素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:鰆浜( 25 )

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 鰆浜の国道の傍に駐車場があるが、この場所には沖野さんの家があった。この家は住居の一角が商店となっており、駄菓子・文房具・化粧品・履物などが売られており子どもの頃には良く通っていた。

 この建物はこの場所に新築されたものと思っていたが、元々は3軒くらい先にあった家をこの場所まで引っ張って来たものだそうである。

 元々は上の図の緑色の場所にあったらしいが、事情は分からないが元の家を持ち上げ下に丸太を並べころにして移動させたようである。

 移動さすため一旦、家を丸ごと国道まで出して国道の上を移動させて今の場所まで移動させたようである。

e0125014_10433088.jpg 国道を移動させた距離は数十mとは言え、車の通過している道路上を利用して民家を移動させたとは驚きである。


 家を移動させた年代はハッキリは分からないが、昭和20年前後で今から70年近く前らしい。当時は今ほどの通行量は無かったとは言え、天下の国道で建物を引っ張ったとは信じられない話である。

 国道を利用する際は警察署でもの許可を得たのであろうか。それとも無断で行なったのであろうか。今では建物を移動さすのに国道を利用するなどとんでもない話で、許可申請をしても直ちに却下されるであろう。

 国道を移動させた家も30年くらい前に取り壊されて今は無い。
 
 それにしてものんびりした時代の話である。
by hirosan_kimura | 2013-05-30 11:20 | 鰆浜 | Comments(0)

№537 県病院跡地

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 県立地御前病院跡地は面積約16,500㎡で阿品で唯一まとまった広さの空き地である。

 昭和15年頃より田んぼ等を埋立、昭和18年9月に「教員保養所」が開設され、昭和26年6月に「広島県立地御前病院」に移管され、昭和47年3月に廃止された。

 以来未利用で空き地のまま残され、地域の「とんど」や「盆踊り」などに利用され、敷地の一部は県職員の福利施設として野球やテニスなどに使用してきたが、利用される日数は年間でも僅かな日数に限られていた。

 この広い空き地も県の財政難により処分されることとなり、長年地元で自由に使ってきた空き地が本年3月末で利用できなくなった。

e0125014_9233085.jpg 跡地は何に活用されるのかは分からないが、最近正式に土地の測量が行なわれ敷地周囲の至る所に敷地境界の標識が埋め込まれ、いよいよ処分のための準備が開始された。

 地元では、民間に払下げられ住宅地にでもなるのではないかと噂されている。

 鰆浜地区もご多分に漏れず、高齢者が増え若者が少なくまるで「高齢者部落」だと言う人もある。子どもが少なく子ども会の運営にも支障を来たしているらしい。

 この地に住宅がたくさん建てられ、若者や子どもたちで溢れ活気のある部落になれば望ましいが、果たして県病院跡地は何に生まれ変わるのであろう。
by hirosan_kimura | 2013-04-11 13:07 | 鰆浜 | Comments(0)

№467 鰆浜の子ども

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 先日鰆浜の人と話していたら、子どもが少なすぎて子ども会も結成出来ない。幼稚園に行っている子どもを入れてもまだ足らないと言う話が出た。

鰆浜町内会のみの人口等は分からないが、阿品一丁目では世帯数300弱、人口は700人強くらいあるのではなかろうか。これだけの人口でありながら、子ども会の結成も困難なくらい子どもの数が少ないとは驚きである。

 昭和27年4月当時の鰆浜は世帯数39、人口は190名であった。これでも子どもの数は結構あり小規模ながら子供会もあった。当時の部落のみの小学生は24名いた。今と比較して3分の1以下の人口であったがこれだけの子どもがいた。

 現在部落では軒並み高齢者の家庭ばかりになったと言うことであるが、当時は65歳以上の高齢者は8人で高齢化率は4・2㌫であった。現在ではどのくらいの高齢化率になっているのであろう。

 小さかった頃には右を向いてもお年寄り、左を向いてもお年寄りがたくさんおられると思っていたが、子どもから見て40代・50代の人たちでもお年寄りに見えていたのであろう。

 当時は40代の人が19名、50代が17名、60代は11名、70歳以上は5名のみで最高齢者は76歳であった。今では70代・80代の人もたくさんおられる。

 上の写真は昭和31年8月1日に今は亡き吉田繁満先生が撮影されたものである。国道脇の空き地で行っていた、ラジオ体操の際に写して貰ったものである。

 一人一人の顔を見て懐かしく思い出すが、小さな子どもも高齢者の仲間入りする者ばかりである。
by hirosan_kimura | 2012-06-08 16:46 | 鰆浜 | Comments(0)
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 この写真は昭和50年4月に旧火葬場下に供養塔が建立された際の除幕式の写真である。今から37年前である。

