素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura
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 鰆浜の広い空地については何回も取り上げてきた。昭和18年(今から74年前)に開設された教員保養所が昭和26年に県立病院に移管され「県立地御前病院」として21年間開院していた。
 
 この病院も昭和47年に廃止された以降45年間空地のまま放置されていた。この間様々な施設の誘致が検討された。この中でも大竹の山陽自動車道用地内にあった精神病院の移転は、かなり具体的な所まで検討されていたが、地元鰆浜町内会の粘り強い反対運動によりこの計画は撤回された。この間、山陽自動車道の整備工事がストップし大野~大竹間の開通が大幅に遅れたこともあった。

 この間民間による開発計画も浮上しては消えたが、隘路になったのはこの地への国道よりの進入路が普通車の離合も困難な狭い道路しかないことである。

 しかしこの広大な空き地があることで地元ににとっては様々な行事を行うことができた。夏には盆踊り、正月あけには毎年とんどをすることもできた。その他様々な行事も行え、子どもたちは走り回って遊ぶこともできた。

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 45年間空地であった県病院跡地も、このブログ「№751 県病院跡地がやっと動き出した。」で紹介したが民間不動産会社による開発が行われることとなった。

 この計画が発表されて以来いつから具体的に動き出すのかと気を揉んでいたが、先日工事開始の看板が設置された。工期が平成30年7月15日とあり平地の宅地開発にしては工期が長すぎる気がしないでもないが、進入路と国道の接続部分に関して様々な手続きを要するのかも分からない。

 いずれにしても高齢者が増え活気の乏しい鰆浜部落が、一年後には大きく変わっていることが期待される。
# by hirosan_kimura | 2017-07-09 10:13 | Comments(4)
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 この度、鼓ケ浜町内会広報誌「つづみ」が発刊された。一町内会で広報誌を発行するには多くの労力を要するが、町内会役員の方が議論に議論を重ねられやっと発行できたもので苦労の跡が伺われる。

 鼓ケ浜町内会の名称は、海を埋め立てた新しい住宅団地を町が分譲する案内で「地御前鼓ケ浜団地」とあったのでこの団地名を採用したことによるものと聞いている。

 「鼓ケ浜」の地名は海を埋め立てて国道・電車軌道用地を造成する際、隣接の大野村の字名から名付けられたと推測され古来よりの地御前村の字名には無かったものらしい。

「鼓ケ浜」の読み方であるが、大野では「つつみ」と呼称し阿品でも古くから「つつみ」と称していた。しかし辞書で「鼓」を引くと「つづみ」とあり、人によっては「つづみがはま」と言う人もありどちらが正しいのかどちらが間違いなのか判断出来ない状況である。

 今回広報誌の発行に当たり「つづみ」か「つつみ」で議論されたが、「つづみ」で統一されたようである。
 近隣の例を見ると、佐方が「さかた」と「さがた」、佐伯が「さいき」と「さえき」、須賀が「すが」と「すか」の例もあるが、元の読み方はどれが正しいのか分からないが、地域により人により読み方が異なっても、時を経ればいずれも正しいものになるのであろう。

 町内には「鼓ケ浜公園」「鼓ケ浜集会所」があるが市では「つつみがはま」に統一してある。人によって読み方が異なるのもおかしいので統一してあるのか、何か根拠があって統一しているのかは分からないが、市の読み方が絶対正しいのかは結論付けられない。
 
 しかし市の施設の読み方と町内会内での読み方が異なるのも、他地区の人から見れば不思議であろう。
# by hirosan_kimura | 2017-07-05 17:00 | Comments(2)
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 今年の1月4日に投稿しその後さしたる記事もなく今日に至っている。阿品の話題も目新しいものもないが、№567で紹介した「やっと阿品に公共下水が」の工事が我が家付近まで下水道本管が埋設され、この5月30日に公共下水道に接続された。狭い庭の一角を占領していた合併浄化槽も撤去され、猫のひたいほどであるが花畑が広がった。

 昨日は阿品台中学校の運動会に招待され観覧に行った。招待席では子どもたちの演技に夢中であったが、それ以上に阿品台近辺に出没するクマの話題で盛り上がっていた。

e0125014_10421270.jpg 最初にクマの目撃があったのは5月27日であったが誰もが阿品付近にクマが出るわけがない。コグマなので大きな黒い犬か他の動物と見間違えたのだろう思っていた。
 しかし、その後複数の目撃者が出始めて本物のクマの出没に間違いないこととなり大騒ぎになっている。







e0125014_10424454.jpg 7日の午後に阿品公園でも目撃した人が出た。この公園は阿品台ニュータウンのど真ん中に位置し周りは住宅地で囲まれ、阿品台東保育園にも隣接している。
 10日の午後2時ごろにもこの公園内でクマが目撃され、現在公園は閉鎖されている。





e0125014_10432122.jpg 昨日中学校の運動会に行く途中で公園のそばを通りかかると、NHK放送局がクマ騒動を放映するため撮影に来ておられた。
 それにしても阿品にクマが出没した話は聞いたこともなく初めてのことではなかろうか。サルが出ていたずらをする、イノシシが作物を荒らしたなど聞いても驚いていた位である。
 廿日市市でも山間部にクマの出る話を聞くことはあった。また四季が丘団地にクマが出没した際も驚くくらいであった。
 山間部と市街地との間には山陽自動車道が横切っており、まさか阿品地区にクマが出現することなど夢にも想像出来なかったことである。

 一日も早い解決が望まれるが、クマが食べ物を求めて人里まで現れなければならない要因は人間の作ったものである。大人のクマであろうとコグマであろうと捕獲して山奥に放してやり、間違っても射殺などされないよう思うばかりである。
# by hirosan_kimura | 2017-06-11 11:33 | Comments(4)
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 この三が日は天候にも恵まれ三日間とも「初日の出」を拝むことができ、穏やかな平成二十九年の幕開けとなった。一旦閉鎖したブログを再開してみたものの話題もないので、変わったところで阿品町内間の年齢構成を取り上げてみた。

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 平成元年に1.57ショックと国中に衝撃が走った。これは昭和41年の丙午の年の出生率1.58を下回ったことで、このまま進むと高齢化が加速し国の衰退につながると危惧されたことによる。

 このため国から地方自治体に渡るまで少子化対策が急務と様々な施策を講じることとされた。しかし目に見える効果も少なく、当時12%であった高齢化率が27%程度に上昇している。

 わが阿品も例外でなく高齢化率は30%を超えている。0歳から14歳までが年少人口、15歳から64歳を生産人口、65歳以上を老年人口に区分すると国・廿日市市と比較しても大差ないが、地域によって大きく構成比が異なっている。高齢者が少なく年少・生産年齢が大きいほど活気のある町といえる。

 驚くことに阿品台二丁目は高齢化率が50%を超過している。続いて阿品台三丁目・一丁目・四丁目・阿品四丁目と続く。阿品台二丁目は団地が開発されて一番最初に入居が始まっているが、入居した当時は働き盛りの世帯が多かったが、高齢者の移動が少なく子どもたちは成長し転出していった結果であろう。

 高齢化率が少なく年少人口が多いのは阿品台北で、住宅価格も比較的安価で若い世代の入居者が多いのであろう。続いて県営住宅のある阿品台東で両地区とも高齢化率が低く、年少者・生産人口が多くなっている。旧阿品の阿品一丁目(鰆浜)、阿品二丁目(阿品)も比較的高齢化率が少なく、生産・年少者が多いがJR阿品駅にも近く新しい住宅の新築が続いているからであろう。

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 上の表は年齢別の構成比を表しているが、下の表は年齢別の人口を表している。阿品三丁目の人口が飛びぬけて多いいが、この地区は「遊園地ナタリー」の跡地に800世帯を超えるマンションが建てられているからである。極端に人口が少ないのは阿品台山の手であるが、この地区は旧廿日市市と大野町の丘を開発した小さな住宅団地のためである。

 年齢構成の異なる阿品地区ではあるが、本気で少子化対策を講じないと阿品全体が超高齢化社会を迎えることとなろう。
# by hirosan_kimura | 2017-01-04 11:23 | Comments(0)
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 早いもので今年も残り一週間となった。何となく気ぜわしい日々を迎えたが、阿品の氏神様「岩鏡神社」に門松が飾られお正月の準備が進められている。

門松は単なる正月の飾り物と思われているが、来臨する歳神(としがみ)様の依代(よりしろ 神様が意思を伝えるため人間界に現れるとき寄り付かれるもの)である。門松は三つの正月飾り(門松・しめ飾り・鏡餅)の中で最も重要なものである。

