素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

カテゴリ:鰆浜( 25 )

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このブログ№711で「やっと動き出した県病院跡地」掲載した。昭和47年に閉鎖され43年間放置されていた県病院跡地の売却入札が昨年7月22日に行われたというものである。

 その後、跡地利用がいつ動き出すのだろうと付近を通り掛る度に注目していたが、動きは全然見られなかった。ところが先日この地にトラックが止まり資材らしきものを降ろしていたので、やっと何かの工事が始まったかと思っていた。

 地元の人に「やっと県病院跡地が動き出したが、マンションか戸建の住宅が建つのだろうか」と聞いてみると、少年野球の練習場が設置されるとのことである。そういえば現地には移動式のバックネット・閉鎖されたボーリング場から外してきたような椅子・簡易倉庫・簡易トイレなどである。不動産会社がこの土地を入札したが、国道に繋がる道路の道幅が狭く工事車両の離合も困難で、止むなく少年野球の練習場に貸与するとのことである。

 利用価値の無い土地を多額の経費で購入することは考えられないので、何らかの形で道路問題が解決する勝算の見込みがあり一時的に少年野球チームに貸与するものであろう。
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 国道から県病院跡地への進入路は四本の細い道路がある。

e0125014_141984.jpg ①は国道から県病院に入る正規の道路であったが普通車の離合も難しいくらいで、途中直角に近いくらいカーブしており工事用車両の通行など不可能に近いくらいである。

 
 ②の道路はは一見広そうであるが川の上をコンクリートで蓋架けした道路で余り重い車両の通行は困難である。国道との間に段差があり、おまけに横断陸橋の橋脚が立ちふさがっている。

 かつて県病院の正門は①と②が突き当たった地点であった。

e0125014_1415452.jpg ③の道路も他の道路と大差なく狭い道路である。県病院時代この道路も病院の出入りに使用され「県病院入口」の看板が国道脇に接されている。④の道路は他の道路よりさらに狭く工事用車両の出入りは不可能である。






e0125014_1421750.jpg 県病院跡地から国道までの距離はほんのわずかであるが、いずれも道幅が狭く工事用車両の通行は困難である。病院廃止後この用地には様々な計画が立てられては立ち消えて行った。いずれの計画も前に進まなかったのは道路問題が立ちはだかっていたからである。

 道路が狭ければ既存家屋を移動し道幅を広げればよく、③の道路の拡幅は空地と公園を一部削れば容易に可能である。しかしこの付近の国道の上り車線は見通しの悪いカーブを曲がりきった直線部分で事故の多発地帯である。少し前にも死亡事故も起きたばかりである。道路の改良にはこの問題の解決も必須である。

 鰆浜部落でも高齢者が増え、県病院跡地に沢山の住宅が立てられ子どもたちの歓声が絶えない町にと大きく期待されている。一日も早く道路問題が解決し建設の槌音の響く日の来ることが待ち望まれる。

 
by hirosan_kimura | 2016-02-21 15:35 | 鰆浜 | Comments(0)
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 阿品に住んでかなり年数を経た人でも、地名の「鰆浜」が出てくると「鰆浜」とは何処ですかと尋ねる人がある。鰆浜で生まれ鰆浜に長年住んでいた者としては寂しい思いをすることがある。

 鰆浜の名称は「町内会」「子供会」「集会所」「公園」などに使われるのみで、鰆浜以外の人たちにとっては馴染みの無いものとなってしまった。平成13年には「広電阿品駅」が「広電阿品東駅」に名称変更されたが、せめて「広電鰆浜駅」にでもなり「鰆浜」の名称が後の世に残ればと悔やまれる。

 地御前村の時代には本郷に対して、飛郷の阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの大字があった。当然これらの地名は日常茶飯事のように使われていた。