 阿品で長年使用された火葬場は、明治17年9月に阿品のじんねい鼻付近より鰆浜の地に移設されたものである。

 この火葬場は旧式で薪を使って火葬していたが、昭和43年に廿日市町営火葬場「霊峯苑」が新設されたためだんだん使用されなくなり、昭和47年10月に廃止されている。

 鰆浜部落の民家は大半が鉄道より沖側にあり、昭和40年代初めまでは鉄道より奥には一軒の民家があるのみであった。この写真が撮影された頃でも周辺はたんぼや畑のみで、奥の方にもう一軒民家が建てられていたに過ぎなかった。 この写真では良く分からないが、奥の山は団地造成が行われている。
e0125014_10423966.jpg この写真は慰霊碑がある場所より少し奥の約50年くらい昔のものである。
 犬と遊んでいるが、刈った稲が干してあるので晩秋の頃であろう。

 鉄道より奥の民家は一軒のみで、周辺はたんぼと畑のみ。谷の両側には巾の狭い農道が通っていた。
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 この写真は除幕式の写真とほぼ同じ場所から撮影した現在の状況である。

 民家も一軒のみ、火葬場がありたんぼと畑のみの寂しい地域であったが、民家もたくさん建てられ家の数も鉄道の沖の民家数に変わらないくらいになった。

 周辺に残された農地も僅かとなり、家と家の僅かな畑で農作物が作られているのみである。

 狭い部落の鰆浜ではあるが、海沿いはバイパス工事で海岸線が埋立てられ、電車線路は沖合いに移設され、道路は拡幅され風景は一変したが、鉄道の奥も昔の面影が無いくらいに変わってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-04-13 11:31 | 鰆浜 | Comments(0)

№435 変貌した鰆浜

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 この写真は昭和40年初め頃、今から40数年前の鰆浜部落でである。

 手前の建物、県立地御前病院は廃止され今では広いグランドとなっている。少し向こう側は吉田病院の建物で、今ではマンションがが建てられている。

 海沿いは帯状に埋立てられ、国道が拡幅され電車軌道も沖側に移設された。

 かすかに写っているが、今では見ることの出来ない「火立岩」と「波止」と呼んでいた堤防も見える。
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 この写真は国道を下り方面に望んだものである。道路は片側一車線で中央部分のみが舗装されている。

 遠くには「お上がり場」に松が繁っているのが見える。

 手前の木立と塀は「吉田病院」であるが、今ではマンションに建て替えられている。
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 中央の堤防は取り壊され、海岸沿いに埋立てられ電車軌道も沖合いに移設された。

 かつてこの辺りの浜辺ではアサリが面白いほど採れていたが、浜辺は山砂が入れられ人工干潟となったせいか、海が汚染されたものによるものかは分からないが、時間を掛けて貝堀をしても僅かなアサリしか採れなくなってしまった。
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 電車駅付近より東側を望んだ海辺であるが、堤防は壊され海が埋立てられ風景も一変している。

 今は無い「火立岩」「波止」を見ることが出来る。波止の沖には宮島航路桟橋の残骸の一部が黒い点のように残されているが、これも今では見ることは出来ない。 

 波止の向こう側に沖山を削って造成しているのが僅かに伺うことが出来る。

 電車線路すぐ傍の堤防から海に下りる石垣が見えるが、丁度自宅の前に当たり途中で壊れかけているが、浜辺に降りる時はいつもこの坂を利用していた。

 この坂から向こう側の波止の間の浜は泥土であったが、大貝やミル貝がたくさん採れてバケツ一杯くらいは簡単に掘ることが出来た。
 
 ミル貝はにぎり寿司の高級ネタらしいが、阿品付近では余り食べることもなく、たくさん掘って帰ると母親に迷惑がられたものである。

 アサリや小魚が子どもでも簡単に採れ、もずくやおご海苔なども採ることの出来た自然豊かな阿品の海岸も海岸の埋立や汚染などにより見る影もなくなってしまった。
by hirosan_kimura | 2012-04-08 11:56 | 鰆浜 | Comments(0)

№429 波止(2)

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 №402で波止を載せたが、その時は鮮明な写真がなかなか見つからなかった。