 門松を飾って取り外すまでを「松の内」と言い12月13日から1月7日であるが、今ではクリスマス等もあり世間一般では12月28日から飾るのが多いといわれている。

 しかし12月29日31日からは飾り始めてはならない。29日は「二重苦」のゴロになり、31日は神様を迎える正月までに一日しかなく「一夜飾り」「一日飾り」と呼ばれて絶対避けなければならない。

e0125014_1525275.jpg 神社に飾られた門松は離れて見ると大きく見えないが、人の背丈を超える立派なものである。この門松は阿品のある方が早くから材料の準備を始められたが、お正月に参拝される時に一番見ごろになるよう随分苦労されたようである。








e0125014_15253181.jpg 門松を作っておられる途中に見せてもらったが、中心の青竹は阿品では見られない太くて立派な物なので何処で入手されたのか聞いてみると、山口県の岩国の竹林に有った物だそうである。切り口を見栄え良く切断するのも技術を要するらしい。切り口は人の笑った顔に見えるようにするのが本流らしいが、そう言われれば笑った顔にもみえる。

 お正月に参拝される際はこの門松を造られた方のご苦労を忍んで欲しいものである。
# by hirosan_kimura | 2016-12-25 16:27 | Comments(2)

№757 小さなホテル

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 最近、地御前界隈で外国人の姿をよく見かける。これは地御前神社前に出来た宿泊施設に滞在する人々である。大半が宮島への観光客で広電で三駅目の地御前であるが、中にはJR串戸駅から歩いて来られる人もあるようで大層繁盛している様子である。

 宿泊施設はある会社の研修施設であった建物を改造したものである。ある程度まとまった人数が宿泊できるのか大型バスが駐車していることもある。この地には大正の終わりごろ建てられた料亭のような建物があり、のちに旧国鉄の保養所に変わり「鉄道会館」と称した施設が昭和40年代頃まで残されていたような記憶がある。

 鰆浜(阿品一丁目)の西端で先年まで民家があった地が整地され、新しい施設が立てられている。何が建つのか気になっていたが最近工事が始まり「ホテル」が建つようである。

 ホテルといっても敷地面積180坪、建坪36坪、延床68坪の小さな木造二階建ての施設である。部屋数は僅か7室で民宿に毛が生えたようなミニホテルである。

 こんな場所でこんな小さなホテルで、経営が成り立つのか素人判断で心配な気がしないでもない。
しかし地御前の繁盛振りを見れば、広電駅にもJR駅にも近いのでPR次第で外国の人に周知されれば多くの人が宿泊するかも知れない。

 この地は毎朝犬の散歩コースである。来年の春過ぎにはこの付近で外国人を行き来されるであろうが、片言でも駅までの道順を英語で説明できるようになりたいものである。
# by hirosan_kimura | 2016-11-08 11:07 | Comments(4)
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 これは鰆浜に生まれ育ち現在は阿品台に居住しておられる方が、老人クラブの冊子への投稿文をご本人の了解を得て掲載するものです。一部修正した部分もあります。

 「昭和初期に生まれ、戦中戦後昭和二十四年まで、幼少から小学校・中学校・現高等学校に通学、就職までを阿品の地で育った記憶を辿り、今年六十五歳(投稿当時)まで生かして戴いた感謝の気持ちで投稿します。

 阿品の地名は地御前村字阿品(鰆浜・田尻)でした。鰆浜は広電阿品(現 阿品東)電停地区、阿品はJR阿品北地区、田尻は現阿品四丁目地区でした。「お上がり場」より西ナタリー・阿品三丁目は砂浜の綺麗な海でした。広電阿品(現 阿品東」駅に一番近い処が私の生家です。

 私の幼少時代の阿品地区は山あり、谷あり、川あり、海はいつも綺麗で、四季を通じて子供達の遊びには最適の地域でした。
 
 春
 春は今の一丁目(鰆浜)付近は梅樹があり、四月三日は各戸弁当を作り、家族揃って山に登って花見の会をしたり、城を作って戦争ごっこをしたものです。五月の節句は「馬とばし」、地御前神社から役場(シルバー人材センター 註現在は寿司屋さん)までの間を、野武士姿で弓と矢を持って馬に乗り疾走するお祭。神社付近には出店が並び、賑やかな祭だったと記憶しております。今想うと、あんな狭い道路で左右から馬を囃したて、事故もなくよくやったものだと思います。
 
 夏
 七月は管弦祭。その頃の管弦祭は宮島から地御前神社まで、各地から集まったお供船が連なって、御座船の神踊管弦で盛大な祭でした。管弦祭の前日には着飾った牛十頭が地御前神社の浜辺を鋤を曳いて清掃していました。
 又、阿品海岸は海水浴場の適地として,お上がり場・広電阿品駅(現阿品東)はキレイな浜辺であり、飛び込み台等も作られ、子供達の水遊びの天国でした。汐の満ちた時は防波堤から飛び込んで水泳を楽しんだものです。又、私の家の前にはイリコ干し場の広場があり、昭和十年頃は広島市商の生徒や泳ぎの出来ない兵隊さん達の夏季強化訓練で一週間位テント生活で水泳訓練に励んでおりました。疲れをとるために大釜でアメ湯を炊き、それを御馳走になるのが楽しみでした。昭和十六年位まで数年間、毎夏続いたと思います。
 
 秋
 秋祭は、鬼の面をかぶり青竹を持って部落内を走り回り、ガキ大将達は鬼の後を追って走ったものです。その日は若い女性の厄日で、女性を見掛けると相手構わずお尻を竹の棒で突くのです。鬼になる若者も結構楽しそうでした。豊作を願ってのお祭です。
 又、この阿品はキノコの宝庫でした。松茸やオカンスケ(白いキノコ)・黒っこう・ヒメジ等が豊富に生え、山を一日中歩き回る事もあり、キノコ狩りの面白さ、秋の味覚一杯の山と谷と小川のある土地でした。赤トンボ・夕方になるとコーモリ等、網で捕まえられる程飛んでいました。
 
 冬
 正月は早起きをして宮島の弥山に登り、初日の出を拝むのが年初めの行事でした。今の鰆浜運動場(県病院跡地)は全部田んぼで、トンドの行事の場所でした。トンド焼の材料集めは、現阿品台の山林の手入れ掃除を兼ねて行いました。下刈り雑木を部落民全員が持ち寄り、太い青竹十数本とで大きな櫓を組み、注連縄(シメナワ)を張り、火を着けます。竹の割れる音、下刈雑木のパチパチと激しく燃え盛る火柱は盛大でした。皆さんが持ち寄ったお正月の飾りモチを焼いて食べたり、書き初めに一年の願いをこめ、トンド祭を楽しんんだものです。
 子供の遊びは、ハネ突き、タコ揚げ、コマ回し、パッチン、ビー玉等戸外の遊びが中心でした。広場に輪を書いての相撲の取組み、当時は郷土出身の安芸の海が連勝中の双葉山を破った時期で、ひいき力士名を付けての子供相撲も盛んでした。

 纏まりのない文章ですが、数十年前の阿品は私のふるさとである事は間違いない事実です。私の親父さん達が築いた阿品を愛し、我々の時代から孫子まで住み佳い故郷であるよう願うものであります。」
# by hirosan_kimura | 2016-11-03 14:04 | Comments(4)
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№13 造成前の阿品台
 ニュータウウン造成前は阿品の集落から数本谷が奥まで続き、その谷の最深部まで耕され稲作が行われていた。中央右寄りの高台の施設は「光の園」で、当時は地御前神社脇から奥に入る細い道が唯一の進入路であったが、現在は周辺の様子が大きく変わり阿品台一丁目の宅地と同じ高さになっている。

 バイパスが大きくカーブしている上方の山付近が阿品台一丁目、左端上方辺りが阿品台三・四丁目である。
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 №14 阿品に大型住宅団地計画
 昭和40年頃に入ると広島市の人口が増加し住宅地が不足となった。そこで広島県は近郊にニュータウンの造成を計画した。様々な候補地がある中で阿品の地が選ばれた。その理由は①海岸沿いに国道・山陽本線・広電宮島線が並行し、広島市への通勤の便が良い。②造成する山はなだらかで、無人の里山で谷筋に僅かな耕地があるのみで開発が比較的容易である。③広島湾に面し気候が比較的穏やかで年中過ごしやい。等の理由によるものである。

 この地に計画戸数3,500戸、人口12,600人の計画的なニュータウウンを目指したものである。
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 №15 造成中の残土処理
 山を削っての住宅造成のため膨大な残土処理が必要となった。この残土は計画中の廿日市木材港造成のための海面埋立に利用されることとなった。

 阿品の山から木材港埋立地まで運搬する道路の整備が必要であった。阿品台から現在の日赤看護大学・特別支援学校前を通って宮内に抜ける道路が山を削って新設された。これらの道路を土砂を積んだダンプカーが一日何百台も行きかった。

