素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:名勝・旧跡( 11 )

№418 運勝の鼻

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 JR・国道・広電宮島線の敷設や住宅団地の造成により今では見ることが出来ないが、その昔田尻山に連なり半島が岬のように海岸に突き出ていた。
e0125014_10404347.jpg この岬に岩が侵食され穴が空いていた。この岩穴が牛の「鼻ぐり」に似ていたので「はなぐり岩」とも呼ばれていた。

 また岩が穿がかれていたので「うがちの鼻」とも呼ばれていたが、後に「運勝の鼻」の字が当てられている。

 大正14年の地御前村基本調査では、「厳島の戦の時、毛利軍の一隊 此の山の端にに穴を穿ち対岸の厳島根に大縄を打ちかけて、軍船この縄伝ひに夜陰に乗じ櫓声を忍ばせ一気に厳島に押渡り、奇勝を博したりといひ伝ふ」とある。

 阿品での言い伝えでは、毛利軍の要請により、阿品の農家がこぞって稲藁を縒って縄を作りこれを繋いで、阿品から厳島まで届く長い長い縄を作ったそうである。

 毛利軍は櫓を漕いで厳島に渡船すると敵軍に気付かれるので、この縄を伝って声を出さず船を進め厳島に渡ったと伝えられる。

 お陰で敵軍に気付かれず島に渡ることが出来、奇襲に成功し毛利軍の大勝利に終わったと伝えられている。この勝利により「穿ちの鼻(うがちのはな)」を「運勝の鼻(うがちのはな)」の字を当てはめたと言われている。

 阿品ではこのような話が伝えられているが、厳島合戦に関する文書にはこのような記録は残されていないし、合戦に関する歴史家に聞いてもこんな話は聞いたことも無いらしい。

 合戦記は正確な文書が残されている場合を除き、読者に面白くおかしく読ませるため作者が伝わる戦記を捻じ曲げたり、独断で付け加えたりすることが多いそうである。

 阿品の農家が長い藁綱を作り、それを伝って毛利軍が舟を進めた言い伝えは、阿品の人の作り話なのか、それともこれに似たような事があったのか永遠に分からないであろう。

 なおこの功績により地御前村の漁師には、此の地より見渡す限りの海の漁業権が毛利軍より与えられたとの言い伝えも残されている。

 また、阿品の山々に連ねる峰に肥田子を並べそれに松明(たいまつ)を燃やし、そのかがり火を見た厳島の敵軍に毛利側の軍勢を誇大なように騙したとの言い伝えも残されている。
 
by hirosan_kimura | 2011-12-31 11:43 | 名勝・旧跡 | Comments(0)
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「お上がり場公園」には明治18年8月1日、明治天皇が西国巡礼の際、厳島から広島に向かわれる途中、この地に御上陸された記念に「西幸記念碑」が建立されている。

 この記念碑は昭和6年4月に建立されたとの記録があるが、除幕式は昭和7年11月7日に挙行されたとある。

 建立された時期と除幕式が行われた日とは一年以上の開きがあり、どちらかの期日が間違っているのかも分からない。

 除幕式の写真を良くみると地面から台座までの高さが、現状とはかなり異なっている。
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 現在では地面から台座までの階段は四段くらいしかないが、建立当時は八段の階段があったらしい。

 いつの時代か分からないが、公園の地面が埋め立てられかさ上げされている。

 地面が高くなった分、記念碑の高さが地面から低くなったことになる。
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 この記念碑は石造りでかなり大きいので重量が予想され、その基礎部分は強固に造られているのであろう。

 記念碑の乗っている下部は割栗石で固められ、その上にコンクリートの基礎が施行してある。

 図面のこげ茶色部分は建立された当時の平地部分で、記念碑の乗っていないオレンジ色部分は盛土がされている。

 薄緑部分は平地がかさ上げされ、現在の公園の平地部分である。

 子どもの頃にはこの記念碑に登って遊んだりしていたが、記念碑の下がどのようになっているのか考えたこともなかった。
by hirosan_kimura | 2010-05-19 13:04 | 名勝・旧跡 | Comments(2)