 波止は鰆浜(阿品一丁目)にあった防波堤であるが、西広島バイパス工事で道路を拡張するため海面を埋立てる際撤去された。

 昭和の初めまであった広電新宮島駅や、厳島航路の発着場があった付近である。

 防波堤は途中で「く」の字に曲がっていたが、長さ25間6分・上面の巾が6尺とある。

 この防波堤は子どもの頃の遊び場で、防波堤の上から飛び込んだり、小魚を釣ったりして良く遊んだものである。

 松の枝は今は無い「火立岩」に繁っていたものである。この写真には写っていないが、左側沖の海面には厳島航路桟橋の残骸のようなコンクリート造りの一部が残されていたが、今では見ることも出来ない。

 周辺の風景はすっかり変わってしまったが、変わらないのは遠く薄く写っている宮島の島影のみである。
by hirosan_kimura | 2012-03-14 10:36 | 鰆浜 | Comments(5)

№402 はと

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 西広島バイパスの工事で海岸が埋立てられるまで、鰆浜の火立岩のそばに「はと」と呼んでいた堤防があった。

 子どもの頃は「はと」とは意味も分からず呼んでいたが、「波止」で堤防の一種であると後に分かった。

 「はと」のすぐ北側は「火立岩」があり、砂浜が広がっていた。南側は土の黒い浜で、ここでは「おおがい」と呼んでいた貝や、「みる貝」が子どもの手でも面白いほど採れていた。

 「みる貝」は握りずしのネタになる高級な貝らしいが、たくさん掘って帰っても家では余り喜ばれなかった。阿品では貝と言えば「あさり」でそれ以外の貝は、低級な貝と思われていたような気がする。

 子どもの頃は、「はと」は子どもたちの良い遊び場で、堤防の上で遊んだり魚を釣ったり、傍の「火立岩」に登ったり日の暮れるのも忘れて遊んだ記憶がある。

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 「はと」と呼んでいた堤防は何時の頃に造られたのかは分からないが、古い資料では阿品から厳島に出航する連絡船の桟橋が見られる。

 この航路は昭和6年2月に廃止されたが、廃止前に「はと」が造られたのか廃止後に桟橋が残されている時期に造られたのか良く分からない。

 自分が子どもの頃には勿論この桟橋は残っていなかったが、沖合いに桟橋の一部と思われるコンクリート建造物の一部が海の沖合いに残っていた。

 上の写真では分かりずらいが、「はと」の先端近くの向こう側の海中に見えるのが、厳島航路の桟橋の残骸の一部である。

 「はと」の大きさは良く分からないが、石積みで長さは50m近くあり先端部は一部南側に折れ曲がっていた。堤防の上部の幅は2mくらいで、底部は広くなっており断面は台形となっていた。

 高さも良く分からないが、子どもの目でみると随分高く海に飛び込むのが恐ろしかったような記憶がある。

 いずれにしても、鰆浜の海岸の火立岩も「はと」も無くなり無粋なコンクリートの堤防になってしまっている。
by hirosan_kimura | 2011-09-13 14:19 | 鰆浜 | Comments(0)

№243 鰆浜音頭

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 阿品の部落「鰆浜」は小さな部落であるが、かつて部落のみで「とんど」「夏祭り」などの行事が盛大に行われていた。

 今ではお世話をする人も高齢となり、子どもの数が減ったせいかは分からないが、部落のみの行事も少なくなったような気がする。

 この地区では昭和55年に部落の音頭「さわらはま音頭」が作られた。作詞は三宅立美と言う人である。この人は「万国博音頭」を作詞した人で、その他北島三郎・瀬川瑛子・村田英雄・水前寺清子・島倉千代子等がレコード化した歌の作詞もされたそうである。

 小さな一部落の音頭の作詞をどのような経路で依頼されたのであろうか。作曲は佐伯金次郎、振り付けは今は亡い船村正一さんがされている。

 この音頭はテンポも良く歌いやすく、出来た当時は盆踊りや何か行事がある際、盛んに唄ったり踊ったりされていたが、当時のお年よりも亡くなり、今では余り目にすることも無くなった。

 部落の老人クラブの集まりの際にでも活用され、いつまでも引き継がれて行けば良いと思う。


「さわらはま音頭」

ハアー 前にバイパス 両手に電車
沖の宮島 うちの庭
瀬戸の海から 旭がはねて
磯の香りの さわらはま ソレ
ショウラン ショウラン ゴショウラン
さても良いとこ そうらんば

