素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

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 鰆浜の広い空地については何回も取り上げてきた。昭和18年(今から74年前)に開設された教員保養所が昭和26年に県立病院に移管され「県立地御前病院」として21年間開院していた。
 
 この病院も昭和47年に廃止された以降45年間空地のまま放置されていた。この間様々な施設の誘致が検討された。この中でも大竹の山陽自動車道用地内にあった精神病院の移転は、かなり具体的な所まで検討されていたが、地元鰆浜町内会の粘り強い反対運動によりこの計画は撤回された。この間、山陽自動車道の整備工事がストップし大野~大竹間の開通が大幅に遅れたこともあった。

 この間民間による開発計画も浮上しては消えたが、隘路になったのはこの地への国道よりの進入路が普通車の離合も困難な狭い道路しかないことである。

 しかしこの広大な空き地があることで地元ににとっては様々な行事を行うことができた。夏には盆踊り、正月あけには毎年とんどをすることもできた。その他様々な行事も行え、子どもたちは走り回って遊ぶこともできた。

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 45年間空地であった県病院跡地も、このブログ「№751 県病院跡地がやっと動き出した。」で紹介したが民間不動産会社による開発が行われることとなった。

 この計画が発表されて以来いつから具体的に動き出すのかと気を揉んでいたが、先日工事開始の看板が設置された。工期が平成30年7月15日とあり平地の宅地開発にしては工期が長すぎる気がしないでもないが、進入路と国道の接続部分に関して様々な手続きを要するのかも分からない。

 いずれにしても高齢者が増え活気の乏しい鰆浜部落が、一年後には大きく変わっていることが期待される。
by hirosan_kimura | 2017-07-09 10:13 | Comments(6)
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 この度、鼓ケ浜町内会広報誌「つづみ」が発刊された。一町内会で広報誌を発行するには多くの労力を要するが、町内会役員の方が議論に議論を重ねられやっと発行できたもので苦労の跡が伺われる。

 鼓ケ浜町内会の名称は、海を埋め立てた新しい住宅団地を町が分譲する案内で「地御前鼓ケ浜団地」とあったのでこの団地名を採用したことによるものと聞いている。

 「鼓ケ浜」の地名は海を埋め立てて国道・電車軌道用地を造成する際、隣接の大野村の字名から名付けられたと推測され古来よりの地御前村の字名には無かったものらしい。

「鼓ケ浜」の読み方であるが、大野では「つつみ」と呼称し阿品でも古くから「つつみ」と称していた。しかし辞書で「鼓」を引くと「つづみ」とあり、人によっては「つづみがはま」と言う人もありどちらが正しいのかどちらが間違いなのか判断出来ない状況である。

 今回広報誌の発行に当たり「つづみ」か「つつみ」で議論されたが、「つづみ」で統一されたようである。
 近隣の例を見ると、佐方が「さかた」と「さがた」、佐伯が「さいき」と「さえき」、須賀が「すが」と「すか」の例もあるが、元の読み方はどれが正しいのか分からないが、地域により人により読み方が異なっても、時を経ればいずれも正しいものになるのであろう。

 町内には「鼓ケ浜公園」「鼓ケ浜集会所」があるが市では「つつみがはま」に統一してある。人によって読み方が異なるのもおかしいので統一してあるのか、何か根拠があって統一しているのかは分からないが、市の読み方が絶対正しいのかは結論付けられない。
 
 しかし市の施設の読み方と町内会内での読み方が異なるのも、他地区の人から見れば不思議であろう。
by hirosan_kimura | 2017-07-05 17:00 | Comments(2)
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 今年の1月4日に投稿しその後さしたる記事もなく今日に至っている。阿品の話題も目新しいものもないが、№567で紹介した「やっと阿品に公共下水が」の工事が我が家付近まで下水道本管が埋設され、この5月30日に公共下水道に接続された。狭い庭の一角を占領していた合併浄化槽も撤去され、猫のひたいほどであるが花畑が広がった。

