素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№92 「光の園 摂理の家」

 児童養護施設「光の園」は、原爆で親を亡くした子どもの施設として、昭和22年(1947年)4月 当時の安佐郡祇園町の三菱重工広島製作所労務課の建物を利用し事業開始された。開始当初は18名の子どもで出発した。

 昭和23年3月には広島市基町の第五師団兵器部西町倉庫跡に移転している。昭和27年12月には厚生大臣から社会福祉法人の認可を受けている。

 この地は国よりの借地であったが立ち退きを迫られ、新たな移転用地を探していた所、地御前の篤志家の方が私有地5,000坪を寄附された。

 今でこそ阿品台団地と同じ高さの敷地となっているが、当時は見上げるような山の上で、そこに至る道路は地御前神社南側の天井の低いガード下を潜って行く細い道しかなかった。

 整地は米軍岩国基地の兵士が休日ごとに奉仕作業で行ったが、手作業のため極めて能率の悪いものであった。
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 写真でははっきり分からないが、豆粒のように写っているのは、たくさんのアメリカ軍兵士がスコップや鶴嘴で山を削っているものである。

 余りにも作業が捗らないので、ブルトーザーを搬入しようとしたが、唯一の道路である鉄道のガード下は、巾も天井高も低く重機を入れることが出来ない。

 そこで国鉄トンネルを出たあたり、今のバイパスの橋の架かっている辺りから搬入することとした。線路用地は一段と低くなっているため、国鉄の運行を一時ストップし木材や柴を線路上に敷き詰め、その上をブルトーザーを通し線路の反対側に渡した。

 今は無いが近くに「井上日本瓦製作所」と云う瓦工場があった。瓦を焼くためには沢山の燃料が必要であった。このためこの工場には燃料の薪や柴が山積みされていた。ブルトーザーを渡す線路の上に敷く木材や柴は、この工場から運んだと聞いたような気がする。

 今では、一施設の敷地造成のため国鉄の運行を止めるなど考えられないが、さすが米軍の威力はものすごいものであった。重機の稼働により造成工事の能率は飛躍的にアップした。

 作業の合間に兵士たちは、地御前神社や地御前小学校周辺に良く遊びに来ていた。子ども達は休憩時間や放課後珍しいので兵士に付きまとっていた。

 兵士達はジープの上からチューインガムや十円玉をばら撒き、子ども達が競って拾らうのを面白がっていた。後でこれを聞いた担任の先生が、「日本は戦争に敗れたが誇りを無くしてはならない。兵士がばら撒くのを拾うような情け無いことはしないように」と涙ながらに話されたのを思い出す。

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 こうして昭和31年1月20日建物も完成して広島市より移転することとなった。園児数は72名。建物の延坪は約500坪であった。
同時に子ども達は地御前小学校・七尾中学校に転校した。

 未就学児は当初、地御前保育所に通所していたが、養護施設・保育所に国のお金がつぎ込まれており、措置費の二重払いとの指摘を受け、その後施設内に保育所が開所している。

 阿品台団地の完成により、「光の園」と阿品を分断していた山も削られ、団地の住宅と一体化しているが、「光の園」の住所は今でも「廿日市市地御前」のままである。

 児童の施設であった「光の園」も平成2年10月1日に、市内で最初のケアハウス「インマヌエルホーム」が開設され、同時にディサービスセンターの事業も行われた。 
by hirosan_kimura | 2009-03-14 04:49 | 社会 | Comments(0)