 「田尻」は家も数える位しかなく部落としては形成されていなかったが、阿品では「鰆浜部落」と「阿品部落」の二部落で成り立っていた。鰆浜部落は一つの町内会であったが、阿品部落は何時の時代か分からないが西と東に別れていた。
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 地御前村時代の住所の表示は「佐伯郡地御前村字鰆浜○○番地」のように表示していたが、廿日市町になってからは「佐伯郡廿日市町地御前○○番地」のような表示になった。

 土地の表示には耕地番と山番地があり山を造成して住宅地にした場合、山番に枝番を付けたり新しい番地を付けたりしていた。住居表示前のふじタウンは4000番台、阿品台は3000番台の番地であったように記憶している。

 このように番地は複雑となり番地を頼りに家を探し当てるのも困難となり、阿品では昭和57年に町名の設定と住居表示が実施された。概ねであるが鰆浜は阿品一丁目、阿品は阿品二丁目、田尻は阿品四丁目と設定された。町名の設定に当たっては、主要道路などを町境としているため旧字境とはかなり異なっている。

 上図の青線で囲まれた部分は「阿品一丁目」に設定された区域である。概ね旧字の鰆浜区域であるが、左の赤い区域は旧字阿品の一部が阿品一丁目に編入されている。

 字鰆浜と字阿品の境は山の稜線を境としていたが、過去に県病院に隣接する山を造成し住宅地に開発する計画があったが、山の稜線を町境にすると住宅地の真ん中に町境が生じるので、山の南端を境としたのかも分からないが今ではこの計画は白紙となっているらしい。

 上図右側の薄い青と緑の部分は旧字田屋区域に属していたが阿品一丁目に編入されたものである。薄い青色地区は別荘や広島に支店の有る会社の社宅などがあったが、田屋部落とは隔たっており古くから鰆浜の町内会に属し、子供会活動を始め各種行事なども一体となって行っている。

 緑色の部分は厳島合戦の際に毛利軍が陣地を構えていた山があった。後に射撃場が設けられていたこともあったが今では小さな住宅団地となっている。

 旧字に属していた田屋部落とは西バイパスとで分断され阿品一丁目に編入されたが、小学校も公民館も遠く阿品区域に属するのは無理があるようである。道を挟んだすぐ向かい側はコミュニティも小学校も地御前に属している。

 一昔前までは、民家が一軒しかなかったJR奥の谷にも今では沢山の住宅が建てられている。しかしこの地域も高齢者が多くなり、子どもも少なくなり活気が無くなっているそうである。

 今県病院の跡地が売りに出ている。この地に住宅がたくさん建てられ若い人と子どもで溢れるような町になれば良いと考えるが果たして跡地はどのように変わるのだろう。
by hirosan_kimura | 2015-03-16 13:00 | 鰆浜 | Comments(0)
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 この写真も昭和38年(今から52年前)に撮影された鰆浜(阿品一丁目)の写真である。

 手前の建物は廃止された県立地御前病院で今では空き地となっている。中央上部の二階建て建物は吉田病院でいまではマンションが建てられている

 海岸付近は大きく変わり、バイパス工事の為、帯状に海が埋め立てられ広電軌道は海側に移設されている。この工事の為上部に見える「火立岩」と海岸に突き出た「波止」も無くなってしまった。

 鮮明ではないが海中に「牡蠣ひび」が建てられている。今では牡蠣の養殖は海岸より遥か沖の筏に吊下げて行われているが、当時は海岸沖に竹を建てそこで牡蠣の養殖が行われていた。現在、浜辺にある牡蠣ひびは牡蠣の幼貝を育成するものである。

 余り鮮明な写真では無いが、「鰆浜」と言えば長年見慣れたこの写真の風景が思い出される。
by hirosan_kimura | 2015-02-09 10:27 | 鰆浜 | Comments(4)
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 今では特別な場所でないと走っていない蒸気機関車も昔は極当たり前のものであった。JRを走るのは殆どがが電気機関車で田舎などに行くとジーゼル機関車がみられる。