 昨日は阿品台中学校の運動会に招待され観覧に行った。招待席では子どもたちの演技に夢中であったが、それ以上に阿品台近辺に出没するクマの話題で盛り上がっていた。

e0125014_10421270.jpg 最初にクマの目撃があったのは5月27日であったが誰もが阿品付近にクマが出るわけがない。コグマなので大きな黒い犬か他の動物と見間違えたのだろう思っていた。
 しかし、その後複数の目撃者が出始めて本物のクマの出没に間違いないこととなり大騒ぎになっている。







e0125014_10424454.jpg 7日の午後に阿品公園でも目撃した人が出た。この公園は阿品台ニュータウンのど真ん中に位置し周りは住宅地で囲まれ、阿品台東保育園にも隣接している。
 10日の午後2時ごろにもこの公園内でクマが目撃され、現在公園は閉鎖されている。





e0125014_10432122.jpg 昨日中学校の運動会に行く途中で公園のそばを通りかかると、NHK放送局がクマ騒動を放映するため撮影に来ておられた。
 それにしても阿品にクマが出没した話は聞いたこともなく初めてのことではなかろうか。サルが出ていたずらをする、イノシシが作物を荒らしたなど聞いても驚いていた位である。
 廿日市市でも山間部にクマの出る話を聞くことはあった。また四季が丘団地にクマが出没した際も驚くくらいであった。
 山間部と市街地との間には山陽自動車道が横切っており、まさか阿品地区にクマが出現することなど夢にも想像出来なかったことである。

 一日も早い解決が望まれるが、クマが食べ物を求めて人里まで現れなければならない要因は人間の作ったものである。大人のクマであろうとコグマであろうと捕獲して山奥に放してやり、間違っても射殺などされないよう思うばかりである。
by hirosan_kimura | 2017-06-11 11:33 | Comments(4)
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 この三が日は天候にも恵まれ三日間とも「初日の出」を拝むことができ、穏やかな平成二十九年の幕開けとなった。一旦閉鎖したブログを再開してみたものの話題もないので、変わったところで阿品町内間の年齢構成を取り上げてみた。

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 平成元年に1.57ショックと国中に衝撃が走った。これは昭和41年の丙午の年の出生率1.58を下回ったことで、このまま進むと高齢化が加速し国の衰退につながると危惧されたことによる。

 このため国から地方自治体に渡るまで少子化対策が急務と様々な施策を講じることとされた。しかし目に見える効果も少なく、当時12%であった高齢化率が27%程度に上昇している。

 わが阿品も例外でなく高齢化率は30%を超えている。0歳から14歳までが年少人口、15歳から64歳を生産人口、65歳以上を老年人口に区分すると国・廿日市市と比較しても大差ないが、地域によって大きく構成比が異なっている。高齢者が少なく年少・生産年齢が大きいほど活気のある町といえる。

 驚くことに阿品台二丁目は高齢化率が50%を超過している。続いて阿品台三丁目・一丁目・四丁目・阿品四丁目と続く。阿品台二丁目は団地が開発されて一番最初に入居が始まっているが、入居した当時は働き盛りの世帯が多かったが、高齢者の移動が少なく子どもたちは成長し転出していった結果であろう。

 高齢化率が少なく年少人口が多いのは阿品台北で、住宅価格も比較的安価で若い世代の入居者が多いのであろう。続いて県営住宅のある阿品台東で両地区とも高齢化率が低く、年少者・生産人口が多くなっている。旧阿品の阿品一丁目(鰆浜)、阿品二丁目(阿品)も比較的高齢化率が少なく、生産・年少者が多いがJR阿品駅にも近く新しい住宅の新築が続いているからであろう。

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 上の表は年齢別の構成比を表しているが、下の表は年齢別の人口を表している。阿品三丁目の人口が飛びぬけて多いいが、この地区は「遊園地ナタリー」の跡地に800世帯を超えるマンションが建てられているからである。極端に人口が少ないのは阿品台山の手であるが、この地区は旧廿日市市と大野町の丘を開発した小さな住宅団地のためである。

 年齢構成の異なる阿品地区ではあるが、本気で少子化対策を講じないと阿品全体が超高齢化社会を迎えることとなろう。
by hirosan_kimura | 2017-01-04 11:23 | Comments(0)
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 早いもので今年も残り一週間となった。何となく気ぜわしい日々を迎えたが、阿品の氏神様「岩鏡神社」に門松が飾られお正月の準備が進められている。