 阿品から宮内に抜ける道路は現在は「阿品・高通り線」としてたくさんの車が通行している。
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 №16 造成中の阿品台
 中央辺りの緑の残された部分は「阿品公園」付近。高い丘の上にあった「光の園」は周囲の山が削られ住宅団地と同じ高さになっている。左上は「阿品台北」、左下は「阿品台西」付近である。

 阿品台と当時大野町の住宅団地の間は山で隔てられているが、現在では貫通し「対厳山線」として多くの車が行きかっている。
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 №17 ニュータウウン完成
 昭和53年8月10日(今から38年前。阿品台で最初の入居者は東の県営住宅178戸であった。当初は小学校・中学校は開校していず、阿品台東小学校が開校するまでは地御前小学校へ、阿品台中学校が開校するまでは七尾中学校へ通学する不便さであった。

 その後続々転入者があり、阿品台東小学校では一時1,100人を超える状態もあったが、高齢化が進み人口は一時より大幅に減少している。

 子どもたちに17枚のパネルで説明したが、振り返ってみればパネル枚数がもう少し少ない方が良かったのではないかと反省している。
# by hirosan_kimura | 2016-10-17 10:04 | Comments(0)
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 №7 今から45年くらい前のおあがり場
 この公園は明治18年8月1日に明治天皇が宮島から広島にむかわれる途中、この地に上陸されたので「おあがり場」と称される。昭和20年代から昭和40年代半ばまで、夏場は海水浴場としてにぎわっていた。松の木が生い茂り公園全体を覆いつくし陽射しをさえぎり、涼しい木陰を造っていた。

 露店が2軒・貸しボートや飛び込み台もあり、遠方よりバスで団体客がたくさん来場していた。今では道路の拡張等で狭くなり、生い茂っていた松も枯れてしまい往年の面影は見られない。
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 №8 埋立前の阿品三丁目
 広電宮島線沖はすべて海であったが昭和41年10月(50年前)から海面の埋め立て工事が着手された。埋め立てが完成後はこの近辺の風景は一変した。
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 №9 今から50年位昔の阿品(今の阿品二丁目)
 山沿いに農家が散在し谷の中央部は三軒の農家があるのみで、残り部分は全て田畑が広がっていた。この写真では分かりにくいが中央部右寄りに、阿品で最後の藁屋根の農家が残っている。中央奥の山は阿品台、左側の山はふじタウンの宅地造成により大きく変わっている。

 田畑の中に家屋が散在していたのどかな田舎風景も、今では民家が立ち並び家と家の間に田畑が残されている状況である。阿品が大きく変わる前の懐かしい風景である。
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 №10 駅前付近と三丁目埋立中
 今から50年くらい昔の風景である。JR駅前付近は荒地状態である。広場と国道の間には調整池が残されている。この調整池も国道の拡幅で埋立てられた。

 電車軌道前の海は埋立中である。右上に№3で紹介した海に突き出た小山があり、麓には僅かであるが砂浜も残されている。埋め立て完成後は田尻沖は住宅地、阿品沖は遊園地「広島ナタリー」として賑わっていたが、遊園地閉鎖後はマンション群と商業施設となっている。
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 №11 遊園地「広島ナタリー」
 遊園地は昭和49年4月23日(今から42年前)に開園した。この遊園地も他の地域に遊園地が開園して入園者が減少したり、プール等の老朽により多額の改修費も必要となり、平成8年3月末(20年前)に閉鎖された。この間22年間で912万人の来園者があった。

 遊園地には当時東洋一の高さ65㍍の観覧車・海に突き出たジェットコースター・大型プール・その他たくさんの遊具が整備されていた。また冬場には屋外駐車場を利用してスケートリンクも開設された。

 ヨーロッパの富豪が所有していた「ナタリー号」は巨大プールの中に設置されていた。この帆船は527トンでエンジン付き帆船としては世界でも有数の大きさであった。全長177フィート。全幅27フィートであった。夏場には巨大プールの外周にあった流れるプールも人気の施設であった。
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№12 ナタリー航空写真
 上空より見るとジェットコースターが海面に突き出していたことが分かる。大型プールに浮かんだ「ナタリー号」、大型プールを取り巻くように一周していた流れるプールも判別できる。

 国道を挟んであったテニスコート、やドライブインも懐かしい。JR阿品駅はまだ開業していない。広電阿品駅も無い。
# by hirosan_kimura | 2016-10-16 13:20 | Comments(0)
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№1 大昔の阿品の想像図。今から約200年前の絵図を元に平地部を海であったと想定して修正したもの。実際の様子は分からないが、阿品の谷の最深部の家で井戸を掘ったところこの辺りが海であったことを示す物質が掘り出されたそうである。
 
 その昔には阿品には平地がほとんどなく谷と谷との間に僅かな平地しかなかったものと推定される。推定に過ぎないものを事実のように話すのは良いことではなかろうが、阿品に昔平地がほとんど無かったと話すと子どもたちは驚いたようである。
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№2 文政2年(1819年)今から197年前の絵図に着色したものである。№1の阿品が山から少しずつ土砂が流れ出たり、海の砂が少しづつ押し寄せて長い期間を懸けて平地が出来ていった。谷と谷との間の平地はともかくとして、海岸沿いの山と海の間の平地は広過ぎ誇張して描かれているようである。
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№3 鼓ケ浜(阿品三丁目)の集会所付近の絵図である。描かれた年代は不明であるが、山際の旧国道や国鉄が敷設される前で少なくとも140年以前の風景である。白黒の絵図に近所の絵の大家に着色してもらったものである。

 現在の風景から想像してもあじなの風景とは信じられないが、広い浜辺の松林や漁師の家こそ無かったが、50年くらい前までは中央の海に突き出た小山は残っており松の木が生い茂っていた。小山の麓には僅かばかりの砂浜もあった。背後の山は団地開発され昔の面影はまったくない。
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№4 鰆浜(阿品一丁目)の100年位前の海岸風景である。中央の小島は「火立岩」と呼ばれ阿品の名称の一つであったが今は無い。火立岩から手前に向けて埋め立てられ広電宮島線・国道に変わり風景は一変している。

 左下に僅かに見えるのは「旧国道」の一部で、海面より道路までの高さが僅かしかないのに子どもたちは驚いていた。
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№5 昭和6年(今から85年前)に廃止された「広電新宮島駅」と鰆浜・厳島間連絡船乗場。広電宮島線の終点は阿品にあり、今では宮島口から出ている連絡船は阿品から出発していた。子どもたちがもう少し興味を持ってくれるかと思ったが案外無関心であった。
 話す時間が短すぎたのか、電車の終点が阿品で宮島へは阿品から乗船していたのは突飛で現実感が無かったのかもしれない。
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№6 今から60年少し前の阿品の航空写真。平地は殆ど田畑で家屋は僅かばかりである。残りの大半は山ばかりで今の阿品台・ふじタウンも見られない。自分たちの阿品の原風景はこの写真の通りであるが、今の子どもたちにはこれが阿品と云っても実感が湧かないであろう。

 ちなみに当時の阿品全体の世帯数は101世帯、人口は552人であった。今年の4月1日現在では5,783世帯、13,502人となっている。驚くことに世帯は57倍、人口は24倍となっている。一世帯当たり家族数は当時5.4人であったが今では僅か2.3人となっている。阿品地区では人口が増加しているが、阿品台地区は減少するばかりである。
# by hirosan_kimura | 2016-10-13 11:40 | Comments(0)
e0125014_11325134.jpg  先日、阿品台東小学校へ阿品の話をしにいった。以前、高齢者のサロンや阿品台西小学校に良く行っていたが、最近では久しぶりの依頼であった。
 
 五年生の総合学習で住んでいる地域の中で何か課題を見つけ、子どもたち個々に興味あるものについて深く調べるもので、今回は課題を見つけるきっかけとするものらしい。

 

 事前の打ち合わせに伺うと、学校としては小学校があり大半の子どもたちが住んでいる阿品台中心の話を希望しておられたようであった。しかし阿品台は新しい街で内容も限られ、むしろ阿品台に居住し詳しい方の方が適任ではと思いその旨話した。その結果、阿品台に限らず阿品全体で話す内容はすべて一任するとのことで引き受けさせていただいた。

 限られた時間で子どもたちが理解してくれるにはと色々思案した結果、17場面のパネルで話すこととした。以前各地で話をした際はA4サイズのパネルを使ったり、パソコンとプロジェクターを接続し白い壁やシーツをスクリーン代わりに投影して説明していた。今回は移動黒板位の大きな液晶画面に鮮明に映し出されていた。名称は分からないが便利な機器があるものと感心するばかりである。

 子どもたちは熱心に聞いてくれたが、どの程度興味をもってくれたのかどの程度理解してくれたのかが気掛かりであった。先日、子どもたちよりお礼の手紙を届けて頂いた。どの手紙も感謝の言葉や、面白かった・分かりやすかったなどとあり安堵するばかりである。