 山遊びなどをしていてトンネルの上付近にいると、白い煙や時には黒い煙がトンネル入り口上にに舞い上がり、周りの景色が見えないほどになり石炭の独特の臭いを嗅ぐのも面白かった記憶がある。

 この写真は鰆浜(今の阿品一丁目)の線路を、白い煙を吐きながら蒸気機関車が走っている珍しい写真で、昭和38年(今から52年前)に撮影されたものである。

 写真右側の赤い瓦の建物は今は無い県立地御前病院である。ここに写っているのは炊事棟や職員宿舎などで、平屋の病棟は右側手前の方にあった。

 県病院閉鎖後この地は空き地となり、長年地域で盆踊り・とんどなどの催し物際利用され、お年寄りがゲートボールなどに利用されていてが、県が売却することとしている。何に活用されるのか分からないが住宅地にでもなれば賑わいを取り戻すであろう。

 線路右側、病院の建物と山の間の一枚の田んぼには現在ではアパートが建てられている。トンネルの上付近とそれに連なる右側の山の地形は殆ど現在と変わらないが、木々が生い茂り足も踏み入れられない状態である。

 線路左側の山は阿品台ニュータウンの造成により地形は大きく変わっている。列車の中央左側辺りから阿品台に上がる階段や下水処理場などに変わっている。

 線路の左側奥の谷には、現在民家やアパートなどが沢山建てられているが、この写真が撮影された時代には一軒の民家が有るのみで火葬場もある寂しい場所であった。

 この写真と比較するため現在の様子の写真を撮ろうと、鰆浜と阿品の境の山に登ったが長年人の入らない山は荒れ果て、木々が生い茂り比較する写真を撮影することは出来なかった。
by hirosan_kimura | 2015-02-08 10:27 | 鰆浜 | Comments(2)
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 鰆浜の海岸は干潮になると沖合いまで磯が広がり、あさりを掘りに行くと子どもでもたくさん採ることが出来た。火立岩に近い磯では大貝・ミル貝なども面白いほど採れていた。お上がり場に近い浜辺ではたくさんは採れなかったが、蛤(はまぐり)が見つかることもあった。

 浜のすぐ沖の水中には藻もたくさん生えており、えびやたこ・小魚などもいて夏の夜にはカーバイトの灯りで浅瀬を網を押して行くと獲物が獲れ、この漁りを楽しみにする人もあった。

 夏の蒸し暑い夜に堤防で夕涼みをしていると、闇夜の中を漁火が行き交い夏の風物詩でもあった。

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 昭和43年には西広島バイパス工事のため、道路の拡幅・広電の移設・堤防沿いの道路の新設用地として、海岸沿い長さ920m・巾最大35mの埋立が行なわれた。埋立面積は7,268㎡であった。

 昭和49年には無くなった浜辺を再生するため、沿岸漁業改善事業により鰆浜沖に人口干潟が造成された。干潟には山砂が入れられこれによりあさりなどは消滅してしまった。

 人口干潟には牡蠣の稚貝を育成するため、竹ひびがたくさん建てられた。あさりの稚貝も放流されたが浜は山砂のせいか元のようにたくさん増えることもなかった。

 人口干潟は工費8,600万円でフジタ工業が造成した。

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 昭和43年に人口干潟造成された人口干潟も、埋立てにより潮流が変わったせいか搬入された砂が沖合いに流され浜はやせ細るばかりであった。

 このため平成8年に人口干潟改修整備工事が行なわれた。この工事は南北延長700㍍・東西巾95㍍、工事面積6・7㌶の干潟の整地や牡蠣棚の復旧が行なわれた。

 また土砂の流失を防ぐため沖合いに土止溜堤が新設された。この堤は基礎捨石の上に巾4・2㍍・高さ2・5㍍のコンクリートブロックを設置し、沖側には波除の被覆石が積んである。