門松は単なる正月の飾り物と思われているが、来臨する歳神(としがみ)様の依代(よりしろ 神様が意思を伝えるため人間界に現れるとき寄り付かれるもの)である。門松は三つの正月飾り(門松・しめ飾り・鏡餅)の中で最も重要なものである。

 門松を飾って取り外すまでを「松の内」と言い12月13日から1月7日であるが、今ではクリスマス等もあり世間一般では12月28日から飾るのが多いといわれている。

 しかし12月29日31日からは飾り始めてはならない。29日は「二重苦」のゴロになり、31日は神様を迎える正月までに一日しかなく「一夜飾り」「一日飾り」と呼ばれて絶対避けなければならない。

e0125014_1525275.jpg 神社に飾られた門松は離れて見ると大きく見えないが、人の背丈を超える立派なものである。この門松は阿品のある方が早くから材料の準備を始められたが、お正月に参拝される時に一番見ごろになるよう随分苦労されたようである。








e0125014_15253181.jpg 門松を作っておられる途中に見せてもらったが、中心の青竹は阿品では見られない太くて立派な物なので何処で入手されたのか聞いてみると、山口県の岩国の竹林に有った物だそうである。切り口を見栄え良く切断するのも技術を要するらしい。切り口は人の笑った顔に見えるようにするのが本流らしいが、そう言われれば笑った顔にもみえる。

 お正月に参拝される際はこの門松を造られた方のご苦労を忍んで欲しいものである。
by hirosan_kimura | 2016-12-25 16:27 | Comments(2)

№757 小さなホテル

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 最近、地御前界隈で外国人の姿をよく見かける。これは地御前神社前に出来た宿泊施設に滞在する人々である。大半が宮島への観光客で広電で三駅目の地御前であるが、中にはJR串戸駅から歩いて来られる人もあるようで大層繁盛している様子である。

 宿泊施設はある会社の研修施設であった建物を改造したものである。ある程度まとまった人数が宿泊できるのか大型バスが駐車していることもある。この地には大正の終わりごろ建てられた料亭のような建物があり、のちに旧国鉄の保養所に変わり「鉄道会館」と称した施設が昭和40年代頃まで残されていたような記憶がある。

 鰆浜(阿品一丁目)の西端で先年まで民家があった地が整地され、新しい施設が立てられている。何が建つのか気になっていたが最近工事が始まり「ホテル」が建つようである。

 ホテルといっても敷地面積180坪、建坪36坪、延床68坪の小さな木造二階建ての施設である。部屋数は僅か7室で民宿に毛が生えたようなミニホテルである。

 こんな場所でこんな小さなホテルで、経営が成り立つのか素人判断で心配な気がしないでもない。
しかし地御前の繁盛振りを見れば、広電駅にもJR駅にも近いのでPR次第で外国の人に周知されれば多くの人が宿泊するかも知れない。

 この地は毎朝犬の散歩コースである。来年の春過ぎにはこの付近で外国人を行き来されるであろうが、片言でも駅までの道順を英語で説明できるようになりたいものである。
by hirosan_kimura | 2016-11-08 11:07 | Comments(4)
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 これは鰆浜に生まれ育ち現在は阿品台に居住しておられる方が、老人クラブの冊子への投稿文をご本人の了解を得て掲載するものです。一部修正した部分もあります。

 「昭和初期に生まれ、戦中戦後昭和二十四年まで、幼少から小学校・中学校・現高等学校に通学、就職までを阿品の地で育った記憶を辿り、今年六十五歳(投稿当時)まで生かして戴いた感謝の気持ちで投稿します。

 阿品の地名は地御前村字阿品(鰆浜・田尻)でした。鰆浜は広電阿品(現 阿品東)電停地区、阿品はJR阿品北地区、田尻は現阿品四丁目地区でした。「お上がり場」より西ナタリー・阿品三丁目は砂浜の綺麗な海でした。広電阿品(現 阿品東」駅に一番近い処が私の生家です。