 興味深かったのは30名のこども中18名が「遊園地ナタリー」について関心を寄せたことである。限られた時間でひとつひとつの内容については詳しく説明できなかった、自分にとってもいろいろ学べた貴重な体験であった。

 次回以降はすべて紹介済みのものばかりである、子どもたちに説明した場面を順次紹介してみる。 
# by hirosan_kimura | 2016-10-13 10:28 | Comments(0)
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 平成20年12月13日に開始したこのブログも、阿品限定のため回を重ねるごとにネタも無くなり750回をもって最終回とした。ちなみに第一回目は「№1 広電阿品東駅」であった。

 このブログの最終回から2ケ月以上経過したが、この間コメントを頂いたり思わぬ人から何とか続けて欲しいとの要望をいただいた。今までは何とかブログが途切れないようにと頑張っていたが、今後は何か話題があればブログに投稿する気楽な気持ちで続けようと思う。

 最終宣言をし三か月も経たない時期に再開など、節操のないことではあるがのんびりと続けたい。ブログを続けていて一番勇気づけられるのはコメントを頂くことなので、今まで同様よろしくお願いします。

 昭和47年3月に閉鎖され四十四年間放置されてきた、鰆浜の県病院跡地がやっと具体的に動き出した。この跡地を取得していた不動産会社が、7月の終わりに地元住民に対して開発の概要の説明会をおこなった。

 その概要は周辺道路を整備して、総戸数57区画の宅地開発を行うものである。一区画130㎡~140㎡程度であまり広くない敷地となっている。

 県病院跡地が長く利用されなかった理由の一つに、国道からの進入路が狭く普通車のすれ違いがやっとで大型車両の進入が難しい点がある。今回、公園用地を削って国道に出る道路を拡幅する計画となっている。

 進入路が計画されている出口の国付近は、広島方面への上り車線が大きくカーヴとなり見通しが悪く、カーヴを廻るとすぐ直線となり車がスピードをあげるため、国道に進入する車と衝突し死亡事故もある事故多発個所である。そのため交差点を新設するのは困難らしい。

 この問題が解決すると、平成29年夏ごろまでには市道の拡幅・公園の形状変更が完成し住宅が建ち始めるようである。

 いずれにしても高齢化が進み活気の乏しくなった鰆浜部落も、多くの若い人や子どもで溢れる街になることが期待される。
# by hirosan_kimura | 2016-09-29 13:06 | Comments(4)
 
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 昨晩は厳島神社の管祭があった。夕方海べりに行ってみたが、御座船を囲む船は数隻のみ。海岸で見物する人は数得るほど。往年の絢爛な頃と比較すると寂しい限りである。厳島神社の管絃祭は日本三大船神事の一つで、他は「大阪天満宮 天神祭」「松江城山稲荷神社 ホーラエンヤ」がある。

 平成20年12月13日に開始したこのブログも750回となった。当初から何回目で終了とは決めていなかったが、250回を過ぎた時点でせっかくの記事をブログに終わらすのも残念なので冊子で残すこととした。その後は500回目を目標として2冊目の冊子を作製した。

 500回を過ぎるとさすがにネタも無くなり、いつまでも内容の無い記事を重ねるのも仕方ないので750回を目標に何とか続けることとした。501~750を第三集でまとめ、第四集は何時になるか分からないが「阿品歴史年表」「阿品の地名・地図」「阿品の方言」を纏めたいと考えている。

 当初はブログを公開すれば地域の人に興味を持って閲覧してもらい、新しい情報を提供してもらったり間違いを指摘していただけることを期待したが、地域の方で開いて見る人はほとんど無いようである。

 むしろ他地域の人や阿品を離れて長年経った人たちの目に止まり、情報や貴重な意見をたくさんいただいた。またこのブログをきっかけに数か所の高齢者サロンや、小学校の3、4年生に阿品の昔の話をさせていただく機会を得ることができた。

 このブログを見る人よりいつまでも続けてほしい、新しい記事がなくても何時でも閲覧できるように残してほしいとの声を聞くがそうも行かないので、近々このブログを閉鎖したいと考えている。

 阿品のことで知りたいことがあれば早めに閲覧されたらどうであろうか。ちなみに「ふるさと 阿品 よもやま 〇〇〇〇」のように〇〇〇〇に調べたい「岩鏡神社」「火立岩」を入れるとそれらに関する記事が抽出できます。

 面白くもないブログであるがたくさんの方に閲覧いただきありがとうございました。感想やご意見があればコメントいただければ幸いです。

 上記の航空写真は終戦後間もなくアメリカ軍が撮影したものである。武田団地・阿品台・ふじタウンも造成されていず、阿品三丁目も海中の中。我々が連想する阿品はこの写真の風景そのものである。
# by hirosan_kimura | 2016-07-21 19:48 | その他 | Comments(20)
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 昨年の秋に国勢調査が行われ、その一部の状況について速報値が発表された。この中で阿品の高齢化に関する資料が目についた。通常高齢化を表す場合65歳以上を高齢者としているが上の表は75歳以上の割合を示している。65歳以上と比較するとより厳しい高齢社会を表していることとなる。

 表では75歳以上20%越を赤、以下10%以上、5%以上と白は5%以下である。阿品は大きく分けると阿品地区・阿品台地区と分けられる。

 阿品地区では四丁目が飛びぬけており20%を超えている。四丁目は昭和53年2月に完成した住宅団地であるが、宮島を見下ろす高級住宅地として売り出された。当時は若い人たちや子どもたちばかりで活気溢れる街であったが、40年近く経過した現在では高齢化が進み子どもたちも少なくなっている。この団地は高台にあり麓の駅や買い物帰りの高齢者にとっては大変そうである。

 三丁目は800戸以上のマンションと、180戸くらいの戸建て住宅からなっているが75歳以上は10%を超えている。高台の住宅地に住む高齢者が自宅を手放して空マンションに移り住む方もあるそうである。

 一丁目と二丁目は阿品の大元であるが、古くからの住宅と新しい住宅が混在している。もう少し高齢化が進んでいると思っていたが5%以上と若い人や子どもが多いようである。この地区は平地でJR駅、広電駅もあり人気の住宅地である。近年田畑が埋め立てられ住宅の建設が進んでいる。特に一丁目の県病院跡地は近い将来の宅地開発により、若い人たちで賑わうことであろう。

 阿品台は昭和53年ころより入居の始まった県により造成された住宅団地であるが、早くから入居してる一・二・三・四丁目は驚くほど高齢化が進んでいる。

 阿品台東は390戸、西は700戸の県営住宅があるが、若い方や子どもたちがたくさん住んでおり75歳以上人口は5%未満と驚くほど少ない。

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 阿品台は高台にあり高齢者が低地に転居される方も多いらしい。不動産業者の話によると、阿品台では売り家の話があっても買い手が少ない。反対に阿品一・二丁目で土地を買い求める希望者はあるが、売地が滅多に出ないそうである。

 つい最近、JR阿品駅すぐ裏の畑が埋め立てられ宅地の造成が行われている。
# by hirosan_kimura | 2016-07-07 12:11 | 社会 | Comments(7)

№748 馬飛ばし

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 昨日は旧暦の五月五日のこどもの日であった。例年この日には地御前神社で流鏑馬の行事が行われる。子どもの頃には秋祭り・お正月・管絃祭と並んで年に何回もない楽しみにしている日であった。

 思い出されるこの祭りの日は、小学校は授業は午前で打ち切り、各家では御馳走を作り、神社前にはたくさんの屋台が立ち並び、沿道は人波でごった返し動きもとれないくらいであった。やがて流鏑馬の行事が行われ馬が走り抜け祭りは最高潮を迎えた。

 これらの賑わいは今では夢物語で、6・7軒の屋台・わずかな観客・例年初節句の男の子がお祓いを受けに来ていたが、今年は一人の姿も窺えないような寂しさである。

 何に掲載されたものか不明であるが、古い記事を紹介する。なお写真は昨日撮影したものである。

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 地御前神社では、毎年 御陵衣祭の時、流鏑馬神事が奉納される。御陵衣祭は、旧暦五月五日に端午の節句を祝う祭りで、厳島神社から宮司を迎えて行われる。
 
 この神社は厳島神社の外宮と称され、昔は厳島神社から白い神様と御神体が船に乗ってきて、その神馬を先頭に、白装束の若者が三つの神輿を担いで、参道を歩いたといわれる。しかし現在では、拝殿で初節句の男の子にお祓いをするなどの神事が行われるのみである。  

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 その後、舞楽「後の舞」が納められるが、これは厳島神社で舞楽面陵王をつけて元旦に奉納される「環城楽」「越天楽」で、舞い手も厳島から迎える。