№251 火立岩 4

e0125014_16132828.jpg昭和30年代
火立岩の海側
 
海側は火立岩の岩盤が海底まで残っていた。

 鰆浜の子ども達は、夏になるとこのあたりで良く水遊びをしていた。海側から岩の上によじ登れると得意になっていた。

 干潮になると、狭くはあったが岩の周辺に白い砂浜が出現していた。




e0125014_16135667.jpg昭和30年代
海側の堤防より

 火立岩の側に海に突き出た堤防があった。

 子ども達は、この堤防の上から海に飛び込んだり、魚釣りをして遊んだ。



e0125014_16141811.jpg昭和40年代
米田の山より遠望

 国道は、道路の中央のみアスファルトで舗装されている。

 両側は砂利のままで歩道となって居た。

e0125014_16145055.jpg昭和40年代
広電電車線路側

 電車の架線に接触するのではないかと思われるほど、松の枝が繁っていた。





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昭和40年代後半
火立岩消滅

 西広島バイパス用地確保のため、鰆浜の海岸が埋立てられた。

 その際、支障のあった火立岩は撤去された。

 この写真ではまだ電車線路は沖側に移設されず、旧道路のすぐ側を走っている。

 海岸沿いに電車架線の電柱のみが立てられている。

 この後、電車線路を沖側に新設し、電車開通後に道路工事に着手した。


e0125014_1634286.jpg現在
火立岩の標柱

 今では無粋な標柱のみが、かつての火立岩のあった場所を示しているのみである。

 正確には火立岩のあったのは、この標柱よりもう少し陸に寄った場所である。
by hirosan_kimura | 2009-11-28 07:10 | 名勝・旧跡 | Comments(0)

№250 火立岩 3

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 火立岩はかつて阿品の海岸にあった小さな小島である。小さな島とは言え、阿品のシンボル的存在であった。

 このため阿品の海岸の図絵等にも必ず描かれていた。

 この図絵は何時の時代の物かは分からないが、文政7年(1824年) 今から185年くらい前の物ではないかと推定される。

e0125014_15144484.jpg これは地御前村図絵の一部で、文政10年(1827年)以降に描かれたものらしい。













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 今から180年くらい前の図絵の一部。


e0125014_15515224.jpg この図絵も何時の時代の物かは分からないが、火立岩の側に海岸沿いの道らしきものが描かれている。













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 阿品に旧国道が整備されたのが明治12年である。

 海岸沿いに道路があるので、今から約130年くらい前の鰆浜海岸である。
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 鰆浜から厳島に航路が開設されたのが大正14年。今から約84年くらい前である。

 小さな写真の一部を拡大したので鮮明でない。

 右側が宮島航路の連絡船。左端が火立岩である。

 火立岩の向こう側には、広電宮島線の終点「新宮島駅」があった。昭和40年代頃までは、桟橋の一部と思われる、コンクリートの構造物の一部が海中に残されていたが、今では見ることは出来ない。
by hirosan_kimura | 2009-11-27 06:01 | 名勝・旧跡 | Comments(0)

№232 西幸記念碑

e0125014_10211722.jpg お上がり場公園の中央に、阿品では一番大きな記念碑がある。廿日市が他の町村と合併する前の旧市では、市内最高の記念碑であったそうである。

 碑高は358㎝、幅は下部で90cm角、上部は80㎝角、台石の高さは132㎝である。更にこの碑は盛土の上に建てられているので、地面から見上げると一層高く見える。

 子どもの頃には良くここで遊んでいたが、巨大な建造物に見えていた。

 この碑は明治18年(1885年)8月1日に、明治天皇が西国巡礼の際、宮島から広島に向かわれる途中、この地に上陸されたのを記念して建てられたものである。

 この石碑が建てられたのは昭和6年4月であった。今から78年前のことである。

石碑の銘文

前面 西幸記念碑

左側 従一位勲一等公爵 淺野長勲閣下題字

後側 明治十八年乙酉八月一日龍舸厳島を経て地御前村阿品湾に舟光す
    同村有志胥謀り新に桟橋を架し奉迎す今爰に記念碑を其遺城趾に建
    立し以て後昆に傅ふ
      昭和六年四月穀旦
                             正八位勲八等石田久雄識

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 今では石碑を覆いつくしていた松も枯れはて、この石碑も青天に晒されている。昭和40年代の始め頃までは鬱蒼と松が繁り、離れた所からは記念碑が見えないくらいであった。

 子どもの頃には、お上がり場は阿品の子ども達の遊び場のひとつであった。記念碑の正面は文字が大きく、字の彫られた所に手や足を掛けることが出来たので、記念碑のどこまで高くよじ登れるか競ったものである。