 私の幼少時代の阿品地区は山あり、谷あり、川あり、海はいつも綺麗で、四季を通じて子供達の遊びには最適の地域でした。
 
 春
 春は今の一丁目(鰆浜)付近は梅樹があり、四月三日は各戸弁当を作り、家族揃って山に登って花見の会をしたり、城を作って戦争ごっこをしたものです。五月の節句は「馬とばし」、地御前神社から役場(シルバー人材センター 註現在は寿司屋さん)までの間を、野武士姿で弓と矢を持って馬に乗り疾走するお祭。神社付近には出店が並び、賑やかな祭だったと記憶しております。今想うと、あんな狭い道路で左右から馬を囃したて、事故もなくよくやったものだと思います。
 
 夏
 七月は管弦祭。その頃の管弦祭は宮島から地御前神社まで、各地から集まったお供船が連なって、御座船の神踊管弦で盛大な祭でした。管弦祭の前日には着飾った牛十頭が地御前神社の浜辺を鋤を曳いて清掃していました。
 又、阿品海岸は海水浴場の適地として,お上がり場・広電阿品駅(現阿品東)はキレイな浜辺であり、飛び込み台等も作られ、子供達の水遊びの天国でした。汐の満ちた時は防波堤から飛び込んで水泳を楽しんだものです。又、私の家の前にはイリコ干し場の広場があり、昭和十年頃は広島市商の生徒や泳ぎの出来ない兵隊さん達の夏季強化訓練で一週間位テント生活で水泳訓練に励んでおりました。疲れをとるために大釜でアメ湯を炊き、それを御馳走になるのが楽しみでした。昭和十六年位まで数年間、毎夏続いたと思います。
 
 秋
 秋祭は、鬼の面をかぶり青竹を持って部落内を走り回り、ガキ大将達は鬼の後を追って走ったものです。その日は若い女性の厄日で、女性を見掛けると相手構わずお尻を竹の棒で突くのです。鬼になる若者も結構楽しそうでした。豊作を願ってのお祭です。
 又、この阿品はキノコの宝庫でした。松茸やオカンスケ(白いキノコ)・黒っこう・ヒメジ等が豊富に生え、山を一日中歩き回る事もあり、キノコ狩りの面白さ、秋の味覚一杯の山と谷と小川のある土地でした。赤トンボ・夕方になるとコーモリ等、網で捕まえられる程飛んでいました。
 
 冬
 正月は早起きをして宮島の弥山に登り、初日の出を拝むのが年初めの行事でした。今の鰆浜運動場(県病院跡地)は全部田んぼで、トンドの行事の場所でした。トンド焼の材料集めは、現阿品台の山林の手入れ掃除を兼ねて行いました。下刈り雑木を部落民全員が持ち寄り、太い青竹十数本とで大きな櫓を組み、注連縄(シメナワ)を張り、火を着けます。竹の割れる音、下刈雑木のパチパチと激しく燃え盛る火柱は盛大でした。皆さんが持ち寄ったお正月の飾りモチを焼いて食べたり、書き初めに一年の願いをこめ、トンド祭を楽しんんだものです。
 子供の遊びは、ハネ突き、タコ揚げ、コマ回し、パッチン、ビー玉等戸外の遊びが中心でした。広場に輪を書いての相撲の取組み、当時は郷土出身の安芸の海が連勝中の双葉山を破った時期で、ひいき力士名を付けての子供相撲も盛んでした。

 纏まりのない文章ですが、数十年前の阿品は私のふるさとである事は間違いない事実です。私の親父さん達が築いた阿品を愛し、我々の時代から孫子まで住み佳い故郷であるよう願うものであります。」
by hirosan_kimura | 2016-11-03 14:04 | Comments(4)
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№13 造成前の阿品台
 ニュータウウン造成前は阿品の集落から数本谷が奥まで続き、その谷の最深部まで耕され稲作が行われていた。中央右寄りの高台の施設は「光の園」で、当時は地御前神社脇から奥に入る細い道が唯一の進入路であったが、現在は周辺の様子が大きく変わり阿品台一丁目の宅地と同じ高さになっている。

 バイパスが大きくカーブしている上方の山付近が阿品台一丁目、左端上方辺りが阿品台三・四丁目である。
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 №14 阿品に大型住宅団地計画
 昭和40年頃に入ると広島市の人口が増加し住宅地が不足となった。そこで広島県は近郊にニュータウンの造成を計画した。様々な候補地がある中で阿品の地が選ばれた。その理由は①海岸沿いに国道・山陽本線・広電宮島線が並行し、広島市への通勤の便が良い。②造成する山はなだらかで、無人の里山で谷筋に僅かな耕地があるのみで開発が比較的容易である。③広島湾に面し気候が比較的穏やかで年中過ごしやい。等の理由によるものである。

