ふるさと 阿品 よもやま:写真
2019-05-28T13:23:35+09:00
hirosan_kimura
素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。
Excite Blog
№696 見つかった写真
http://hirosankim.exblog.jp/22887102/
2015-03-18T08:36:17+09:00
2019-05-28T13:23:13+09:00
2015-03-18T08:36:16+09:00
hirosan_kimura
写真
今は亡き従兄が写した写真である。この写真は国道脇に造成された別荘地から、海やお上がり場を見下ろした写真で昭和31年1月に撮影されたものである。
今は消滅してしまったお上がり場の松も生い茂っている。現在では桟橋沿いには沢山の釣り船が係留されているが、この写真では牡蠣養殖用の作業船が二隻繋がれているのみである。その左側の海は埋め立てられてマンションが建てられている。船の手前には宮島線を走っている電車の頭が僅かに見られる。
左下手前の白い部分は造成された別荘地であるが、今では雑木が生い茂っている。
造成中の「新宮島遊園」の写真である。右中央の赤い屋根の建物は阿品で唯一の集会所である。様々な会合・催し物・選挙の投票所等に利用されていたが、阿品公民館の開設と同時に閉鎖されている。
同じく新宮島遊園の造成地であるが、上の写真よりJR軌道寄りから写したものである。中央やや右側の国道沿いに見える家屋は、国道の拡幅により立ち退きとなっている。 昭和31年1月に撮影されている。
昭和49年5月に撮影された「広島ナタリー」の様子。
現在の「広電阿品東駅」前の海岸から撮影された「管弦祭 御座船」の様子。昭和49年8月に撮影。以前は地御前神社に向かう御座船には沢山の漁船が伴走していた。この写真では伴走の船も少なく寂しくなっているが、現在ではこれ以上に寂しい状況になっている。
この写真は昭和51年4月に撮影されたものであるが、阿品沖を写したというより地御前寄りの山の上から写したものであろう。
写真の中央やや下に縦に薄く写っているのは西広島バイパス出口の光が丘付近。中央右端に近い海にうっすら縦に写っているのはナタリーの観覧車。分かりにくいがそのやや左にナタリーのジェットコースターが写っている。]]>
№695 惜しい写真
http://hirosankim.exblog.jp/22884716/
2015-03-17T11:38:32+09:00
2019-05-28T13:23:35+09:00
2015-03-17T11:38:35+09:00
hirosan_kimura
写真
阿品の昔の写真を探すが中々見つからない。古い写真の残っていそうな旧家の人に尋ねると、お年寄りが亡くなられた際に中身も確認せずにごみとして処分したと言われることが多い。中には二度と手に入らない貴重な資料も有っただろうに誠に勿体ないことである。
今は亡い従兄はカメラが好きで良く写真を撮っていた。東京に在住している従兄の子どもさんが帰省し整理していたら古い写真が出てきたと提供して貰った。珍しい写真も有り随分助かったが、一部保存状態が悪く汚れ等などもあり残念なものもある。
上の写真は昭和38年1月に写された鰆浜の風景である。今から50年前のものである。県病院・吉田病院の建物を見る事が出来る。海岸線も埋立前で、火立岩・波止と言っていた防波堤もある。今から80年前には宮島線の終点はこの辺りで、すぐ傍からは宮島に渡る連絡船の発着場もあった。
これは約50年前のJR阿品駅前付近である。今のJR駅舎すぐ前には樋口工業と言う鉄工所の工場が見られる。
国道も自動車が殆ど走っていずのんびりしたものである。当時の国道脇の調整池の様子も良く分かる。
同じアングルから撮られた写真もあるが、白黒写真でピンボケの物が殆どである。この写真に汚れなど無ければと思うばかりである。
同時期に撮影された写真であるが、中央縦にJR軌道がある。Jr駅裏付近の民家も僅かで大半が田畑ばかりである。中央右側の山は住宅地に造成される前のふじタウンで、今では景色もすっかり変容している。
この写真は汚れも少なく、パソコンに精通した人ならかなり修正出来るのではなかろうか。
この写真は昭和49年5月、今から41年前の物で鰆浜の海岸から「お上がり場」「ナタリー遊園地」方面を撮影したものである。撮影場所は「火立岩」があった付近の堤防の上からと思われる。