ハアー 雨や嵐を こらえて耐えて
昔ながらに 浜の松
親が教えて こどもが継いで
今も自慢の お上がり場 ソレ
くりかえし

ハアー 夏の絵巻の 管弦際にゃ
沖に情けの 灯(ひ)をともす
味なものだよ 二人の影に
月も見とれる 火立岩 ソレ

ハアー 眺めばかりか 砂浜ゆけば
笑顔並んだ 潮干狩り
みんな仲良く やろうじゃないか
グリーンベルトが 仲をもつ ソレ

ハアー 町を見下ろす 荒神さんは
人の暮らしの 守り神
住めば住むほど 心が通う
通う心に 輪がゆれる ソレ


両手に電車
部落を通る、広電宮島線・JR山陽本線

ショウラン
承安4年(1174年)3月19日に、後白河法皇がこの地より四方の風景を聖覧(しょうらん)されたことに由来する。

そうらんば
聖覧が相覧に変化したもの。近年までこの地は「相覧場(そうらんば)」と呼ばれていた。

浜の松
お上がり場の松。松枯れにより今では見ることは出来ない。

お上がり場
明治18年(1885年)7月1日に、明治天皇がこの地に上陸された。

味な
阿品(あじな)と掛けている。

火立岩
部落の海岸にあった小島。管弦祭の管弦舟がこの小島に差し掛かると灯(ひ)をかざした。バイパス工事のため撤去され、今では見ることは出来ない。

グリーンベルト
廿日市ニュータウン造成の際、部落を囲む山麓の緑地帯を永久に残すよう、部落と広島県で締結したもの。

荒神山
明治29年(1986年)山陽鉄道敷設工事で働く人達が、工事の安全を祈願してトンネルの上に祠を建てた。その後、お参りに便利なように部落の人達が現在の場所に移設した。
by hirosan_kimura | 2009-11-20 06:22 | 鰆浜 | Comments(0)

№241 鰆浜夜景

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 たいして話題も無いので鰆浜の夜景を掲載してみた。この写真はお上がり場からバイパス出口方面を臨んだ写真である。

 画面中央の緑の光は、沖山にあるホテルのネオンの明かりである。

 その左の釣り針のような白い明かりは、バイパス出口の高架橋を下る自動車のヘッドライトの明かりである。

 左上の明かりは光が丘のマンション。

 右側の遠景は廿日市方面。

 その他、道路の照明や、自動車のライト。

 大都会のような夜景ではないが、周囲が暗い中、様々な明かりが海面に映り、七色のオーロラを見るようである。

 実際の目で見るのと、写真とでは雰囲気が異なり、中々美しい夜景である。
by hirosan_kimura | 2009-11-18 07:33 | 鰆浜 | Comments(0)

№124 大谷・小谷

e0125014_10543616.jpg 鰆浜の鉄道線路を越えた所から直ぐ右に大きく谷が奥まで伸びていた。丁度今の下水処理場付近に谷の入口部分が僅かに忍ばれる。

 この谷は奥で更に二股に分かれていたが、その手前で小さな谷が北に伸びていた。二股に分かれる谷を大谷(おおだに),手前に分かれた小さな谷を小谷(こだに)と呼んでいた。

 今では阿品台の開発により大きく地形が変わっているが、阿品台一丁目と一体となっている「光の園」は、谷の横の山を越えた高台にあり、阿品地域とは全く異なる地区にあった。

 e0125014_1142281.jpg 子どもの頃はこの谷の奥まで行き良く遊んでいたが、小谷には良く行っていた。

 小谷は左地図の中央に突き出た斜線部分であるが、太田にも含め埋立てられ今は見ることは出来ない。左に伸びた斜線部分の谷は今でも残されており、住宅がたくさん建っている。

 小谷は奥行き100m有るか無いかの小さな谷であったが、突き当りに小さな灌漑用の池があり、イモリなどが泳いでいた。

 この谷の右側斜面は丁度火葬場跡の裏側に当るが、山百合が良く咲いていた。山百合を摘んで帰ると母親が喜んでいたが、匂いの良い花であった。

 山百合は阿品のそこらじゅうの山で咲いている花とまではいかなかったが、咲く場所は決まっており、花の季節に行けば必ず可憐な花を咲かせていた。

 阿品台の開発により自然は壊され、今では阿品で山百合を見ることは出来ない。
by hirosan_kimura | 2009-04-17 03:59 | 鰆浜 | Comments(0)