 この地に計画戸数3,500戸、人口12,600人の計画的なニュータウウンを目指したものである。
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 №15 造成中の残土処理
 山を削っての住宅造成のため膨大な残土処理が必要となった。この残土は計画中の廿日市木材港造成のための海面埋立に利用されることとなった。

 阿品の山から木材港埋立地まで運搬する道路の整備が必要であった。阿品台から現在の日赤看護大学・特別支援学校前を通って宮内に抜ける道路が山を削って新設された。これらの道路を土砂を積んだダンプカーが一日何百台も行きかった。

 阿品から宮内に抜ける道路は現在は「阿品・高通り線」としてたくさんの車が通行している。
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 №16 造成中の阿品台
 中央辺りの緑の残された部分は「阿品公園」付近。高い丘の上にあった「光の園」は周囲の山が削られ住宅団地と同じ高さになっている。左上は「阿品台北」、左下は「阿品台西」付近である。

 阿品台と当時大野町の住宅団地の間は山で隔てられているが、現在では貫通し「対厳山線」として多くの車が行きかっている。
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 №17 ニュータウウン完成
 昭和53年8月10日(今から38年前。阿品台で最初の入居者は東の県営住宅178戸であった。当初は小学校・中学校は開校していず、阿品台東小学校が開校するまでは地御前小学校へ、阿品台中学校が開校するまでは七尾中学校へ通学する不便さであった。

 その後続々転入者があり、阿品台東小学校では一時1,100人を超える状態もあったが、高齢化が進み人口は一時より大幅に減少している。

 子どもたちに17枚のパネルで説明したが、振り返ってみればパネル枚数がもう少し少ない方が良かったのではないかと反省している。
by hirosan_kimura | 2016-10-17 10:04 | Comments(0)
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 №7 今から45年くらい前のおあがり場
 この公園は明治18年8月1日に明治天皇が宮島から広島にむかわれる途中、この地に上陸されたので「おあがり場」と称される。昭和20年代から昭和40年代半ばまで、夏場は海水浴場としてにぎわっていた。松の木が生い茂り公園全体を覆いつくし陽射しをさえぎり、涼しい木陰を造っていた。

 露店が2軒・貸しボートや飛び込み台もあり、遠方よりバスで団体客がたくさん来場していた。今では道路の拡張等で狭くなり、生い茂っていた松も枯れてしまい往年の面影は見られない。
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 №8 埋立前の阿品三丁目
 広電宮島線沖はすべて海であったが昭和41年10月(50年前)から海面の埋め立て工事が着手された。埋め立てが完成後はこの近辺の風景は一変した。
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 №9 今から50年位昔の阿品(今の阿品二丁目)
 山沿いに農家が散在し谷の中央部は三軒の農家があるのみで、残り部分は全て田畑が広がっていた。この写真では分かりにくいが中央部右寄りに、阿品で最後の藁屋根の農家が残っている。中央奥の山は阿品台、左側の山はふじタウンの宅地造成により大きく変わっている。

 田畑の中に家屋が散在していたのどかな田舎風景も、今では民家が立ち並び家と家の間に田畑が残されている状況である。阿品が大きく変わる前の懐かしい風景である。
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 №10 駅前付近と三丁目埋立中
 今から50年くらい昔の風景である。JR駅前付近は荒地状態である。広場と国道の間には調整池が残されている。この調整池も国道の拡幅で埋立てられた。

 電車軌道前の海は埋立中である。右上に№3で紹介した海に突き出た小山があり、麓には僅かであるが砂浜も残されている。埋め立て完成後は田尻沖は住宅地、阿品沖は遊園地「広島ナタリー」として賑わっていたが、遊園地閉鎖後はマンション群と商業施設となっている。
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 №11 遊園地「広島ナタリー」
 遊園地は昭和49年4月23日(今から42年前)に開園した。この遊園地も他の地域に遊園地が開園して入園者が減少したり、プール等の老朽により多額の改修費も必要となり、平成8年3月末(20年前)に閉鎖された。この間22年間で912万人の来園者があった。

