素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№39 海岸沿い道路

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 明治12年に海岸沿いに旧国道が整備されるまでは、宮内から奥に入り阿品台北側山の裏側を通り大野に抜ける「中国往還道」が、今で言う国道的役割を果たしていた。

 古くは地御前の田屋から山越えをし鰆浜に入り、見ノ越峠を通り阿品の奥に入り山越えをし大野に到る細い道もあったが、海岸沿いの道は無かった。人々が海岸を通る時は、潮の引いた時を狙って磯伝いに通行していたと考えられる。

 応安4年(1371年)9月21日の今川貞世の紀行文「道ゆきぶり」に「廿一(21日)は此佐西(廿日市の旧称)から出て、地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに」との記述がある。

 阿品の地名は出てこないが、地御前神社から田屋の干潟を通り、阿品から山越えして大野に抜けたもようである。

 「道ゆきぶり」は南北朝・室町時代の武将・歌人である今川貞世が、足利義満の命で「九州探題」として九州に着任する途次の日記である。

 いつの年代の記録か分からないが、阿品地域では「鰆浜川尻」より「見ノ越」を通り阿品「松ケ久保」より「更地越」に出る線は夫々十九町、或いは十三町である。此の外、田尻の浜沿いに大野赤崎に出る路線は未だこの頃の絵図上に記載なしとある。

 その後、いつの時代か分からないが地御前から阿品を通り、大野に到る海岸沿いの細い道路が出来たものと思われる。
by hirosan_kimura | 2009-01-20 10:25 | 道路 | Comments(0)