 小さな子ども達は、大きな子が高い所までよじ登るので、羨ましかった思いでもある。
by hirosan_kimura | 2009-10-22 03:40 | 名勝・旧跡 | Comments(0)
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 阿品の「お上がり場公園」に余り長くない桟橋がある。良く見ると旧桟橋の上に、桟橋が重ねてあり横から見ると二重になっているのが良く分かる。

 いつごろ桟橋の上に桟橋が重ねられたのかは良く分からないが、昭和40年代か50年代頃ではないかと思われる。

 何の理由でこのような工事が行われたのかは分からないが、桟橋の勾配を少しでも緩やかにしたものか、満潮時には石垣のある辺りまで潮が来るので、潮で浸かる部分を少なくするためかも分からない。

 この桟橋は、明治18年8月1日に明治天皇が宮島からこの地に上陸されるため作られた施設である。

 桟橋は2ケ所あり、長さ12間・幅2間・高さ1丈のものと、長さ42間・幅3間・高さ1丈のものであった。

 明治23年の暴風雨により施設は潰落し長く放置されていた。大正11年にこれらの施設は復旧されたが、明治天皇が上陸された当時のままに復元されたのかは分からない。

 この地は、子どもの頃には夏になると阿品の子ども達の遊び場となり、朝から晩まで良く泳いでいたものである。

 桟橋は小魚を釣る場所になったり、水遊びの場所となったり懐かしい思い出がたくさんある。

 満潮時には桟橋のかなり上まで潮で浸かるが、水の中に潜り桟橋の下を泳いで反対側まで出ることが出来たら、一人前になれたようで得意がったものである。
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 かつては十数本の老松が公園全体を覆い、その木陰には各地より海水浴客がたくさん訪れていた。

 公園には複数の露店が営業し、鰆浜側の砂浜には貸ボートや飛び込み台もあり夏中賑わった。

 バイパス工事で公園敷地は削られ、生い茂った老松も枯れはて、きれいな砂浜も牡蠣養殖のため地形が変わり、海水は汚染しかつての面影は無い。

 当時と変わらないのは公園の真中に建立されている「西幸記念碑」くらいのみである。
 
by hirosan_kimura | 2009-08-05 13:28 | 名勝・旧跡 | Comments(0)

№166 火立岩 2

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 火立岩(ほたていわ)は№28でも紹介したが、バイパス工事のため撤去されるまでは、鰆浜のシンボル的な風景で有った。

 管弦祭の時は厳島神社を出発した管弦舟が、この火立岩の沖に船足を止め地御前神社からの迎えを待つ。

 宵闇迫る頃、地御前神社より迎えの舟が来て、雅楽や太鼓を打ちながら地御前神社に向かう。まりで一幅の絵巻を見るようであった。

 今では管弦際も寂れてしまい、沖合いを通過する管弦舟に目を向ける者も少ない。

e0125014_10342569.jpg 古い時代の古地図にも必ず表示してあった。

 阿品を紹介する古い文書でも、阿品の名所のひとつとして必ず記されていた。





















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 子どもの頃は遊び場のひとつで、鰆浜で育った子ども達はこの場所で良く遊んでいた。

 小さな小島ではあったが驚くほど大きな松の木が数本繁り、この木に登ったり麓で遊んだりした。

 ある時、この松の古い穴に「ふくろう」が住み着き子育てをしていたこともあった。海面から見ればかなりの高さである松の枝を登り、恐る恐る巣の中の雛を覗いたことがあった。


e0125014_15281381.jpg夏にはこの小島の麓で泳いだり魚を釣って遊んだ。









e0125014_10392239.jpgバイパス工事のため撤去され、今では無粋な木柱の表示が残されているのみである。
by hirosan_kimura | 2009-06-29 06:24 | 名勝・旧跡 | Comments(0)
e0125014_11222999.jpg ふじタウンから阿品に下りる坂道を降りきった場所に「教え地蔵」が安置されている。その脇に記念柱が建てられている。

 これは昭和8年に皇太子(今の天皇陛下)の誕生を記念して、阿品の青年団が建てられたものである。

碑文の内容

表  
祝 皇太子殿下御降誕

右  
宮島駅1.8粁 柳井61粁 岩国29.9粁 
徳山95.2粁 下関210粁

左  
地御前小学校1.9粁 
地御前村役場1.30粁 
福山119・5粁 
岡山177粁 東京922粁

裏  
地御前村青年団受賞   記念道標
                             昭和八年十一月二十六日  
                                   阿品支部青年団