 この堤は2ケ所設けられそれぞれ延長182・25㍍と115㍍あり、総延長297.25㍍となっている。

 これらの工事は工費3億6,668万円で五洋建設が施行した。

 これらの工事により浜辺の砂の流失は止まったが、あさりなどは以前のようにたくさん見かけられない。潮の良い時にはたくさんの人達が潮干狩りを楽しんで居られるが、掘れるあさりはほんの僅かで貝を入れたバケツの底が見えるくらいで、見ていて気の毒なような人もある。
by hirosan_kimura | 2014-07-08 13:27 | 鰆浜 | Comments(2)
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 鰆浜の県病院は昭和47年3月に廃止され,以来42年間空き地のままであった。この間跡地には様々な施設の案が浮上しては消えいずれも実現に至らなかった。

 その後、県職員が野球やテニスなどに利用することもあったが使用する回数は限られ、地域のでの盆踊り・とんど・高齢者がゲートボールに使うぐらいで永らく放置されたままであった。

e0125014_13402477.jpg 最近になって県有地売出しの幟や看板が設置された。地元では跡地にマンションや戸建住宅が建てられるなど噂をしていたが、やっと県が売出しに動き出した。

 この地を売出すに先駆けて土質調査が行なわれ、極狭い部分であるが水銀が検出されたそうである。 
 
 検出された場所は病院時代に塵芥を処理する施設が有ったらしく、今ほど規制の厳しくない時代であったため医療廃棄物の処理がずさんに行なわれていたらしい。

 汚染された場所の土は掘り起して処理をするらしいが、極狭い場所に限られ大きな支障はないらしい。

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 設置された看板によると、近々一般競争入札により業者が選定されるようである。

 面積は11,498.73㎡(約3,400坪)とある。以前県病院跡地は16,500㎡と紹介したことがあるが、今回の売出し面積と約5,000㎡の差がある。

 これは恐らく県が阿品台ニュータウンを整備した際、地元対策として周辺道路の整備・公園の新設・集会所用地の確保に県病院用地を充当したものであろう。

 阿品地域は前は海に面し、後方は山を控え平地が限られている中で、県病院跡地は最後に残された纏まった土地と言えよう。

 鰆浜地区も他に漏れず高齢者が増加し、子どもが少なくなりかつての様な活気が見られないような気がする。

 跡地に何が出来るのかはわからないが、たくさんの住宅が建てられ子どもたちの歓声が溢れるような町になって欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2014-06-29 14:17 | 鰆浜 | Comments(0)
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 国道を挟んでお上がり場附近の山側は高いコンクリートの擁壁となっている。昭和7年に新国道が開通するまでは山がお上がり場附近まで延びていたが、国道の工事のため山が大きく削られ急斜面となっている。

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 この山ではまつたけも採れ、国道側には山の上から清らかな水が流れ落ちていた。終戦間近には弾薬を貯蔵するために、この山の下に阿品側から鰆浜側まで大きなトンネルが掘られ弾薬庫として使用されていた。このトンネルも昭和30年代までは残っていたが、今では潰されて跡形も無い。今ではかつての面影は無く、荒れ放題のやまとなっている。

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 昭和30年代の初め頃、この山を削り高い石垣をつき別荘地が造成された。鰆浜側から国道沿いに別荘への急な坂道が設けられたが、今でもこも坂道は当時の面影を残している。

 別荘地は数区画有ったが、広さは異なり二~三百坪程度から百坪に満たない区画もあったような記憶がある。長いこと更地のままであったが、一番狭い区画に木造平屋の小さな建物が建っていたが、その他の区画は家も建てられず放置されていた。

 この小さな別荘のような建物に人が住んでおられたような記憶が無いので、たまに来られることは有ったのかも知れないが、ほとんど使用されることもなかった。この小さな建物もいつの間にか朽ち果てて今では跡形も無い。

 前面に広島湾を望み宮島も指呼の間にある素晴らしい別荘地であるが、相当のお金をつぎ込んだ筈の別荘地が殆ど活用されなかったのが不思議でならないが、何か特別の支障でも有ったのだろうか。

