舟で渡り神事を行っていた。

 このため嵐等で厳島へ渡れない時は、地御前神社で神事を行っていた。今では地御前神社は寂れてお参りする人も僅かであるが、当時は神社の敷地も広く、たくさんの建物があったと伝えられている。

 その後、厳島に神官の人が住むことが許され、地御前神社は寂れていった。

 上の図は古い時代の地御前神社周辺の絵図であるが、今では大きく変容している。神社は浜辺に建てられ、満潮時には神社のすぐ側まで波が寄せていた。

 今でも見ることが出来るが、神社右側の柱が中ほどで切断され上部が無いのは、神社側まで舟が着くことが出来、その舟を繋ぐために柱が中ほどで切断されているのだそうである。

神社の裏側は敷地が削られ、国鉄の線路が敷設された。前側には広電宮島線と国道が開通し、風景は一変している。

 神社前の海の中に鳥居が建てられているが、今では国道となっている。神社の右側に大きな松があったが、この辺りは小学校の通学路でもあった。学校の帰り道にこの松に登って遊んだ記憶がある。

 神社左側の川の側にも大きな松が見える。田屋の住川さんの家の側にあったのを記憶しているが、今では二本とも見ることは出来ない。

 神社裏側の山は桃山と言われ、たくさん桃の木が植えてあったが、今ではこの山も削られ住宅団地となってしまった。

 川の左奥の谷が田屋の水田であるが、国鉄が通り、西広島バイパスが開通し、住宅が建てられ昔の面影は全く無くなってしまった。

 阿品は左側山の裏側辺りでこの図では隠れているが、左端海の中に一本の松が描かれた小島が「火立岩」である。

 その右の帆掛け舟が二艘見える上側が「沖山」である。学校の帰りに道草で良く遊んでいた「沖山」も削られてしまい、昔の面影は全く残っていない。

 神社周辺の風景は大きく変わったが、変わっていないのは絵図の上部に描かれている、遠くに見える山々のみとなってしまった。
by hirosan_kimura | 2009-10-28 09:51 | 神社 | Comments(0)
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 阿品の氏神様「岩鏡神社」の夏の例祭は旧暦の6月9日であったが、現在は7月第二日曜日に変更されている。

 今年は7月12日の昨日、朝7時30分より行われた。

 祭りの準備や当日の世話は、順番に廻って来る「とうや」と呼ばれる人により行われた。「とうや」とはどんな漢字を当てはめるのであろう。

 又、例祭に先駆けて老人クラブの方が、神社周辺の清掃を行われたと言うことである。

 例祭は拝殿に30名くらい、その他当番の人を含めて40名くらい参列しておられた。

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 まず神主の祝詞奏上に始まり、神主・神社総代・主な氏子の人に続き、一般参列者の玉串奉納が行われた。

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 その後巫女さん二人により舞の奉納が行われた。

 この巫女さんは専門の職業とする人でなく、一人は高校在学生であった。必要な時だけ巫女の役を引き受けられるらしいが、神主はこの人を「舞姫」と呼んでおられた。

 舞は「浦安」と言う題目であったが、この踊りには「鈴舞」と「扇舞」があり、当日は扇を持って踊る「扇舞」であった。

 例祭の神事は全部で40分程度で終ったが、その後「直会(なおらい)」があり散会となった。

 歴史のある岩鏡神社の例祭も、熱心な氏子の人も高齢となられ参列できなくなり、若い者は古いしきたりに関心が無く、参列者も年々少なくなっているそうである。

 昔から伝わる風習やしきたりがいつまでも残り、後世に伝えられることも大切なことであろう。

 岩鏡神社については、№70・71.72で紹介している。
by hirosan_kimura | 2009-07-13 04:51 | 神社 | Comments(0)

№72 岩鏡神社(3)

e0125014_10545711.jpg岩鏡神社全壊

 昭和26年10月14日、大型のルース台風が阿品地方に来襲した。この台風は九州串木野に上陸し九州横断後、山口県防府附近に再上陸し大きな被害をもたらしたものである。

 広島県では未曾有の大雨となり、佐伯町では400mm近くも降ったと云われている。県内の死者・行方不明者は166人あり、家屋の全半壊は2000戸近く有った。

 この台風は阿品地方にも大きな被害をもたらし、山津波で「岩鏡神社」の建物は形跡も無く壊滅してしまった。(この台風はルース台風でなく昭和25年9月のキジヤ台風であったと云う人もある。)

 昭和27年の夏祭りで地域住民が集まった際、崩壊した神社の再建話が纏まった。新神社は、氏子の方より無償提供された阿品の丘の上の地に移転新築されることとなった。

 まづ一戸当り1,100円負担見当で工事に着手したが、経費が足らず一戸当り2,300円見当に修正された。

 村よりの援助や他部落・他村からの寄附等もあり、総工費十七万円、氏子奉仕延500人により、昭和28年4月1日に竣工した。

 台風で壊滅した、旧神社附近の水路延長338㍍の復旧工事は昭和29年12月中旬に着工され、昭和30年3月21日に総工費1,699,000円で完了している。

移転新築後の神社規模は
本殿 (一間社流造  桟瓦葺 間口 一間   奥行 四尺) 
幣殿 0.75坪   拝殿 10坪   境内 171.56坪

 移転新築された神社も狭隘となり、昭和57年7月に拝殿が改築された。同時に坂道であった参道は急斜面で参拝の際不自由であり、土砂の流失を防ぐ等の目的によりコンクリート階段に修築されている。

 上記写真は移転改築後の旧神社である。もう少し鮮明な写真は無いで有ろうか。
by hirosan_kimura | 2009-02-22 04:46 | 神社 | Comments(0)

№71 岩鏡神社(2)

e0125014_1715922.jpg存続の危機「岩鏡神社」

 明治4年4月に「農務方」から、各郡の割庄屋及び村庄屋・組頭あてに「小祠は本社に合併せよ」との指示がなされた。

 それによれば領内から書き出された神社は、従前の根書に書き出された数より莫大な増加となっていた。

 その多くは「淫祠神社(いかがわしいものを神として祀った社(邪教)」なので、そのまま放置しておくわけに行かなかった。このまま新政府(明治政府)へ報告することは不都合になることは見え透いているので、是非とも小祠の類は本社に合併せよとあった。

 具体的には格別由緒のある社や、従来からその所の氏神と唱えられてきた社のみを存続させ、その他はすべて合併さすこと。一村に一社を原則とし、例外でも大規模村で三社以内とするものであった。

 地御前村では氏神の大歳神社に、宮島支配の厳島神社外宮の「地御前神社」境内にある恵比須社・住吉社など七社及び、阿品の氏神「岩神社」も合祀の対象とされた。

 これに対して村では、合祀されないようの願いを提出した結果、阿品の「岩神社」と外宮境内の二社の存続が認められ、地御前村では「大歳神社」「岩神社」のニ社の氏神が存続することとなった。

 一時、大歳神社に併合される危機にあった「岩神社」も、地域住民挙げての熱心な運動により存続が認められたのである。

 現在地に移転前の旧旧神社の写真があれば良いが、誰に訊ねても無いらしい。
by hirosan_kimura | 2009-02-21 03:38 | 神社 | Comments(0)