汚れは少ないがピンボケなのが惜しい。]]>
№580 地御前の写真(2)
http://hirosankim.exblog.jp/21249385/
2013-10-28T04:52:31+09:00
2014-07-08T10:00:32+09:00
2013-10-28T04:52:24+09:00
hirosan_kimura
写真
昭和7年農繁期託児所とある。お寺をを利用して託児所が開かれている。ここに写っている子どもたちも元気でいれば八十数歳になっている。
当時の託児所の詳しいことは分からないが、№490で昭和24年当時の託児所の様子を紹介している。
昭和9年1月の地御前村の消防車と車庫の様子であるが場所はどこだろうか。当時は可搬式の消防ポンプくらいしかなかったのかと思っていたが、80年前にしては立派な消防車があったものである。
この写真は写りが悪いが広島総合病院の前身「佐伯病院」の玄関を写したもので、昭和20年代の終わりか30年代の初め頃写されたものではなかろうか。勿論木造で病院名は右から「院病伯佐」と表示してある。 佐伯病院は佐伯郡37ケ町村と農業会が出資し昭和22年12月開院している。 昭和41年に佐伯総合病院、昭和54年に広島総合病院と改称している。
中央煙突の場所が「広島ベニア」、今ではイオンの建物となっている。その向こう側には「日本綿麻」の建物が写っているが、今では住宅地となっている。病院が改築されているが昭和40年頃撮影されたものではなかろうか。
昭和32年成人式の地御前地区分の写真である。旧廿日市町、平良・原・宮内・地御前村が合併して最初の成人式と思われる。天満宮で撮影されているが、この当時は中央公民館は建てられていず何処で式を挙行したのだろう。この写真に写っている紅顔の美少年美少女も喜寿を迎える年となっている。]]>
№579 地御前の写真(1)
http://hirosankim.exblog.jp/21246364/
2013-10-27T11:33:00+09:00
2014-07-08T10:00:14+09:00
2013-10-27T11:34:06+09:00
hirosan_kimura
写真
この写真は阿品と地御前境の山より撮影されているが場所は分からない。撮影年月は不明であるが、国道が完成しているので昭和10年頃撮影されたものかも分からない。国道より沖側には港付近を除いて建物がほとんど見当たらず農地が広がっている。
手前の山には食料不足を補うためか、山頂近くまで段々畑が開墾されている。
この写真は地御前神社左側の石碑の完成式のものである。この石碑は大正十二年十一月建立で石碑の正面には「皇威輝八紘」とあるが、西南の役・北清事変の戦没者の慰霊のために建立された。
この写真は現在地御前小学校の事務棟の建てられている場所であるが、後方は「大歳神社」である。
奉安殿の上棟式であるが明治41年とある。(明治41年は明らかに間違い。昭和4年5月21日と思われる。)
小学校の校庭で上棟式の祝賀の行事が行なわれている。これから「餅蒔き」でもあるのだろうか。後の校舎は昭和31年頃解体された懐かしい旧校舎である。
昭和8年「防空演習」とある。場所は不明であるが海岸端のようである。
年代については間違っている可能性もあるのでそのつもりで。]]>
№495 地御前絵葉書
http://hirosankim.exblog.jp/19012697/
2012-10-10T13:19:00+09:00
2012-10-17T04:37:11+09:00
2012-10-10T13:19:44+09:00
hirosan_kimura
写真
地御前全景
中央は地御前小学校の旧校舎である。昭和26年に入学した時はこの校舎であったが、4年生の頃新しい校舎に改築されたような記憶がある。手前には藁屋根の民家も見える。扇園周辺には建物が見当たらず、田んぼか畑ばかりである。
観音堂
手前に藁屋根の民家も見える。かつての観音堂は小高い丘の上にあったが、今ではこの丘も削られてしまい平地にお堂がある。
明神浜
地御前神社傍のJR踏切を渡ったあたりである。すぐ前には海の砂浜がある。小学校から家に帰る途中でこの大きな松に登って遊んだ思い出がある。右手は地御前神社の前辺りであるが、浜辺には小船が停泊しており、良くみると海には飛び込み台が見える。かつてはこのあたりは海水浴場で、夏になると広電の臨時停車場が設けられ、広島方面からたくさんの海水浴客が遊びに来ていた。