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 そしていよいよ、流鏑馬神事である。古式ゆかしい狩人の衣装を身につけた騎手が馬に乗り、まずは客殿の前で天地、東西南北の六方向に厄除けの矢を放つ。その場で馬が三回まわされ、それから参道を三往復する。衣装はすべて昔から使われているもので、笠には「慶長十三年(1608)五月吉日」と書かれており、その頃から行われていたと思われる。当時、安芸の守が私有馬を奉納馬に仕立ててこの神事を行ったのが始まりらしい。

 この地域では、端午の節句に菖蒲と蓬(よもぎ)を束ねて軒に挿して祝う風習があり、端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれる。その菖蒲の読みに勝負・尚武という言葉が掛けられ、流鏑馬神事が行われるようになった。

 地元では「明神さんの馬とばし」と親しまれていたが、馬が居なくなったこと、参道がアスファルトに舗装され馬が走れなくなったことなどから、昭和四十二年を最後に廃止されていた。それが地元住民の熱意で、昭和五十七年六月に十五年ぶりに復活。昔のように馬を勢いよく走らせることはできないが、その勇壮な姿は時代を逆行させてくれる。

 この日にはちまきやかしわもちを食べ、また軒にさしていた菖蒲と蓬を風呂に入れて菖蒲風呂にする風習もある。
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 この「ちまき」は地御前の友人が家で作ったと届けてくれた。子どもの頃には各家で必ずと言っていいくらい粽(ちまき)を作っていた。他の地区では「かしわ餅」を作っていたようであるが、阿品にはかしわの葉っぱが無いのでかたる「サルトリイバラ」の葉で包んだ「かたる餅」を作っていた。かたるをかたらと云うひともある。この粽を包む笹は吉和の方まで採りにに行ったそうである。
 
# by hirosan_kimura | 2016-06-10 12:15 | 行事祭礼 | Comments(3)
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 先日、阿品に関する記事が新聞に掲載されたり、テレビで放映された。
 
 昨年7月に入札された鰆浜の県病院跡地が、土砂災害警戒区域に指定予定であったのを県が見落とし売却したものである。病院跡地11.500㎡を3億7千万円で売却したが、警戒区域に指定されたことで土地の価値が下がり差額9,800万円を賠償することとなった。

 指定予定を見落としたこと、差額を賠償することはともかくとして、隣接の山が土砂崩れが起きそうとは素人目には不思議な気もする。隣接地は山と云うより小高い丘のようである。元々ある自然の山で傾斜も緩やかで樹木も生い茂っており、崖崩れが予測される危険地域にも見えないが、専門家の目から見れば「土砂災害危険区域」に匹敵するのであろう。
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 阿品区域の山々は比較的緩やかで、土砂災害の起こりそうな場所は他地域に比べて少ないのかと思っていたが、予想以上に危険な場所が多いようである。
 
 中にはこんな所まで危険地域に指定しなければならないのかと思われる場所もあるが、万全を期して万一の災害に備えてあるのであろう。
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 急傾斜地危険地域に指定されている場所で、素人目に見ても明らかに危険な場所もある。

 この写真だけではあまり窺えないが、下から上を見ると見上げるような急斜面である。斜面も堅固とは言えず一部 玉石状の物が積み上げられたり自然の土肌のみの場所もある。斜面の上の方では土を掘り起こして野菜が作られている。

 崖上の家屋は崖地ぎりぎりに建っているものもある。上に住んでいる人は足元は気にならないかも分からないが、崖下に住んでいる人はいい気はしないであろう。

 この団地は阿品で一番古い団地であるが、現在の厳しい決まりではこのような崖地は許可が降りないかも分からない。
# by hirosan_kimura | 2016-06-09 12:54 | 行政 | Comments(0)

№746御洲掘神事

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 いつも資料を提供していただいている方から珍しい写真を紹介してもらった。戦前に撮影された地御前神社「御洲掘神事」の写真である。神事の写真は幾種類か目にする機会はあったが、これほど全体像を捉えた写真は珍しい。右端にはかつての海水浴場の飛び込み台も映っている。

 この写真を提供していただいたのは撮影者の孫に当たる方である。この写真はパノラマ写真のようであるが、別々に撮影した三枚をつなぎ合わせたものだそうである。別々に撮影した風景写真ならいざ知らず、動き回るたくさんの人がいる写真をつなぎ目も分からず、一枚の写真に加工する技術は不思議である。

 撮影者の方は明治39年にアメリカに移民として渡り、昭和2年に帰国し広島市の中心部で写真店を営んでおられた。戦争の悪化により昭和17年に写真店を閉鎖し地御前の実家に移り住まれ、昭和40年に76歳で亡くなっておられる。

 昭和20年に原爆が投下され広島は壊滅状態となったが、戦前に撮影された膨大な数の写真は地御前の実家に移されていたため戦禍を逃れることが出来た。7年くらい前にはこれらの貴重な写真が公表され、写真展が開かれたりマスコミを賑わしたこともあった。

 管絃債祭は毎年旧暦の6月17日に行われ子どものころには「十七夜 じゅうしちや」と呼んでいた。当日は神社前も阿品の海岸沿いも、たくさんの観客で溢れかえっていたが今では寂しい限りである。今年の「十七夜」は7月18日に行われる。

 祭りは事前の「祭場整備」の「お洲掘り」から始まる。厳島・地御前両神社前で行われるが地御前側では祭りの二日前の正午の干潮時に、神社前の砂浜を左右に掘り分け、澪木(みおぎ 水路を示すために建てられた杭)を立て、厳島から来る管絃船の着岸を円滑に行うために行う。

 洲掘りの地ならしのため、美しく飾った数頭の牛を近隣から集め、五・六十人が見守る中、村長の指揮の元に行われた。この洲掘りも農耕牛の減少により、今では機械による整地作業となってしまった。
# by hirosan_kimura | 2016-06-01 11:40 | 行事祭礼 | Comments(4)

№745 田植えの準備

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 今、阿品では冬の間放置されていた田んぼがが耕され、田植えの準備の真っ最中である。かつては部落の沖から奥までさえぎる建物もなく、JR線路付近から最深部ま見通すことが出来ていたが、今では住宅の間に田んぼが散在しているような状態である。

 上の写真の場所でもすぐ近くにまで住宅が迫り、田んぼは建物に囲まれたような状況である。

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 この場所は一昨年まで稲作の行われていた田んぼであったが、高い擁壁が立てられ盛り土がされ、今では住宅の建築の真っ最中である。

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 住宅地は正面に見えるすぐそばの田んぼまで迫り、高い擁壁に囲まれ田んぼは窮屈そうである。

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 向かい側の田んぼも田植えの準備が行われているが、すぐ左側の田んぼが埋め立てられ住宅用地になっている。一昨年までは隣の田んぼも稲作が行われていたが、用地境にはあまり高くない擁壁で区切られている。

 左端に耕運機が見えるが、作業の途中で人が離れているのでなく、よく見ると耕運機が泥土の中にはまりこんでいる。

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 人の話によるとこれほど埋まり込むと重機などで吊り出さないと無理らしい。

 昨年はこれほど埋まり込むことはなかったが、隣の田んぼとの間にコンクリートなどで擁壁ができると、田んぼの地中の水の流れが変わるのか、土中の水はけが悪くなるのかは分からないが、泥土で田んぼでの作業が難しくなるとのことである。

 長年支障なく農作業が出来た田んぼも、周囲の環境の変化により思わぬところに支障が生じることを知った。
# by hirosan_kimura | 2016-05-29 14:21 | 農業 | Comments(0)
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 たいした話題もなくブログもしばらくは休眠状態である。

 27日の夕刻にはサミットを終了したオバマ大統領が広島を訪問するため、岩国基地から広島西飛行場跡までヘリコプターで飛んだ。はるか上空を飛ぶため大統領の姿など見えるはずもないが、二度とこのような機会はないのですぐ近くの堤防まで出てみた。

 4時前に大統領専用機が岩国基地に到着し、5時頃には広島に到着となので4時30頃堤防に行ってみると、早くも何人かの人たちが今か今かと岩国上空方面に目を凝らしている。

 4時40分になっても50分になってもオスプレイもヘリコプターも来る気配もなく、空を見上げていた人たちも、宮島の沖側を飛んでいき能美島沖を回ったのだろうと勝手なことを話していると、55分頃突然上空を音が鳴り響き、あっと云う間に飛び去り広島に到着してしまった。

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 カメラを構えて写真を撮ろうと待ち構えていたが、安いカメラで望遠の機能もちゃちなものでやっと機影を捉えた程度の写真になってしまった。

 事前の情報ではオスプレイが2機同行すると聞いていたが、1機しか見ることができなかった。

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 ヘリコプターは2機飛んできたがどちらに大統領が搭乗しているのか分からない。

