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by hirosan_kimura

№78 厳島合戦(1)

e0125014_17293220.jpg 弘治元年(1555年)の八月二十一日に陶晴賢が厳島に進駐後、毛利元就は二十三日に鰆浜の火立岩附近を巡視し、二十四日に吉田勢が草津に勢揃いした後、二十八日には火立岩上の灰床山に再移動した。

 軍勢は地御前神社の北側谷あい、もしくは田屋浦に隠されていたものと推察される。この日に待ちに待った、応援の村上水軍三百艘が駆けつけた。

 二十九日朝までに軍の方略を協議した。攻勢部署は
①毛利軍は海山を越えて、厳島神社裏の陶軍の背後に向かう。
②小早川軍は船で陸岸沿いに大野水道に出で、途中で反転して神社前で 陶軍船団に割込み、陶軍本部の 前面に向かい攻撃する。
③村上水軍は大野水道を越え陶軍の退路を断つ。

 行動は二十九日の夜陰に開始し、戦闘開始は十月一日の日の出と同時にすることと決まった。

 九月晦日、元就はそれまでの本陣のあった火立山から、田尻の運勝の鼻海岸線に全軍を移し、七ツ時(午後四時頃)に夕食を採り、酉の刻(午後六時頃)全軍に出陣するよう命じた。

 この日元就は、朝から毛利氏直属の水軍である河ノ内警固衆を呼んで、厳島渡航の密命を伝え廻船の用意をさせた。船一艘に水夫三人宛、一艘五十人乗りとして四千人を運ぶ八十艘の廻船が必要であった。

 船は近年諸所の廻船を切り捕ったものがあり間に合ったが水夫が足りず、飯田越中守が浦々島々に早舟を出し駆り集めた。

 佐西郡では山あがりしている者まで、駆出されたと云われる。
by hirosan_kimura | 2009-02-28 04:16 | 出来事事件 | Comments(0)