 石碑の距離は地御前小学校と、地御前村役場が入れ違って掘られたのか、地御前村役場分が良く読み取れないのか分からない。この石碑のそばを通りかかることがあったら、解読してみたらどうだろうか。

 建てられた当時は昔の阿品の主要入口であった、お上がり場向かいの国道分岐点に建てられていたが、バイパス工事により現在地に移設されたものである。
by hirosan_kimura | 2009-04-19 14:45 | 名勝・旧跡 | Comments(0)

№89 お上がり場

e0125014_337817.jpg 十数本あった松も松枯れで全滅し、道路の拡張で敷地もとられ今は見る影もないが、かつては空が見えないくらい松の木がうっそうと生い茂り、露店も二軒くらい有り、夏には海水浴客で賑わっていた。

明治18年(1885年)頃
 お上がり場は明治天皇が上陸されるために造られた施設で、上陸が決定するや長さ四十二間・幅三間・高さ一丈と、長さ十二間・幅二間・高さ一丈の二箇所の桟橋が築造された。

明治18年(1885年)7月1日
 明治天皇が厳島より帰途、広島に向かわれるため、船でお上がり場に上陸された。ここより御召馬車で広島に向かわれた。

明治23年(1890年)
 暴風雨のため大損壊し、石垣の一部が崩壊しその後長く潰れ落に委競られていた。

明治28年(1953年)4月12日
 傷病兵を慰問するため、広島大本営に行啓された昭憲皇太后が厳島に向かわれるため、お上がり場より乗船され、即日帰還された。

大正11年(1922年)
 崩壊し長らく放置されていた施設を、地御前村により復旧する。東側の損壊が最も甚だしかったが、根石の旧態を基礎コンクリートで築き、構築当時の形状を窺えるようにした。

昭和6年(1931年)4月
 「西幸記念碑」が建立される。

昭和30年(1995年)9月1日
地御前村広報紙より
 今年の観光シーズンに当り、村の観光施設や海水地の整備充実に全力を挙げて着ました。お上がり場と地御前海水浴場に対して特に力コブを入れ、お上がり場の便所については立派な建物が設置されました。

 この夏、お上がり場に臨海学校としてキャンプ宿泊したのは、七尾中・鈴ガ峯、約800名。
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 夏の海水浴シーズンには複数の露店も開店していた。砂浜の沖には飛び込み台も設けられ、貸ボートも沢山有った。山間部の町内会・子ども会・青年団等が、貸切バスで海水浴に訪れ大変な賑わいであった。

 海は汚染し砂浜も無くなり、鬱蒼と繁っていた松も全部枯れてしまった。バイパス工事で公園面積も狭くなり、今では昔の賑わいは想像も出来ない。
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by hirosan_kimura | 2009-03-11 05:11 | 名勝・旧跡 | Comments(0)
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 火立岩は鰆浜の海辺にあった小島である。元は海岸より数㍍離れていたが、道路を整備するために陸続きとなり、電車軌道に隣接していた。

 岩山のような小さな島であったが、樹齢数百年と言われる松の巨木が数本あり、小島がひっくり変えるのではないかと想われるくらい枝を張っていた。

房顕覚書
 吉田ヨリ廿三日地御前至て出張、国衆各聞懸ニ陸地ノ興面火立岩迄被出レケル

桂岌円覚書
 元就様、隆元様、元春様、隆景様、廿日市の西下火立岩に御陣され

森脇覚書
 此方御対陣ハ地之御前火立と申平山御陣被居候

陰徳太平記
 厳島の向こうなる、地御前へ打出で、同所火立岩と云ふ小山を陣とせられければ

佐伯郡史
 地御前火立山(俗に鵯山)の下にあり、弘治元年厳島戦争の際、毛利氏の発船として其の名高く、又毎歳厳島神社の管弦船此の岩邊にて燈を張り火を點ずるを古来の例とす、是火立岩といふ起源ならんか、
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 別称 仕立岩 志たて岩 帆立岩 とも標記された。

 昭和43年に西広島バイパスの道路用地を確保するため、海岸を埋立てる際消滅した。鰆浜部落の象徴として長年愛され、子どもの頃良く遊んだ「火立岩」が無くなったのは、時代の流れと云え寂しい限りである。
by hirosan_kimura | 2009-01-09 10:28 | 名勝・旧跡 | Comments(0)