 いずれにしてもはるか上空をあっと云う間に通りすぎたヘリコプターであるが、2機の内のいずれかに世界を動かすアメリカの大統領が乗っている機影を見ることが出来たことは、二度と経験出来ない貴重な出来事であった。
# by hirosan_kimura | 2016-05-28 12:07 | その他 | Comments(0)

№743鰆浜の天井川

e0125014_13352986.jpg  阿品台が造成される前までは鰆浜の谷には、右奥の大谷から流れ出る川と左側奥の権四郎谷から流れる川の二本があり、河口から少し上流で合流し海に流れ出ていた。古い地図を見ると両方併せて「鰆浜川」と表示してある。

 両方とも奥域が短いので流れる水量は僅かなもので、幅の狭い川の底を水がさらさらと流れる程度であったが、絶えず清らか水が絶えることなく 流れていた。今と違い川底も両岸も自然のままで、川の深さは足首の少し上か膝の下ぐらいであった。

 このような川なので小さな子どもが川に入って遊んでも危険で無く、暖かくなると川に入って遊ぶ姿を見ることがあった。川にはメダカかたまに泥鰌がいる程度であったが、大谷から流れる川で鰻を掴まえたと言う人もあった。こんな小さな川に鰻が棲みついているとは驚きであるが、自然に掘れた穴に居たのか海から登って来たのかも知れない。

e0125014_1013771.jpg 右奥から流れる川は細い農道の横を流れていたが、左奥の権四郎谷から流れ出る川はそばの田圃より高い所に水が流れていた。

 真ん中に白く見えるのは台風の雨で増水した川であるが、通常は川底に浅く水が流れている程度である。川の右に細い畔道があり、田畑は一段と低い場所にある。

 左上は鰆浜の谷の奥にあった唯一の民家である。右上の谷は田畑ばかりであるが、今では上部の山は住宅団地で削り取られ、田畑ばかりであった谷は奥が見通せないほど民家が立ち並んでいる。

e0125014_10265034.jpg この写真はほぼ同じ場所を上流から写したものである。終戦後間もなく阿品地域を襲ったルース台風で鰆浜の川が決壊し、崩れた土手に土嚢を積み上げ修復しているところである。

 この写真では分かりにくいかも知れないが、川より一段低い場所に田畑がある。

e0125014_10134672.jpg 上の写真とほぼ同じ場所の現在の様子。川は道路の左下に見えるが、奥の山が削られ流れ出る水も僅かとなり川とも言えないような川になってしまった。昔の川の位置はこの写真の道路より少し高い所を流れていた。

e0125014_10143111.jpg 今では川の位置が変わっているが、それまではJR線路敷きのかなり高い位置の線路下の通水路に流れ出ていた。

 この写真は線路上側の通水路の遺構でであるが、ここからすぐ線路下を通水し、線路沖側は2~3mの高さから川の水が落下していた。子どもたちはこれを「鰆浜の滝」とかってに呼称し、夏の暑い時には頭から被って遊ぶこともあった。
# by hirosan_kimura | 2016-04-03 11:55 | 地形 | Comments(2)
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 鼓ケ浜町内会宮島口寄りの端っこに競艇選手の宿泊施設が建てられている。 この施設は敷地面積860㎡にRC8階、建築面積418㎡延べ面積1992㎡で宿泊室25室とある。
 この施設の建築計画が広島県モーターボート競争会より地元町内会に申入れられた。これに対して町内会は平成8年5月20日付けで廿日市市長宛に陳情書を提出している。

 申入れが寝耳に水で町民一同驚き、豊かな環境が破壊されるのではないか、当該地は第一種住居地域で大部分が低層住居専用地域で景観・日射・風害等の影響は出ないか。使用目的から推察して町内の風紀が乱されないか不安である等の理由が挙げられている。

 現在でこそ競艇場に行く人は激減しているが、最盛期には沢山の人が訪れ近隣地域で風紀上問題を起すような例を目にすることも珍しくなかった。このため競艇場に対して何となく悪印象を持つのは当たり前という風潮があった。

 この後、市に依る地元説明会、町内会と業者との話し合い等が何回か行われている。その間の詳しいやりとりなどは分からないが、最終的には選手宿舎は建てられている。

 e0125014_13495310.jpg 新しい選手宿舎が整備される前は、競艇場正門向かいJR線路の上側に昭和43年12月に完成した「水交会館が」があった。新しい施設の完成により平成9年の夏に閉鎖されている。
# by hirosan_kimura | 2016-03-28 10:54 | その他 | Comments(0)
e0125014_1340934.jpg №21で{「明治天皇」阿品に御上陸}を紹介した。先日、地御前出身で広島市在住のOさんより新しい情報を提供していただいた。Oさんには今までもたくさんの情報を提供イタダキ、ブログでも何篇か活用させていただいた。提供して頂いた資料では阿品に関しては僅かしか触れられていないが、天皇が広島を訪問した理由や帰りに休憩された草津の小泉家に関して説明されている。


明治天皇の広島への巡幸
 明治18年4月、福岡県小倉近郊において、広島の第五鎮台と熊本の第六鎮台の諸兵を合同して実施大演習をおこなうことが企画され、この演習の状況を天皇に親閲を願うことを参謀本部長と陸軍卿が連署して上奏したのであった。

 そして演習閲覧後の還路の際には山口・広島・岡山の3県を巡幸頂くように奏聖請したのであるが、これに対して宮内卿から4月中旬に東京を出発され、演習後には3県下を巡幸されることが決まった、との連絡が入った。

 これに対して3県では、巡幸が円滑に進められるようにと、沿岸海浜の深浅の測量と浚渫、道路の整備や橋の改修をおこなうなどし、供奉の吏員や車の儀仗兵なども指名して準備万端整えていたのであるがたまたま天皇が微恙(軽い病気)にかかられたので、演習閲覧のための御行は取りやめとなった。

 天皇の巡幸を準備万端整えて待っていた3県下の官吏県民一同は、巡幸中止の報に落胆失望は大きかったが、これが宮内庁の聞くところとなり、改めて明治18年7月15日に告示があり、明治天皇は山口・広島・岡山の3県下を巡幸のために7月26日に東京を出発されることになったのである。

 この時の山口県から広島に至る巡幸日程は次のようであった。
7月26日、軍船「龍驤」艦に座乗、春日・筑紫の二軍艦に護衛されて品川      を出航。
7月27日、午後6時10分神戸港に投錨。
7月28日、午後7時50分伊予大浦に投錨。
7月29日、午後7時45分三田尻沖に着艦。
7月30日、山口県庁に臨幸。
7月31日、午前4時50分山口の宿泊所を出発。8時三田尻に到着、本艦              龍驤に座乗10時45分出航、午後6時厳島湾に投錨、大聖院の御座所に到着。

 翌8月1日 厳島神社に参拝されて幣帛神饌を捧げられ、別途神社の修繕費として金一封を充てるようにと県令に告げられたのであった。
 さらに浅野忠宮司の案内で社殿の説明を受けられ社内周辺を巡覧されて、午後1時行宮(天皇御幸時の仮御所)を出発、2時20分地御前村字阿品に上陸されたが、ここでも村民が花火を打ち上げて祝意を表し、ここから馬車で廿日市村の岩尾沢太郎宅に着かれしばらく休憩の後、草津村の戸長であり酒造業を営んでいる小泉甚右衛門の家にお着きになったのであるが、時に午後3時30分であった。

 同家には約40分余休息されて、一路広島に向かわれ、同日午後5時10分広島での御宿泊所となっていた偕行社に到着された。
# by hirosan_kimura | 2016-03-07 14:48 | 出来事事件 | Comments(0)
e0125014_13374599.jpg 平成20年12月13日に第一回目を投稿し今回で740回目となった。当初は原稿材料もたくさんあったが、回を重ねるごとにネタも無くなり750回を最終目標に何とか頑張ることとした。

 ブログを始めたきっかけは、退職した翌年に近所の高齢者の方より、西小学校の子どもたちに阿品の昔の話をしてもらえないかと持ちかけられたのが最初である。

 子どもたちに話をしたり公民館で歴史の講座を受講するなかで、せっかくなら阿品のことをもう少し調べてみよう、調べた資料を何とか残そうと始めたのがこのブログである。

 そうこうしている内にどこをどう廻ったのか分からないが、鰆浜の高齢者向けのサロンのお世話をしている方から話をしてもらいたいとの依頼があった。最初は人前で話すのは苦手だ、遊び半分で昔のことを調べているだけで人前ではなせるようなものではないと断わっていた。

 そのうち何回もお願いされるし、生れ育った地域でもあり、サロンの代表者の方にはこれまで色々お世話にもなったここと等もあり、平成22年2月10日に集会所で話をさせていただいた。