養魚場ノ沙魚釣リ
広電地御前電停前の国道沖で、今でも僅かに当時の面影が残っている。沙魚(ハゼ)
汐干狩ノ一
現在料亭が建っている辺りである。右側は沖山で、遠く微かに弊司岩が見える。
汐干狩ノ二
場所ははっきりしないが、岩礁が見えるので沖山の沖辺りであろう。
海水浴場
地御前神社の前。背景左側は沖山。右側に田屋の家並みが見える。
聖覧場ヨリ火立岩ヲ望ム
この写真は阿品に残る数少ない古い写真の一枚なので、今までも何回か紹介したものである。中央が火立岩。旧国道が海岸より僅かの高さしかないのが覗える。]]>
№373 新しい資料
http://hirosankim.exblog.jp/13784276/
2010-12-09T11:53:00+09:00
2011-10-24T12:22:00+09:00
2010-12-09T11:53:19+09:00
hirosan_kimura
写真
この風景は鰆浜海岸から火立岩を望んだものである。詳しい年代は分からないが、新国道開通以前のものであるので、明治の終わりか大正時代の風景であろう。
今までも同じ写真はこのブログでも使用してきたが、これは本よりコピーしたものを更にコピーと不鮮明であった。これは絵葉書の原版を直接撮影したものでかなり鮮明で細部まで確認出来る。
これは阿品の風景でないが、地御前神社の境内でJR脇の風景である。今ではこの松は松枯れで無くなったが自分の小学校時代には残っており、学校から帰る途中にこの松に登ったりして良く遊んだものである。
この写真では松のそばまで海岸で広電宮島線・国道も無いが、新国道・広電の敷設により海が埋め立てられ、今では当時の面影も無い。
子どもの頃にはこの松の巨木以外にも、要町・田屋にも松の巨木があった。阿品でもJRのトンネル上付近の「みこの松」、歴史的には古くないが「おあがり場」の松などあったが、大気汚染などにより松枯れしてしまった。何百年もの間、生き続けた松がこの数十年の間に次々と姿を消してしまった。まことにもったいないことである。]]>
№187 昔の写真
http://hirosankim.exblog.jp/10741821/
2009-07-31T06:41:00+09:00
2011-10-25T09:11:50+09:00
2009-07-31T06:41:33+09:00
hirosan_kimura
写真
ついにネタが切れそうです。今回は古い写真を掲載してみる。
この写真はいつ、何の行事で写されたものか分からない。場所は災害で崩壊する前の岩鏡神社の境内だろうと言う人もある。
阿品の長老に尋ねれば、詳細の分る人があるかも知れない。
この写真は昭和8年3月8日、今から約76年前のものである。
場所は阿品の人がクラブと呼んでいた、今で言う集会所的な建物である。今から40年くらい前に解体され今は無い。
「防空演習出場記念」とあるが、いかにも戦時中的な行事である。
この写真に写っている人が20歳としても96歳。大半の人は亡くなっておられるのだろう。]]>
№25 貴重な写真
http://hirosankim.exblog.jp/9354095/
2009-01-06T05:46:00+09:00
2011-10-26T11:58:17+09:00
2009-01-06T05:47:29+09:00
hirosan_kimura
写真
1月3日の中国新聞に、戦前の広島市を写した写真が2,000枚も見つかったとの記事が大きく出ていた。
此れは私の父の姉さんのご主人が、戦前に広島市で写真店を営んでいた時写した写真で、昭和2年から原爆投下直前までのもので、広島市の戦前の資料は原爆投下により殆ど残されていない中、今まで残された物の中で質・量とも群を抜く大変貴重なものであるということだそうである。
原爆投下前に地御前の実家に避難さしていたものであるが、よくも今まで保存されていたものだと感心する。
上の写真は、兄の家に珍しい写真があるということで複写した写真の一部を拡大したものである。阿品で行われた祖母の葬儀の際の写真であるが、横が1㍍近くもあるパノラマ写真で、今回見つかった写真の一部かも知れない。
親戚の中でも写真撮影の好きな人もあったが、その人が亡くなった際、殆どの写真が処分されており、誠にもったいないと思うばかりである。]]>
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