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 長年活用されなかった別荘地は雑木が生い茂り、一時はここに住み着いていた不良者が残した廃物が散乱し、国道のすぐ傍でありながら様子を見に行くのも不気味な荒地となっている。
by hirosan_kimura | 2014-03-15 13:44 | 鰆浜 | Comments(0)

№625 黄色の溜池

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 鰆浜(現在の阿品一丁目)にはJR線路から奥に延びる谷と下水処理場から奥に延びる二つの谷があった。真っ直ぐ奥に延びる谷は「権四郎谷」、下水処理場から右手に延びる谷は「大谷」と呼ばれていた。

 二つの谷は現在の阿品台団地の下をかなり奥まで延びる谷であった。大きな川はなかったが両方の谷の奥から小川が流れきれいな水が絶えず流れ出していた。

 この谷も阿品台団地の造成で埋め立てられ、小さな川も消滅してしまった。鰆浜の谷もJR線路から奥に家屋が立並び田畑も殆ど無くなっているが、昭和30年代頃まではJRの奥には民家が一軒あるのみで、平地は全て田畑が耕作されていた。現在では田畑も少なくなっているが農業用水が必要なため小さな溜池が作られている。

 阿品(現在の阿品二丁目)ではかなりの規模の調整池が作られ、大水が出たときの水量調整や田畑の潅水用の役割を果たしているが、鰆浜では田畑も少なく小さな溜池である。

 この小さな溜池でも水が切れることは無くいつも水を湛えているが、赤茶色の不思議な色をしている。阿品の川は昔から鉄分が多く川底などに赤い藻のように色が付着していることはあったが、流れる水は清水のようで赤い色が付いていることはなかったが、この溜池は常に赤茶色の水を湛えているのが不思議である。阿品台を造成した際地下を流れる水脈が変わったのかも知れないが、このような水を農作物の耕作に利用しても害はないのか心配である。

 鰆浜の谷で稲作をする農家も僅かで、近いうちに田畑が消滅し農業用水が不用になればこの小さな溜池も埋められてしまうのだろうか。
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by hirosan_kimura | 2014-03-06 13:06 | 鰆浜 | Comments(0)
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 現在では想像出来ないが、かつてのお上がり場は松の木が鬱蒼と繁り日差しを遮る木陰となっており、夏になると沢山の海水客が訪れていた。たくさん人が来た時は木陰に隙間が無いくらいゴザなどの敷物が引かれ座り込んで飲食したり、ひと泳ぎして寝転んだり、おんなの人はおしゃべりに花が咲いたりして大賑わいであった。
 
 木陰には簡単な建物が建てられお菓子や飲み物などを売る店があった。夏になると海水浴客を目当てにもう一軒の店が開店しかき氷なども売られ、二軒の店が競い合っていた。店といっても木の柱を建て屋根はよしずを乗せたような仮設の建物である。

 昭和30年代の終り頃だったと思うが、幅二間半・縦四間くらいの総二階の木造の建物が建てられ、新しい店が開店した。この地は公園で公有地であるので本格的な建物は建てられないので不法建築であったらしい。当時のある議員が建主の便宜を計り役場に圧力を懸けて建てたの噂もあったが真相は分からない。

 水道も在ったが、今の阿品東駅付近からビニールパイプの水道管を堤防沿いに地上に這わせていた。正式な水道工事なら給水管は地中に埋設しなければならないが、なぜこのような水道工事が認められていたのかは分からない。

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 この建物があった場所は公園の東側、上の写真の左側の二階の建ての建物である。一年の内ほとんど毎日開店していた店は公園の中央当り、夏だけ開店する店は公園の右側辺りにあったが新しい店に太刀打ち出切る筈も無く、この建物が建てられた時期に前後して閉店している。

e0125014_921138.jpg 新しい店は「阿品海楽園」との看板を掲げて派手な商売を行なっていた。しかしこの店には背中に刺青をした人たちが出入りしたり、二階では昼間から博打をしているなどの噂が広がり、阿品の人たちは恐ろしいので余り近寄らなかった。