 拙い話にも関わらず結構好評で喜んでいただいたのが印象に残っている。最初は小さなパネルで写真や絵図等の説明を行っていたが、その後プロジェクターを購入し大きな画面を映すと説明もし易いし、見ていただく方も見えやすいと好評であった。

 ある時、パソコンをプロジェクターに接続し準備していたがいくらいじっても画面が表示されず、開始時間は迫って来るしあわてまくったことがことがある。結局うまく接続できず世話役の方よりはは画像無しの話だけで良いと言われたこともあった。幸い今日映像で映す予定の画像をパネル化したものでお茶を濁したが、肝を潰す思いもあった。

 最近はほとんど声が掛かることも無いが、その後あちこちのサロンなどで話をさせてもらった。中には一箇所のサロンから何回も声を掛けられたこともある。限られた地域の中でのこと何回も話すことが無いと断わっても「お年寄りは少し前に聞いたことでも忘れているので、前回と全く同じ話で良い」と言われてもそうも行かないのでその都度話す内容を工夫したこともある。

 小学校では平成18年から3年生・4年生を対象に話をしたが、昨年の1月を最後に話には行っていない。この間何人の子どもに話をしたかは分からないが、この間話をする場所は地域の集会所であったり、数名の子どもが自宅に来たり、ある時は公民館でおこなったり、最近では小学校で話をするなど場所がコロコロ変わっていったが何故なのだろう。

 平成22年の11月に我が家で行った課外授業の参加者の一人S君とはその後偶然話すきっかけがあった。現在でも犬の散歩の際登校中などに良く出会う。挨拶を交わす程度であるが4月より高校生。会う機会もなくなるのであろうが寂しい思いがする。

 ブログのお陰で思わぬ体験やたくさん人を知ることが出来た。
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 前々回に「動かない県病院跡地利用」を紹介した。今朝犬の散歩で通り掛かると少年たちが野球の練習をしていた。
# by hirosan_kimura | 2016-03-05 14:59 | その他 | Comments(2)
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文化3年(1806年)3月28日 朝曇天。
 六ッ後 一番東河、尾形、小坂、吉平、半六、宮嶋より乗船二里余佐伯郡大野村丸石岬より初、同村と地ノ御前界迄測。それより地ノ御前村厳嶋ノ外宮鳥井迄測、七ッ半後に地御前村へ着。

 二番坂部、稲生、門倉、角二、芸防の国界大竹村より初、夕見村、小方波田村、黒川村、玖波村、大野村丸石岬迄測。(丸子嶋遠測)一番と合流。七ッ半頃に地御前村へ着。

 三番高橋、永沢、惣兵衛、甲嶋村(芸州、即佐伯郡小方波田村持、防州岩国持。猪子嶋(芸州佐伯郡小方波田村持)。両嶋一周を測。夜に入て地御前村へ着。

 四番下川辺、平山、佐藤、丈助、栄二、阿多田嶋(佐伯郡小方村波田村持)を測る。夜に入て地御前村へ着。

 泊宿本陣庄屋茂右衛門。外宿、百姓出来蔵。此夜広嶋大船頭境要蔵、同船手役加藤惣右衛門、桑原五内(是は病気不参也)見舞に出る。佐伯郡支配下役宮原直右衛門暇乞に出る。

 今日三番手甲嶋測量出役防州岩国村田儀兵衛(大庄屋なり)。同手付仁左衛門、三右衛門、同筆者甚右衛門、刀称弥右衛門、同太郎兵衛門出るよし。此夜大曇不測。二番三番四番四ッ後乗船。各測量地へ行。

同二十九日 朝曇少晴。
 六ツ半頃一番東河、下河辺、稲生、佐藤、吉平、地御前村出立。外宮鳥井脇より初、宮内村、平良村、二十日駅(西国街道駅次)、坂田村、五日市村、皆賀村、井口村界迄測。
以下省略
e0125014_102412.jpg 地御前の宿泊に「外宿 百姓 出来蔵」とある。
 地御前の庄屋に文政5年(1822年)~天保4年(1833年)出来蔵とある。恐らく伊能一行が宿泊した百姓出来蔵と、後の庄屋出来蔵は同一人物と思われる。
# by hirosan_kimura | 2016-02-26 10:12 | 地図 | Comments(0)
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このブログ№711で「やっと動き出した県病院跡地」掲載した。昭和47年に閉鎖され43年間放置されていた県病院跡地の売却入札が昨年7月22日に行われたというものである。

 その後、跡地利用がいつ動き出すのだろうと付近を通り掛る度に注目していたが、動きは全然見られなかった。ところが先日この地にトラックが止まり資材らしきものを降ろしていたので、やっと何かの工事が始まったかと思っていた。

 地元の人に「やっと県病院跡地が動き出したが、マンションか戸建の住宅が建つのだろうか」と聞いてみると、少年野球の練習場が設置されるとのことである。そういえば現地には移動式のバックネット・閉鎖されたボーリング場から外してきたような椅子・簡易倉庫・簡易トイレなどである。不動産会社がこの土地を入札したが、国道に繋がる道路の道幅が狭く工事車両の離合も困難で、止むなく少年野球の練習場に貸与するとのことである。

 利用価値の無い土地を多額の経費で購入することは考えられないので、何らかの形で道路問題が解決する勝算の見込みがあり一時的に少年野球チームに貸与するものであろう。
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 国道から県病院跡地への進入路は四本の細い道路がある。

e0125014_141984.jpg ①は国道から県病院に入る正規の道路であったが普通車の離合も難しいくらいで、途中直角に近いくらいカーブしており工事用車両の通行など不可能に近いくらいである。

 
 ②の道路はは一見広そうであるが川の上をコンクリートで蓋架けした道路で余り重い車両の通行は困難である。国道との間に段差があり、おまけに横断陸橋の橋脚が立ちふさがっている。

 かつて県病院の正門は①と②が突き当たった地点であった。

e0125014_1415452.jpg ③の道路も他の道路と大差なく狭い道路である。県病院時代この道路も病院の出入りに使用され「県病院入口」の看板が国道脇に接されている。④の道路は他の道路よりさらに狭く工事用車両の出入りは不可能である。






e0125014_1421750.jpg 県病院跡地から国道までの距離はほんのわずかであるが、いずれも道幅が狭く工事用車両の通行は困難である。病院廃止後この用地には様々な計画が立てられては立ち消えて行った。いずれの計画も前に進まなかったのは道路問題が立ちはだかっていたからである。

 道路が狭ければ既存家屋を移動し道幅を広げればよく、③の道路の拡幅は空地と公園を一部削れば容易に可能である。しかしこの付近の国道の上り車線は見通しの悪いカーブを曲がりきった直線部分で事故の多発地帯である。少し前にも死亡事故も起きたばかりである。道路の改良にはこの問題の解決も必須である。

 鰆浜部落でも高齢者が増え、県病院跡地に沢山の住宅が立てられ子どもたちの歓声が絶えない町にと大きく期待されている。一日も早く道路問題が解決し建設の槌音の響く日の来ることが待ち望まれる。

 
# by hirosan_kimura | 2016-02-21 15:35 | 鰆浜 | Comments(0)
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  №705で皇太后の厳島御参詣を紹介した。この記事では阿品の「お上がり場」に何時に到着され何時に出発されたのか、厳島から「お上がり場」への到着時間等は何時であったのかは紹介していない。色々調べてみるともう少し詳しい時間が判明したが、これはあくまでも事前に計画された予定時間で実際の時間は不明である。ちなみに昭憲皇太后は、今の天皇の曽祖父の御妃である。

明治28年4月12日
午前八時 御出門  
八時四十分 草津御着 小泉甚右衛門邸  御小休 
八時五十五分 同所御発

十時廿五分 阿品御着 御小休 御野立  十時四十分 同所御発船
十一時十分 厳島港御着船  

直に御馬車御乗厳島神社回廊入口にて御下車御通覧
正午十二時 紅葉館御着  御昼休所 岩村平助邸  
午後一時 同所御発御馬車
神社入り口にて御下車回廊通再び御馬車御乗大元神社へ成らせ
それより千畳閣御巡覧
午後三時 厳島御発船

午後三時三十分 阿品御着 御小休 御野立  三時四十五分 同所発
午後五時十五分 草津御着 御小休 御野立  五時三十分 同所御発
午後六時十分 還御

 お上がり場に到着後は「小休み」「野立て」とあるが発船までたった十五分しかない。この間にトイレにも行かれたであろうし、「野立て」など優雅な時間も無く慌ただしいものであっただろう。