 遊園地には当時東洋一の高さ65㍍の観覧車・海に突き出たジェットコースター・大型プール・その他たくさんの遊具が整備されていた。また冬場には屋外駐車場を利用してスケートリンクも開設された。

 ヨーロッパの富豪が所有していた「ナタリー号」は巨大プールの中に設置されていた。この帆船は527トンでエンジン付き帆船としては世界でも有数の大きさであった。全長177フィート。全幅27フィートであった。夏場には巨大プールの外周にあった流れるプールも人気の施設であった。
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№12 ナタリー航空写真
 上空より見るとジェットコースターが海面に突き出していたことが分かる。大型プールに浮かんだ「ナタリー号」、大型プールを取り巻くように一周していた流れるプールも判別できる。

 国道を挟んであったテニスコート、やドライブインも懐かしい。JR阿品駅はまだ開業していない。広電阿品駅も無い。
by hirosan_kimura | 2016-10-16 13:20 | Comments(0)
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№1 大昔の阿品の想像図。今から約200年前の絵図を元に平地部を海であったと想定して修正したもの。実際の様子は分からないが、阿品の谷の最深部の家で井戸を掘ったところこの辺りが海であったことを示す物質が掘り出されたそうである。
 
 その昔には阿品には平地がほとんどなく谷と谷との間に僅かな平地しかなかったものと推定される。推定に過ぎないものを事実のように話すのは良いことではなかろうが、阿品に昔平地がほとんど無かったと話すと子どもたちは驚いたようである。
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№2 文政2年(1819年)今から197年前の絵図に着色したものである。№1の阿品が山から少しずつ土砂が流れ出たり、海の砂が少しづつ押し寄せて長い期間を懸けて平地が出来ていった。谷と谷との間の平地はともかくとして、海岸沿いの山と海の間の平地は広過ぎ誇張して描かれているようである。
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№3 鼓ケ浜(阿品三丁目)の集会所付近の絵図である。描かれた年代は不明であるが、山際の旧国道や国鉄が敷設される前で少なくとも140年以前の風景である。白黒の絵図に近所の絵の大家に着色してもらったものである。

 現在の風景から想像してもあじなの風景とは信じられないが、広い浜辺の松林や漁師の家こそ無かったが、50年くらい前までは中央の海に突き出た小山は残っており松の木が生い茂っていた。小山の麓には僅かばかりの砂浜もあった。背後の山は団地開発され昔の面影はまったくない。
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№4 鰆浜(阿品一丁目)の100年位前の海岸風景である。中央の小島は「火立岩」と呼ばれ阿品の名称の一つであったが今は無い。火立岩から手前に向けて埋め立てられ広電宮島線・国道に変わり風景は一変している。

 左下に僅かに見えるのは「旧国道」の一部で、海面より道路までの高さが僅かしかないのに子どもたちは驚いていた。
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№5 昭和6年(今から85年前)に廃止された「広電新宮島駅」と鰆浜・厳島間連絡船乗場。広電宮島線の終点は阿品にあり、今では宮島口から出ている連絡船は阿品から出発していた。子どもたちがもう少し興味を持ってくれるかと思ったが案外無関心であった。
 話す時間が短すぎたのか、電車の終点が阿品で宮島へは阿品から乗船していたのは突飛で現実感が無かったのかもしれない。
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№6 今から60年少し前の阿品の航空写真。平地は殆ど田畑で家屋は僅かばかりである。残りの大半は山ばかりで今の阿品台・ふじタウンも見られない。自分たちの阿品の原風景はこの写真の通りであるが、今の子どもたちにはこれが阿品と云っても実感が湧かないであろう。

 ちなみに当時の阿品全体の世帯数は101世帯、人口は552人であった。今年の4月1日現在では5,783世帯、13,502人となっている。驚くことに世帯は57倍、人口は24倍となっている。一世帯当たり家族数は当時5.4人であったが今では僅か2.3人となっている。阿品地区では人口が増加しているが、阿品台地区は減少するばかりである。
by hirosan_kimura | 2016-10-13 11:40 | Comments(0)