 この店もいつの間にか閉店し、昭和40年代の終り頃建物も撤去された。
by hirosan_kimura | 2013-10-24 10:10 | 鰆浜 | Comments(3)
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  阿品付近は西広島バイパスの出口に当たるが、バイパスを出てすぐに在来の国道の2車線に合流すると混雑するため、在来の国道を4車線に拡張する必要があった。

  今では鰆浜付近は海面を埋立て広電宮島線を沖合いに移設し、旧線路敷を活用して道路が拡幅されているが、当初計画では国道沿線の家屋が立ち退き道路を拡張することとされていた。

  当初計画ではJR線路を越える辺りから山を削り、鰆浜は民家の立ち退き、お上がり場付近は山を削り、今のJR阿品駅付近は二号線と平行していた調整池を埋め立て道路幅を確保するものであった。上図の青線が在来国道二号線、赤線がバイパスのための道路確保計画である。
(註 赤線は想像で書いたものでその幅は、当初計画の通りでは無い。)

  この計画で大きな影響を受けるのは鰆浜部落であるが、早くも金融機関が立退補償金を目当てに対象世帯を廻り預金獲得に奔走する状態であった。立退き世帯では長年住み慣れた場所を離れなければならない不安もあったが、一旦国が発表した計画が少々の反対運動で白紙に戻ることなど考えられず、早くも移転先の段取りをする家もあった。

  我家も国道沿いにあったので立退きの対象になり、先行き不安でその話にもちきりとなっていた。移転先として町が示したのは田尻沖の埋立地であった。田尻沖の海を埋めて住宅地を造成した目的の一つは、町内でも西広島バイパスの新設により多くの家が立ち退きになりその代替地にすることであった。

  今でこそ広電宮島線の駅<JRの駅もあり、大型スーパーも新設されこれ以上利便性のある所は無いとまで言われているが、当時は駅まで遠く買物も不便で陸の孤島のように言われていた。母親もこの年になって住み慣れた場所を離れ、何で田尻沖の埋立地に移転しなければならないのかと嘆いていた。

  この現状を嘆いていたのは立退きを要する世帯のみでなく、後に残る世帯も同様であった。鰆浜部落は地域が狭い上に県立病院と吉田病院の敷地がかなりの部分を占め、部落全体の家屋も僅かであった。少ない家屋のうえに国道沿いの家が帯状に無くなると、残される家屋数も僅かとなり部落としての機能に大きな打撃を受けるためである。

 そこで部落を揚げて計画の変更を求める運動を行なうこととなった。一旦、国が発表した計画を小さな部落で覆すのは無謀とも思われたが根気強い反対運動を続けた結果、海を埋立てて広電線路敷きを沖に移設し道路拡幅用地を確保することとなった。当時、一旦発表された計画を小さな部落の力で覆したと話題になったものである。
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  計画の変更により海が埋立てられ、広電宮島線延長約920mを最大35㍍海側に移設され、鰆浜の国道沿線の家屋の立退きを逃れることが出来た。光が丘団地付近の山も残り、お上がり場付近では山を少し削る程度で済んだが「お上がり場公園」の敷地が線路の沖出しで少し狭くなった。しかし阿品では2戸の家が立ち退きになり田尻沖埋立地(鼓ケ浜)に移転されている。

  鰆浜では家屋の移転は逃れたものの、鰆浜海岸の景勝地「火立岩」は無くなってしまった。たくさんアサリの獲れていた浜辺も無くなった。人口干潟が造成されているが山土のためか海の汚染によるものかは分からないがアサリも獲れなくなってしまった。

  バイパスのお陰で阿品付近の国道は広くなったが、阿品陸橋を過ぎた所より4車線が2車線のままで、休日や行楽シーズンには車の渋滞が相変わらずである。何とかならないものであろうか。
by hirosan_kimura | 2013-05-31 06:34 | 鰆浜 | Comments(2)