 行き帰り合わせて三十分程度の滞在であるが、皇后陛下がお茶を飲まれるための休憩所・トイレ等は仮設のものとはいえ大掛かりな準備が何日も前から行われたのであろう。

 阿品の人々は仮設の施設が準備される様子や、皇后陛下の姿を遠くから拝見したり、さぞ大騒ぎの出来ごとではなかっただろうか。

 上記は予定時間で実際の時間は不明であるが、広島を出発された時間、厳島の「岩惣」到着十二時は予定通りとなっている。ただ帰りの「お上がり場」到着時間は予定では三時三十分となっているが、実際の到着時間は五時十五分と一時間四十五分も遅くなっている。

 従って御座所への帰還時間が六時十分の予定が、六時五十分と四十分おそくなっている。天皇や皇后の行幸計画はでは分単位・秒単位の計画が立てられると聞いたが、四十分も計画を外れているのは皇后が厳島を気に入り予定時間を超えるほど見物されたのか、なにかアクシデントでもあったのであろうか。
# by hirosan_kimura | 2016-02-13 14:32 | 出来事事件 | Comments(0)

№736 阿品あれこれ

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 JR阿品駅は平成元年に開業し26年経過した。ホームの屋根は橋上駅舎の下部分しか無く、8両編成で有れば屋根の有る部分は極一部で、大半は屋根の無いホームで列車を待つこととなる。

 阿品駅のすぐ隣の「宮内串戸駅」は阿品駅より一年早く開業している。この駅も当初はホームの屋根は極一部しかなかった。乗降客よりは開業後間もなくホーム屋根延長の要望が出され、早いうちにホーム上に屋根の延長工事がされている。

 このたび阿品駅でもやっとホーム上の屋根の延長工事が始まった。阿品駅より一年早いだけの宮内串戸駅にはとっくの昔に屋根が延長され、阿品駅ではやっと工事が開始された年数の差は乗降客数の差によるものであろう。宮内串戸駅は阿品の二倍の乗降客数であるらしい。

 屋根の延長工事は乗降客への安全配慮が一番なのであろう。線路敷の法面と並行して走る狭い市道を半分交通止めにして工事用の敷地を確保して進められている。

 長年不自由を余儀なくされた乗降客も、三月の終りには雨の日も安心して列車を待つこととなる。

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 阿品市民センターは昭和56年3月に開館して早いもので35年になる。少し前までは公民館の名称であったが今では市民センターと称している。我々には市民センターと呼称するより公民館の方が親しみがある。以前は特別用事がなくてもふらっと寄って職員と世間話などをするのが日常茶飯事であったが、今ではそのようなこともなく久しく公民館に行っていない。

 建設当時は三階建の建物にエレベーターという発想もなかったが、高齢化が進んだりバリアフリーの信念も浸透し、やっと阿品市民センターにもエレベーターの設置が進んでいる。
e0125014_11223071.jpg この工事は平成27年6月19日に着工され翌3月25日完成と工期が長すぎる気もするが、エレベーターの新設にあたり既存のトイレやその他の改修も必要とするのだろうが、内部でどのような工事がされているのか外からはうかがい知れない。

 いずれにしてもエレベーターの完成後は、高齢者に限らず全ての人たちに使いやすい施設になるであろう。

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 昨年より田圃を埋めて宅地が造成されていたJR駅裏の宅地に早くも住宅の建設が始まっている。十数画の宅地に一斉に建築が始まっている。仮設トイレが数棟設置されているのが目立つが、素人考えではこれほど仮設トイレを設置しなくても一棟あれば十分な気もする。建築業者が異なれば一棟の仮設トイレを共同で使用できないのであろう。
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 この現場の川を挟んだ反対側も田圃を埋め立てて数棟分の宅地が造成されている。ここでも早くも住宅の建設が始まっているが、その中の一棟では地鎮祭のため紅白の垂幕が張られている。

 少し前までは家を新築する際は必ず地鎮祭を執り行い、神主さんに清め払ってもらうのが当たり前であった。建売住宅で地鎮祭が行われないのは仕方ないにしても、注文住宅でも地鎮祭を行わないのが当たり前になってしまった。

 他の地域では高齢化が進み子どもの数が減り、小学校の統廃合も珍しくない。新築された住宅は比較的若い人の居住者が多く、子どもも増えて幸いなことである。
# by hirosan_kimura | 2016-02-10 13:06 | Comments(0)

№735 地図

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 明治九年に現在の広島県が成立した。広島県を一望するために明治十一年作成されたのが桑原信偏輯「広島県管内全図」である。上図は管内全図の一部阿品附近を拡大したものであるが、極めて大雑把な地図である。

 各地の絵地図は各藩から幕府へ提出されていたが、これは幕府への服従を示す為であったと言われるが、各藩は地方支配の為地図を必要としていた。村単位で村絵図が作成され「芸藩通志」等に収集された村図が現存している。

 「広島県管内全図」は近代的地図に見えるが、よく観察すると近世の絵図に国道・電信線・行政機関等を書き加えたもので、古い絵図の書き方と本質的には変わらないと言われている。

 測量により新たに地図が作成されるのは、明治23年第五師団測量、明治27年大日本帝国陸地測量部測量によるもので、このブログ№142・№178で紹介している。

 なお上図には、「著述 桑原信」「彫刻 中村熊次郎」「明治十一年三月廿二日 版権免許」「発兌書林 広島一丁目 松村善助」とうの添え書きが見られる。
 
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上図は明治二十五年出版「改正広島県管内地図」である。この図は基本的には伊能図を踏襲しており明治十一年図に比べかなり正確である。この時点では鉄道は三原までしか開通していない。

 この図には「明治二十五年十月十五日印刷」「明治二十五年十月廿一日出版」「著作印刷兼発行者 大阪市北区紅花町七十五番邸 宗孟寛」とある。
# by hirosan_kimura | 2016-01-29 11:08 | Comments(2)
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 地御前神社の祭礼「流鏑馬」の絵葉書を偶然目にすることが出来た。残念ながら「発行者」「発行年月日」の記載のない一枚物である。絵葉書で一枚のみ発行ということは考えられないので、何かのシリーズで複数枚がセットの中の一枚だろうが詳細は不明である。

 この絵の構図は見ようによっては、神社の西端部で山向こうが沖山、海の遥か彼方の島影は厳島とも推測できる。

e0125014_9554080.jpg 絵葉書のの説明書きは右から左に「例年五月五日 地の御前に流鏑馬の式あり 其盛儀を観んと 貴賎老幼を問はず 遠近挙って来り集まるもの 数を知らず 今に至りて 其古式を失はず」とある。

e0125014_10135039.jpg 絵葉書の右端中央に絵の作者の名前と印があるがよく読みとれない。名のある人なのか無名の絵師なのだろうか。

 どなたかが偶然このブログを目にして、この絵葉書の詳細が分かればと思うばかりである。
# by hirosan_kimura | 2016-01-27 10:32 | Comments(0)

№733 阿品の神様

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 阿品の氏神様岩鏡神社の祭神は「足名椎命(あしなづちのみこと)」「手名椎命(てなづつのみこと)」の両神様である。これは古事記による名称であるが日本書紀では「脚摩乳命」「手摩乳命」と称されている。

 別称で「足摩乳命」「足名鉄神」「足名椎神」及び「手名椎神」と称される場合も見受けられる。神名の由来には諸説あるが、「づち」は蛇を指し「脚無し蛇」「手無し蛇」の説。また「あしな」は浅稲で晩成の稲、「てな」は速稲で早稲を示しているとの説。

 「なづ」は「撫づ(撫でる)」、「ち」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表すとする説。「畔(あ)の椎」、「田(た)の椎」と対であるとの説等、諸説ある。

 「あしなづち」と「てなづち」は神話の八岐大蛇退治に登場する夫婦の神様である。「あしなづち」の父親は大山祇神(おおやまつみのかみ)である。
e0125014_13381891.jpg 両神の間に八人の娘があったが、八岐大蛇に年に一人づつ人見御空供に求められ七人の娘を失っていた。最後には末娘の「櫛名田比売(奇稲田姫 くしなだひめ)」のみが残されていた。

 最後の娘も食べられると美しい娘を間に老夫婦が泣いているところに、高天原を追放された須佐之男命(すさのうのみこと)が通り掛かった。須佐之男命は事情を聞いて櫛名田比売との結婚を条件に八岐大蛇退治を請け負ったそうである。

 大蛇を退治した須佐之男命は須賀の地に宮殿を建て足名椎に宮の首長に任じた。この宮殿のあった地には須佐神社があり、代々神職を務める稲田氏は足名椎・手名椎から数えて78代目で、阿品の岩鏡神社とも深いつながりがあると思われる。

 大半の神社には創建の由来等が伝えられ説明板が設けられ詳しく説明してあるが、岩鏡神社には詳しい資料等が残されていない。古老により言い伝えられていたように、阿品の神様は阿品の遠い祖先が出雲の神様を分祀し岩鏡神社を創建したものと推測される。
# by hirosan_kimura | 2016-01-08 10:40 | Comments(0)